猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

猿八座 新潟新春公演 「信太妻」 ご案内

2011年12月29日 23時56分28秒 | 公演記録

20123

 平成24年、最初の舞台は、能舞台になりました。これまでの演出とは、少し趣向を変えて、能舞台ならではの、橋がかりを、十二分に活用して、よりダイナミックに踊ります。今年演じてきた「信太妻」とは、またひと味違う「信太妻」になると思いますので、是非ご覧ください。また、併せて、猿八座のブログもご覧ください。

http://saru8ken.blogzine.jp/

問い合わせ 080-2012-9115(西橋)

メール eventjinbun@yahoo.co.jp (1月25日まで)


忘れ去られた物語たち 5 説経熊谷先陣問答 ⑥

2011年12月24日 23時00分45秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

くまがえ先陣問答 ⑥

 善光寺の如来様のご加護が、確かにあったのでしょう。桂の前は、無事に能登の国

に辿り着くと、早速に忠純の屋敷を訪ねました。熊谷次郎直実の姫であることを告げる

と、驚いた門番は、すぐに直家に取り次ぎました。久しぶりの兄弟の対面が、ようやく

実現したのでした。

 忠純は、兄弟二人が揃ったことを、大変に喜びながらも、継母と季重の非道を大いに

憤り、

「父、直実殿の行方は知れぬが、この上は、鎌倉に下り、直家の本望を遂げてやろう。」

と、兄弟を連れて、鎌倉目指して下向することにしました。

 鎌倉にやって来た忠純は、宿に兄弟を残して、御所に出仕しました。頼朝公の御前に

居並ぶのは、和田、秩父を左右にして、千葉、小山、宇都宮等々、八カ国の諸大名です。

頼朝公は、忠純をご覧になると、

「やあ、珍しや六弥太。北国に変わりはないか。」

と、声をお掛けになりました。忠純は畏まって、

「ははあ、君のお恵みが深いので、民の竈(かまど)も賑わい、賎民に至まで、君、万

歳(ばんぜい)と仰いでおります。あっぱれ、尭舜(ぎょうしゅん:中国古代の伝説の

帝王)の御代をも凌ぎまする。一重に、源氏の御威光は、行く末久しい証拠です。」

と、申し上げました。頼朝公は、大いに満足されましたが、忠純は、直家のことを、ど

うやって切り出そうかと、思案をしていました。やがて、忠純は思い切って、秩父に向

かって、こう切り出しました。

「それがし、不肖の身をもって、能登の守護を給わりますこと、お家の面目、世の聞こ

え良く、この君恩に報いることにかけては、何事をも厭いません。しかしながら、その

一門に置いて、家の瑕瑾(かきん:傷)となることが起こりましたが、残念ながら、国

元にあり、お力になれませんでした。私が鎌倉に居れば、人手には掛けないで、私の手

で討ち捨たものを、大変に無念に思っております。重忠殿。」

さて、言われた秩父も、一座の人々も、勿論、頼朝公も、何のことか分からず、あっけ

に取られています。忠純は、即座に、

「やはり、このことは、頼朝公は、ご存じ無いのだ。平山と継母の計略であることに間違いはない。」

と思い、さらに続けて、こう言いました。

「されば、君の仰せにより、熊谷の小次郎直家は、平山の手勢によって討たれました。」

聞いた、頼朝は、そんな命令は下していないと、大いに驚いて、すぐに、平山を召し出

すように命じました。やがて現れた平山季重に、頼朝公は、

「いかに、平山。誰が命じて熊谷の小次郎を討ったのか。」

と、言いました。季重は、はっと思いましたが、さわらぬ様子で、

「ははあ、直家、信濃の国で討たれたとの知らせを受けて、私も親類縁者でありますの

で、無念に思い、急いで、君に報告をし、敵を討とうと思っておりましたが、山賊に襲

われたものか、同輩の恨みによって討たれたのか、事の子細が判らず、調べをしており

ますうちに、これまで、時を過ごしてしまいました。私が討ったなどということは、思

いもよらぬこと、宜しく敵討ちをお申し付けください。」

と、まことしやかに答えました。そこで、忠純は、

「いかに、平山殿、私が、能登で聞いた話では、君のご命令で、御辺が、討ったと聞い

たのじゃが、それは、我らの空耳であったようじゃの。しかしながら、ここは御前であ

るぞ。少しの虚言もいたされるなよ。ほんとにそうなのだな。」

と、ねじ込みました。季重は、

「これは、情けないことを、岡部殿は、彼らと親しき仲とはいえ、そのような僻事(ひ

がごと)を言われる謂われはない。私とても、どこにも逃げようもない。そなたこそ、

なんの証拠があって、御前で、そのような僻事を申されるか。」

と、涼しい顔で、言い訳を押し通しました。忠純はこれを聞いて、

「さてさて、それでは、私が誤りましたか。しかし、もし証拠がでてきたなら、その時

の返答をよっく考えておくんだな。」

と、言い捨てると、忠純は、頼朝公に向かって、

「さて、君に申し上げます。直家は、戦場にて討ち死にするところを、郎等安高の諫め

によって、能登の国に落ち延びました。そのことを直々に言上申すため、直家を止め置

き、この度、召し連れて参りました。君の御慈悲によって、何卒、直家を召し出されて

事の次第をお尋ね願いたく存じます。」

と、申し上げました。早速に、使いを立てて直家を迎えにやると、やがて、直家が御所

に上がりました。直家は、平山を見るなり、

「やい、平山。いつぞや、私が物詣での折りに、やみやみと打ち負けたこと、未だ無念

の極み。既にその時、討ち死にする我が身ではあったが、平山が私軍の企みを暴くため、

後ろを見せて落ち延びたのだ。定めし、御辺は、直家討ったりと思ったか。季重。」

と、睨み付けました。これには、弁舌達者な季重も、何の返答もできず、赤面して俯く

ばかりでした。頼朝公は、

「前代未聞の曲者なり、季重に切腹申しつけよ。継母は、女のことなれば、助命して国

払いとせよ。さてまた、直家には本領安堵。妹桂の姫は、五條の中将俊実に縁付かせよ。

父、直実は、都、黒谷(比叡山)に有ると聞く、桂の前を都に上らせ、父が先途を見届

けさせるのだ。」

と、ご英断なされて、やがて御判を下されました。

 直家は、謹んで、有り難し、有り難しと、三度戴き、意気揚々と御前を立ちました。

 その後、平山は切腹。北の方は、武蔵の国から追放されました。桂の前は、都に上り

俊実卿の御台と備わったのです。さて、直家は、熊谷に凱旋し、富貴に栄えました。

かの直家の威勢の程

貴賤上下、おしなべて

皆、感ぜぬ者こそなかりけり

おしまい

天満八太夫正本 (宝永年間)

大伝馬三丁目

鱗形屋孫兵衛板


忘れ去られた物語たち 5 説経熊谷先陣問答 ⑤

2011年12月24日 18時25分02秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

くまがえ先陣問答 ⑤

 ようやく、善光寺に着きましたが、慣れぬ長旅に、姉妹は疲れ切っていました。とう

とう、幼い玉鶴は、体力も気力も使い果たして、道端に倒れ込んでしまいました。道行

く人も、情けを懸けてくれず、桂の前が、懸命に看病しますが、水より外に、薬もあり

ません。玉鶴の容態はますます悪化していきました。桂の前は、どうすることもできず、

玉鶴の頭を膝にのせて抱きしめると、涙ながらに、玉鶴を励ますのでした。

「いかに、玉鶴。しっかりしなさい。あなたが、そのように倒れてしまっては、私は、

どうしたらよいのです。これ、玉鶴よ。」

姉の声に、ようやく心付いた玉鶴は、力なく目を開けると、

「ああ、もったいない。姉上にこのように介抱していただいて、申し分けありません。

しかし、私はもう、だめだと思います。何事も、前世からの定めと思って、私を思い出

すことがありましたら、念仏のひとつでも唱えてやってください。草場の陰にて、必ず

受け取りましょう。今までは、姉上にお仕えしようと思っていましたが、最早、夢の事

となりました。私は、行方も知れぬ草むらに消えて、跡かたも無く土となりますが、姉

上様は、私に構わず、目出度くお父上にお会いなされてください。そうしていただかな

いと、これからの黄泉路の妨げとなりますから。これが、最期のお願いです。」

と、言い残して、ついに玉鶴姫は、短い生涯を閉じました。

 桂の前は、玉鶴にひっしと抱きついて、玉鶴、玉鶴を叫びますが、もう玉鶴は答えま

せんでした。なんたる前世の因果でしょか、桂の前は、

「こんなことになると知っていたのなら、玉鶴が、どんなに嘆こうとも、古里に置いて

きたものを、私が、別れを悲しんで、遙々これまで連れて来たばっかりに、死なせてし

まったことの悲しさよ。」

と、空しき死骸を押し動かし、押し動かし、悶え苦しみ、慟哭しました。

 

 そうこうしているうちに、日もとっぷりと暮れてしまいました。桂の前が、呆然とし

ていると、一人の尼公がやって来て、こう言いました。

「私は、この辺りに住む者ですが、あまりにもいたわしいので、今夜、お守りするため

に来ました。ここは、人里からも離れ、夜にもなれば、虎狼野干が、死骸を食べようと

やってくるに違いありません。さりながら、私が来た以上は、大丈夫ですからご安心なさい。」

桂の前が喜んだのは、申すまでもありません。

「これは、有り難いお申し出。妹の屍を引き去られては、浅ましい限りです。万事宜し

くお願い申しあげます。」

と、手を合わせて感謝しました。

 さて、尼公が言う通り、やがて闇の中から、うようよと虎狼野干が集まってきました。

獣達は、玉鶴の遺骸を食べようと、取り巻きますが、尼公を恐れて近づけません。なぜ

なら、尼公は、三国一の如来様が化身された尼公だったからです。結局、獣達は、食べ

る所か、綺麗な花を摘みくわえて集まり、御前に備えて、頭を地に付けて平伏する有様

です。さらに、天童が一人天下り、犀川の方からは、竜灯が現れ、闇夜を照らしたので

した。まったくこのような有り難い奇瑞が現れたのは、直実、遁世の加護と姉妹の姫君

の類い希なる美しい心を、仏神が哀れと思われたからでしょう。そうして、桂の前は、

辛い一夜を、どうにか明かしたのでした。やがて、夜が白々と明けてくると、朝日とと

もに、尼公は、金色の仏体と現れて、

「我は、善光寺の如来なり。玉鶴は定業(じょうごう)なれば仕方ないが、これからの

汝の行く末を守ってあげましょう。」

と、言うと忽然と消え去りました。桂の前は、あっと驚いて、虚空を向かって礼拝しま

した。天童も竜灯も消え、虎狼野干達もちりぢりに去りました。また、ひとりぼっちに

なってしまった桂の前は、玉鶴の死骸を、どう弔ったらいいのか分からず、草むらに座

り込んでしまいました。

 どれぐらい、時間がたったのでしょうか、一人の僧が通りかかりました。この僧の名

は、蓮生坊(れんせいぼう)と言います。法然上人の弟子ですが、宿願があって、善

光寺に参った帰りでした。この僧こそ、桂の前の父、直実その人でしたが、互いに出家

の姿であったため、互いにそれとは、気づきませんでした。蓮生坊は、通り過ぎようと

しましたが、桂の前は、この僧になんとか妹を弔ってもらおうと、飛びつくと、

「のう、御僧様、これは、私の妹ですが、ここで亡くなってしまいました。右も左も分

からぬ旅路の途中で、頼む人もございません。哀れと思し召して、衣の結縁に、どうか

妹を弔っていただけませんでしょうか。」

と、泣きつきました。蓮生坊は、我が子とは夢にも思わずに、

「それは、大変いたわしいことです。誠に、高きも卑しきも、生死の掟は免れません。

未だ幼い方のようだが、二人の親に替わって、野辺の送りをしてあげましょう。」

と、言うと、どこかから、一枚の戸板を探してきて、玉鶴姫の死骸を乗せました。

先を蓮生が、後ろを桂の前が担ぎました。父が娘の葬礼をすると知らずに、戸板を担ぐ

親子の姿は、なんとも、言いようもなく哀れです。

 やがて、とある草むらの土中に埋めると、卒塔婆を立てて、蓮生坊は、

「つらつら思んみれば、一生は夢の如し、百年を生きる者も居ない。釈尊は跋提河(ば

っだいが:釈迦寂入の地)の土となり、皆、これ、本来の面目なり、長く生死を切断し

て、不退の浄刹(ふたいのじょうせつ:極楽浄土)に至らんこと、疑い有るべからず。

南無阿弥陀仏。」

と、回向しました。桂の前も、有り難や、有り難やと手を合わせ、念仏を唱えましたが、

また込み上げて来て、わっと泣き崩れました。蓮生は、

「むう、悲しみはようく分かりますが、最早、帰ることはありませんから、いつまでも

嘆いていてはいけません。愚僧は、諸国を巡る僧ではありますが、かかるご縁に巡り会

って、私が弔ったのも、前世からの因縁でありましょうから、行く末長く、菩提を

弔ってあげることにいたしましょう。あなたの生国、里、父の御名前を教えてください。」

と言いました。桂の前は、涙を払って、

「そうですか。名乗らないつもりでしたが、行く末長く回向していただけるとのことな

らば、大変有り難いことです。恥ずかしながら、私の生国は、武蔵の国。父の名は、

熊谷次郎直実と申す人ですが、どことも知れずに遁世され、私たちは、継母の企みに

よって、このような次第になってしまったのです。どうぞ、哀れんでください。御僧様。」

と、またさめざめと泣き崩れました。これを聞いて、はっと驚いた蓮生は、

「いや、こりゃ、なんということ。今の今まで、余所のことと思っていたのに、我が身

のことであったのか。後世を大事と思って遁世し、善根を思う身であるのに、子ども達

を、このような辛い目に合わせていたとは・・・」

と、絶句して、堰来る涙に嗚咽しました。せめて、父と名乗って、喜ばせてやろうかと

思いましたが、ここで名乗ったら、裾や袂に取り付いて、絶対離れぬと騒ぐに違いない。

またまた、悲しみを重ねさせることになってしまう。熊谷程の者が、ここで心がくじけ

てはならぬと、心を鬼にすると、普通を装って、

「おお、さては、直実の姫君であられますか。私も武蔵の国の者です。熊谷殿とも

面識がありますので、よそ事とも思えません。都で、聞いた話ですが、熊谷殿は、固く

発心なされて、今は、能登の国、岡部の六弥太忠純殿の所で、修業されていると聞きま

した。父上をお探しであれば、能登の国を尋ねたがよいでしょう。

 さて、申すまでもありませんが、この土へ生を受ける者は、末の別れから逃れること

はできないのですから、只、願うべきなのは、菩提の道ですぞ。あなたの妹は、あなた

に、善知識を授けてくれたと思って、嘆くことはもうやめなさい。」

と、言うと、立ち上がり、さらばと踵を返しましたが、桂の前は、袂に縋り付いて、

「御僧様、有り難い御教化、ありがとうございます。しかしながら、御僧と別れること

は、父、直実と別れる時の悲しさよりも強いのはどうしてでしょう。」

と、口説き立てました。さすがに、心強い直実も、目が眩み、心も消え果て、涙が溢れ

て、止まりませんでしたが、

「定めがあれば、また、お会いしましょう。」

と言うと、足早に去って行きました。名乗らずに通る親と子の、心の内より、哀れなこ

とはありません。

 僧と別れた桂の前は、まだ、思い切れずに、墓に縋り付いていましたが、ようやく、

「いかに、玉鶴よ。名残は惜しいけれども、姉は、叔父を頼って、これより能登の国

へ行きます。さらば、さらば。」

と、涙とともに、能登への道を辿り行くのでした。

誠に、哀れともなかなか申すばかりもなかりけれ

つづく


忘れ去られた物語たち 5 説経熊谷先陣問答 ④

2011年12月23日 22時36分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

くまがえ先陣問答 ④

 桂の前を追いだした北の方は、これで、邪魔な者は居なくなったと清々して、玉鶴姫

に、こう言いました。

「玉鶴よ、桂の前を追い出したので、もうお前と争う者は居ませんよ。吉日を選んで、

小太郎を迎えましょう。いいですね玉鶴。」

これを聞いた玉鶴は、はっと叫ぶ外に、驚きのあまり声も出ませんでした。泣き崩れる

玉鶴姫の様子を気にも掛けず、北の方は、そさくさと行ってしまいました。いたわしの

玉鶴姫は、涙ながらにこう嘆きました。

「世の中に心も身も任せるのはいいけれど、それにつけても浪間に浮く舟のように、哀

れにも儚い、母上の計らいじゃ。さぞや、姉上は私を恨んでいらっしゃることだろう。

この世に神や仏があるならば、母の心を和らげて、姉を返してください。」

しばらく、そうして嘆き悲しんでいましたが、やがてこう思い直しました。

「私がこの家を継ぐようなことになれば、浮き世の仁義も消え果てて、人とも呼ば

れるようなことになってしまう。その上、父上が、どこかでこのことを聞いたならば、

さぞやお怒りになるに違いない。しかし、このままここに居るならば、母の仰せに背く

ことも出来ない。いっそ、出家して、世を厭い、親兄弟の菩提をお祈りするならば、神

仏も悪くはお思いにはなられまい。」

 玉鶴姫は、今一度、母のお姿を拝して、心の中でお暇をとも思いましたが、遁世を

悟られて、咎められては叶わないと、密かに館を忍び出ました。しかし、永久の別れに

なるかもしれず、出ては戻り泣き崩れ、また出ては戻り、何度もためらいました。やが

て、意を決すると、母上の部屋の方に手を合わせ、涙を振り切って、ようやく館を後に

したのでした。

 玉鶴姫に、当てがあったわけではありませんが、とぼとぼと小走りで行くと、そこに

寺が見えました。玉鶴姫は、追っ手があるかもしれないと思い、この寺に走り込みまし

た。早速に案内を乞うと、中から出てきたのは、桂の前でした。どういう不思議でしょ

うか、その寺は、姉が身を寄せた比丘尼寺だったのです。あっと、驚いた二人は、手に

手を取り合って、夢か現かと抱き合って喜び合い、しかじかと、互いの事と次第を話し

合いました。玉鶴姫は、

「もう、館には戻りません。どこへでも共に、お供をさせて下さい。」

と、言いますが、桂の前はややあって、

「そうは言うものの、お前はまだ年端もいかぬ。どこへ行くとも分からぬ旅路に、どう

してお前を連れて行けようか。お前の気持ちは頼もしい限りですが、やはり、館へ戻っ

て、母の仰せに従い、孝行を尽くした方が良いと思います。

  母上の不興を受けて追い出されて、その上お前まで連れて行ったとなれば、いよい

よ、母上の憎しみは強くなり、私の罪が重くなるばかりです。」

と、妹を諭します。しかし、玉鶴は、

「山の奥、虎伏す野辺の果てまでも、姉御様を捜しだそうと、思い切って出て来たのに、

館へ帰れとは、情けない。どうしても帰れと言うのならば、どこかの淵に身を投げて

死にます。それであれば、姉上の罪はさらには、重くはなりません。」

と言って、声を上げて泣くのでした。桂の前は、これを聞き、

「そこまで、強く思うのであれば、先ずはこちらへ。」

と、玉鶴を尼公の前に連れて行くと、尼公に事の次第を話しました。尼公は、

「それは、誠に殊勝なこと、それでは、姉妹そろって御髪(おぐし)を下ろしなさい。」

というと、揃って、丈と等しい御髪を、四方浄土に剃り下ろして、墨染めの姿となられ

たのでした。さて、姉妹は、旅の準備が整うまで、しばらく比丘尼寺で過ごしました。

 ところで、館の北の方は、玉鶴が居なくなって、比丘尼寺に行ったと聞き、郎等を集めると、

「桂の前が玉鶴を唆して、比丘尼寺にかくまったと聞く。急ぎ比丘尼寺に行き、桂を殺

害して、玉鶴を取り返して来なさい。早く行きなさい。」

と命じました。さて、郎等は、畏まったとばかりに、比丘尼寺に押し寄せると、姉妹の

人々を出せと、大声で呼ばわりました。応対に出た尼公は、

「さて、左様の人は、この寺にはおりませんよ。門をお間違えではありませんか。」

と答えました。怒った郎等達は、問答無用とばかりに、寺中に踏み込みました。

ところが、その時、突然の轟音と振動が起こったかと思うと、廾尋(はたひろ:約30m)

あまりの大蛇が現れて、郎等共を追い散らしたのでした。大蛇は、天女と姿を変えると

姉妹の前に立ち、

「我は、汝らが氏神なり。ここに隠れて居るならば、重ねて憂き目に遭うであろう。今

すぐにでも、出立しなさい。」

と、言うと、かき消すように消えました。姉妹は、あら有り難しと虚空を三度礼拝すると、

尼公に暇乞いをして、旅の装束を調え、首には頭陀袋を下げて、早速に修業の旅に出た

のでした。

 生まれ育った熊谷を後にした姉妹は、二人うち連れて、兄が向かった善光寺を、まず

目指すことにしました。

(これより道行き:中山道~北国街道)

①明けやらん夜は深谷の宿(埼玉県深谷市)

②何、本庄の仮初めも(埼玉県本庄市)

③いとど心は、くらがねの(群馬県高崎市倉賀野町)

④鳴く音は空に高崎や(群馬県高崎市)

⑤散り行く梢、板鼻の(群馬県安中市)

⑥我をば、誰か、松枝や(群馬県安中市松井田町)

⑦登れば下がる坂本の(群馬県松安中市井田町)

⑧岩間に曝す麻衣、碓氷峠に差し掛かり

⑨かかる修業の功力にて、罪は消えて軽井沢

⑩沓掛の宿を討ちすぎて(長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)

⑪いざさらば、涙、比べん浅間山、胸の煙は、誰も劣らじ

⑫草の種々、追分けや(長野県北佐久郡軽井沢町追分)

⑬小諸の宿の仮枕

⑭今日は上田の宿を行く

⑮坂城を取るや、千早ぶる(長野県埴科郡坂城町)

⑯神の祈りは、屋代の里(長野県更埴市)

⑰音に聞こえし千曲川

⑱丹波島とはあれとかや(善光寺街道丹波島宿)

⑲流れ、涼しき犀川の

宿の名残も重なれば、

良き光ぞ掛け頼む

善光寺にぞ着き給う

姉妹の心の内

哀れとも、なかなか申すばかりはなかりけり

つづく


忘れ去られた物語たち 5 説経熊谷先陣問答 ③

2011年12月23日 20時09分50秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

くまがえ先陣問答 ③

 さて、直家一行を襲撃した季重(すえしげ)は、急いで熊谷に戻ると早速に、北の方

と縁組みの相談をしました。北の方は喜んで、二人の姫を近づけると、

「お前達の兄、直家は、鎌倉殿にお暇も申さずに、善光寺に参ったにより、頼朝公がご

立腹。鎌倉よりの追っ手が向かい、信濃の国にて討たれました。しかしながら、

後の所領は、お前達や私に給わるとのお達しであるぞよ。」

と、まったくの嘘八百を伝えました。これを聞いた姉妹は、優しかった兄を慕って、泣

き崩れました。そんな様子も一顧だにせずに、北の方は、玉鶴姫だけを、別間に連れ出

すと、

「いかに、玉鶴。母の考えを聞きなさい。私の考えでは、季重の二男小太郎を婿に迎えて、

お前と一緒にして、この家を継がせようと思っていますが、どう思いますか。」

と、言いました。玉鶴は、驚いて、

「いかに、母上様。兄上が討たれても、本領安堵であるならば、幸い、姉上がいらっし

ゃるのですから、姉上を差し置いて、妹の私が、どうして家を継げましょうか。私が思

いますには、鎌倉殿へご相談あって、どなたか良き方を迎えて、姉と一緒にして、家を

継がせるのが良いと思います。」

と、答えました。すると、母は大変に腹を立てて、

「いくら、幼いとはいえ、母の心も分からないのですか。桂の前は、私の子ではありま

せんよ。何事も、母に任せておけばよいのです。分かったか玉鶴。」

と、叱りつけました。それでも、玉鶴は健気にも、

「これは、恨めしいお言葉です。いかに、母上様のお腹を痛めた子では無いとは言え、

私にとっては、幼き時より共に育ち、互いに慈しみ合う姉と妹。よく、考えてもみてく

ださい。もしも、そのような事が、世間の人々が知ったなら、我が子を世に立てて、継

子を虐める邪険な母親と、後ろ指を指されますよ。継子と本子を差別するのは、卑しき

者のすることです。お考え直してください。」

と、泣いて縋り付きました。母上は、これを聞くと、顔を真っ赤にして、

「ええ、母よりも姉を重く思うのじゃな。それほど、姉とつるんでおいて、母に背く

とは、腹立たしい限り。今日からは、もう娘を持ったとは思いません。お前も母を

持ったと、思うなよ。」

と、怒鳴りつけると、ぷいっと立って、障子をばたんと締めて行ってしまいました。玉

鶴は、

「これは、これは、浅ましい。母上には、物が憑いて、狂ってしまったとしか思えない。

例え、母の不興を蒙るとしても、姉をさておいて、私が家を継ぐなどということは、考

えることもできない。」

と、また、泣き崩れてしまいます。その様子を障子の向こうで聞いていた、桂の前の

心の内は、いたわしいばかりです。桂の前は、すっと障子を開けると、玉鶴にいだきつ

きました。

「玉鶴よ、頼もしい今の言葉、しかと聞きました。その言葉は、未来永劫変わらないこ

とでしょう。しかしながら、私はもう、ここに居ても仕方ありません。俗世を捨てて、

後世の営みをいたしましょう。お前は、ここに留まって、母の仰せに従って、孝行を尽

くしなさい。お前を恨む心は少しもありませんよ。」

と、桂の前は、玉鶴を慰めるのでした。すると今度は、桂の前が呼びつけられました。

北の方は、桂の前にこう言うのでした。

「いかに、桂の前、この屋敷を、玉鶴に給わるとの鎌倉殿よりのご命令。今日からは、

玉鶴を、お前の主人と思いなさいよ。姉妹の振りなどしたらば、この家には置いておき

ませんからね。」

いたわしの桂の前は、返す言葉も無く、俯いてじっと嗚咽を堪えていましたが、溢れる

涙が、乱れ髪を玉のように伝って落ちました。これを見た北の方は、

「お前は、ご主人様から、安堵を給わったのだぞよ。このように目出度い時に、泣き顔

を見せるとは、どういう了見じゃ。それ程に泣きたいなら、もっと泣かしてやろうか。」

と、逆上して、手にした扇を持ち直すと、力任せに散々に桂の前を叩きました。桂の前

は、倒れ伏して、ただ静かに、じっと涙をかみしめていました。北の方はますます興奮

して、下人を呼びつけると、

「それなる女を、門より外に引き出せ、早く、追い出してしまいなさい。」

と、叫びました。情けも知らない下人共がよってたかって、桂の前を引きずり出し、

門の外に追い出す有様は、目も当てられぬ次第です。

 あまりにも突然に、門外に打ち捨てられてしまった桂の前は、どこに行くあても無く、

道端に倒れ伏すと、今度は、声を限りに泣きました。まったく、夢か現かと、茫然自失

の有様です。

「母上様、二歳の春に別れた母上の姿も覚えていませんが、母上様がいらっしゃれば、

このようなことにはなりませんでした。父には捨てられ、兄は亡くなり、どこにも頼る

ところもない私を、どうしてこの世に置き去りにして、辛い思いをさせるのですか。

少しも早く、迎えに来てください。草場の陰の母上様。」

と、悶え嘆いて泣き続けましたが、やがて疲れ果て、とある朽ち木を枕として、うとう

と眠ってしまったのでした。この有様を、哀れに思った冥途の母上は、やがて枕神とし

て、桂の前の前に現れました。

「やあ、いかに、桂の前。私は、乳房の母ですよ。あなたが、あんまり嘆くので、そ

の声が、冥途まで聞こえてきましたよ。私も、悲しくなって、これまでやって来ました。

さあ、桂の前、よく聞きなさい。あなたの兄、直家は、継母と季重の計略によって討た

れようとはしましたが、不思議の力によって、生き延びて、私の兄である岡部の六弥太

忠純を頼って、能登の国へ落ち延びました。あなたもこれより、能登の国へと、叔父を

尋ねて行きなさい。しかし、その姿のままでは、旅もままなりません。あそこの森の

中に比丘尼寺がありますから、そこに行って尼になりなさい。そうして、能登を尋ねる

のです。いいですね桂の前。」

と言って、桂の前を抱きしめて泣きました。桂の前は、はっと目覚めて、母親に抱き付

こうとしましたが、手は宙を泳ぎました。

「母上様、今一度、面影を見せてください。」

と、泣き叫びましたが、野花にそよぐ風の外に答えるものはありませんでした。

 母の教えに勇貴を得た桂の前は、やがて、比丘尼寺を探して森へと歩き始めました。

寺は、思いの外、すぐに見つかりました。こんなところに寺があったのでしょうか。

まるで、寺の方が桂の前に現れたようでした。案内を乞うと、中から年頃の尼が現れま

した。桂の前は、事の次第を告げると、万事よろしくお願いしますと、涙ながらに頼み

込みました。尼公(にこう)は、哀れに思われて、桂の前を招き入れると、様々といた

わってくれたのでした。母のような慈しみに、桂の前は、ようやくほっとしましたが、

それにしても、桂の前の心の内の哀れさは、言いようもありません。

つづく


忘れ去られた物語たち 5 説経熊谷先陣問答 ②

2011年12月22日 17時39分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

くまがえ先陣問答 ②

 その後、直実は、熊谷に帰りました。家の子、郎等を集めると、恩賞に給わった領地

を、家来達に分配しました。人々の喜びは言うまでもありません。そうして、熊谷一族

は、安泰でしたが、ある日の夕暮れ時、直実は南表の花園出ると、

「木々の梢、草の色、春萌え出でて夏茂り、秋霜枯れて冬は又、雪降り積もるその下に、

又、来る春をや待つらん。」

と、四季の移り変わりの有様を、つくづくとお感じになりました。

「昨日は、平家が栄え、今日は、源氏の御代となる。明日の世の中には定めも無く、

心の止まる事もない浮き世じゃな。」

 その上、直実には、一の谷での敦盛御最期のその時に、亡き後を弔うて下さいと言っ

た、その面影が焼き付いて離れません。剛毅な武将である直実も、その面影を、今目

前に見るように思い出しては、はらはらと涙を流すのでした。

「所詮、娑婆の楽しみは、電光石火の稲妻の様に、有って無い陽炎にも似て、夢の間の

楽しみに過ぎない。永遠の住み家を持てないということは、何よりもまして嘆かわしい

ことだ。釈尊も、帝位を捨てて、ついに正覚を手に入れることができた。自分は、煩悩

にほだされて、二度も三途の川からこの世に戻って来てしまった。まったく、口惜しい

ばかりである。」

 突然に発心した直実は、腰の刀を引き抜くと、ばっさりと髻(もとどり)を押し切り、

刀に添えてそこに置くと、そのまま遁世修業の旅に出てしまったのでした。

 当主の突然の遁世に、家内が大騒ぎになったのは言うまでもありません。兄弟諸共倒

れ伏して、さめざめと泣き暮らしておりましたが、しばらくして、長男直家は、父直実

の行方を捜しに行くことにしました。しかし、何時の世の中も、継子と継母の間ほど、

浅ましいものはありません。北の方は、少しも嘆いてはいなかったのです。

「桂の前は、女子のことなれば、なんとでもなる。どうにかして、直家を殺して、兄季

重の二男、小太郎と玉鶴を添わせて家督を継がせ、我が儘に暮らせるようにしたいもの

だ。」

と、怖ろしい謀を巡らせていたのです。北の方は、兄季重の所に相談に行きました。

北の方の計略を聞いた季重は、直実には過日の遺恨があったので、にやりと笑って、

「それは、良いことを思い立ったの。さてさて、どうやって直家を討ち取るか。」

と、言いました。北の方は、

「幸い、直家は、熊谷の行方を追って、明日、善光寺参りに向かいますので、途中で待

ち伏せをしてはいかがでしょうか。」

と、暗殺の方法まで企んでいたのでした。季重は、早速に三百余騎を調えさせると、信

濃と上野の境である碓氷峠に出陣して、先回りをして、直家一行がやって来るのを、今

か遅しと待ち受けました。

 そんなこととも知らない直家一行は、僅かの共だけを連れて、父の行方を探るため、

善光寺を指して、碓氷峠に差し掛かりました。待ち伏せしていた季重勢は、どっとばか

りに、鬨の声を上げて飛び出しました。直家の郎等、五藤太安高は、真っ先に進み出で

「何者なるか、この狼藉、名を名乗れ」

と言うと、季重が、答えて、

「只今、ここに押し寄せたる大将は、平山の季重なり。父、直実、源氏の御代を不足と

思い遁世し、それだけでも大罪であるのに、直家は、お暇も申さずに、国を超えての物

詣で。上を軽しめること甚だしい。朋輩の見せしめに、御懲罰せよと、この季重、

頼朝公よりの仰せを蒙る。御辺とは、親類縁者なれば、不憫とは思うが、主命なれば仕

方ない。いざ、尋常に腹を切られよ。」

と、言うのでした。驚いた安高が、急ぎ直家に報告すると、直家は、

「何、そのようなことを、頼朝公が仰るわけがない。きっと、継母の計略に違い無い。

ここで、弱気を見せて、四の党の名を汚すな。者ども。」

と、真っ先に駆け出ようとするところを、安高が押さえて、

「まずまず、一陣はそれがしに。」

と、飛んで出ると、

「やあ、やあ、いかに平山殿。それがしは、熊谷譜代の郎等にて、木村の五郎太安高

なり、この度の平家の合戦での手柄の程は、見ての通り、そこ引くな季重。」

と、ばかりに、勇猛果敢に割って入り、ここを先途と戦いました。しかし、多勢に無勢。

やがて、味方はことごとく討たれてしまいます。最後に残った直家と安高が、七度別れ

て、七度会い、散々に戦いましたが、とうとう直家は、

「今は、これまで、介錯せよ。」

と、どっかと座って自害しようとします。安高は、押しとどめて

「いいえ、それはなりませぬ。幸い、叔父の岡部六弥太忠純殿(ろくやたただずみ)が、

能登の守護職を給わり、在国されておられますから、まずは、能州へ落ち延び、再び

義兵を上げることこそ、名将と申すもの。後はそれがしが防ぎますから、早く落ちてく

ださい。」

と、言いました。無事に直家を逃がした安高は、

「科無き者を、数多く討ち取り、多くの罪を作ってしまったものだ。これもまた、仕方

なし。」

と、嘆くと、腹を十文字に掻ききって、自害して果てました。

 

 季重は勝ち鬨を上げて熊谷に帰りましたが、かの安高の最期の程、あっぱれ由々しき

郎等であると、惜しまぬ者はありませんでした。

つづく


忘れ去られた物語たち 5 説経熊谷先陣問答 ①

2011年12月21日 22時49分51秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

くまがえ先陣問答 ①

 国を治め、家を安泰にするということは、君主次第のことです。君主が、賢聖であれ

ば、国は治まり、君主が邪欲であれば、民は苦しみます。でありますから、「君、君た

らずといえども、臣、臣たらざるべからず」(古文孝経:君主に徳が無く、君主として

の道を尽くさなくても、臣下は臣下としての道を守って忠節を尽くさなければならな

い。)と言うのです。

 ここに、本朝八十二代、後鳥羽院(在位1183年~1198年)の御代、坂東武蔵

の国、熊谷次郎直実(くまがえじろうなおざね)とて、弓取りが一人おりました。先年、

悪源太義平(あくげんたよしひら:源義平)の配下として活躍され、悪源太十六騎に選

ばれました。この度、平家の合戦では、頼朝公の味方として一の谷の先陣を切り、武勇

の誉れ高き侍です。

 嫡子は、小次郎直家(こじろうなおいえ)十七歳。父と共に一の谷にて高名を極めて、

天下にその名を轟かしました。次ぎは、桂の前という姫で、十五歳。この兄弟は、先妻

の子供で、幼少の折、母と死別しています。

 さて、後妻の北の方は、平山の武者所季重(すえしげ)の妹で、その腹違いの兄弟に、

十三歳の玉鶴姫がおります。兄弟共に、容儀優れて、直実の寵愛を深く受けておりまし

た。

 さてまた、家の家臣には、木村の五藤太高安(ごとうだたかやす)という、上を敬い

下に優しい、仁義正しい勇者がおり、内外になんお不足もなく暮らしておりました。

 さて、その頃、鎌倉では、頼朝公の御前に諸大名が集められ、平家との合戦でのそれ

ぞれの手柄によって、恩賞が与えられました。ところが、平山の武者所季重は、頼朝公

の前に罷り出ると、一の谷の先陣は自分であると言い出したのでした。これを聞いた頼

朝公は、

「それは、熊谷が先陣であると、既に軍調(ぐんちょう)にも明白である。さりながら、

これより直実を召して、両方の是非を正せ。」

と、言いました。やがて、直実が、御前に上がると、頼朝公が、

「如何に、直実。一の谷の先陣を争う者があるので、その時のあらましを詳しく報告せ

よ。」

と、言うと、直実は、

「一の谷、二月七日の落城の折、六日の夜まで、それがし親子は、九郎義経の

配下にあって、山の手に待機しておりましたが、明くる日の先陣を心がけ、密かに陣中

を忍び出で、波打ち際に降り、土肥の次郎実平(どいのじろうさねひら)が七千余騎の

陣前を通り、一の谷の西の木戸に押し寄せました。夜中なれば、門は開かず、いたずら

に時は過ごしましたが、平山の季重が、遅ればせにやって来たので、一の谷の先陣は直

実であると、名乗ったことは、間違いもございません。」

と、申し上げました。すると、季重は、こう突っかかりました。

「それは、ごもっとも、確かに、御辺はそれがしより先に詰めておられた。しかし、木

戸は開かなかったので、それがしが遅れて到着した時には、まだ、門外に居たではない

か。木戸が開いて城中に入ったは同時、そして一番に敵と遭遇したのは、それがしの方

だった。」

これを聞いて、直実は、

「何を、季重。御前にて、そのような虚言は許されませぬぞ。先陣を心がけて、木戸口

に詰めていたそれがしが、後から来た御辺に、先を越されるわけがない。開門と同時に

一番に駆け入って、敵は、悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)、越中前司盛俊

(えっちゅうぜんじもりとし)、同じく次郎兵衛盛嗣(じろうびょうえもりつぐ)、かれ

これ二十三騎をひとまず追い散らし、続く味方が無かったので、御辺とそれがし、互い

に馬を休めながら、交代しながら戦ったことを忘れたのか。」

季重は、涼しい顔をして、

「それは、その後の話で、まず、一番に敵と対峙したのは、それがしでござる。」

と言い張りました。直実は、怒って、

「そのような僻事(ひがごと)を言われるいわれは無い。」

と、こっちがこそが一番と、互いに口論となりました。とうとう、太刀の柄に手をかけ

て、互いに刃傷に及ぶ所を、一座の皆で取り押さえました。頼朝公は、

「いかに、両人、心を静めてよく聞け。まず、一番に寄せたのは、熊谷に紛れなし。

門が開いた時に、両人が一緒に駆け入り、どちらが、一足速いか遅いか、互いに証拠と

なるものも無い。しかし、直実が、敦盛公(あつもり)の首を討ったことは、これ抜群

の功績である。この度の顕彰には、直実に、武蔵の国長井の庄(旧妻沼町)を給わる。」

と、御判を下されました。

 直実は、有り難くこれを頂戴し、季重にはこれといった功績も無かったので、なん

の恩賞も無く、すごすごと退散したのでした。直実の威勢の程、あっぱれ弓矢の面目で

あると、誉めぬ者はありませんでした。

つづく

 


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑩

2011年12月03日 09時27分52秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑩

 しばらく鎌倉で布教を行った道元は、再び修業の旅に出ることにしました。弟子となった最明寺は、名残を惜しみましたが、

「衆生済度の修業の御身ですから、お心に任せましょう。何国へともお出で下さい。そして、お心が止まった土地がありましたら、是非、御寺を建立いたしてください。」と、送り出しました。これは、宝治元年(1247年)八月のことでした。

 鎌倉を出立した道元は、波多野出雲守の居る越前の国を目指すことにました。日数も重なり、ようやく道元は、越前の国、湯尾(ゆのお)峠(※北陸街道:福井県南条郡今庄町湯尾)に差し掛かりました。道元はここで一休みしようと、腰を下ろしました。

 

 すると、鬼神が現れ、道元にこう言いました。

「我々は、第六天の魔王の眷属、七千夜叉のその中で、アニラ(額爾羅)神、マコラ(摩虎羅)神の大将である。(※薬師如来に従う十二神将)

 しかるに、この度、道元禅師は、疱瘡(※天然痘)を病む時節となりましたので、これより、御身体に分け入り、苦しめ申しあげます。」

道元禅師は、恐れずに、

「無位の真人、面門に現ず、智慧愚痴、般若に通ず、霊光分明にして大千に輝く、鬼神いずれの所に手脚を着けん。」(大般若経)

と、呪文を唱えると、鬼神に向かって柱杖を振り下ろしました。

 鬼神達は、たちまちに悟りを得て、頭(こうべ)をすりつけ平伏すると、

「末代に至るまで、この呪文があるところには、二度と現れません。」

と、固く約束をして、消え去ったのでした。

 越前の国、湯尾峠の茶屋で売っている「疱瘡神孫杓子」(ほうそうしんまごしゃくし)とは、この時、道元が振った杖の形に木を刻んで、この呪文を疱瘡避けの呪文として書いたものです。(※「湯尾峠孫杓子」という十返舎一九の小説がある)

 道元の越前入りの報を受けた波多野出雲守義重(※越前波多野氏:義重は永平寺建立し、曹洞宗の庇護者となった人物)は、丁重に道元禅師をお迎えしました。義重は、

「是非、この越前の国に留まって、お寺を建立してください。」

と、懇願したのでした。道元は、

「それであれば、衆生済度のため、寺地の見立てをいたしましょう。」

と、国内を見て歩き、東の方の峰々が重なり、雲上の土地を選びました。最初のお寺は、波多野重義を奉行として、寛元二年七月十八日に完成しました。その後、寛元四年に、入仏の供養を行い、漢の元号である「永平」を取って、「吉祥山永平寺」と改めたのでした。

 そして、道元禅師は、御父道忠、金若丸の菩提のために、法華経全部を修行僧達と共に読誦しました。有り難いことに、この御経の功徳によって、道忠、金若が、成仏の姿を顕しました。 諸々の菩薩が天下り、仏体として顕れ出で、紫雲に乗って、雲井遙かに昇って行く姿は、神々しいばかりでした。

 永平寺と道元禅師の御法力。有り難いともなかなか、申すばかりもありません。

終わり

結城孫三郎直伝

元禄二年五月吉祥日


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑨

2011年12月02日 22時23分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑨

 そうして、道元禅師は、洛中洛外の老若男女の病苦を救い、仏法を説き聞かせたので、人々は、道元禅師を、釈尊のご出世であると、大変に尊敬されました。しかし、道元は、それで満足したわけではありませんでした。ある時、道元は道正に、こう言いました。

「かねてから、お前には話してきたが、これで修業が終わったわけでは無い。愚僧はこれより修業に出るが、お前は、ここに残って、衆生済度を続けなさい。」

 そうして、道元は、諸国修行の旅に出たのでした。誠に有り難い限りです。道元は、東に下りました。宿場、宿場で布教を行い、様々な利益を与えながら、やがて鎌倉にやってきました。それは、もう日暮れ時のことでした。さて、ここらで宿でも借りるかと、宿を乞いますが、貸す所がありません。一人法師の宿泊は御禁制だというのです。道元は、

「よし、よし、このような邪険な国こそ、修業にはもってこいじゃわい。是非、ここで仏法を広めよう。」

と考え、由比ヶ浜の辻堂に籠もることにしました。

 さて、その夜半のこと、そばにある井戸の中から炎が、ぱあっと上がると、二十歳ばかりの足の無い女が現れたのでした。女の幽霊は、辻堂で瞑想していた道元の前にふっと立ちました。道元禅師はそれをご覧になり、

「これは、不思議な有様かな。いかなる者であるか。」

と、問いました。女は、こう答えました。

「私は、笹目ヶ谷(ささめがやつ:鎌倉文学館付近)の者ですが、嫉妬の心が深かったので、夫に騙されて、この井戸へ真っ逆さまに落とされて、未だに成仏できません。二六時中に暇無く、身体より炎が出でて、五臓六腑を焼き払い、死ぬかと思えば、また生き返り、一時として安らぐことがありません。どうか、この苦しみから逃れさせてください。」

と、涙に暮れているのでした。道元は、不憫とお思いになり、

「さらば、お助けいたそう。」

と、法華経の開経を授けると、提婆品にて、懇ろに弔いました。すると、不思議なことに、明星天子(金星:太白星:虚空菩薩)が空より降りてきて、井戸の中に光線を放つと、幽霊は、たちまちに仏体となり、雲井遙かに昇天していったのでした。まったくもって有り難いことです。この井戸が、今でも「鎌倉の星井戸」と呼ばれるのは、この時が初めなのです。

(※星月夜の井又は星の井:鎌倉市坂ノ下、虚空菩薩堂)

 道元は、幽霊女の成仏のため、虚空を拝んで猶も読経を続けていました。やがて、夜が白々と明けてきました。道元は、朝日を浴びて立ち上がると、すっくと立ち上がり、鶴ヶ岡に向かいました。

 鶴ヶ岡に高僧が来て、尊い説法をしているという評判が、時の鎌倉副将軍時頼公の耳に入りました。時頼は、波多野出雲守義重(はたのいずものかみよししげ)を呼ぶと、

「聞くところによると、都より尊き沙門が来て、衆生に説法を広めているということじゃが、その教下別伝の志というものを聞いて見たい。すぐに、その修行者を連れて参れ。」

と、命じました。

 やがて、道元がやってくると、時頼は、

「いかに、修行者。教下別伝の道理とはなんであるか。」

と、聞きました。道元は、

「言語、筆紙に述べ難し。瞼を閉じて、我と悟りを開くが故に禅法とは申すなり。悟る時は仏体。迷うが故に六道界。よくよく御思案あれ。」

と、はばかりも無く、ずばりと答えました。時頼は、その一言で、尊敬の念を抱きました。上座を立つと、道元の手を取って、道元を上座に座らせました。誠に驚きいったる計らいです。時頼は、

「今より御弟子となり申さん。開経、お授け給え。」

と、平伏しました。道元は、しからばと、菩薩戒(大乗戒)を授けると、そのまま御髪を下ろされ、戒名を最明寺と拝受しました。誠に殊勝なことです。

(※北条時頼:戒名 最明寺道崇 :墓 伊豆長岡 如意山最明寺)

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑧

2011年12月02日 12時21分13秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑧

 貧女と老女を連れ帰った道正は、道元に事と次第を物語りました。道元は、それを聞いて、

「親孝行の志、誠に殊勝なり。教化(きょうげ)してあげましょう。」

と、一家の秘密の開経(※法華経の序説:無量義経)を授けました。貧女は、あまりの有り難さに、肌の守りを取り出すと、

「この守りは、私の父上様、最期の時に、私に給わりました形見ですが、只今の御説法の御礼に、お坊様に献げます。」

と、言いました。道元が、受け取って開いてみると、守りではなく家の系図でした。はっと驚いた道元は、

「この守りは、あなたの父上様から譲り受けたのですね。」

と、確かめました。貧女は、

「はい、そうです。私はまだ二歳の頃でしたから、何も覚えてはいませんが、これなる母上から聞かされてきた話です。」

と、答えました。道元は、

「そうであれば、あなた方は、中納言道忠公の御台と姫なのですね。私こそ、かつての神道丸ですよ。」

と、駆け寄りました。貧女親子は驚いて、

「ええ、それでは、あなたは兄上様。私は松代の姫、これは母上様です。」

と、期せずして、涙、涙の親子、主従のご対面。喜び合うこと限りもありません。

 ようやく涙を押しとどめて、道元は、

「これまでのお嘆きは無理も無いことです。しかしながら、ここで巡り会うことも、仏菩薩のお恵です。この上は、御台様は御髪を下ろされ出家なされ、姫君は、御門へ奏聞して、どこか良い家にお輿入れできるようにいたしましょう。なによりも、この再会よりも嬉しいことはありません。」

と言うのでした。

 ところが、母上は、返事も無く、今度は押し黙って俯いたままです。正気に戻った途端に、また悪心の炎(ほむら)がめらめらと立ちのぼってきたのでした。

「恨めしの道元。これほど近くに有りながら、我が身の栄華に昔を忘れ、姫やわらわを打ち捨てたままにして、私たちは、こんな浅ましいことになっているというのに。我が子、金若があるならば、こんなことにならずに済んだのに。思えば思えば道元は、我が金若の敵なり。」

と、思うと、もう我慢ができません。道元の胸元を食いちぎって、昔の無念を晴らしてやると、いきなり道元に飛びかかろうとしました。と、その時です。晴れ渡る空が一天俄に掻き曇って、黒雲が舞い降りると、御台を包み込み、その姿は見えなくなってしまいました。道元、道正は、少しも騒がず、天に向かって、

「おのれが心、おのれを知る。喝、喝。」

と、唱えると、払子を投げつけました。すると、不思議なことに雲間に文字が顕れ、雲は晴れ、御台の姿が地上に戻ってきました。驚くべき仏力です。

 道元は母上に、こう言いました。

「只今の有様は、あなたのお心より起こる所の悪心そのものです。直ちに懺悔しなさい。そうすれば、罪は消えることでしょう。」

母は、これを聞いて、ようやく得心し、

「ああ、恥ずかしい。昔の心が忘れられず、また悪心が起こってしまった。」

と、素直に懺悔をすることができました。道元は、更に喜んで、

「それでよいのです。一念発起菩提心、成仏を疑ってはいけません。姫と一緒に出家をし、それから、しっかりと修業なされなさい。」

と、優しく勧めるのでした。

 その後、松代姫と御台は、出家して、諸国を修業した後、鎌倉松が岡に尼寺を建てました。この寺も代々、今の世に続きますが、これも又、道元禅師の法力によって始まったことです。

(※松岡山東慶寺(神奈川県鎌倉市山ノ内)臨済宗円覚寺派のことと思われる。開基北条貞時、開山覚山尼:有名な縁切り寺)

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑦

2011年12月02日 10時42分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑦

 無事に日本に戻った道元、道正が、京の都に到着されたのは、安貞(あんてい)元年丁亥(ひのとい)(1227年鎌倉時代)の年のことでした。道元は、帰朝の報告をするために、装束を改めて参内されました。禁裏において諸々の奏聞をすると、御門よりの宣旨に、

「いかに道元、この度の入唐、衆生利益の勧めは如何に。」

と問われました。道元は謹んで承り、

「元より、愚魂の僧ですから、なんとも、申し上げることもできませんが、この碧巌録は、長く衆生済度のために、大変有益な有り難い宝経であります。」

と、達磨の三祖(道信)、六祖(慧能)の大事の秘事、悟るところの妙典を、謹んで差し上げました。

 御門を初め、公卿、大臣。各々が開いて見てみると、成る程博学、叡智に溢れて言葉に尽くすこともできないすばらしさです。一同、誠に道元禅師こそ、達磨の二度目の出世であり、日本の宝であると感歎しました。そして、御門より、

「さても道元禅師、曹洞一宗の開山たるべし。」

という宣旨を頂き、併せて、紫の玉衣を拝受しました。そして、道正には、一宗の官位を給わり、宇治の里に寺を建立するように仰せつけられました。

 さて、御前を罷り立つと、早速に宇治の里へ行き、天童八景を映して「興聖寺(こうしょうじ)」を建立なされました。(※実際の興聖寺は伏見区深草)道元、道正は、日々行い澄まして修業を重ね過ごしておられましたが、ある時道元は、

「今、濁世(じょくせ)の衆生は、病苦に責め苦しめられ、苦悩を悲しむばかりで、仏道に帰依しようとする者は少ない。衆生を化度するために、神仙解毒を慈悲に施して、病苦を救い、重ねて仏道を説き聞かせて、成仏の本懐を遂げさせるための布教をしよう。」

と、考え、京洛中に高札を立て、近隣諸国に触れを出して、貧民救済に乗り出しました。貧なる者には食物を、病者には解毒を与えて救済し、いかなる病も、平癒しないということはありませんでした。

 さて、ここに又、哀れをとどめしは、小原という山奥に、貧女の親子がおりました。いたわしいことにこの貧女は、幼い時に父を失い、母と伴に十八年の春秋を、あなたこなたと流浪しながら過ごしたのでした。その心の内こそいたわしい限りです。憂きことばかりの生活に、母親は、三年以前より足腰も立たず寝たきりになっていました。なんの生業も無く、貧女は、里田におりては、落ち穂を拾い、作物を盗んでは母親を養ってきました。貧女はある日、母親にこう話ました。

「この頃、都には、尊いお坊様が御説法をされ、その上名誉のお薬を慈悲に施すと聞きました。私は、都へ行ってそのお薬をもらってこようと思います。すぐに戻ってきますから、寂しくとも待っていてくださいね。」

母上は、これを聞いて、

「それは、よいことを聞いてきた。わしも一緒に都へ行き、御説法も聴聞して、菩提の種ともしたいものじゃが、少しの道も歩まれぬことの悲しやな。」

と、嘆き悲しみました。親孝行な貧女は、

「それほどに願われるのなら、私が連れて行ってあげましょう。」

と、なんとか、母を都まで連れて行く手立てはないものかと思案していますと、道端に捨て置かれたの土車が目に留まりました。

 貧女は、母を土車に乗せると、縄を肩に掛けて、小原の山奥から引き出しました。しかし、ボロボロの土車は言うことを聞きません。あっちで休み、こっちで休みして、ようやく東寺あたりまで来ましたが、あまりも揺られ過ぎた母親は、疲労のあまり意識不明の重体となってしまいました。貧女が呼べど叫べど答えません。せっかく都までやって来たのに、母を死なせてしまったと、貧女は、車に取り付いて泣くばかりです。

 そこに通りかかったのは、神仙解毒を広めるために布教をしていた道正でした。道正は、泣いている貧女を見ると、声を掛けました。

「いったいどうして泣いておられるのですか。」

途方に暮れていた貧女は、喜んで、

「のう、お坊様、これは私の母上ですが、今、亡くなってしまったのです。」

と、道正に取りすがって泣き崩れました。道正が母の容体を見ると、虫の息とはいえまだ生きているようです。さっそく神仙解毒を取り出すと、口でかみ砕き、老女に与えました。すると、たちまちにほっと息をつき、意識を取り戻すと目を開けました。

「ああ、苦しい、苦しい。私はどうしたのじゃ。このお坊様は?」

と、起きあがりました。喜んだ貧女は、母に飛びついて、

「母上様、御身は、一度お亡くなりになったのですが、お坊様のお慈悲で、蘇えられたのです。」

と、泣きながら語りました。母上は、

「これは、有り難い、有り難い。」

と、道正に手を合わせて拝まれました。道正は、

「何事も、宿業なれば是非もなし、ただただ念仏を唱えなさい。それにしても、娘の母孝行の志、あまりに不憫なことである。愚僧が庵に来て、我れらが教化を受けなさい。」

と仰りました。貧女はこれを聞いて、

「誠に、有り難き仰せですが、車にて母を曳けば、また容体が悪くなってしまいます。今夜は、ここにて休み、明日尋ねることにいたします。」

と、答えましたが、道正は、お供の者に母を担がせて、貧女を伴って庵にもどったのでした。

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑥

2011年12月01日 21時59分58秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑥

 道元、道正の二人は、偉大なる達磨大師の座禅の姿を心にしっかりと刻むと、急ぎ帰朝をしようと、天童山を下り始めました。達磨大師より頂いた有り難い柱杖を突きつつ、元の山道を辿って、谷よ峰よと越えて行きました。

 しかし、どうも様子が、変です。いつの間にか、見たことも無い、広い野原に出てしまいました。

「どうも、おかしい。道正よ。ここで、道が途絶えたぞ。どこで道を間違えたのだろうか。方角も分からない。どうするか。」

 二人は、道は一本道で、間違えるはずもないと、不思議に思われましたが、慌てる様子も無く。草むらにどっかと座して瞑想を初めました。ところが、さすがに山道の疲れから、二人ともとろとろと眠り始め、とうとう前後不覚に眠りに落ちてしましました。

 すると、どこからともなく、悪虎が一匹飛び出してきました。悪虎は、牙を鳴らして、二人に近づくと、只一口に食らわんと飛びかかりました。眠り込んでいる二人は絶体絶命の危機です。ところが、不思議にもその刹那、道元が突く柱杖が、たちまち大蛇と変化して、悪虎の前に立ちはだかり、かっぱと口を開けて悪虎に襲いかかりました。竜虎血みどろの戦いは、凄まじいばかりです。さらに、道正の小刀が、おのれとばかりに飛び出したかと思うと、たちまち巨大な剣となりました。剣は虚空を飛び回り、周囲の山をかち割りながら、猛然と悪虎目がけて突きさそうとします。悪虎は、怒り心頭に発して暴れまくりましたので、二人も目を醒まし、この有様を目撃しました。大蛇が悪虎の平首に食らいつくと、剣は、虚空より悪虎の腹のまっただ中を貫き通しました。大蛇が、悪虎の首を食いちぎると、巨大な剣は、すうっと草叢に下りて、剣の先を上にして止まりました。すると今度は、大蛇がするすると太刀に巻き付き、剣の切っ先を飲み込むよと見えたその途端に、元の手杖と小刀に戻って、地に落ちました。不動明王が右手に持つ倶利伽羅剣(くりからけん)とは、この時に始まったのです。

 両僧は、奇異の思いをしながらも、諸天のご加護に礼拝し、天童山を伏し拝みました。その後道元は、この柱杖を決して手放すことはありませんでした。これが、永平寺の重物である「虎食み(とらばみ)の柱杖」であります。(※永平寺蔵:虎刎の柱杖(とらはねのしゅじょう))

 それから、苦節十三年。両僧は、霊地霊物を残らず修業するまで、帰朝することはできませんでした。十三年目にして、ようやく南京に辿りついたのは、すべて仏神の定められたことだったのです。(実際には4年間)丁度、日本向けの商船がありました。早速に船に乗り込んだ二人は、順風満帆の航海に、これまでの苦労が夢のようでした。三日三夜を安寧に過ごしましたが、唐と高麗の境にある「モメイ島」(不明)の辺りまで来た時、海上、俄に掻き曇り始めました。ひどい嵐となったのです。浪は世界を洗い、船を翻弄しました。船はいつ転覆するかわかりません。あまりのひどい揺れで、とうとう道正は、患い倒れてしまいました。道元は、ひたすら祈祷を続けましたが、嵐はいつまでたっても収まりません。道元は、舳先につつっと立ち上がると、こう大音しました。

「いかに、八大龍王。情けに聞け。入唐の沙門道元が、ただ今祈祷いたす所に、何とて浪風荒く患わすか。早、疾く浪風静めよ。」

 すると、浪風が弱まったかと思うと、不思議にも忽然と龍女が一人現れました。

「我は、シャカラ龍王(娑伽羅:サーガラ、竜宮王)が娘、豊玉姫。竜宮城と申すのは、六道界のそのひとつ、三熱の苦しみあり。」

(※龍は、六道の内の畜生道にあって、毎日、熱風に焼かれ、悪風に吹き飛ばされ、金翅鳥(こんじちょう:かるら)に喰われる。)

「仏の済世の時、文殊菩薩が、竜宮にお入りになられて、法華経の利益(りやく)によって八歳の龍女を天王如来として成仏され喜悦しました。今また、道元のお通りあるは、一重に仏の御来臨と思い、御血脈(師弟の法統の意)を与えていただきたく、船を止めたのです。」

と、涙を流して訴えました。

 道元は、これを不憫に思って、

「これこそ、一家血脈の初めなり。」

と、法華経一巻を取り出すと、龍女に与えました。喜んだ龍女は、瑠璃の壺から薬を取り出すと、道正に与えました。すると道正は、たちまち生気を取り戻し元気になりました。道元が不思議に思っていると、龍女は、

「この薬と申しまするは、浄瑠璃浄土の瑠璃仙人(薬師如来)より伝わる竜宮の重宝です。秘密の薬方ですが、只今の御法施に、その薬方をお教えいたしましょう。衆生の病苦を救って下さい。」

と、神仙解毒万病円(しんせんげどくなんびょうえん)の処方を道元に献げました。

神仙解毒が、永平寺から出るのもこの時が始まりです。(※永平寺「神仙解毒万病内(しんせんげどくまんびょうえ)」 

 そこで、道元が、龍女に向かって、 

「慈眼視衆生福聚海無量(じげんじしゅじょうふくじゅかいむりょう)(観音経) 

と唱えると、龍女は、たちまち男子に生まれ変わり、観音の姿と顕れたのでした。すると不思議にも、波間より、一葉の蓮華が浮かび上がりました。龍女が化身した観音菩薩が、この蓮華に乗り移ると、白波は、紫雲となって雲井遙かに上昇して行きました。(一葉観音)道元、道正は歓喜のあまり、爪でその姿を船板に彫りつけました。これを、今の世までも「船板爪つき一葉の観音」と呼ぶのです。(熊本県川尻:観音寺南望山慈眼院の船板観音) 

 それからというもの、ようやく春風が吹き、七日の後には、いよいよ祖国の地を踏むことができたのです。道元、道正の御姿、有り難いとも、なかなか申すばかりもありません。 

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑤

2011年12月01日 15時54分51秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑤

さて、哀れにも比叡山に落ち延びた神道丸と梅王は、慣れぬ山住まいに、都の方を眺めては、

「遙かの雲井のその下は、恋しい父のいらっしゃる都だが、また、恨めしき都でもある。」と、語り嘆いて過ごしておりました。

 そんな時、ようやく神道丸の行方を突き止めた、譜代の家臣「田代の源内」が、訪れました。源内は、早速に御前に罷り出ると、道忠卿の最期と、その後の一家離散の顛末について語りました。

「このことを知らせんため、彼方此方と、探し回りましたが、ようやくお会いでき本望です。これにて使命は果たしました。これ以上、何の役にも立たぬこの命、譜代の主を見捨てて出奔したからは、お暇申して、いざさらば。」

と言うと、ふっつと舌を噛みきって、その場で命を絶ちました。

 二人は、あっと驚き、詰めよりましたが、時既に遅し。呼べど叫べど、源内は、帰らぬ人となりました。二人は、密かに源内を葬ると、ある決断をしました。

 二人は、僧都(そうず)に、これまでのことの次第を全て語り、出家を願い出たのでした。僧都はこれを聞いて、

「そうであれば、髪を下ろし給え。」

と、血筋と撫でた御髪(おぐし)を四方浄土にお剃りになりました。二人は、墨の衣に着替えると、改めて僧都から、戒名を受けました。神道丸は、道元(どうげん)、梅王丸は、道正(どうしょう)と授かったのでした。

 それからというもの、二人は、宝蔵に籠もって、昼夜と問わず学問に精を出しました。

窓の前には、蛍を集め灯火として、天台経典の円頓(えんどん:悟り)止観(しかん:正しい智慧)を修めますが、道元には、納得できないことがありました。ある時、道元は、道正にこう言うのでした。

「いかに、道正。わたしは、天台の諸経を通貫したが、現世末世の衆生成仏の願いを実現するためには、「禅法」の外に道は無いと考えている。しかし、日本は小国であり、「禅法」の極意を全うすることができない。私は、末世の衆生済度のため、命を賭けて入唐(にっとう)して、禅宗六祖(慧能大師)より直に禅法の極意を学びたいと思う。」

 二人は、僧都に暇乞いをすると、旅の装束を調えて、菅笠で顔を隠し、竹の杖だけを頼りとして、まだ世も明けぬうちに比叡山を後にしました。道元は、この修業の旅立ちに、こう一首を詠みました。

「今日出でて いつかきて(来て・着て)みん 唐衣 我が立つ山の 雪の白雲」

「衆生済度の旅ではあるが、再び帰れるかどうかも分からない。」

と、振り返ると、比良の高嶺の残雪が目に焼き付いたのでした。

 さて、それより二人は、京都を離れ、大阪、兵庫と、旅路を重ねて行きました。

やがて、淡路島が見えてきました。浜には、塩屋の煙がたなびいています。道元は、その煙を眺めながらも、こう詠嘆するのでした。

「浪間浪間の塩釜に

炊くや憂き身を焦がすらん

煙と消えし我々も

かかる憂き目に遭うまじと

身を恨み、世を疎み」

ここは、松の浦という浜辺です。二人は、ここで唐船が出るのを待つことにしました。 二人は、唐船は無いかと方々尋ねましたが、そう簡単にあるものではございません。道元と道正が、浜辺で休んでいますと、沖より一艘の小舟が近づいてきました。やがて、二人の前に舟を着けると、舟の老人がこう問いかけました。

「御僧達は、どこまで渡る方々ですか。もし、唐船(もろこしぶね)をお待ちの様であるならば、乗せてあげますよ。」

 喜んだ二人は、二つ返事で舟に乗り込みました。すると不思議なことに、夢か現かと思う内に、唐の明星津に着いていたのです。すると老人は、

「いかに、道元、道正。我はこれ、加賀の国、白山大権現なり。御身、禅法を極めて、必ず日本に戻りなさい。その時は、私が守り神になるであろう。」

と言い残すと、光を放って忽然と消えたのでした。

         (※伏線:後に道元が世話になる吉峰寺が、白山信仰の寺である)

 あら有り難やと、いよいよ行く末頼もしく思った二人が、深く祈誓を掛けて礼拝していると、一人の通行人がありました。道元は、禅の霊場天童山への道を尋ねてみようと、その老人を呼び止めました。

「われわれは、粟散国(ぞくさんこく:小国の意)の者であるが、これより天童山へ上がろうと思っております。道をご存じであればお教えください。」

老人は、立ち止まると、

「なに、方々は、日本よりの僧と仰るか。天童山に上がるとは、さぞや深い願いがあるようじゃの。大変、殊勝なる志じゃ。よしよし、道しるべをいたそう。」

と、先に立って歩き始めました。老人は、歩きながらも、やれ、天童山は中国禅宗四山のひとつだとか、やれ、禅法を究むるには、天童山より外は無いなどと様々に話しをして、多くの谷、峰を越えたにも関わらず、二人は飽きる間もなく、天童山に到着しました。

老人は、

「さて、これこそ天童山。ようく拝みなされ。霊窟が沢山あり、岩滑らかに苔深く、谷は峙ち(そばだち)雲が立ちこめ、巌(いわお)からは水が滴る。八葉の峰は、八相の浄土をかたどり、月は、真如の影を映す。八つの谷には、八功徳水(はっくどくすい)。

晴嵐(せいらん)が梢を吹けば、法性、懺悔の声がする。されば、使命の第一は、心静かに拝むことじゃ。」

と、言いました。これを聞いた二人は、痛く感動して、信心を肝に銘じて感涙の涙を絞りました。すると、老人は、いきなりこう問いかけてきました。

「日本の僧よ、それ、禅法に工夫あり、座禅の公案を何と心得る。」

道元は、こう答えました。

「そこに入れば、幽玄に同じ、そこを出れば、三昧の門に遊ぶ。」

さらに、老人が、

「自身の仏とは、さて如何に。」

と問うと、

「雲深き所、金竜が踊る。」

と答えます。すると老人は、

「生死を離れるなら。」

と、聞き返しました。道元はすかさず、

「輪廻の如し。」

と、答えると、老人は、重ねて道元に向かって、同じ問いをしました。

「生死を離れるなら。」

道元は、

「潭月長閑(たんげつのどか:水面に映る月のように静かである)」

と答えました。老人は、矢継ぎ早にこう問いました。

「それで、これから、どうするつもりだ。」

そこで、道元は、問答から離れて、静かにこう答えました。

「柳は緑、花は紅の色々。」(蘇東坡の詩)

 老人は、にっこりと微笑むと、

「おお、良きかな、良きかな道元。則ち、教下別伝(きょうげべつでん)の理体をよくよく悟っておるわい。」

と、呵々と大笑すると、巻物一巻と払子、柱杖(しゅじょう:正しくは手偏の主)を取り出して道元に与えました。

 老人は、突然にそばの岩に上に飛び上がると、たちまち達磨大師に化身して、

「いかに、道元、道正よ。それなる巻物は、碧巌録(へきがんろく)なり。

(一夜碧巌録:石川県金沢市東光山大乗寺を指す)急ぎ日本へ帰島いたし、末世衆生を引導いたせ。さてさて、我が有様をよっく目に焼き付け、下根蚰蜒(げこんげじ:無能な)なる僧共に、よく学ばせよ。」

と、言うなり、最後に座禅の姿をお示しになって、やがて巌の向こうに消えて行きました。まったくもって、有り難い次第です。

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ④

2011年12月01日 12時08分28秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ④

 やがて、父の生首を抱きしめた金若丸は、呆然として神道丸の御前に上がりました。神道丸の驚きは尋常ではありません。将監の生首に抱きつくと

「なんという無惨な。木下将監よ。私たち兄弟を愛おしみくだされたのに、主命に仕方なく、我を討ったと思いつつ、金若を討ってしまったのか。おお、将監よ。我を殺せば、二人も命を失わずに済んだものを。不憫なことをした。」

と、しばし涙に暮れていましたが、やおら懐剣を抜くと、自害を図ろうとしました。はっと、我に返った梅王が、慌てて押しとどめ、

「お待ちなされ、不覚なり神道丸様。三つ目の命失うことなりませぬ。お命、全うされ、行く末目出度くあれば、母上様のお恨みも、いつかは晴れることがあるでしょう。」

と、説得しますが、神道丸は、

「いいや、母上のご立腹。とてものことでは逃れることは出来ない我が命。いずれ刺客を放つに違いない。卑しき者の手にかかって殺されるのは無念。最早思い切ったぞ。梅王丸、放せ。」

放せ、いや放さじと、主従がもみ合ううちに、互いに目と目を見合わせて、どっとばかりに泣き崩れてしまいました。やがて、梅王は、

「仰せはごもっともながら、神道丸様が御自害なされては、あなた様に科(とが)が無いことを、誰が父上様に申し上げるのですか。金若丸の事件は、神道丸の仕業と、無実の罪を着されることには耐えられません。」

と、ますます力を込めて抱き留めました。神道丸は、つくづくと考えて、

「梅王の申すこと、確かに神妙である。よし、よし、分かったから、もうよい放せ。最早、この館に居ることは叶わぬ。」

と、観念しました。ようやく力を弱めた梅王は、ほっとしてこう言いました。

「分かりました。それでは、私の叔父の寺が、比叡山にありますので、ひとまず、そこへ落ちのびましょう。お供いたします。」

 

 神道丸は、浅ましい身の上を嘆きながらも、父宛の書き置きを残して、梅王を唯一の共として、比叡山へと落ち延びたのでした。

 一方、父中納言道忠は、金若のことを片時も忘れる事なく、世の無常を嘆いて、とうとう病み伏せってしましました。そんな時、道忠の元に、神道丸の逐電の報と伴に、一通の書き置きが届きました。驚いた道忠が、急いで開いてみると、神道丸遁世の書き置きです。道忠は、

「花のような若を、一人ならず二人まで失うとは、もう生きる甲斐も無い、身の果てじゃ。」

と、がっくりとうなだれました。その落胆に追い打ちを掛けるように、続けて木下将監自害の報が届きました。もう、道忠には怒る力もありません。

「なんということだ。全ては御台の仕業なり。よしよし、成さぬ仲なれば、憎しと思うもことわりながら、それ程までに憎いと言っても、外にしようもあるものを、女の心のはかなさで、死なせてしまったとは、恨めしい限りじゃ。しかし、それとても我が悪業(あくごう)のなせる業(わざ)。ああ、只恨めしいばかりの浮き世やなあ。」

と、口説き嘆くばかりです。やがて、

「おお、恋しの子ども達。やれ、神道か、やれ金若か。」

と、おそば近くの人々に向かって手を伸ばすと、ばったりと目を閉じ、もう既にご臨終かと思われました。近習の者どもが驚いて、気付けの水を注ぎますと、なんとか意識が戻りました。急いで御台に知らせが走ると、驚いた御台は、松代姫を抱いて駆けつけました。御台は、

「のういかに、我が夫(つま)様。どうかお心取り直して、姫君をご覧下さい。松代がここに来ていますよ。」

と、泣く泣く、道忠に取り付きますと、道忠は、

「なに、姫か、これへ。」

と、目を開き、

「ああ、さても不憫なこの姫よ。父の命もこれまでぞ。我が露命が消えても、二人の兄があるならば、なんの心配も無いけれど、こうなってしまっては、明日よりは、誰を頼りに生きて行くのか。孤児と呼ばれ、侮られる不憫さよ。もしも命長らえ成長できたなら、二人の兄や、我の後を良きに弔ってくれ。」

と、もう既に、声に力も無く、段々に意識も遠のいて行くようです。しかし、また、最後の力を振り絞るようにして、目を開けると、

「やれ、松代、父が最期の言葉をよっく覚えよ。是は、家の系図である。お前が成長し、嫁ぐことができたなら、お前の子供に伝えるのだ。また、神道丸と生きて名乗り合うことができたなら、是を証拠として名乗り合うのだぞ。この伝来の系図は、お前の守り神ともなるはずじゃ。必ず大事にするのだぞ。」

と、松代姫の首に掛けると、後を頼むと言い残して、とうとう中納言道忠卿はお亡くなりになられました。

 それからというもの、御台の悪心はますます増長して、家中の面々、女、童にいたるまで、故も無い無理難題、無実の罪を着せられる始末。家人達は、居るにも居られず、二人三人と逃げ出して、とうとう、栄華を誇った立派な館に、人の姿も無くなり、やがて、蔵の宝も消え果ててしまいました。やがて御台は、姫を抱いて何処とも無く、彷徨い出て行ってしまいますが、心の鬼が身を責めて、浅ましいばかりの業であると、憎まない人はありませんでした。

つづく

 


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ③

2011年12月01日 08時38分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ③

 さて、何も知らない神道丸が、父の元を尋ねますと、特段の用事も無く、せっかく来たのだからと、諸々話し込んでいましたが、金若が自室で待っているのでと、早々に退出すると、金若丸と今宵は語り明かそうと、急いで寝所に戻りました。

 ところが、目に飛び込んだ有様は、朱(あけ)に染まった金若丸のいたわしい姿でした。驚いた神道丸は、

「これは、いったい、何者の仕業。出合え出合え、者ども、敵を討ち取れ。」

と、郎党どもに辺りを探索させますが、既に人影もありません。神道丸は、あまりの悲しさに、首の無い死骸に抱きついて、

「金若丸。いかなる者の仕業ぞ。いったいどんな恨みがあって、まだいとけなき弟を殺したのだ。このような邪険な仕業は、人間のすることとも思えない。」

と、流涕焦がれて泣き崩れるのでした。

 直ちに、使者が立って、父道忠卿に知らせが入りました。突然の事に驚いた道忠と御台は、急いで神道丸の寝所に駆けつけました。夫婦諸共に死骸に抱きつき、呼べど、叫べど、首の無い金若は答えません。自分の誤りに気が付いた将監は、ぶるぶると震えるしかありませんでした。

 やがて、金若の野辺送りが営まれました。御台は木下将監を呼びつけると、

「いかに、将監。なんの遺恨で、金若を討ったのだ。我が子返せ木下。金若返せ将監。」と、泣き崩れました。答えるすべも無い将監です。やがて、御台はきっと顔を上げると、

「憎っくきは、神道丸。神道丸こそ敵。今宵の内に神道丸が首討って見せよ。早く、早く。」

と、噛みつかんばかりの血相です。ははっとばかりに、飛び上がった将監は、そのまま家に立ち帰ると、覚悟を決めました。

「さて、是非もない次第。道にもあらぬ宮仕え。いかに、御主(ごしゅう)の御意(ぎょい)とは言え、なかなか、思いも寄らざること。さりながら、命惜しみては、末代の恥辱。よしよし、浮き世もこれまで。」

と、思い切り、一子、梅王を呼ぶと、

「梅王、よっく聞け。我は、誤って金若殿の首を落としてしまった。これは、天命であるから是非もない。只今これにて、自害いたす。介錯いたせ。その後、この首を神道丸殿へ持参し、ことの次第を、全て報告いたすのじゃ。父に代わり、主君に忠孝いたすのじゃぞ。悪事をなしたる将監行正の子の行く末見よと、人に後ろ指を指されるなよ。それから、父の死骸を他人の手にかけて、後を見苦しくしてはならぬぞ。よいな、早、早、用意いたされよ。」

と、潔く言い渡しましたが、これが、我が子の見納めかと、さすが勇猛血気の将監正行も、涙を流して無念の歯がみをしました。梅王は事の重大さに驚きながらも、

「仰せはごもっとは存じますが、昔より今に至るまで、親の首を、子が切る例(ためし)はありません、それだけは、ご勘弁下さい。」

と、涙をながして懇願しました。将監はこれを聞いて、

「いやいや、よっく聞け、梅王。金若殿を手に掛け、討ってしまった以上、冥途の責め苦もさぞやあること、今、お前の手に掛かるなら、少しは罪の贖い(あがない)じゃ。介錯いたせ。」

と、許しません。梅王が、重ねて辞退すると、将監は怒って、

「何を情けない、物の道理も分からぬか。班足太子(はんぞくたいし)は千人の首を取る。(九尾狐伝説:インドのマカダ国の王子は、九尾狐が化けた華陽夫人に操られて、千人の首を刎ねた。)その時、一人足りなかったので、父、大王の首を切り、近くでは、源義朝は、父為義の首を切る。(保元の乱)かかる例は数多くあるのだ。これでも、嫌だと言うのなら、今生、後生の勘当言い渡す。」

と、無理矢理に介錯を迫りました。道理に詰められた梅王は、返す言葉もなく、仕方なく父に従うことにしました。

 怒りを収めた将監は、直ぐさま切腹の用意をすると、大肌脱いで、脇差しを取り直すと、心を静め、しばし瞑想していました。やがて、観念すると、左の脇にさっと脇差しを突き立て、やっとばかりに突き刺し、右手にきりきりと引き回してから、顔を上げ、

「早、首取れ、梅王丸」

と、叫びました。梅王は、

「心得ました。」

と、太刀を振り上げたものの、どうして親の首が討てましょう。目は眩み、心は消え果て、わなわなと、座り込んでしまいました。将監は、きっと、振りあおのくと、苦しい息をつぎながら、

「ええ、こりゃ、梅王。しっかりせよ。最早、名残もこれまでぞ。ええ、早、早、首を取らぬか。梅王丸。」

と、必死の形相です。梅王は、泣く泣く立ち上がると、南無阿弥陀仏と父の首を落とし、わっとばかりに、父の首を拾い上げました。繋げても繋がらない首を抱きしめて、梅王は、

「父上、父上。」

と、叫びつづけるのでした。

つづく