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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『心的外傷と回復』 ジュディス・H・ハーマン(著) 3

2007年01月21日 | Book

             「山茶花、紅葉、緑葉」


『心的外傷と回復』 ジュディス・H・ハーマン(著) 2 からの続き

外傷性記憶を“ストーリー”に組み込み、新しい人生観を見出す

上で述べたように、外傷的出来事は“切り離された記憶”であり、それは意識に統合されていないからこそ、個人の言動の一貫性を損なう異質物として意識に侵入し個人を支配します。治療においては、この外傷の記憶にできるだけ近づいていくことが必要になります。

精神分析は元々過去の“隠された”記憶を辿る作業ですが、外傷性記憶は、それが他者による“搾取”という体験にフォーカスしているところに特徴があります。それはつねに、自分より強者である保護者・配偶者・政治家・不良グループなどによって自分の意思・期待が打ち砕かれた経験の記憶です。それにより患者は“保護されている”という感覚・外界に対する基本的信頼感を著しく失い、自分の意思で行動する能動性を奪われています。心的外傷の治療では、このような自己自身と外界への信頼を不可能ならしめた出来事の記憶にもう一度接近します。

この記憶への再接近は、自分の信頼感が打ち砕かれたという悲劇に対する感情を、それがあまりにも激しいがゆえに、もう一度再体験する必要があります。重要なのは出来事を単に語ることではなく、外傷的体験において自分の中で湧き起こり、それがあまりにも激烈であったために意識から解離させてしまった感情を、語りの中で再体験することです(p.277)。

外傷をストーリーとして再構成する作業は、その人の価値観の根本的な再編成を促します。患者は、外傷が破壊するまで持っていた価値観・人生観は、外傷の加害者が自分に行った悪の前では無意味であることを悟ります。その中で患者は、自分が経験している苦しみをも説明する人生観・価値観を見つけ出す必要に迫られます(p.278)。

このような困難な作業に付き合う治療者には、当然に社会で通用しているありきたりな価値観・人生観から自分を引き剥がすだけの客観性が求められます。治療者自身がどういう価値観をもつかは重要ではありません。そうではなく、少なくとも、既成の価値観では自分の受けた悲劇を説明できない患者が新しい人生観を見つけ出す作業に付き合うには、治療者自身も同じように既成の価値観を超える新しい価値観・人生観を人間は見つけ出すことができる(=それによってのみ、心的外傷は治癒しうる)という信念を共有する必要があります(p.279)。ハーマンは次のように治療者にアドバイスします。すなわち「治療者はまた、生存者の価値と威厳とを肯定するような、外傷体験の新たな解釈を構築する助けをしなければならない」(p.289)。

ハーマンは、この記憶の再構成の作業は、決して簡単に為されるものではなく、短期間で達成できると考えること(入院して行う「パッケージ・プログラム」など)を戒めています。また被害者によっては、その外傷の記憶を持ち続けることに意味を見出す患者(戦争詩人など)もいます。彼女は外傷性記憶の再構成作業を次のように描写しています。

「この作業の難所は記憶喪失というバリヤーの向こう側にわだかまっている戦慄恐怖horrorと面と向かって対決することであり、この体験を人生のストーリーの語りを隠すところなく全面的にくりひろげてゆく中に統合することである。このゆっくりとしか進まず手抜きができずしばしば報われるところが少ないと感じられる過程は、むつかしいジグゾーパズルに似ている。初めに輪郭をまとめ、それから新たな断片的情報をさまざまな角度からためつすがめつして全体のどこかにはめればぴったりするかを考えるのである。百年前にフロイトが、やはりパズルを解くという同じイメージを使って幼年時代の性的外傷の蔽いを取る作業のことを述べている。この忍耐強い作業の報酬は何であろうか。それは、いくつかの断片をはめる場合が突然ぴたりとキマって絵の新しい部分が見えてくる瞬間で、これが時たま訪れるブレイクスルー(一点突破・全面展開)の瞬間である。
新しく記憶を取り戻すためのこのテクニックはこれ以上単純なものはないほど単純なものであって、要するに患者がすでに持っている記憶を慎重かつ周到に探索してゆくことである。大部分の時間はこのなんとも平凡で無味乾燥な方法をやっていさえすればよい。患者がすでに知っている事実の感情的な迫力を改めて全面的に体験する毎に新しく思い出すことが自然に現れてくるのが普通である」(p.288)。


復讐幻想を手放す

外傷の記憶を自分史のストーリーに組み込む過程が困難なのは、外傷の記憶を取り戻すことは、加害者への憎悪と復讐の念を思い出すことに由来します。平和な人生観・価値観をもてるとき、人は気分の状態も安定しますが、加害者への憎悪の念が消えないとき、その人生観は闘争と復讐の念によって構成され、精神状態が安定することはありません。

患者の加害者への復讐の念は、「自分は加害者には負けていない。今からでもあいつには勝てる」という競争心に由来します。外傷的出来事という「敗北」とそれに伴う悲しみの感情を受け入れるのが怖いとき、その悲しみの感情を避けるために人は怒り・憎しみという行為を選びます。“怒る”ことによって被害者は自分の自尊心を維持できるという幻想をもちます。しかし実際には著者によれば、復讐幻想は、心的外傷体験と同様に、意識への過覚醒と戦慄恐怖と侵入力とをもち、被害者の恐怖感を強め、自己イメージを卑しいものにします (p.295-6)。

ハーマンはこのような被害者の態度に対して、次のような態度変更が癒しには必要だと述べます。

「この場合には患者の服喪追悼の位置づけを変えて、みじめな屈従のしるしではなく勇気を証しする行為であるとすることが肝要である。患者が悲しめなければ、自分自身の一部とのつながりが切れ、自分の癒しの重要な部分が脱け落ちてしまう。悲しみも含めて、感情のすべての幅を感じ取る能力を取り戻すことこそ、加害者の意図に屈することでなくこれに抵抗する行為であると納得してもらわなければならない。ただ失った一つ一つを悼むことを通じてのみ、患者は不壊の内的生命をみつけることができる」(p.295)。

著者によれば、このような「感情のすべての幅を感じ取る」ことは、復讐幻想によってはもちろんのこと、“許す”という幻想によっても為しえません。ハーマンは、復讐幻想も許しの幻想も、それらは同様に“悪魔祓い”しようとする宗教的行為であり、それを無理に行おうとしても大部分の普通の人には達成できるものではないと述べます(p.297)。

著者が勧めることは、そのような一挙にすべてが解決するという幻想を捨て、自分の中の怒りと悲しみに直面し、復讐を成し遂げることは不可能であり、外傷的出来事は変更不可能な事実であり、それまで患者が握り締めていた“勝ち負け”の世界観から言えば「敗北」したことを認めることです。

この過程で患者は、復讐の幻想・許しの幻想の両方を手放し、事実を直視するようになります。その事実の認定により、加害者のなした悪への被害者による告発は行われるかもしれませんが、被害者はもはや、復讐や許しによって外傷的出来事を“悪魔祓い”をしたり加害者に勝ったりすれば自分は救われるはずだという幻想を手放します。

このように被害者が外傷的出来事の事実を直視する状態を、著者は次のように描写します。

「外傷の再構成には過去の体験に沈潜することが必要である。それは時間が凍りついて動かない体験である。服喪追悼の中への下降は尽きない涙になすすべなく溺れてしまうのではないかという感じがある。患者はしばしば、この辛い過程はいつまで続くのかとたずねるものである。この問いに決まった答えはない。ただ、この過程を避けて通ることはできないし、速めることもできないときっぱり言うしかない。患者がそうであってほしいと願うよりも長い時間であることはまずまちがいないが、永遠に続くわけでもない。
 何度も繰り返しているうちに外傷ストーリーを話してももはや強烈な感情がかき立てられなくなる瞬間が来る。それは生存者の体験の一部となったのである。それは体験の一部にすぎない。今や外傷物語は他の記憶と変わるところのない記憶となり、他の記憶が時とともに色あせてゆくように色あせはじめる。その生々しさがうすれはじめる。外傷が人生のストーリーの中で最も重要な部分でなく、最も興味のある部分でさえないようだということに生存者は気づく」(p.306)。


新しいアイデンティティ

心的外傷の記憶に直面することで癒しが上手く起こったとき、患者は、“心的外傷”は一種の社会的暴力だとうことが分かります。戦争・家庭内暴力・幼児虐待・政治犯への拷問という“心的外傷”の事例に共通するのは、加害者が一様に何らかの社会的権力を利用して被害者の基本的信頼感を打ち砕いたということができます。

“心的外傷”という概念をどこまで広く取るかは人によって違うかもしれませんが、私の印象では、少なくともハーマンは、何らかの社会的権力・社会的偏見が作用して被害者の基本的信頼感を打ち砕いた事例を心的外傷として認定したいのではないかと思います。

それは、例えば戦争であれば「男子は勇躍戦争に赴かねばならない」という通念であり、女性は「控え目で男性に従わねばならない」というジェンダー的規範です(p.315)。これらの例は訳者の中井久夫さんが挙げている例ですが、中井さんは他の例として「解雇申し渡しの声」や「医師の厳しい精神病申告」なども挙げています。これらも、働いていない成人への偏見(現在の「ニート」「ひきこもり」「フリーター」というレッテルによる攻撃もこれに含まれる)が、患者の保護感覚を打ち砕き、余計に患者が能動的に行動することを妨げる原因となります(「ひきこもり」においては、「ひきこもる」原因以上に、いったん引きこもった後に当人が被害念慮に苛まれることの方が「ひきこもり」が長期化する要因となります)。

上に述べたように、心的外傷を被った人が回復する過程では、心的外傷の原因の一つである従来の価値観・人生観=思い込みを超える新たな価値観を見出す必要があります。従来の価値観・人生観がもはや外傷的出来事によって実現を阻止されたがゆえに、そのような外傷的出来事ですら妨害し得ない肯定的な人生観を被害者は発見していきます。この新しい価値観の創造は旧来のアイデンティティを捨てることによって起こると著者は述べます。

「自己自身の持ち主となるためにはしばしば外傷によって押しつけられた自己の一部分を排除する必要が起こる。生存者が<犠牲者である>というアイデンティティ(自己規定)を捨てるにつれて、これまでおおよそ自分の持ち前であると思ってきた自己の一部を放棄することを選ぶようになっても不思議ではない(p.320)。

旧来の価値観(例えば、「女は男に負けている」)と外傷体験による敗北感を克服する過程で、患者は、例えば女性は劣っているという価値観を放棄し、男性と女性は平等であり、自分は卑屈になる必要も(同時に傲慢になる必要も)ないということを患者は悟ります。そこから、外傷体験以前のように、男性に媚びをうったり、縮こまったりすることがないようになることがあります。あるいは戦争神経症の患者であれば、体制側の「男性は勇躍戦場に赴くべし」という考えが社会のマスキュリティに対する偏見であり、また戦争の現実は勇気やロマンが通用しないものであり、戦争の現実をより広く社会に広めるという役割を担うこともあります。

「この時期を通じて生存者は前よりも大胆に世間に出てゆくようになるが、同時に人生は前よりもあたりまえになる。自分自身と再結合するにつれて、生存者の感じ方は穏やかになり、平生心を以て人生に対することができるようになる」(p.321)。

このとき生存者は、外傷体験それ自体はマイナスが大きくとも、それにより旧来の狭い価値観に囚われない物の見方を自分が身につけていることに気づきます。

「この地点に達すると、生存者は時には、自己のうち外傷体験の中で形成された面の中にも積極的な(プラスの)面をみつけられるようになる。なるほど得たものよりも支払った代価のほうがはるかに大きかったけれども――。現在の生活力が増大したという地点から振り返れば、外傷的な状態における自らの無力性をいっそう透徹して認識するようになり、そうなれば適応に対する自分の潜在能力を前よりも高く評価するようになる」(p.322)。

「回復のこの段階においては、生存者はしばしばプライドが新しく生れ直した感じを持つ。この健康な自己讃嘆は時に被害者たちにみられる、自分は特別だという誇大的な感覚とは別ものである。被害者の特別感は自己嫌悪と無価値感との埋め合わせである。…被害者というものの特別感には自分は他の人々と別ものであり他の人々から孤立しているという感じが付きものである。これとは正反対に、生存者というものは自分の限界、自分の弱さ、自分の平凡さを余すところなく自覚している。しかしまた、自分は他の人々につながり、他の人々のおかげを受けていることを自覚している」(p.323)。


giving is receiving

このように新しい価値観・アイデンティティを獲得した生存者は、もはや外傷体験の意識への侵入には(完全ではなくとも)支配されません。むしろ生存者は、外傷を受けたことの意味を考え、外傷的出来事に対して主体的に関わろうとする人もいます。

ハーマンによれば、心的外傷の生存者の一部は、自らの悲劇を個人的な体験に終わらさず、旧来の価値観が持つ弊害を認識した者として、積極的に社会変革のために行動するようになります。それは、実際そうした行動が社会の改善に役立つからでもあり、またそうすることで生存者が自身をより癒すことにもつながるからです。

「社会的行動は生存者に力の源泉を与えてくれる。それは生存者の持ち前の能力の何倍もに拡大してくれる。それは協力と共通の目的とにもとづいた他者との同盟を与えてくれる。求められるところの大きい組織的な社会行動に参加することは、生存者にそのもっとも成熟性と適応性の高い方略すなわち忍耐、先取り、愛他性、ユーモアを要求する。それは生存者の内なる最良のものを外に出す。それを代価として、生存者は自分以外の人々の最良の部分と結びついているという感覚を獲得する(p.329)。

このような社会行動は、自分と同様の被害者への救援活動や、加害者を法廷へ引き出そうとする試みなど様々です(p.330)。

これらの活動を通じて、生存者は外傷的出来事を公衆の面前で語ります。それは同じような被害者を助けるためであり、かつて孤立無援感に陥っていた生存者自身が、そのように同じ被害者との協同を呼びかけることで、他者との結びつきを再確認する機会ともなります。

「他者に与えるのが生存者使命の本質であるが、それを実践している者は、そうするのは自分の治療のためであることを認識している。自分以外の人々のケアをしている時、生存者は自分が認められ、愛され、ケアされていると感じる」(p.331)。



これらが、この400頁近い本の中で、外傷から回復へと至るプロセスの(中で私の目を惹いた)大まかな特徴です。

読んでいて思ったのは、同様の指摘はすでに多いのでしょうが、“心的外傷”のメルクマールをはっきりさせるのは困難だろうということ。

ハーマンが挙げる「過覚醒」「侵入」「狭窄」にしても、たしかに戦闘神経症や性的虐待といった極限的事例ではその症状の度合いは大きくなるのでしょうが、そこまで悲劇的な事例ではなくとも、多くの人がこれらの症状には悩まされるものだという気もします。まさにフロイトが発見したように、すべての人が無意識の統制を受けているのだとすれば、これらの「過覚醒」「侵入」「狭窄」といった症状は誰もが持っているものです。

またハーマン自身が述べているように、心的外傷は直接的な暴力自体よりも、それによって自分が保護者・強者に裏切られ、社会的公正さや正義への信頼が揺らぐことに由来します。しかしこのような“裏切られ”の体験も、誰もが心の深層にもっているものです。中井久夫さんが「解雇勧告」を心的外傷の引き金の例としてあげているように、暴力を取り上げなくとも、“心的外傷”は日常に溢れていると言えますし、それだけ範囲が曖昧な概念だとも言えます。

ただ私自身は、これは“心的外傷”という概念の欠点ではなく、むしろ私たちの日常生活にはいかに“心的外傷”という“症状”を引き起こす危険が溢れているのかを、この概念は教えてくれているのだと思います。

「私は問題ない」と多くの人が言う中で、“正常性”という観念が失業者・無業者・低所得者を悲嘆の世界に追いやり、ジェンダーの規範が男女両方に狭い考え方を強い、それらの規範から外れたり、それらの規範を利用されて暴力の被害を受けるとき、心的外傷は発生します。

実際、ヨーロッパ各国で見られる移民失業者の暴動や、アメリカにおける貧困地域の犯罪、中国における暴動と政府による抑圧、そして日本における中高年者の自殺といじめによる自殺は、心的外傷に含まれるだろうし、それだけ心的外傷は私たちの日常に溢れているのだと言えます。

この本は、症状の専門的な記述という点では専門家には物足りないのではと思います。その感覚的で患者の心理を追う立場は、医療者というよりはお世話する隣人という趣きです。

しかしそれはむしろ、この本が、それだけ患者の置かれた意識の地平まで著者が降りていることの証しでもあります。その記述がどれだけ一般的の域を超えなくとも、それは逆にハーマンが、お薬や特殊な療法によって心的外傷は一挙に癒されることはなく、それはフロイトやジャネが発見したように、「お話し治療」として根気強く治療者が関わることによって癒されるものだからです。


心的外傷と回復

みすず書房

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