アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

幻の民サンカ 其の10 三角寛とは其の2

2015年07月27日 | 近世の歴史の裏側

暫く記者と作家の二足の草鞋を履いていたが、やがて依頼原稿に応じきれないほど多忙となって

昭和八年、朝日新聞社を退社した。それからの七、八年は「山窩もの」と呼ばれる小説を書きまくった時期であった。

三角は、このころ屈指の流行作家で、『父・三角寛』によると、多いときで十人を超す出版社の編集者が東京・雑司ヶ谷の

三角宅に集まり、依頼した原稿ができ上がるのを待っていたという。一作を書き上げると、すぐ次へ移る、

できた原稿は印刷所へ直行といったことの繰り返しで、だから締切りはあってないようなものだった。編集者の中には、

いく晩も三角宅に居続ける者も有り、その数は月の終わりが近づくにつれ増えてくるのだった。三角は、のちに次のように

書いている(『サンカ社会の研究』)。

 「私の作品は山窩に関する綺談・物語は二百数十篇、探偵捕物に関する実話百数十篇、毒婦妖婦

と称せられるもの、実話数十篇、併せて実に四百数十篇の多きに達する。」

 

 三角は太平洋戦争が始まる昭和十六年以降は、戦後も含めて、ほとんど小説を書いていないから、

これは十年ちょっとのあいだに発表された作品数だということになる。その膨大な作品群にえがかれた「山窩」なる集団が

、どのようなものであったかは『腕斬りお小夜』『山姫お美代』『山娘お千代』『山窩血笑記』『愛欲の瀬降』『揺れる山の灯』

などの題名から、おおよそは想像できるだろう。

ただし、これらの小説は、いわれるほど「猟奇的」でも「荒唐無稽」なばかりでもない、とわたしは思っている。が、実像には

ほど遠いことに変わりはなく、それが文藝春秋社の『オール読物號』とか講談社の『キング』といった巨大な発行部数を

もつ雑誌に毎月のように掲載された影響は、

七十年ほどだった今日まだ、なお消えていない。

 

 「三角寛といえば山窩小説、山窩小説といえば三角寛」の評言がちっとも大袈裟ではない

かつての流行作家が『サンカ社会の研究』を公刊したのは、戦後二十年ほどをへた昭和四十年のことである。

しかもそれは、先に触れたように学位論文を要約したものだった。ざっと四半世紀をはさんで、

山窩小説家からサンカ研究者への転身であった。その冒頭で三角は述べている。

 

前人未踏のサンカについては、尋念すべき文献は全くなく、ただ現存するセブリ生活者を求め

て、その実生活を探究し、その実態を知る以外に、研究の方法がなかった。しかもそれを、探究す

るには、危険の伴う事が多々であった。

参考になるような文献はIつとしてなく、もっぱら自分のフィールドワークによる成果だと揚言し

ているのである。研究は「昭和三年から同三十六年まで」三十三年間に及んだとも言っている。

写真や付表を含めて三百三十ページほどのこの著書は、サンカの生態と民俗について体系的、網羅

的に言及したサンカ研究の決定版ともいえる体裁をそなえていた。その記述は精密をきわめ、挙げられた数字は詳細に

すぎるほど詳細であった。

 

 『サンカ社会の研究』は、柳田國男(一八七五-一九六二年)の『「イタカ」及び「サンカ」、喜田貞吉(一八七一―

一九三九年)の『サンカ者名義考』、鷹野弥三郎(一八八六-一九四三年)の『山窩の生活』、後藤興善(一九〇〇-

一九八六年)の『又鬼と山窩』など先行研究者の著述とは、質量ともに比較にならないくらい内容豊で、彼らの業績が

児戯にひとしく感じられるほど壮大な構成になっていたのである。もし、ここに書かれたことが事実であったなら,

(本来、当然そうあるべきなのだが)、サンカ研究の少なくとも生態談に関しては、一応の終結を見ているとしてもよく、

あとには、その生態談を基にした系譜談が残されているだけといっても過言にはなるまい。 

しかし『サンカ社会の研究』は、そのごく一部を除いて、事実に基づく報告ではなかった。はっきり言えば、ほとんどが,

作り事であり、空想の所産であった。この立場からの三角寛批判、『サンカ社会の研究』否定論は、この本が出版されて

間もないころからすでにあり、それはいまもつづいている。純然たる研究書に多量の虚構が含まれているとなれば、

その書物は当然、書物としての生命を失っていておかしくないはずなのだが、じっさいには必ずしもそうはならなかった。

現に現代書館から復刻版が出て、なかなかの売れゆきだと伝えられているのである。

理由は二つほどありそうだ。まず、この本には、たとえ作り事が含まれているにしても、ほかの研究者たちが究明は,

しえなかったサンカ民俗が豊富に紹介されているらしいということがある。

それを支えているのが、迫力とリアリティーに満ちた六十全校の鮮明な写真である。

こんな資料は前例がないのみならず、今日もう、どんな徹底した調査をしてみても撮影も収集も不可能であろう。

同書へ強い疑念を表明している著作者たちでも、これらの写真を借用している例が少なくないのである。

もし写真がなかったとしたら、この著書がいまほど問題にされることはなかったに違いない。

もう一つは、三角が残した記述のあれこれについて「うそに違いない」とする指摘は少なくないの

だが、その根拠を具体的に示した人は、殆んどいなかったということがある。つまり、どの部分が事実で、どこが

フィクションなのかの腑分けがなされておらず、三角への思い入れが強い人たちには「批判には証拠がない」と、

いうことになりがちであり、「おおかたは本当のこと」との立場が可能だという事情があると思う。

 

私見では、『サンカ社会の研究』は、小説を書くような手法で吉かれている。それも綿密な取材を

必要とするタイプの小説だ。取材で得た膨大な知見を、いったんばらばらにして、自分がえがいた構想の各所に

はめ込んでいくやり方である。そこでは虚実がしがらみのようにからみ合い、一つの人格が複数の人物に投影され、

複数の人格が一人の人物に集約されたりしている。それは「論文小説」とでも名づけるべき、たぶんほかには全く類例の

ない不思議なジャンルの作品であった。だから、これが事実、これが虚構といったふるい分けには、もともとなじみにくい。

この書物の性格をうんぬんするには、三角がいつごろ、どこで、どんな人たちに接したのかを調べる方が本当のことを

見通しやすいのである。

                                 続く



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