エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

人間失格 3

2009-07-14 | てきとうなもの・雑記

こちらのブログ、体調面でのトラブル(ヘルニア)等諸々の事情があり、中途半端なまま長期放置状態でしたが、やっぱりきちんと締めておかないと・・・と思いました。

「人間失格」というタイトルを付けて書き出したのは、結局、大多数の人間がごく普通にこれが幸せだと感じられる事柄、それがもう当たり前であるというのがごく普通の感覚であるという、そういう感覚・・・それを俺が当たり前のものとして受け入れられない。どうしてもそううやって感じられない。そういうのがそもそもの出発点でした。
それが当然で在るように話を振られると・・・・それが上司や先輩であれば、本心は違っても合わせるしかない。仲の良い友人でも、よほど腹を割って話せる相手じゃないとこの本心は伝えられない。なぜなら、こういう話をして良い気分になるなる人、同意する人は殆どいませんし、みんな結婚して子供ができるのが、揺るがない幸せの形の一つであるという価値観を当然として持っていますから。
だから、実生活での円滑な人間関係の構築を考えて行動する場合、この話はとても人を選ぶことになります。そして話したからと言って、損をすることは在っても得することはまず無い話です。
むしろ「おまえ、おかしいんじゃない?」と言われるか、言われないまでもそう思われておしまいです。
言いたくても言えない、子供が出来たと幸せそうにしている友人・知人を心からお祝いしてあげたいけど・・いや「祝う」という部分では本心だけど、ただ少しも「うらやましい」とは思えない自分。そんな自分には「人間失格」がピッタリだろうと思ったのです。

太宰治も、その著作人間失格の中で、なんか似たような事言ってた気がします。
みんなが幸せと感じることをそう感じられないとかなんとか。
今回の件に関しては、本当にそうなんです。
なので、匿名性の高いブログというこの場で、俺の偽らざる本心を少しだけ暴露してみた・・・というのが、この一連の記事でした。

一番辛いのは、結婚したら子供というが、もう決まり切った当たり前の事として言われること。
「れで幸せを感じるのは自由。でも価値観を俺にも当然のこととして押しつけないで欲しい」
これが、正に俺の本心なのです。そう思う人間が居ると言うことを言いたかったというか、そういう価値観もあるということを言っておきたかったというか。

でも、そういう俺だけど一番許せないのが子供を産んでおいて放置したり、自分の赤子を虐待したり、最悪はそのまま死なせてしまったりする親。
たまにニュースにありますね。児童虐待とかパチンコ中車に放置したりだとか、赤ちゃんポストだとか捨て子だとか。
これって、人間として本当に最低の行為で正に屑。こういう人間って本当に許せないです。
俺は確かに、将来的に子供を作って家庭を築くと言うことに夢や幻想を抱いていません。でも、だからこそ、そう言う人間だからこそ俺は将来的にも自分では子供を作る気ではないと自分自身感じています。結婚相手も当然それを受け入れてくれるというのがまず第一条件です。
やっぱり、子供を作り、親として育てていくということは、本当に本心からそれを望む人じゃなければやってはいけないことだと思うんです。中途半端な覚悟なんかで子供を産むべきでは無い。
これは、生んでしまえば、もう責任放棄は許されない事なのだから・・・・

俺は「小さな幸せ」とか、結構そういうの好きなんですよ。実は。
なにげに当たり前に生きているけど、こうして平和に日々を過ごせると言うだけで、実はものすごく幸せなことで、それを忘れちゃいけないとは常々思ってます。
家族愛を描いた映画とかドラマなんかも、見てる分には好きです。
幸せそうにしている家族も、傍目から見てていいな~とは思います。
ただ、俺の場合の「いいな~」は、あくまで第3者視点というか、「羨ましさ」という感情の入らない「いいな~」というか。
要するに、幸せそうな他人の幸せなストーリーは好きなんですよ。子供が好きだという人はそれで良いと思うんです。そして、すごく幸せになってください。
ただ、そう言う人はほぼ例外なく俺にもその価値観を押しつけようとするという、その点だけが残念なんです。
「子供はいいよ~」「作れば絶対に可愛いから」「可愛くてしかたかいから」
だから・・・・俺に押しつけないで。

いや・・・きっと押しつけてる訳じゃないんですよね。
自分が幸せだから、それを味わって欲しいという親切心とういか、単純な真心からの発言かもしれない・・・・いや、きっとそうでしょう。
それがもう、当たり前の価値観としてもっていて、あまりにも当たり前すぎて普遍的すぎる価値観だからこそ、まさか相手がそれと反する価値観をもっているとは、そもそも思えないということかもしれない。
多分・・・いや、きっとそう言うことなんだと思う。

なぜ俺は、そのごく当たり前の幸せの価値観を持てなかったのかなあ。
その点に関してだけ言えば。やっぱり俺の方が「人間失格」ってことなんですよね。
だから、子供は作らない。それを理解してくれる人と一緒になり、俺なりの人生を築いていく。
そうすれば、人間失格ながらも誰にも迷惑は掛けない。
これが、俺なりの今の答えです。
この部分だけは、本心に従わなければなりません。既に言ったとおり、本当に本心から子供が欲しい訳じゃないのに子供を作ったら、必ずどこかにほころびが生じて、そしてその被害を一番に被るのが、何の罪もないその子供なのだから。
だから、「世間がこうだから」「それが一般的だから」「それがあたりまえだから」という理由で、自分に嘘をついて子供を作ったりなんかしたらいけない。
本当に本心から子供が欲しいと思う人にしか、親になる権利は無いと俺は思います。

俺が言いたかったことは以上です。
そして、この「エッセイ的な何か」はこの記事を持って締めです。
過去に書いた記事も含め、残しておこうとは思ってますが、記事はこれが最後。
やっぱり、最後はスッキリとさせないと。ですからね(笑)
と言うことで、読んでくださった方には本当に感謝です。ありがとうございました。

※コメントは過去記事共々常時募集中ですので、もし俺の記事への意見・感想などが在ればどんどん気軽に描き込んでおいてください。出来る限り、返信はしたいと思っています。
※「エッセイ的な何か」は本当にこれで終了ですが、その代わり・・・では無いですが、別な駄文ブログを立ち上げる予定です。そもそも本来このブログを立ち上げた目的に近い。「北へ。」ブログの北海道以外の事をなんか書きたい時のブログ的なものを。このブログはなんか、途中から路線が違ってきましたから(笑)
ちょっとこのブログはあれこれと、負担になってた部分も実はあったりしたので、もっと気軽な、更新時期も本当に不定期で長期放置上等!な(笑)、もっと「ゆる~い」感じの、書きたいことを気ままに書くというスタンスのブログを新規に作りたいなあと感じてます。
そちらは出来たら、ここか、「北へ。」ブログの方で紹介したいと思います。


人間失格 2

2009-02-26 | てきとうなもの・雑記

前回は子供が出来ることが嬉しいという感覚が理解できないという事を書きましたが、今回は結婚式や披露宴・・・そもそも結婚が、いや付き合うと言うことも含めて、それが嬉しいという感覚が理解出来ないと言う話。
いや、そういうと語弊があります。
付き合う事や結婚することが嬉しいと言うこと自体は分かりますが、なんというか「結婚」や「付き合う」という形式、カタチ、そういうものに違和感を感じるというか、そういう話です。

俺が物事を判断する価値基準として、カタチよりも中身。装飾じゃなくて物事の本質、と言うところに拘る癖があるなあと、自分自身をそのように分析しています。
「なんの為にそれをするのか」「なぜそれが必要なのか」俺は物事を判断する上で、まずそこを考えます。
本質からずれた所ばかり肥大して、周りの装飾ばかりが大きくなって・・・そういうのを見ると、なにかしらの違和感を感じるんですよね。そうして、何故だろう?と考えていくと、「本来はこうなんじゃないの?」という自分なりの解答にたどり着くわけですが・・・結婚や、付き合うと言ったことも俺にしてみればそういうものの一つだったりします。

恋愛感情自体は分かりますし、俺にも(おそらく)普通の恋愛感情はあります。
人を好きなることもありますし、その気持ちはよく分かります。
結婚することや付き合うことが嬉しいという気持ちは、そういう意味では分かります。
ただ、それに違和感を感じるのは、簡単に言うと「付き合うとか結婚とか、そういう形式に拘る必要は無いんじゃないか?」と言うことになるんですよね。何のために付き合うとか結婚とかのカタチが必要のなの?と。
恋愛感情を抱いたとき、その目的というか、どうなりたいかというところは、結局は相手に自分の思いが届いて、相手に受け入れてもらって、そして相手からも想われたい。
つまりは、相思相愛。両想いになりたい。という、そこだと思うんです。
で、俺はそれこそが恋愛のキモであって、そして俺からすればそれこそが恋愛の全て。詰まるところそこが達成出来ればそれで必要にして十分なんじゃないか?と思うんです。
恋愛ってのは、その当事者のみで完結するものであって、俺と俺が好きな彼女がいるとして俺はその彼女のことが好きだ。そしてその彼女も俺のことが好きだ・・・もうね、これ以外に何も無いと思うんですよ。
なにかあるとすればそれこそ、無駄な装飾品。単なるお飾り。俺にはそう思えて仕方ありません。

恋愛は外に向けて必要以上に出す必要も無いし、第三者に向けてそれを発信すべき事でも無いだろうと思っています。俺は個人的にはむしろ、周りにそれを出すのは恥ずかしいとさえ思ってます。
小さい頃、小学生の頃とか、初恋とか恋愛感情を憶え始めた頃は恋愛って外に漏れるのが恥ずかしかったのでは無いでしょうか?
大人になったって、誰かを好きなったばかりの頃とか、片思い、またつきあい始めの頃とかは、最初は周りに対して隠したがりますが・・・それこそ俺は正常な感覚なんじゃないかなあと思うんです。
なぜなら、俺からしてみれば、恋愛って当事者だけで成り立つモノだし、当事者だけで完結するものだから。友情とか人類愛みたいな愛情や良好な人間関係やら、そういう感情はもちろん周りの人々と広く繋がる必要がありますよ?でも、「恋愛」こと、それに限定して見れば、これは当事者同士で成り立ち、第三者は無関係だと思います。
だから、自分の恋愛をみずから進んで外に出す人の感覚って、俺には理解できないんですよね。
その延長に結婚式や結婚披露宴もあるんです。
~と付き合ってます。っていうのもそう。
「俺はこの人が好きだ~」って、もちろんそれは素敵な感情で汚らしいものでも、忌むべきモノでも何でもないのだけれど、でも、敢えて進んで他人に示すものでも無いだろう?と。
結婚もそうだし、今まで誰と付き合ったとか、何人と付き合ったとか、今誰と付き合ってるとか、むしろそういうのを自慢する人間もいますが、俺にはその感覚が全く理解できません。

好きな人を想い、好きな人に想われ・・・俺は恋愛はそれで十分です。
そこに、「付き合っている」だとか「結婚」だとかいうカタチを持って来たがるのは何故なんだろう?・・・・や、俺自身は必要ないとすら思ってますが、敢えて、何故そういうものを欲しがるのか?と理由を考えてみると、結局なにかカタチにすがりたいんだろうなあ・・・と。
恋愛ってカタチの無いものだし、目に見えないものだから、いくら相手のことが好きでも、その気持ちが大きくても、それをカタチのないままでおくというのは、きっと自分のその気持ちをもてあましてしまって、不安になってしまうからではないのかな?と思いました。
何か敢えて制約を作り、カタチとすることで、すがるものが出来、それに縛られているという感覚がむしろ恋愛しているんだろいう実感や、安心感につながっているのかもしれませんね?「俺たちは恋人同士なんだ」とか「俺たちは夫婦だ」とか。
そして、周囲の第三者も巻き込んで周りからも認めてもらうというか、そういう周囲の反応も通じて自分たちは恋愛しているという感覚を感じているってところなんでしょうかね?
要するに、ただ単にお互いの想いを信じるだけの恋愛をするには、人は弱すぎる・・・だからこそ、確かなものにするために何かにすがりたい。
だから、付き合うだとか、結婚だとかいうカタチを作り、周囲にもそれを示し、それによって保とうとする。

いや、これは俺の単なる推測です。
俺自身、最初にも述べたとおり、カタチに拘ることや周囲に自分の恋愛を示すことの必要性をほとんど感じていないので、敢えて考察するに、そんな理由からなのかな?というところを書き出してみました。
俺は本当に、恋愛って、お互いの想いが通じ合えればそれで必要にして十分だと思ってるんです。俺は別にカタチなんか要りません。自分の想いは自分で信じられるし、あとは相手が俺を想っていてくれさえすれば、恋愛はそれで十分です。
だから、必要以上にカタチに拘る恋愛を、付き合うことだとか結婚することだとか、それそのものが目的になっちゃってるような、そしてそれが達成出来ることが幸せだ・・というような、そして恋愛にそれは必要不可欠だというような、そんな世間一般にそれが普通に幸せなことだとされる恋愛のカタチが俺にはどうにも違和感を感じられてしまうんですよね。

俺は自分の恋愛は自分と想う相手と、2人の中だけで完結すれば良いと思ってるので、必要以上に外には出したくないんです。
結婚式とか、披露宴とかもやりたくありませんし、結婚指輪だとかもしたくありません。俺が相手を想う気持ちは自分の中でしっかり持っていればいいのであって、敢えて周囲にそれを晒す必要性を感じないから。


そもそも結婚ってなんなんだろう?
結婚しているのと、していないことの違いとは?
結婚しなくても「内縁の妻」とか「事実上の妻」なんてのもありますね。実際。
要するに、社会の決められた制度に乗っ取って認められた関係かどうか?ってことですよね。
国から「うん、あんたらはカップルです」と認められましたと。簡単に言えばそういうことでしょう?
財産の関係やら相続やら、家系やらなにやら・・・・いずれにしても、それらは当事者以外の第3者に認めてもらうためのものですね。
だから正直言って、「恋愛」という観点からだけで考えると、結婚というもの自体に違和感があるんですよね。なぜなら、恋愛というのは当事者間で完結するモノだというのが俺の恋愛観だから。
それを周囲に認めさせるための、いわば恋愛に付随したオマケというか、付属品というか、装飾品というか飾りというか。俺からすれば、結局そんな感じに感じられてしまうんです。「純粋な恋愛」という観点で考えると。

結婚を「ゴールイン」なんて例えたりしているのは、やっぱり結婚は恋愛の最終目的な感じでとらえられているのが世間一般の感覚だと言うことの表れでしょう。
まあ、結婚することそのものは、「認めてもらった方が楽じゃん?いろいろと」という意味ではまだ分かる部分もあります。いい歳して結婚もしないで内縁の妻をとってとかなると、色々と世間体とかそういうの気にするのも面倒ですし。本心は、何度も言いますが俺と相手それぞれに想い合っていれば俺個人的にはそれで十分なんですが・・・まあそれはさて、披露宴やら結婚式やら、敢えて周囲にそれを示そうとすることや、結婚そのものが幸せで恋愛の目的だという感覚は俺には理解できません。
ましてや、子供も欲しいとは思ってないのが俺なので子供を作る必要性も感じない人間の俺にはなおさら結婚に拘る必要性が感じられない。

そういう一般大多数の人が普通に幸せだと感じる事に素直に賛同できない・・・この部分もまた、俺の人間失格な一部分です。


人間失格 1

2009-02-20 | てきとうなもの・雑記

まずは今までこのブログを読んでくれていた皆さん、本当にありがとうございました。
今まで様々なコメントやらトラックバックやらを頂きましたが、俺の書いた記事、このブログでは要するに俺の主張とか価値観とかそんなのが多かったわけですが、それへの色々な意見、感想等本当に嬉しかったです。また、直接コメントやトラックバックと言った反応で現れなくても、いつも見に来てくれている方々が居るという訪問者数を見るだけでもすごく励みになりました。
これからこのブログ最後の記事を書いていきたいと思います。
このブログを締める理由は、様々な要因が重なり合った結果であって、なにか一つの大きな理由により辞めるというわけでは無いのですが、そういった理由の中の一つとして「本当に言いたいことを言いたい」っていうのもあったのも事実です。
最初は、ブログであるからこそ好きなことを、好きなように、言いたいことを言っちゃおうというつもりで書いていたんだけど、続ける内に、そして読んでくれる方々が少しづつでも増えてきてからは、やっぱりどこか本心を隠している部分は、事実有りました。

最初にここで言っておきます。
今回最後ということで、これから書こうと思う記事は、おそらく多くの人に受け入れられない事だと思われます。むしろ不快感を感じる人の方が多いかもしれません。
でも、そうであっても、それが俺の本心なので仕方ないというしかないのですが、最後の最後にそれをちょっと書いてみようかなと。
あくまで個人的な価値観の問題です。当然自分の価値観が正解だという奢った考えは全くありませんし、別に分かって貰えなくても良いです。そして、おしつけるつもりもまったくありません。
で、タイトルは「人間失格」・・・うん、まさにこれがピッタリかな?ということで、太宰治の名作のタイトルをそのまま、俺も使わせて貰うことにしました。
最後にふさわしいですね(笑)
と言っても、人間失格はかなり前に読んだ作品だし、何度か読み返しているし、別につい最近これを読んだから、その影響でブログを辞めようとかおもった訳ではありませんので、一応。


最後に書きたい事のテーマは恋愛というよりも、むしろ結婚観というか、結婚後の人生観というか社会人になって結婚して、そこからの人生観について思うことです。
何を持って「正しいのか間違っているのか」「正義なのか悪なのか」という判断をするのかというのは、とても難しいことだと思いますが、大体は「世の中の多くの人がそう感じること」が正しい事で、正義になっている部分って多いような気がします。
そう言う意味では、俺のもつ価値観はまさに「人間失格」と言えるものかなあ・・と。

まず最初に事の発端は、俺が小さい頃・・・いつ頃だろう?多分小学生くらいからだと思いますけど、その頃の漠然とした大人像、要するに自分の将来像ですが、20代後半位になると、結婚して子供も出来て、いわゆる「普通のお父さん」しているんだろうなあ・・・と思っていました。
友達と将来の話をしたときなんかも、なんか20代後半になるともうオッサンだよなあ~みたいな事を話していた記憶があります。
で、そこで言う「普通のお父さん」というのは、平日は朝から晩まで会社で働いて、帰ってくれば疲れてすぐに寝て、週末の休みとなると家族サービスの名の下にクタクタに疲れ果てて、また仕事が始まって・・・・というそんなイメージです。
もちろん、実際にはそんな単純なもんじゃないんですけどね。子供の頃のイメージとしてはそんな感じ。
その時感じたのが「そんなの絶対に嫌だ」という感覚。「それじゃ何のために生きてるのか分からない。自分を犠牲にしてまでそうやって我慢して生きなきゃ行けないの?」と思いました。そして「俺は大人になっても、絶対、いわゆる「普通のお父さん」になんかならないぞ~」って強く思った記憶があります。

今にして思えば、そもそもの事の発端はあのころのその感覚にあったんだろうなあ。
そこから中学、高校と成長して、社会人になり仕事を始め、様々な苦労や成功や恋愛もあり、今はまさにその辺に居るわけですが、子供の頃に思っていた20代後半、まさにその辺の位置にいるんですよね。

成長すれば考え方も自然と変わっていくものだと思っていました。
でも、確かに成長するに従って変わっていた思想や思考も沢山ありましたが、子供の頃に思ったあの思いはついに今まで変わりませんでした。
正直に告白すると、子供が出来たと喜ぶ人の感覚が理解出来ないのです。

俺は逆に、子供が出来ることに対してそれにともなう苦労面の方がはるかに大きく感じられてしょうがありません。特に赤子~小学生位まで、面倒を見たり、世話をしたり、躾をしたり、教育をしたり・・・・もちろんいやらしい話、お金だって子供無しの生活と子供を養うのとではかなりの差があるでしょう。
子供が出来て嬉しいことや楽しいこともあるかもしれません、そして本当に子供が好きなら、子供の世話にかかる苦労そのものが逆に楽しくてしょうがないという人も居るでしょう。
その感覚も、「そんなものだろう、なにしろ自分の子供だしね」という理屈としては分かるんです。でも残念ながら実感として「嬉しい」と感じられる自信も無いし、実際に思い描いてみても嬉しさを感じる実感が全く沸かないのです。
俺の学生時代の同級生や会社の同期などでは、既に結婚して子供がいる人もいます。
出産祝いをあげたり、お祝いのパーティーなんかもしましたし、子供と幸せそうにしているのを、目前で直に見ましたし、生の話も聞きました。苦労も多いけど、幸せだということも。
でも、やっぱりダメなんです。

幸せそうではあって、「夜泣きが大変」とか「子供の面倒見なくちゃならないから、自分の時間はほとんど無い」とか「旅行なんて行けないね」とか、楽しそうな中にもポロっと漏れるそういう事を聞くとなおさら「やっぱりね~」という思いが俺の中で強くなって、実際に幸せとの天秤に掛けると、俺の中では圧倒的に幸せが負けてしまうんです。

「実際に子供が出来ると違う」
「いくら子供が嫌いな人でも、実際に生まれると可愛くてしょうがないよ」
とみんな言います。
実際そうなのかもしれません。
でも、だからといって「だから、絶対に大丈夫。生まれてしまえば可愛くなるから」というのは無責任過ぎるとも思います。
子供を作るというのは、一つの新たな生命を生み出すと言うことであって、欲しい物を買ったり、趣味で模型を作ったりするのとはワケが違います。
そして、同じ生命ですがペットを飼うのもまたワケが違います。
人間の命を生み出すんですよ。生み出してしまったら、もう生半可な覚悟では済まないし、中途半端な子育て等は許されるものではありません。
もう後戻り出来ないのです。
そう考えると、俺のように子供が出来ても可愛がる自信の無い人間が、もし子供を作ったとして、それで実際に考えが変わって「可愛いくて仕方がない」と思えるならいいですが、万が一、いざ子供が出来てもそう思えなかったらどうるんだ?という話です。
赤ちゃんポストやら、生まれたばかりの子供をコインロッカーに置き去りとか、たまに聞きますけど、それこそ、そういう後先考えないバカ親、人間のクズがそうなってしまうんだと思います。
だとすれば、子供を心から愛せる自信が無い人はそもそも子供は作るべきでは無いだろうと俺は考えています。
だから俺みたいな人間は子供は作るべきではないし、つくりたくない・・というのが今の俺の正直なところです。

なんだろう?結局自分が大切なんですね。
そもそも子供の頃に感じた「そんな犠牲を払ってまで何が楽しくて」という感覚が根底にあるんでしょう。
俺は、自分が死んでも子供が意志を継いでくれるとか、死んでも自分の残したものが残るとか、そんなのには何の興味もありません。自分自身が死んでしまったら終わりだろう?と思ってしまいます。大切なのは生きることだと思ってますし。
俺の人生の目標も、最後寿命で死ぬこと。死の間際「楽しかった、充実した人生だった、まだまだ楽しくてしょうがない」と思える人生を送りたい。そう思ってます。
子供が出来た時点で「自分自身の事に一生懸命になるのはもうここでお仕舞い。ここからは自分を犠牲にしてでも子供のために」というのがどうしても、やっぱり俺には受け入れられる自身がありません。
そして、そうまでして子供を好きになれるのか・・・やっぱり自身がありません。

あと俺は会話の成立しないのが苦手です。
会話の成立しないというのは、要するに会話自体はできても意図が通じないということ。
だから、本当に小さくて、世間常識とかがまだ備わっていない小さな子供と会話するのも実は苦手なんです。
俺自身もそんなに頭が言い訳じゃないし、別に天才的な高度な会話をしたいわけでも無いのですが、普通の会話がしたいですね。
そう言う意味もあって、高校生くらいの子供がいきなり出来るんだったら、まあ良いかも・・・・とか、そんな風には思ったりもするんですが、まるっきり現実味の無い馬鹿な話です。

こうやって書くと本当に最低な感じですね。
でも、だからこそ俺はこの考えは人に押しつけちゃいけないし、理解してもらおうと思ってもいけないだろうと思っています。
あくまで俺自身の個人的な感覚であって、これは他人に迷惑を掛けない範囲で自分の内に留めておかないといけないでしょう。
辛いのは、子供が出来て幸せそうにしている知人に、表面上は凄く嬉しそうな顔をして「おめでとう~」と言わなければならないこと。
いや、まあ自分の事じゃないので、自分で苦労を背負うワケじゃないので、半分は本心から「おめでとう」なんだけど、半分は「うわ~、大変だな~」という感じです。それが実は本心だったりします。

この点において、大多数の人が普通に「幸せなこと」と感じる事を、全然そのように感じる事が出来ず、理解することもできません。
あと、こんな例
同年代のAさんとBさん、Aさんは独身、その日は仲間とビアホールでパーッと飲み会。一方Bさんは結婚して子持ち。その日は子供の為に飲み会には行けず。でも、家に帰って子供ら家族と食べる夕食が何より幸せ・・・・

ああ。ダメだ。どう考えてもAさんの立場の方が良い。
Bさん程、悟りが開けません。そのシチュエーションが何よりの幸せだと思えない。
一般の人の感覚が理解できない・・・・この点に関しては、正に人間失格というより他ないですね。
この感覚を一生引きずって生きていくんだと思いますが、果たしてそれでも無理してでも子供を作るべきなのだろうか?
俺みたいな人間は、子供を作らない方が自分のため、そして生まれてくる子供のため、社会の為でもあるような気がしてなりません。

「子育てが面倒なだけだろ?」
確かにそれも正解。
しかし普通、子育ては面倒だけど子供自体は可愛い。と思う親がほとんどだと思います。
だけど俺の場合、深刻なのがそもそも子供を可愛いと思えない、そこまで愛せる自身が無いと言うこと。そちらの方がよほど深刻なんです。
子供を心から愛せるならば、苦しくても子育てを頑張れるんでしょうけど・・・・


お知らせ

2009-02-20 | てきとうなもの・雑記
これから最後の記事を書こうかと思っています。
言いたいことが多すぎて上手くまとめられないけど、とりあえず次に上げる記事でこのブログのラストにしようかなと思っています。
ブログを辞めるというと、当然に理由が気になるかも知れませんが、まあ様々な理由・原因が重なって結果に至る・・・と、結局はそう言うことですが。決して一つの辞めるべき大きな理由が出来て辞めるのではなくて、そういうことです。
そして、別に人生で大きな何かがあったわけでもありません。
職を失ったとか、人生を諦めたとか、そういうネガティブな事は一切ありませんし、最近の日常は、素晴らしいほどのありきたりな日常です。そんな平和で何気ない日常はとてもありがたいことですね。
本当に何もありませんので、変な心配は全くの無用ですし、心配(してくれる人がいればだけど)心配しないでください。

さて、その最期に書こうと思っている記事ですが、内容は確かに最後に有る意味でふさわしい内容かもしれません。
ただ、記事が一つとは限りません。「○○(タイトル)1」「○○2」という感じで、数記事に渡るものになるかもしれません。おそらくそうなるでしょう。
まだ書きたいことの構想が頭にあるだけで、実際に文字にアウトプットしてませんので、どのように着地するか、その着地点が見えてない部分もあります。

あと、もう一つ行っておくべき事として、俺のもう一つのブログ「そうだ、『北へ。』行こう」の方は、とりあえず今まで通り、何も変わらずこれからも続けて行こうと思っています。
とりえあえず、こっちのブログだけ一つの区切りにしようかなと。
そして、これは「お願い」になるのですが、確かに「北へ。」ブログを書いているのも、このエッセイブログを書いているのも、中身は同じ人物、つまり俺ですが、出来れば、2つのブログを全くの別物として・・・出来ることで有れば、それぞれ別の人物が書いている。という観点で見て欲しいなあということです。
というのも、俺がこのブログで最後に書こうとしている内容は、多分批判、非難、反論、抗議・・・等々の感じを受ける人の方が多い記事になるのでは無いかと思っています。
でも、決してある誰か個人を誹謗中傷するとか、そういう記事では無いということだけはハッキリさせておきますね。何というか、俺の個人的な価値観というか人生観みたいな話なんですけど、恐らく共感は得られないだろうなあという、そういう話です。あ、決して物騒な話でもありませんよ。戦争賛成とか殺人容認とか、決してそういう話でもありませんので。

このブログ自体は、その記事で締めたいと思ってるので、別に良いんですよ。
ただ、これからも続けていこうという「北へ」ブログの方に、こっちのブログの記事から変に影響を受けるのも嫌ですし、俺、基本的に平和主義だし、のほほ~んとしている方が好きなんです。
こっちのブログでは、ちょっと辛口な事とかも書いちゃってる部分もあったかもしれませんが、あっちのブログはあっちのブログで、あの雰囲気でこのまま続けたいと思ってますので・・・だから、こっちはこっち、あっちはあっちで、割り切りたいなあ・・・と。

とりあえず、そんなこんなで、これからその記事作成にとりかかりたいと思います。
でも、のんびりというか・・・・じっくりと書いていきたいと思ってますので、もし最後に読んであげてもいいよ?って方がいたら、あまり焦らずに気長に待っててもらえたら嬉しいです。
書き次第UPしたいと思っていますので。

と、言うことでとりあえずの、お知らせでした。

P.S
そうだ「北へ。」行こう
の方はこれからもよろしくお願いします。

良い写真、凄い写真

2008-10-27 | ちょっと考えた事
素人には善し悪しが分かりづらいものって、結構あると思うんです。
例えばワインとか、楽器の音色とか、料理とか。
よくテレビで有名人の格付けとかやってたりしますけど、あんな感じです。
何千円のワインと百万円するワイン・・・実際俺も分からないと思います。楽器の音色なんかも、楽器よりも奏者のレベルの違いの方が大きいと思いますし、もうあのレベルの違いなんて、本当のその道のプロの人じゃないと分からない位の差というものってあると思うんですよ。
そりゃ、極端にマズイワイン、例えば保存状態が悪くて酸っぱくなってしまったワインと美味いワインの違いならすぐ分かると思いますけど、そういう極端な違いでも無い限りなかなか善し悪しの差がわかりづらいものっては、結構ありますよね。

で、俺は写真ってのもそういう物のひとつだと思ってますし、思ってました。
絵と違って写真はありのままそのままを写すわけですから、模写の技術に差は無いわけで、(これも、前述の通り極端なピンボケだとか、手ぶれなんかの写真は論外としてですよ)素人目に見たら、善し悪しを判断するのは難しい部類のものだと思うんですよ。
でも、俺自身が旅行をして、ブログにUPするために写真を撮り歩いて、最近ふと思うことがありました。
それは、写真の善し悪しというのは、結局の所「如何にその場の感動を写真の中に切り取って、その感動、雰囲気、臨場感を伝えることができるか」だと言うことです。

北海道旅行をして、特に感動したイメージが強いのが弟子屈町の「摩周第3展望台」や浜中町の「アゼチの岬」、礼文島での「桃岩展望台」なんかは、その景観に圧倒されて、凄く感動しました。
で、実際に写真を撮ったわけですが・・・・確かに、撮った写真にはそのままその通りの情景が写っています。写ってはいるんですが、やっぱり何かが違うんですよね。
言葉にするとそれこそ、感動や臨場感、や雰囲気といったものなんですけど、そう言うのがいまいち感じられない。
確かに雄大な風景が写っているけど、それだけ・・というか、そういう一枚の絵がそこにあるだけというか。そういう感覚。とてもじゃないけど、実際にその場で感じた感動までは伝わってこない。

実際に自分でそういう経験をして思いました
「ああ~、プロのカメラマンというのは、きっと写真でそういう感動を伝えようとしているんだなあ」と。

素人目に見て、「上手い写真」というと鳥の羽ばたく瞬間だとか、朝日が昇る瞬間だとか、ダイヤモンドダストだとか、そのシーンだけで絵になる場面ってのはあると思うし、一見するとそのシーン、テーマだけで凄いと思っちゃいそうで、そしていざ素人が良い写真を撮ろうなんて思うと、変に構図に凝ってみたりだとか、そういう何かの瞬間やら、光の演出に拘ろうとかしちゃって、なんて言うんだろう?小手先の小細工に走っちゃうと言うか・・・・そんな感じがします。
でも、違うんだなあと。
本当に凄い写真というのは、写真を見ただけで、実際にその場に居るかのような感動、臨場感、雰囲気を味わうことが出来る写真なんじゃないだろうか?と。
そう思うと、写真の善し悪しを判断するのには、何も特別な知識なんて必要無いんじゃないか?なんて思ったりもします。
ピントがどうとか、シャッタースピードがどうとか、露出がどうとか・・・そんなのはどうでも良くて、単純に写真を見て、問答無用で感動できるか。結局はそこなんじゃないかなあとか思うんです。最近。

だから、例えば摩周第3展望台に言ったときは、俺はその感動から本当に鳥肌が立ちました。あの時の感動、小言は必要なくて、写真を一目見てそのような言葉にならない感覚を写真から受けるかどうか・・・単純に良い写真、凄い写真ってのはそういうことなんだと思います。

実際に自分で写真を撮って、ブログでそれを伝えると言う側に立ってみて、初めてそこに気付いたような気がします。
いざその場にいって、感動すればするほど、自分で取った写真から伝わる感動が、あまりに現場に比べて薄すぎて、歯がゆい思いをしているのですが、そういう経験を経てようやく、写真の奥深さ、難しさ、そしてすばらしさに気付いたような気がします。

とは言っても、今更何十万も掛けて機材を揃えようとか、今更写真家を目指そうなんて気はありませんけどね(笑)
コンパクトデジカメ(パナソニック、LUMIX)で頑張りますよ。
ただ、最近そういう部分に気付きましたという・・・そういう話でした。