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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『心的外傷と回復』 ジュディス・H・ハーマン(著) 2

2007年01月21日 | Book

             「陽光を受ける山茶花」


『心的外傷と回復』 ジュディス・H・ハーマン(著) 1 からの続き


切り離された記憶

ハーマンによれば、人は危険に遭遇すると、意識がその状況に注意を集中させ、飢えや渇きや痛みさえも無視し、最後には怒りによって状況に立ち向かうか、怖れによってその場から逃げようとする。これが脅威に対する人の正常な反応である。

心的外傷の特徴は、著者によれば、このような正常な反応ができなくなることにある。すなわち、状況に立ち向かうことも逃げることも不可能になるような過酷な状況である(例えば、暴行魔に監禁されたり、戦場に放り込まれたり)。そこでは、怒りや恐怖という感情を感じることも人は不可能になります(p.47-8)。

ジャネはヒステリー患者を診た際に、心的外傷のこのような特徴を、患者たちが自分を圧倒した事件の記憶を意識に統合する能力を失うこととみなしました。ジャネは催眠術により、この「外傷的記憶」が通常の意識から切り離されて「一種の異常状態において保存される」ことを発見します。そこでは、「記憶と知識と感情との正常な結びつきが切り離されて」いるのです。ヒステリー患者と同じ症状は、世界大戦により後の医師が兵士たちの間に見出すことになります(p.48)。

本来であれば危険に対して相応しい感情を感じるべきところが、状況の過酷さゆえに怒りや怖れなどの感情を感じて行動できなかった場合、本来感じるべきであった感情が記憶とともに意識の深層に押し込まれ、本人の制御がまったく効かないようになります。

その非制御の例の一つが、脅威が去った場合でもつねに危険に備えてしまう「過覚醒hyperrarousal」です。第二次世界大戦で心的外傷を被ったある兵士は、当時の医師によれば、「不安という緊急心理反応と心理的準備性とは重なり、挿間的でなく、ほとんど持続的なものとなっている。(中略)この兵士がたまたまストレス的な環境から転勤させられると若干の時間を置いてからその主観的不安は退きはじめる。しかし生理学的な現象は持続し、安全を保障された人生に対する不適応性を露呈する」ようになります。それゆえ患者は普通の人のように警戒とリラックスの状態とのバランスをとることができず、身体がつねに危険を警戒している状態になります。このことが、不眠や音への過敏な反応につながります(p.50)。

また非制御の別の例は、外傷の記憶が自分の中で上手く整理できないことにあります。ハーマンは、ジャネによる通常の記憶と外傷性記憶との次の区別を引用しています。

「〔正常な記憶は〕あらゆる生理的現象と同じく、一つの行動である。本質的にそれはストーリーを語るという行為である。(中略)ある状況をきれいに清算するには、運動という外向けの反応だけではいけないのであって、内的反応も必要であり、われわれが自問自答する言葉を介し、事件を自分と自分以外の人々に語って聞かせられるような物語recitalに組み立て、この物語をわれわれ個人の歴史の一章という座を与えて初めて清算できるのである。(中略)したがって厳密に言えば、事件の固定観念を抱えている人は「記憶」を持っているということはできない。(中略)それを「外傷性記憶」などというのは便宜上のことにすぎない」(“Psychological Healing”1919)。

言葉によって介すこともできず、他人に説明もできない記憶とは、ハーマンによれば、「生々しい感覚とイメージとの形で刻みつけられ」ており、「消去不能」になっている。そのような記憶は言語によって語ることができない断片化された感覚であり、「前後関係」を説明することもできない(p.54)。

著者によれば、このような記憶のあり方は、幼少期の体験を人が記憶することと似ているという(それだけ無力・無防備な状態にあるということか?)。外傷の記憶は、主体の能動的な語りによる加工を受け付けないため、断片的でありながら生々しい直接性を帯びている。受けた現実をそのまま覚え、その記憶が変更されることはありません。それは夢に現れる場合でも同じです(p.55)。

フロイトによって命名されたあの有名な「反復強迫」という事態が、このような症状に該当します。患者たちが望むと望まぬとに関わらず、患者たちはその記憶に突如襲われ、またしたくもない行動を繰り返し行なうようになります(自傷行為など)(p.57-59)。

ハーマンによれば、ジャネは、心的外傷は患者の心にある「孤立無援感」に由来しており、それを回復するためには「自分には力があり役に立っているのだという、力と有用性との感覚」を患者自身が持つ必要があると認識していたそうです(p.59)。

またジャネは、このように外傷の記憶が現在の意識に「侵入intrusion」してくるのは、ストーリー・“あらすじ”としての自分史の中に上手く位置づけることができない外傷的出来事を、なんとか納得して理解し、そうすることで患者はなんとか外界に適応しようと努力し続けるからだと説明します(p.60)。

自分で制御できない記憶が現在の自分の意識を支配するもう一つの例が、「解離」です。「解離」は、意識が外傷的出来事をうまく納得して自分史に位置づけることができないため、その出来事に対して主体的に関わることを完全に放棄するために起こる心的状態です。

出来事を意味づけ理解することが放棄されたため、そこでは知覚は鈍くなるか歪み、聴覚など身体の一部の感覚が麻痺したりします。またそれに伴い、「無関係感」「感情的超然(第三者感)感」「イニシアティヴの喪失」「離人症」「現実感喪失」「時間感覚の変化」などが起こります(p.62)。

このような意識の「狭窄constriction」は、患者のその後の人生の行動を文字通り狭め、危険に出会わないように積極的な行為を行なわせなくします。


外傷は直接的暴力ではなく信念体系の破壊により引き起こされる

心的外傷は、まさに身体への直接的な暴力によって引き起こされますが、それが心的外傷を引き起こす理由は、その暴力によって患者自身が持っていた信念・価値観・自尊心・基本的信頼などが根底から覆されることにあります。どれほど肉体への暴力が苛烈であっても、そこで引き起こされるのはあくまで「心的」外傷です。

例えばそのことは、戦争において暴力を受けたものだけではなく、まさに暴力を行なった者自身が心的外傷に苛まれることにも表れています。ハーマンによれば、戦争が兵士たちに心的外傷を引き起こすのは、残虐行為に関わってしまったときに顕著になります。例え自分が暴力を加える側であろうと、それにより法・正義・公平などへの信念が崩壊し、自分自身が「無意味な悪業」に関与したと意識することが、その人に心的外傷を残します(p.78)。

(参考:「加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』 中井久夫(著) 1」

心的外傷が、暴力の直接的な影響以上に、信念体系の崩壊に由来することは、自分自身が暴力を受けた際でも、それが心的外傷につながるのは、そのような暴力に屈したことへの罪悪感・劣等感に由来するのです。このことは、人が通常の意識を持続させるには、「自分は有能である」という意識を持つことがいかに大事かを示しています。「自分は有能である」という信念を破壊されと、自分は被害者であり責任は100%加害者にあるにもかかわらず、状況に抵抗できなかった自分に責任があると考えるようになります。

心的外傷が暴力の直接的な影響以上に信念体系の崩壊に由来する別の例として、ハーマンは「外傷的事件そのものに重要な人間関係に対する裏切りの意味がある」場合を挙げています。例えばある兵士の例によれば、乗艦が撃沈された際に、安全な救命艇に乗っていた将校たちだけが先に救い上げられ、乗組員は6、7時間も水中で筏にしがみつかまされたことが(その間に何人かの乗組員は死に至っていた)、兵士の心的外傷記憶として残ってしまったとのことです。

この出来事により患者は、自分が祖国にとって消耗品に過ぎないことを知ります。患者にとっては、敵の攻撃よりも、また冷たい海水に浸ることによる身体への打撃よりも、死の恐怖よりも、また同じ水兵の死よりも、救助側が将校だけを救い上げ患者の命を尊重しなかったという事実・認識が、彼の中に心的外傷を残したのです。これにより患者の共同体への信仰は破壊されました(p.82)。


加害者の“正常性”という武器が被害者の中に心的外傷を残す

心的外傷が単に直接的な身体的暴力によって引き起こされるわけではないことと密接に関連していますが、心的外傷を起こす事例に共通しているのは、加害者側が巧妙に“マジョリティ”という権威を身につけている点です。

ハーマンによれば心的外傷の加害者は、「権威的で、秘密主義的で、時には誇大的で、あるいは偏執狂的であろうが、しかもなお、権力の実際と社会的規範とに対してきわめてよいセンスを持っている。法に触れそうになることはめったにない。彼は自分の暴君的行動が許容され、看過され、時には讃嘆されるような状況を選ぶ。彼の振舞い方は実に良いカモフラージュとなる。このようにまともにみえる男が大それた犯罪をおかすことがありうると思う人はほとんどいない」(p.113)。

ここでのハーマンの記述は夫婦間暴力の事例を指していますが、加害者が「権力の実際(practice?)と社会的規範とに対してきわめてよいセンスを持つ」という点では、児童虐待・政治犯への体制側による拷問・戦闘神経症を患った兵士に対する軍事当局の処分、さらには職場において被雇用者を追い詰める管理者や同僚、また教室でいじめを行ういじめっ子などにも当て嵌まるでしょう。

上で、心的外傷が引き起こされるのは、被害者がもっていた正義や公正などへの信念体系・価値観が崩れるときだと述べました。それに重ね合わせると、正義や公正さなどの信念体系は、まさにその正義や公正さを体現すべき“強者”がその信念体系を(被害者にとって)裏切り、また裏切っているにもかかわらず外面的には依然として“正しい”のは強者のままで、被害者は自分が“間違っている”と思わされてしまうのです。

自分の中で、正義や公正さへの信頼が強者によって裏切られたという思いと、同時に悪いのは自分であるという相矛盾する想いに被害者は引き裂かれることになります。

このような心理的支配は、根本的には相手の意思を踏みにじりながら、規則を定め細かな許可を加害者が被害者に与えることにより、完全となります。例えば家庭内で監禁されている妻や囚人となった政治犯は、劣悪な環境に置かれながら、そこでわずかながらでも排泄・食事などの“許可”を加害者に与えられることにより、加害者に感謝の情をもってしまうようになります(p.116)。いじめなどの場面で、つねに意思を踏みにじられながら、被害者は加害者と一緒にいるよう強制され、たまには一緒に笑うことも許可されることで、いじめられっ子はいじめっ子により服従します。このことは、ドメスティック・ヴァイオレンスで殴打を受けた女性が、「悪いのは自分であり、夫は悪くない」と証言することにも表れています。

このような加害者と被害者との感情的結びつきは、加害者が被害者の行動をコントロールし、被害者が加害者とコミュニケートする手段が失われることで完全になります。被害者は自分を劣悪な環境に置いた加害者自身としか人的関係を持たず、また僅かな慰め(食事や優しい言葉)をもらうことで、加害者に依存するようになります。ハーマンは加害者と被害者とのこの“奇妙”なかん軽を次のよう述べます。

「全体主義政府は被害者に服従の表明と政治的改心を求める。奴隷主は奴隷に感謝を求める。宗教的カルトはリーダーの神的意志への屈従のしるしとして儀式化された犠牲奉献を求める。家庭内暴力の加害者は被害者が自分との関係以外の人間関係一切を絶つことによって完全な服従と忠誠とを証することを求める。性犯罪者は被害者が屈従の中で性的満足を覚えることを求める」(p.114)。


大切なのは復讐ではなく、パワーを取り戻させること

「心的外傷」を被っている患者は、これまで見てきたように、「体制」「親」「保護者」「権威」「上司」といった人たちに傷つけられ、裏切られたことに強いショックを受けている。また、これら「強者」によって裏切られ攻撃されたからこそ、その心的外傷は根深いと言えます。

「心的外傷」のことを一般的な「悩み」という言葉で片付けることができないのは、このような権威との根深い葛藤がそこに表れているからです(もっとも「心の悩み」は多かれ少なかれ、親などの権威との葛藤が関係しているかもしれません)。

このような「強者」「保護者」に対する問題を抱えているがゆえに、心的外傷患者との治療関係は治療者にとって独特の問題を伴います。

治療者-患者という関係は、患者は最初から自分の弱みを相手にケアしてもらおうとしているのですから、最初から弱点をさらしています。それゆえ治療者は、相手の弱みを最初から握った立場で患者と付き合わなければなりません。

ある心理トレーナーは、すべての人間関係は競争をしていると言います。私たちは多かれ少なかれ、すでによく知っている人から未知の人まで、出会う人すべてに対して心理的優位に立とうとします。そのような人間の本性に近い傾向を、治療者は患者に対して行使しない節度が求められます。ハーマンは次のようなことが治療者に求められると述べます。

「患者は援助とケアとを求めて治療を始める。この事実のために、患者は治療者が上位にあり権力を持つという不平等な関係に身を委ねるのである。…治療者は力を乱用しようといういかなる誘惑にも抵抗して、自分に与えられた力をただ患者の回復を育てるためにのみ行使する責任がある。この誓約は、治療関係の健全性の中心課題であるが、すでに他者の恣意的・搾取的な権力行使の結果によって苦しんでいる患者の場合には特に大切である」(p.208)。

力の不平等さゆえに苦しんでいる患者に対して治療者は、患者を苦しめた外傷関係とは異なる人間関係によって患者を癒さなければなりません。しかも、すでに自分が心理的優位にある治療者-患者関係という困難な場において。ハーマンは、外傷体験によって粉砕されてしまった患者の人間関係に対する信念とは、「強制よりも説得のほうが、物理的な力よりも新しいアイデアのほうが、権威的なコントロールよりも互酬的な関係のほうが価値も効力も高い」であり、治療関係において患者に取り戻さなければならないのも、このような人間関係が本当は実現しうるという信念であるといいます(p.210)。

心的外傷患者が奪われたのは能動的に行為する力です。その体験が苛烈であればあるほど、治療者は患者の悲劇に巻き込まれ、時には弱った患者をまさに加害者と同じように攻撃してしまい、あるいは怒りに駆られた患者の悲劇性に圧倒され患者から叱責され続け、時には患者と一緒になって加害者に対して怒るなど、転移的関係に巻き込まれます。

しかし、「弱者」「患者」として存在する患者を攻撃するのはもちろん、悲劇の「被害者」として患者が加害者や傍観者である第三者(治療者も含まれる)に対して怒りを表現しても、治療者までその怒りに同調してしまっては、患者を「被害者」という立場から救い出すことはできません。治療者がすべきことは、患者の復讐の願いを満たすことではなく、患者が奪われた能動的な力を取り戻すことにあります。治療者が患者に対して示す非難も同情も、患者が「被害者」として振舞うように促す限りでは、彼or彼女に力を取り戻させることになりません。

『心的外傷と回復』 ジュディス・H・ハーマン(著) 3 に続く)



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