アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の弐拾

2013年09月05日 | 近世の歴史の裏側

 

○三室勘助父子を闇討ち其の壱


この殺人事件は、後に舞台、映画、東海林太郎「赤城の子守唄」になる。

浅太郎は幼児勘太郎を負い、勘助の首を持って泣くなよしよしと、子守唄を

唄いながら赤城山に帰る名場面となるので、詳細に記載したい。

 

天保十三年九月十九日(旧暦では八月は秋である)夜、田部井村に賭場を

開いた。当然賭場を開くのは、八州役人の様子を見て、安全と思う時に

開くが、八州様はすでにこの情報を知っていて、道案内の三室の勘助を

先頭にして賭場を急襲した。賭場にはかならず見張りが居るから、

役人の手入れは直ぐさま賭場に知らされ、危機一発で忠治は日光の円蔵らと

決死の形相で捕手の刃を切りはらいながら、九死に一生を得て脱出したが、

この手入れでまたまた子分の多くを失った。落ち目になったというよりも、

取締りの関東取締出役の力が強大になってきたのである。

結局忠治らは逃げ去ったわけである。 当然賭場は内密に催されるが、

それが八州様に風が行ったのは、だれか仲間が通報したからだとした。

この不意討ちの手入れは、よほど忠治を口惜しがらせたようであった。

絶対役人に洩れるはずがないのに、虚を突いた手入れでもあった。

これは三室の勘助の密告に違いない。絶対の確信をもって行なわれたもの

であったから、恐らく誰か仲間に裏切り者がいて勘前に密告したと思った。

その時、有力な子分であった浅次郎(俗に板割浅太郎)がこの賭場に

いなかったことから、おそらく浅次郎が、当特恵治側の博徒であり

ながら、生活のために時に捕縄十手をあずかるという二足の草鞋を

履いていた三室の勘助に密告したと邪推した。三室の勘助は別に八寸の

勘助、一説には小斎(こざい)村の勘助ともいった。浅次郎の伯父に

あたっていたので、忠治としては、そのとき賭場に板割浅太郎がなく、

浅太郎は勘助の甥であったので、。叔父甥の間柄から、忠治は浅太郎が

襄切って風を送ったので、勘助が先頭になって手入れしたと思ったよう

である。そこですぐさま浅太郎は忠治に呼び出される。浅太郎は絶対に

風は送っていないと言ったが、忠治は承知しなかったのである。

裏切り者であるがら自分の手で成敗するといきり立った。これを見た

日光の円蔵が仲に入り、果して浅太郎が通謀したかどうかの証拠はない。

どうせ勘助が我々の敵として生かしておけないなら、我々の手によって

殺すよりも、浅次郎にやらせたがよいと思う。浅太郎がほんとに通謀

していないというなら、親分の命令にそむく訳はあるまいと、さすが

軍師の名にふさわしい妙案―(浅太郎にとっては肉親の伯父を殺すこと

はこの上ない残酷な命令であった)―を出した。忠治もこれを承知して、

浅太郎に身の潔白を立てるためには、伯父の首をとって、ここに特って

来いと命じたのである。

 

「このくだりが、芝居や映画によく出てくる板割浅太郎の伯父

               勘助殺しの名舞台になるのである。」


天保十三年九月八日

赤城山で首尾いかにと待っている忠治を後にして、浅太郎は山を下り、

検分役として二人、浅太郎の子分五名(赤城録には浅次郎の子分のみ

八名それは角、辰、牧、茂、吉、豊、久、卯という名をあげている)を

つれて夕刻に小斎村に向かった。小斎村は八寸村の小字である。

時に夜の十時頃勘助の家についた。勘助はそんなことが起ころうとは

夢にも知らず、酒に酔って、男の子に添寝して眠っていた。この子が

太郎吉という子であった。浅次郎は、寝ている伯父に槍をひねってその

胸元を突いた。驚いた勘助は飛びあがると、枕元にあった火鉢などを

投げつけた、一瞬行灯が消えて真っ暗になるが、しかし浅次郎の槍で

一突きされた勘助は、大勢の乾分たちにめった切りにされて即死し、

ともに寝ていた太郎吉も殺された。一緒にいだ妾女のお清は、傷を

負ったがたまげて逃げ去ったという。勘助と太郎吉もこれで

一巻のおわりであった。

                      つづく

 

板割

なを、文献により、太郎吉を勘太郎と言ったのは、勘助の息子の意味で

勘太郎と表現したもので、この様な例は他にもある。

 

板割の浅次郎

 もともと浅太郎は屋根屋職人で、むかしの町家は板葺きが多かった。

屋根屋職人は前の晩、適当な長さの栗の木の丸太の四隅を落すと、

あとはぽんぽんと鉈で割った。その手際は見事なもので、翌日使う分を

割るとお仕舞で、割り溜はしなかった。ところが浅太郎はやくざ者で、

板を割らずに槍の稽古ばかりしていて、槍を持たせると名人で、敵が

なかったという。やくざ者だったから自然忠治の仲間になったが、

槍遣いの名人として、仲間内でも頭株であったという。

 

 



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