エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

他我問題

2008-04-12 | ちょっと考えた事
前回の「俺の思考パターン」という記事を書いているときに考えが及んだもうひとつのこと。

これも、発端はDONTAKTさん経由で

思考速度が遅い理由(遥か彼方の彼方から)

思考についての思考についての思考(ぺったんぺったん)

の両記事を読んで、その時になんとなく思ったことです。

上記の両記事では「自分と同じクオリアを他人も感じているのか?」という「他我問題」に近い、それと似たような部分にまで話が及んでましたね。他人も自分と同じような思考をしているのか?という。
確かに、この手の話題はそういう部分を含みますし、自然とそこにも考えが及ぶところだと思います。

ただ、この手の問題は、たとえ自分と他人で、それぞれに本当は違う世界を見ていようとも、そしてそれを確かめる術がなかろうとも、それは互いにコミュニケーションをとる上ではまったくの無問題であって、コミュニケーションは普通にそのまま成立してしまうので、確かめる必要がそもそも無い。ということで、決着で良いんじゃないかな?と、俺は思ってます。

他人が何を見て・何を感じているのかを、そのまま体験することは不可能ですが、「クオリア」等において「他我問題」が問題となるのは、それによって「障害が発生しない」からこそですからね。
たとえば、同じりんごを見て、お互いに「赤いりんごだ」と言うように。この場合、実際に目にして感じている色そのものが違っていたとしても、それは表面には現れないし、それによって障害も発生しない。
もしここで、コミュニケーションに食い違いが生じ障害が発生したのならば、逆にそれによって差異を発見できるけれど、そうなると逆に「他我問題」なんかは、そもそも問題にすらならない訳で・・・・だから、支障が無いからこそ放っておくのが一番。深入りすると迷路に迷い込むだけ。ってところでしょうかね。

だから、結局は「答えを出す必要は無い」で決着で良いと、俺は思うんですけど、こういう役に立たない(リアル等において、実際に生きていくうえで何か必要になるか?という意味では、特には役に立たないという意味)事ほど、いろいろ真剣に考えてみると、楽しかったりするんですよね。