日常

みすず書房

2011-09-14 22:36:34 | 
みすず書房という出版社が好きです。

古本屋でも、みすず書房の本が醸し出す雰囲気は群を抜いてます。

若い時は難しいと思って近寄りがたい本(歯が立たない本)が多かったけれど、いつのまにかみすず書房の本を好んで読むようになりました。
そういうときに自分の成長を自覚します。毎日コツコツやってると、人間、いつのまにか成長するものですね。




みすず書房は装丁が美しい。

ツヤツヤの白いカバーに、黒の文字が基本スタイル。
フォントも奇をてらわず品がある。最高にかっこいい。


ゲーテ「色彩論」
『黒と白との間にある無限の空間、そこにある多様な色は人間の生活、人間の感性の世界の表現である』

ということに触発されて、みすず書房特有の白と黒のデザインが基本になったらしい。


・・・・・・・・・・・

ニュートンは客観的な意味での色を考え、ゲーテは主観的な意味での色の質感を考えた。
ニュートンが求めた「光学」としての光の学問、ゲーテが求めた「色彩」としての色の彩り。

登山口が違うと、途中で見える景色はまるで違うけれど、頂上直下ではかなり似てくる。
最終的に頂上から見える景色は、客観的には同じはず。でも、視点が違うから、主観的には微妙に違うものだ。
どういう風に見えるかはその人次第。
何を感じ、何を得て、何を持って帰り、日常にどう応用するかもその人次第だ。

アイザック・ニュートン「光学」岩波文庫(1983/11/16)(→原本は1704年)
J.W.V. ゲーテ「色彩論」ちくま学芸文庫(2001/3)(→原本は1810年)


ニュートンの「光学」では、光は屈折率の違いで七つの色光に分解され、この分解されたものが人間の脳で「色彩」として感覚されるとしている。

ただ、ゲーテは色彩が屈折率という数の概念に還元されていくることに満足できなかった。

ゲーテの「色彩論」では、色の生成に光と闇を持ち出している。

ニュートンにとって、「闇」は単なる「光の欠如」にすぎないもので、研究の対象にならないものだった。
ただ、ゲーテは「闇」を積極的に取り入れていく。「光」と「闇」が存在し、その間で両極が作用し合う「くもり」の中でこそ、はじめて色彩は成立するとゲーテは考えていた。


光そのものだけを考えるのか、光と闇とそのバランスで考えるのか・・・似ているようだけどかなり違うと思う。

「無」を「有の欠如」と見てあまり考えない西洋と、「無」を「有」に拮抗させる大事な概念として思想の中核に置く東洋との違いともいえるかもしれない。
ゲーテは東洋的で多元的なものの見方をしていたんだと思う。 
いまの自然科学に欠けているのも、こういう発想だと思う。
数量化すること(屈折率で7色に還元すること)で抜け落ちてしまうことにも、ゲーテは警鐘を唱えていた。


・・・・・・・・・・・・
脱線しましたが、みすず書房のゲーテ「色彩論」の精神を受け継いでいるところが、好きです。




神保町の古本屋街によく出没します。
「澤口書店」というところにみすず書房がたくさん置いてあるんですよね。
はじめて見たような本も多くて、しかも美品が多いし、目の保養になります。
神保町にお立ち寄りの時は、自分が好きな「小宮山書店」とあわせてご贔屓にしてください。
ついでに、三省堂の裏ビルにある「神保町古書モール」も色んな古本屋が入っているのでお薦めです。古本を買う度に常に50円とか100円の割引券をくれるのもうれしい限り。




みすず書房の本社は職場からも近いのです。
近くの食堂にご飯を食べに行くことがあるので、ふらりとみすず書房の会社の前を通ることがある。
<ああ、こういう場所であんな偉大な本が多数作られているか>と、みすず書房の本を夢想しながら通り過ぎる。




みすず書房のニュースレターに登録しています。
最近、こんなメールが届いて感動しました。そのことがきっかけで、このブログを書いているのです。


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菊坂だより(みすず書房のスタッフが交代でおたよりしています)

1946年の創立以来、在職期間のすべてをみすず書房の編集代表として勤められた小尾俊人さんが8月15日に亡くなった。
退職されてからすでに20年を超え、直接小尾さんと仕事をした社員も数えるほど。
時代は移っていく。
すぐれた人文書の編集者としての高い評価だけでなく「本」の社会性にも、常に目を向けていた方だった。
社屋も部署によって離れていて、一緒に仕事をする機会も少なく、自らの経験不足もあり、ときどき話すたびに緊張せざるを得なかったのは今思うと可愛いものだったが、毎年つくられる図書目録の前文に小尾さんはこう書かれていた。

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「万物は流転する」とは、ソクラテス以前の哲学者ヘラクレイトスの有名なことばでありますが、出版社の運命についてもこれが実感されます。
始めあって終わり有り、とも言われます。
出版社は、その出版する書物に意味や価値が認められる限り、その存続は可能であるといえましょう。
当社は、この点についてきわめて冷静な自己反省をもちたいと願っております。(後略)
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当時、出版社の業務といえば編集と思われていたなかで、営業に長く携わり迷いもあった私には、おおきな励みとなった言葉だった。
作るだけではなく、本と人とを結びつける仕事も出版社の重要な役割なのだと、信じられるようになった原点はここにあった。
時代は変わったが、今でもその想いは変わらない。

退職後も神保町でお会いすることもあり、話す機会にも恵まれ、そのたびに触発されていた。
本、著者、出版社さらに、その周辺、書店や図書館のこと、もう緊張することはなかったが、
小尾さんに自社の刊行書を褒めてもらうと、それだけでとても嬉しかった。

――出版する書物に意味や価値が認められる限り、その存続は可能である――
変わらずにたいせつな言葉、私にとって8月15日はますます深く記憶に残る日となった。
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こういう熱く崇高な志でみすず書房の本は作られていたんだな、と改めて感慨深いものがあります。

電子書籍だとかi padだとか・・いろいろ出てきます。
IT社会、電脳社会の世紀。目がチカチカするものばかりが溢れています。

そうは言うものの、みすず書房のあのずっしりとした感じ、ツヤツヤの光沢感のある表紙、そして文字の世界へ静かに深く沈んでいく感覚は、きっと永遠に失われないとも思います。

『出版社は、その出版する書物に意味や価値が認められる限り、その存続は可能であるといえましょう。』
の言葉通り、自分は、みすず書房の真面目で実直な歩みが続くことを心の底から願う一人です。

みすず書房のHPもお薦め。ここで本を眺めているだけでも、和みます。




持ってる本とか読んだ本で装丁が素敵な本を、本棚で見てたらいろいろあった。
表紙を見るだけで、自分の中の一部は文学や文字や歴史の世界へと誘われる。


みすず書房の本は、森や井戸の中に深く深く沈んで入っていける感覚が好きです。
そんな深い森や井戸の中で、深い場所で自分を支えている「何か」に確実に触れます。
日常で使う浅い層だけではなく、深い層が地層のように重なり合うことで人間は成立していることに改めて気づきます。
浅い層だけでは人間脆いものです。少し強い風が吹けば倒れてしまいます。
深い層に根を張るからこそ、人は自分の足で立つことができます。

そういう深く根を張る体験こそが、自分だけの自己愛ではなく、他者への思いやりや慈しみや悲しみのような感情の滋養となり熱源となるのだと思うのです。




























































































4 コメント

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みすず (Shin)
2011-09-19 07:25:07
いい話を読ませてもらいました。

みすず書房は硬派でいい本を作ってるよね。時代を乗り越えていく頑丈さを精神面だけではなく、書籍本体でも体現している気がします。

しかし、すごいコレクションそろえていってるねえ。

思い出に残っているいすずは収容所における精神の考察「夜と霧」、パラダイムの転換について語った「科学革命の構造」です。

そうそう、井戸に潜るという話。今度からぼくは暗室に入るのですが、そこの中ももしかしたら僕にとって「井戸」になるかもなあと漠然とした予感があります。
集合的無意識(ユング) (いなば)
2011-09-19 21:22:36
>>>Shinくん
いい話ですよね。
とくに、故人が語る言葉っていうのは、もう永遠のものでもあるし重みが違います。

みすず書房はほんとうに硬派ですよ。
これだけ軽い本が増える中で、みすず書房は絶対にある一線を崩していない。
すぐに商業主義に走ったり、売れる本を作る中で、この強さと尊さは偉大です。
時代を刻んでいく、という強い意志を感じます。

写真の暗室ですね。それは確かに「井戸」だね。
春樹さんのねじまき鳥のように、その井戸の底でお互いこんにちわ。するかもしれないね。


ちなみに、まさにみすず書房で、「暗室のなかの世界 感覚遮断の研究」っていうすごく興味深い本があるよ。
これは立花隆さんの臨死体験でも引用されている本です。

要するに、人間は外界に存在していて、つねにインプットの情報を受けている。音、光、風、・・・そのインプットの情報があるからこそ、「わたしはわたし」でいられるけれど、インプットを失くすと(=感覚遮断)自分のからだの境界が分からなくなる。だから、臨死体験のように体外離脱のような状態と同じで、自分の第2の身体から自分を見るような状況になるというお話が含まれています。この「第2の身体」の話は、ヨガでもシュタイナーでも出てくるし、それこそ臨死体験の体外離脱でも出てくる。それこそ、春樹さんのスプートニクの恋人で、すみれが体験するドッペルゲンガー(観覧車から、もう一人の自分を見る)とも通じるのかもしれない。

話しが脱線しますね。すみません。
Shinくんのロンドンからの写真を、楽しみにしてます!


(関係ないけど、スプートニクの恋人ってほんと好きな作品だー)
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村上春樹「スプートニクの恋人」
『22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。そして勢いをひとつまみもゆるめることなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森を気の毒な一群の虎ごと熱で焼きつくし、ペルシャの砂漠の砂嵐となってどこかのエキゾチックな城塞都市をまるごとひとつ砂に埋もれさせてしまった。みごとに記念碑的な恋だった。恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。さらにつけ加えるなら、女性だった。それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった。』
『わたしが今どこにいるか? どこにいると思う? 昔なつかしい古典的な電話ボックスの中よ。インチキ金融会社とテレフォン・クラブのちらしがいっぱい貼りつけてある、ろくでもないまっ四角な電話ボックスの中。空にはかびたような色あいの半月がかかり、床には煙草の吸殻が散乱している。ぐるぐると見まわしても、心を温めてくれるようなものはどこにも見あたらない。交換可能で、あくまで記号的な電話ボックス。さて、場所はどこだろう? 今はちょっとわからない。すべてはあまりにも記号的だし、それにあなたもよく知ってるでしょう? わたしは場所のことってほんとに苦手なのよ。口でうまく説明できないの。だからいつもタクシーの運転手に叱られるのよ。「あんた、いったいどこに行きたいんだよ?」って。でもそんなに遠くじゃないと思うな。たぶんけっこう近くだと思う』
============
題はありません。 (さ。)
2011-09-20 03:06:45
観覧車に乗ったのは、すみれではないような…?!あれ??


スプートニクの恋人の文章で、
ぞわっとしたのがこのふたつでした。




店の外に出ると、染料を流し込んだような鮮やかな夕闇があたりを包んでいた。空気を吸い込んだら、そのまま胸まで染まってしまいそうな青だった。空には星が小さく光り始めている。夕食をすませた土地の人々が、夏の遅い日没を待ちかねたように家を出て、港の近辺をそぞろ歩きしていた。家族がいて、カップルがいて、仲の良い友だちどうしがいた。一日の終わりのやさしい潮の香りが通りを包んでいた。ぼくはミュウと二人で歩いて町を抜けた。通りの右側には商店や小さなホテルや、歩道にテーブルを並べたレストランが連なっている。木の鎧戸がついた小さな窓には親密な明かりがともり、ラジオからはギリシャ音楽が流れていた。通りの左手には海が広がり、夜の暗い波が岸壁を穏やかに打っていた。




頂上から空を見上げると、月は驚くほど間近に、そして荒々しく見えた。それは激しい歳月に肌を蝕まれた粗暴な岩球だった。その表面に浮かんだ様々なかたちの不吉な影は、生命の営みの温もりにむけて触手をのばす癌の盲目の細胞だった。月の光はそこにあるあらゆる音をゆがめ、意味を洗い流し、心のゆくえを惑わせていた。それはミュウに自らのもうひとつの姿を目撃させた。それはすみれの猫をどこかに連れ去った。それはすみれの姿を消した。それは(おそらく)存在するはずのない音楽をかなで、ぼくをここに運んできた。ぼくの前には底の知れない闇がひろがり、背後には淡い光の世界があった。ぼくは異国の山の上に立って、月の光に晒されていた。すべては最初から周到にたくらまれていたことではないのかと疑わないわけにはいかなかった



読んだ時、妙にリアルに迫ってきたのでした。
それこそ音とか光が、ふわーっと。
特に月のシーンは、すごかったなあ。


リアルとファンタジーの境界線を描くのが、
本当のモノガタリだと思うのだけれど、
その塀みたいなところを伝い歩きできるだけの
強度や勇気が、書き手には必要なのだろうな。

そういう意味で、ねじまき鳥は、限界までとことん突き詰めて描いた作品という感じがします。読んでいるこっちも、限界でした。笑。

みすず書房表紙は、余白加減が絶妙!
空間があるというか。引き算の美学というか。センスがいいってこういうこというのだろうな。

それにしても、こんなに画像をコピペして、
相当息抜きが必要だったのだろうとお察しいたします。笑。

そういう私も、こういうのを始めたら、
面白くてやめられなくなってしまいました。
http://stilllll.tumblr.com/archive

絵葉書を集めるのが好きなのだけど、
そういう感じで、何か、楽しいのです。




shinさん>
暗室は、井戸の底だねーほんと。
井戸からの発信を楽しみにしております!
顔のしみに、要注意ですね。ふふふ。

「スプートニクの恋人」はかなりいい。 (いなば)
2011-09-20 18:18:36
>>さ。さん
観覧車に乗ったのは、ミュウです!すみません。
ミュウと書いたつもりで、指摘されて書き間違えに気づきました!あぶないあぶない。(^^;


いやはや。
引用された文章も素晴らしいねぇ。
春樹さんは、このスプートニクは相当楽しんで書いたんじゃないかなぁと察しますね。
文章の中にメタファーがちりばめられていて、普通の作家だとこの小説に使われているひとつくらい言葉が思い浮かべば、それで一編の小説が書けるだろうものを、このスプートニクでは惜しげもなくあふれ出る奔流に身をゆだねるように美しい言葉が出てくるよねぇ。
ストーリー自体もおもしろいけれど、それ以上に文体とかメタファー自体が、好きです。春樹さんも、自分の文体、というものにすごくこだわっている人だと思うんだけど、それが一番出ている小説が、このスプートニクなんじゃないかと思いますね。
読んでいて、自分の中にイメージが無限に広がる感じがあります。


そうそう。ねじまき鳥、自分は春樹作品で一番好きだねぇ。
あれを読んでいる時はほんとうに自我や自己がとけて、その場の環境や場所にまで溶け出していくような、濃密な読書体験をしました。
やはり、いかに濃密な読書体験をしたかということ、それはほとんど言語化できないし、言語化するにはそれなりの努力が自分の中に必要なのだと思うけど、その濃密な読書体験をしているかどうかは、長い人生においてすごく大きな意味を持つと思いますね。

>そういう私も、こういうのを始めたら、
>面白くてやめられなくなってしまいました。
http://stilllll.tumblr.com/archive


これはなにがどうなってるのかよくわかんないけど、すごいねぇ。
写真はいろんなWEBで拾ってきたものなのかなぁ?著作権フリーのもの??

なんかコラージュがすごい!