わたしのちいさなたからもの

2009年11月公開の劇場アニメ「マイマイ新子と千年の魔法」を追いかけて

東北復興観光◎南相馬市編 【 僕らの原町無線塔 ~相双旧軍遺構と産業めぐり町歩き 】11/4

2012-12-14 17:37:52 | 故郷のよすが

 

朝の松川浦。太平洋からの日の出が見られるロケーション。遠くに連なる砂州も見えます。

 

 朝の松川浦から、山を見る。満潮で海面が岸壁を越しています(地盤地下のため)。

 今朝、近くの宇多川で上がった鮭の卵(はらこ)を取り出し加工中。

 

 

いさみやさんの朝食。 

  

今日の街歩きは、いちごハウスから。

震災前は《松川浦の魚+和田のいちご》が仙台~近郊の定番行楽だったそうで、

多い時には1000~2000人のお客さんが集まることも。

私も、原町女学校出身の母から同窓会のお楽しみとして同級生の皆さんたちと

 《 新地の鹿狼山(かろうさん)温泉に一泊、松川浦でお昼、和田の苺狩り 》

・・・何回も寄ったことがあると、聞いています。   

 

苺観光組合の方に、震災後再建した新しいハウスを案内してもらいます。

水耕栽培を自動で温度管理、ミツバチを使って人工授粉。正式オープンは1月から。今回は見学のみでした。  

  

 苺の花が咲き出していました。実をつけると5月くらいまで収穫出来るとのこと。

このハウス裏手にもさらに新しいハウスが立つそうです。 

 

 宇多川の鮭簗場(で、いいのかな?)とにかく鮭の水揚げをする所。

おこぼれを狙った水鳥たちがわらわらと泳いでいました。網で川を仕切って鮭の遡上をせき止めています。 

 

 

 百尺聖観世音尊像。

もう少し南に下った大悲山に磨崖仏があるのは知っていましたが、これは知りませんでした;;

  

この日のお昼。たこ八さん。(松川浦にもお店あり)  

 

 これが噂の復興チャレンジ丼。

  

 相馬地方名産ほっき飯丼。残念ながら現在は北海道産使用中。

いわき人のうに・めひかり、相馬人のほっき貝は《 ソウル・シーフード 》

一日でも早い漁の再開を願いつつ完食。

 

昨日のタコに続き相馬産イカ焼きも。

良い焼き具合の表側、内側の半生なとこがとろけるように美味しい。  

 

 

午後は原町・朝日座から。どこに行くのかという細い小道を抜けると・・・

レトロな外観でありながらバリバリ現役の上映館です。

案内してくれた地元の方も、「ここでガンダムを見た」と言ってました。  

 

ここは私がお願いしてコースに入れていただいたのですが、

以前ネットで見た画像と看板の文字や壁面の色が変わっていました。

この建物が用済みではない、まだ町の一部として生きているが故の化粧直しでした。

窓口の台のタイルは古いものですが、壁面のタイルは後から貼り直したものなのがわかります。

 屋根の尖塔を見て、震災で倒壊~解体された平本町通のナカノ洋品店の青い塔を思い出しました。

 ちなみにこれがかつてのナカノ洋品店(↓)

東隣の堀薬局とともに、古い写真には必ず写っている平本町通のアイコンでした。

震災で倒壊、今は取り壊されて更地になっています。

 

 

 原町から小高駅へ。

駅は鍵がかかっていますが、屋根の棟瓦が崩れた後にはブルーシート。

落ちた瓦はひとまとめに片付けてあり、決して放置されてたままのわけではない。

 小高駅ホーム

今はそこまで宅地になっていますが、昔はホームから海まで見渡す限りの田んぼでした。

 

 小高駅の駐輪場。

震災が起きた頃は、自転車を置いて行った学生がまだ学校にいた時間帯。

どうやって帰宅~避難したのだろうか。またここに自転車を取りに戻って来れるだろうか。

  

再び原町へ。原町火力発電所を海岸から見る。 良い具合の西日に照らされて。 

ちょうど前々日の11月2日が震災以降の操業停止以来の試験運転初日だったそうです。

昨日見学した相馬共同火力発電所東京電力・東北電力に送電していますが、

こちらは、東北電力の施設。

震災の被害を受けた発電所は、福島第一原発だけではありません。

  

 太平洋を臨む。

 津波の引き波の爪痕。 (↓) 

 

 南相馬市立中央図書館へ。

昨日ガイドしてくださった郷土史家・二上さんの展示。今回のツアーに合わせての開催だそうです。

 

 展示の一部。これが機銃掃射したグラマン。

平の鎌田辺りの田んぼでグラマンに追い回されたと、高校の地学の先生に良く聞かされました。

 

 

昨日見てきた正門~格納庫跡は、(↑)の上半分の辺り。

大きい画像は、こちらをクリック⇒

 

 

山並に落ちる夕陽を見ながら松川浦へ。ひと時、残照を楽しんでから亘理へ移動して解散。

いろいろな方のお世話になった密度濃い2日間でした。 

 

福島駅にて。さんまの蒲焼きが福島風。 

 

お土産①

これは南相馬の道の駅で。「地域限定」にはつい引かれるww

みそ饅頭は撮る前にパック開けてしまった;;   

  お土産②

同じく道の駅で買った凍み豆腐。関東では同じものを高野豆腐と言いますが、

福島では厚さ半分ぐらいの薄さ。最近は汁の具にするような小さいのを良く見かけます。

 

 お土産③

これは福島駅で。チン!すると風味増します。

 

【 旅を終えて 】   

「原町に無線塔がある」ということは、取り壊しが決まった時に報道されて知っていましたが、
実物をちゃんと見たことはありません。 
また、祖母の実家があったり父が戦後の一時期働いていたりと何かと関わりがある割には、
原町の町自体を良く知りません。
元々、野馬追自体が遡ればかつての軍事演習に由緒を持ち、馬産地であったのを思い起こせば
ここに軍事施設が出来る理由が思い当りますが、
最初の特攻部隊に相馬出身の人物がいたのは今回初めて知りました。
案外、父(大正生まれ・出征経験あり)は今回尋ねた軍事施設のことを知っていたのではないかと言う気もするし、
日清戦争辺りからの記憶があったらしい明治生まれの祖母や、もろに挺身隊世代(=昭和ひとけた)の母、
伯父伯母たちが亡くなる前に、もっといろいろな話を聞いておけば良かったとこの頃しきりに思います。

自分の子供時代(昭和30~40年代)が思いの外、戦中・戦後の影響を残していた時代だったというのも、
最近思うことのひとつです。

 今回コースを設定する際に、母の実家に寄りたいという私の希望を下見から準備していただき、叶えてもらいました。
震災の数年前に行って以来、母屋の一部を取り壊したり別棟新築したりと様子が変わっているため、
Googleの航空写真で震災後の周りの様子は大体チェックしていましたが、
1年半以上人が住まない家の状態は実際見てみないとわからない。
それでも埼玉に住む従兄夫婦が何度か一時帰宅に通っているせいか、
家の中は辛うじて外~庭のような荒れ方を免れていたのがうかがえて安堵しましたが、
隣家のはがれ落ちた外壁の一部が庭に散乱したままだったり、
慌ただしく何も出来ずに家を出たのがうかがい知れる《日常》がそのまま断ち切られた様子や、
道を挟んだ向かいの古い長屋(母の子供時代から立っていた建物。築70~80年以上?)が潰れたまま
立ち入り禁止の黄色いテープが張られているのを目にすると、何とも言いようがありませんでした。

それでも、道路を車が走れるような状態に片付けてあり、駅にもノートが設置されたりと人の手が入り、
以前と同じ賑わいや佇まいが戻っていなくても、かすかに人の気配があるだけでも救われた思いがしました。

 現在の小高区は、無人ではない 

    消防・警察・ボランティア、わずかだけど外から通う人もいる。

    報道などで《 神隠し という言葉をただ「賑わい・人の姿がなくなった」意ならまだしも、

    明らかに「人が住めない、帰れない場所」の意味・前提で使われると、

    大いに違和感・抵抗があります。(というより、使い方を間違っているのに誰も指摘しない)

    あの《 兵糧攻め 》の頃のいわきの扱いと同様に、

    この《 神隠し 》や《 ゴーストタウン 》、《 死の町 》という言葉が使われるせいで、

    「南相馬=もう誰も住めない町」という漠然とした思い込み~誤解が

    外部に広がって定着する裏付け~遠因になっているのではないか?

    首都圏にいて「南相馬が…」と口にした途端にその場の空気が一瞬固まるのを、

    何度か体験している。

 
同じ南相馬市の中でも、
原町区と小高区では《 町として機能している(=インフラがあり、住民の暮らしが成り立っている) 》面で、
明らかに差がついてしまっています。
しかし、原町区でもすべてが震災前と同じに戻っているわけではありません。

私はいわきでの津波被災地をほとんど見ておらず、今回の旅で実際にその跡を見たわけですが、
正直、何の根拠もなく「いわきには津波が来ない」と思い込んでいた自分には、
何も言う資格がない気がします。(写真も撮りませんでした)

「いわきには津波が来ない」
を裏返せば「津波が来るのは、三陸だけ」

…そういう思い込みは、ある意味

「原発は田舎(地方)に、作ってもらった電気は(都会で)使うだけ」の構図を
無自覚に甘受しているのと大して変わらないのではないか。

 被災地の光景は、明日そうなるかも知れない自分の住む町の光景でもあるのに。

現地で実際に住んでいる方たちから、そこに居なければわからない話をたくさんうかがいましたが、
それをそのままここに書くのは、控えます。
現地に行って直接聞くか、
伝えるためのそれなりのスキルとモラルを持った人のきちんと取材を踏まえた報告でなければ、
結果的に実際にあったことを捻じ曲げてしまいかねないからです。
私には、ただ見てきたこと・感じたことだけを並べあげることしか出来ません。

かつて「いつでも、見に行ける」と思えたのは、当たり前の《日常》があったからこそであり、
断ち切られた《日常》を取り戻すために、見たかったものを今(+これからも)見に行く。 
そうやってささやかに積み上げていくことで、新しい《日常》を作り直し、
その時見た光景は記憶に焼き付け、自分にやれる形で残していく。

相馬・原町の町中を車で走りつつ、ゆっくり歩いて見てみたいと思えるような家並みを目にし、
帰って来てから思ったのは、

キレイに整った「見て下さい」と言わんばかりの名所旧跡を訪ねるより、

町の中に何もかも混ざり合い、今も住む人と共に呼吸しているようなそんな場所を尋ねてみたい。

そんな旅が自分には向いているし、自分が行きたい旅
なのだということでした。

今回、主催の井上リサ先生を始め同行の皆さんといろいろと話をしながら、濃い時間を過ごせました。
自分とは違う立場からの気づきや意見を知ることが出来て、かつ楽しい1泊2日の旅でした。

2日間案内して下さったり、行く先々でお話しを聞かせて下さった皆さん、ありがとうございました。

また今度は、苺狩りをしに伺います。

 

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2 コメント

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わかります。 (たえこ)
2013-01-02 23:51:00
同感です。南相馬にすんでいますが、ひび、人生を考えちゃいますよね。
YEC (かおり)
2015-08-18 01:20:23
20年以上前、新卒で入社した会社の新入社員研修で
原ノ町で1か月ほどお世話になりました。

研修後も私は名古屋、本社、工場が原町で何年も
一緒にお仕事させていただきました。

当時お世話になった方々に思いをはせる時がありあす。
皆さんご無事だったと信じて。。

日々の生活に追われる毎日ですが、いつか。
いつかきっと原町を訪れたいと思っています。

震災に合われた皆さんの復興を願っています。

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