日常

私が私であること

2009-02-19 21:59:34 | 考え
■考えていること

『私が私であること』

これは、前々から考えていて、未だに考えている途中でもあります。

考えがまとまったら書こうかなぁーなんて思ってたんですけど、
せっかくなので、あえてこの未完成で途中の状態で、ありのままをブログに書きたいと思いました。

今のわしのそんな決意に何か感じる人がいれば、コメントいただければ嬉しい!
そこから着想やヒントを得て、さらに自分で深めて純化して密度を濃くしていこうと思っているのです。


■他者から見た自分

自分がなにものであるか。

学生時代は、<自分はなにものでもない>と思っていた。

実際、何もできなかった。
偉そうなことを言っても、何一つとして何もできない。
そんな自分の非力さを悲しく思うことが多かったのです。


社会に出て働いている人って、
<理論だけではなく実践をしている人たち>という感じで、
<社会や世界の中に飛び込んで、社会や世界を構成している人>という感じで、
羨ましくもかっこよくも見えた。



自分は、自分以外の色んな人に囲まれて生きています。
この地球上だけで、50億人以上!もいるわけですね。
有限な人生で会って話す人は限られている。
仲良くなる人は更に限られる。



今思い返して正直に言うならば、
昔は他人の目とか、視線とか、評価とか、そういうのがすごく気になっていた。
そこに意識的であったときもあれば、無意識にも行動が制限されてた時もあったと思うのです。


「好かれたい。よく思われたい。もてたい。高い評価を受けたい。愛されたい。尊敬されたい。かっこよく思われたい。イイ人と思われたい。・・・・・・・」

はっきり言ってどんな言葉でもいいんですけど、
自分へのそういう外からの評価がすごく気になっていた時期があったように思います。


でも、ここ最近はあまり気にならなくなってきたんですね。
というか、ほとんど気にならなくなってきました。

というのも、本当に自分が大事に思っているものや、自分の人生に大切なものは、既にすべて自分の中に詰まっていると気づき初めてきたからなのです。


■自分の中に全ての答えがある

つまり、「自分がどう生きたいか、どんな人やものが好きか、どんな友人と時間を過ごしたいか、自分が何に感謝しているのか、何を大切に思っているのか、何に高い優先順位をつけているのか・・・」
そういうものの答えは、《実は全て自分の中にある。》って気づいてしまったんですね。

それは、挫折とか失敗とか、そういう経験を通して、否応なしに自分の奥深くを見つめることになり、奥深くにある自分と対話せざるをえなかったプロセスからそう考えるに至ったのです。


自分の中に無限に広がる深い層で、世間とかを気にせず自分と対話すると(それは<たましい>のようなものかもしれませんが)、自分が好きなものとは?自分の人生を生きるとは?自分に正直であるとは?・・・・・・・
それはすなわち、
『私が私であること』に過ぎない!

という「当たり前」の「いまさら」な事実に気付いてしまったのです。


「自分に嘘をつかない」というと、何か教訓じみているような気がしてたんですが、その言葉よりも『私が私であること』の方が自分としてはよっぽどシックリくるんですよね。



■「私が私であり、あなたがあなたである」こと

自分が、自分という存在とピタリ重なること。


話していて楽しい人、好きな人、時間を忘れてキャッキャと話せる人。
そういう他者って、お互いが『私が私である』状態で話しているから、すごく楽しい時間なののではないかとも思います。

自分や相手に、みっともないとこがあっても、しょうもないとこがあっても、ダメなとこがあっても、不完全なとこがあっても、「そんなのはどうでもいいじゃない!」と声を大にして言いたいのです。

だって、それが私なんですから。
だって、それがあなたなんですから。
私が好きなのはあなたであり、あなたが好きなのは私なんですから。
私が話したいのはあなたであり、あなたが話したいのは私なんですから。
お互いが、そんな<私>と<あなた>の、<時>や<場>を共有しているんですから。



『私が私であること』の方がよっぽど大事なことなのではないかと。
『私が私』であれない時、人は苦しむのではないかと。


もし、自分のみっともなさ・しょうもなさ・ダメさ・不完全さに納得がいかなくても、自分がそこから「より良くなりたい」「より良く生きたい」と願ってさえいて、自分の軸がそういう方向性を向いてさえいれば、それでいいじゃない!と思うわけです。

そういう変化の方向性も含めて、全て自分なのですからね。
それが、『私が私であること』なのではないかと思うのです。

そうやって継続的に自分を信じ続けるためには、自分独りだけでは結構難しいのだと思います。そこには、ある他者が必要なのは間違いない。
そして、その他者とは、同じようなこと、つまり『私が私でありたい』を思い、祈り、願っている、そんな他者なのではないかと思います。それは同志とも言えます。


「私(わたし)」なんて、そんな固定化されたものでもない。
周りの他者や世界に常に影響を受けて、変化して、川の流れや雲の形のように、常に変化する流動的なものではないかと。

「私(わたし)」という抽象的で漠然とした場。
その場で、「私(わたし)」は常に生々流転して変化・循環しているものではないかと。



■区切りの時期の決意

30歳という区切りの年に決意したこと。

それは、『私が私である』こと。
そして、『イイものをイイと言う』こと。


そこでまた気づいてしまいました。

実はこれ、同語反復なんですよね。

なーんだ!そんな簡単なことだったんだー!と思ってしまいました。





自分は、『私が私である』ことを思いながら、そう願いながら生きていこうと思っています。
ですので、少なくとも僕と接するときは、『あなたは、あなたのまま』でいてほしい。

そういう当り前の関係性を作って、当たり前に仲良くしていこうではないですか!


そんなことを、ふと考えてます。
これって哲学みたいな領域なのかなぁ。別にそんな感じはしないんですけどね~。


ということで、これで自分が今考えているホットな話題はここで終わり。
まだ途中なので中途半端かもしれません。ごめんなさい!


それはそれとして、今後とも皆様よろしくお願いします!


14 コメント

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「私が私である」ためには〈場〉が必要なのかな? (Is)
2009-02-20 00:10:33
すっかりお疲れさんです。
主体性なき生活が続き、まさにココロ・ミッシングみたいな!
…と、冗談はさておき、そんな状態だから
「私が私である」ってのは、まさにピッタリなテーマで。

>外部からの評価がすごく気になって…
前に話した、5才の姪っ子の「穴あき靴下が恥ずかしい問題」に見る自我の起源。
ちなみに、男の子は小学校の終わりくらいかな?なんか、そのあたりで色気づきだした記憶がする。
やはり5~6才以上遅れとるわけね。
それで、そうした時期が高校とか頂点に達して、なだらかに落ち着いていって、
確かに、だんだんと外部が気にならなくなってくる気がする。

>お互いが「私が私である」状態で話しているから、すごく楽しい時間…
…前に糸井さんが「一人でいる時間を想像できない人とは友達になれない」って言ってたけど、
俗っぽく言えば、自立した個人同士の対等なつきあいみたいなことだけど、その言い方だと、なんだか経済的自立だけみたいで、むしろ、自尊心とか承認とかの意味での「自立」なんだろう。
そして…
>自分を継続的に信じるためには、自分独りだけでは結構難しくて、ある他者が必要なのは間違いない。
…これ、僕が「ミッチー/あややの法則」と言ってるやつだ(笑)。つまり、ナルシシズムも徹底すると、周囲に優しくなる。なぜなら、本当に自分を愛すると言うことを考えつくすと、そのための他者の重要性が分かってきて、結果、自分を愛する=他者を愛するとなる。そういう意味で、前項の、「自立」ってのを僕はstand aloneという意味ではなく、autonomyの〈自律〉=つまり、自己というシステムが淀んでなく、良好に流れている状態を維持しているみたいな意味で使いたいのだ。(…院時代に、RYMとよく話してたネタね。)

>少なくとも僕と接するときは、『あなたは、あなたのまま』でいてほしい。
… いやはや、これがホント、助かるのです。僕の最も苦手な物の一つに、「その場のノリ」ってのがあって、いわゆる空気読む問題。どうしてもあまのじゃくで、乱したくなっちゃうのよね~。そうするとイワユルノリの悪いオトコになるわけで…そいえば、ニーチェもノリの悪いオトコだったみたいですね(笑)

⇒⇒⇒
僕も、〈自我〉問題は大好きで、多分、人間として生きている間は永遠のテーマだと思うんだけど、
上記、思考にインスパイアされて、僕が最近思うのは、
1:手仕事的自我論
2:空間的自我論 
で、つまり、
ここにも書いたように、
http://blog.livedoor.jp/daiyoji/archives/65174873.html
ある種の「自分探し」的な自我論に陰りが見えてきて、
次の一手をなんとか構築したいんだけど、
その手がかりとして、
一つ目は、「職人さん」とかそうだけど、
ある種の技術の求道から、やむなく出てくる個性としての自我。
(これは本田由紀さんがハイパーメリトクラシー化に対して「専門性」を賞賛してる議論にも近い)
二つ目は、僕のテーマでもある「まちづくり」みたいなことで、
つまり、地元や郷土のような、景観とか町並みに、
自分の尊厳やアイデンティティーを投影しての自我論みたいなもの。

…う~む、また、際限なく長くなりそうな予感がしてきた。
3月には休日休みが少し取れそうなので、また遊ぼう!その時にでも続きを。

追伸:近代的自我については、ちょうど今、竹田青嗣さんの新作『人間の未来』(ちくま新書)読んでマース。
あと、こちらも新刊で、福岡伸一『動的平衡』もいいねー。ってか福岡さん、ホント素敵。
「なぜ学ぶことが必要なのか」に対する回答。
「私たちを規定する生物学的制約から自由になるために、私たちは学ぶのだ。
…直感が導きやすい誤謬を見直すために、あるいは直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、勉強を続けるべきなのである。それが私たちを自由にするのだ。」(p.60)
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Unknown (RYM)
2009-02-20 23:12:35
いやあ、本文もコメント欄も盛り上がってる感じですね。
つねづねいなばさんやIsとは話し合ってきたことですが、このあたりのことは話がつきません。

僕がこの前のいなばさんから聞いたのは「自分が自分になっていくプロセス」というものでした。いいフレーズだとおもってメモってます。

生きるとは自分が自分になっていくプロセスであると。

とはいえ、かんたんには「はい、いま自分が自分になりました、じゃあ人生終了~おつかれ!!」という事態は起こらない。

変数と答えが互いに入れ子になっている数式、循環参照したエクセルみたいなもので、常に値がさだまらない。(エクセルだとイルカに怒られるあれです)。

ときとして、自分へと回帰しようとしても値の定まらない状況にいることを楽しいと思うときがある。たぶんそれは、自分であろうとする「自律的な」プロセス自体を楽しんでいるんだと思います。

また、いっつもじぶんじぶん言ってると自分が哲学かぶれの中学生に戻ったかのような気恥ずかしい疲れを覚えることもあります。そういうときにふと思い出すのが、みうらじゅん(孔子ではなく)先生のせりふです。

旅とは「自分なくし」のためにある。

これは彼の中でもトップ10に入る名言ですね。大人ほど過剰な自我を抱えるため、それを消去するための手法を必要としている。

旅に限らず、酒や出来のいい映画や完成されたパフォーマンスは人を自我のくびきから瞬間的に解放してくれる。

もはやほとんどすべての快楽は「自我の忘却」に依拠してるのではないか、とよく考えます。


・・・話が脱線しました。
要は、私が私であることは、同時に「私が私でないこと」の快楽をも孕んでいるのでは、ということです。
またこのへん話したいですねー
返信する
私の器の形 (ともこ)
2009-02-21 00:49:24
今回のテーマは、ずっと自分にとっても大きなテーマだと思います。中3の転換期、15歳から28歳まで小噴火を繰り返し、29歳の年に結局噴火をしてしまい、結果、鎮火させて火山灰を振り落として復活するのに29歳という1年を使った気がします。自分のもつシステム、「生きるかたち」に葛藤をし続けながら。

私が私であること。

>「私(わたし)」なんて、そんな固定化されたものでもない。
周りの他者や世界に常に影響を受けて、変化して、川の流れや雲の形のように、常に変化する流動的なものではないかと。

この言葉はとてもいいですね。救いを感じます。純粋に嬉しさがこみ上げてきました。完全に固定化されたものを掘り起こしていくプロセスなのではなく、絶えず影響を受け、鼓動を打ち、科学反応し、変化するプロセス。「私」の中の核(コア)は芯となり、そのうねりの中でより強固なものになっていく。流転する中で、最初は暴れ馬のように激しい鼓動を打っていたものが、少しずつ少しずつ「私」のもつシステムを制御しながら、「私」というコアを作り上げていく。そして、変化し続ける。

私が私であること。

静的でなく、動的なものなのでしょうね。
人は、いろいろな形に作られていて、それぞれがその形の自分の「生きるかたち」を探して悩み、葛藤していくものなのでしょうね。
時として、自分のもつ器の形、そして自分のもつシステムが、他者と違う動きをすることに一喜一憂してしまうもの。自分の器を捨てて、別の器が欲しくなるもの。
でも、自分のもつ器とシステムが、無数のいのちの連なりから発生した奇跡的な存在であるならば、その器を大事にしたいですね。それぞれが、異なる形の器を持って、一生をかけて「幸せ」と「自分」をつくりあげていく。それが“より良く生きる”ことかもしれません。

>そうやって継続的に自分を信じ続けるためには、自分独りだけでは結構難しいのだと思います。そこには、ある他者が必要なのは間違いない。
そして、その他者とは、同じようなこと、つまり『私が私でありたい』を思い、祈り、願っている、そんな他者なのではないかと思います。それは同志とも言えます。

とても心強い、力強い言葉です。互いに器の形が違うけれど、“より良く生きる”ことを目指し、存在している。隣り合っている。息遣いを感じている。
「同志」であるのは、それぞれが、それぞれの器の形とシステムの中で、美しい花を咲かせるために葛藤し、傷つき、闘っているから。そして、周囲も、他者の苦しみを間接的に感じながら、一心に他者が美しい花を咲かせることを祈っているから。

>自分は、『私が私である』ことを思いながら、そう願いながら生きていこうと思っています。
ですので、少なくとも僕と接するときは、『あなたは、あなたのまま』でいてほしい。

私も『あなたは、あなたのままで』いてほしい。そう願います。
私はこれからもただまっすぐに、人と向き合っていきたい。

人が好きだから。人を諦めたくないから。
返信する
呼応することの楽しさ。 (いなば)
2009-02-21 22:49:47
いやー。この話題に反応があって嬉しい!
いつか、この辺に興味ある人同士、珈琲でも飲みながら話したい。
悩みとかを同時代で同じような質で共有してるってことだと思うんですよねー。

>>>>>>>>>>>>>>>>>Is

そうね。自我の始まりはやはり小学生くらい?中高くらいが自意識の塊。とにかく異性にもてたくてしょうがない。人に認められたくてしょうがない時期。でも、全然しょうもなくてみっともない時期。
モヤモヤの極致!でも、だからこそ日々が馬鹿げててすごく楽しかったなー。

今とは質の違う楽しさだなぁ。



『「ミッチー/あややの法則」』
→流石、いつもおもろいこと言うね!笑

『自分を愛する=他者を愛する』
『「自立」ってのを僕はstand aloneという意味ではなく、autonomyの〈自律〉』
→これもすごくいい言葉!!autonomyの〈自律〉ってのは面白いねー。
自分で律する。自分の中からリズムが出て、自分が音楽になるって感じ?!

水の流れが淀むと腐るしね。これは、わしは心臓と血管が専門で、血液の循環とかにすごく興味あるんだけど、血液の病気や動脈硬化も同じようなものですわー。


血管を人生、血液を自分と考えると面白い。

自分は血液のように心臓、肝臓、腎臓、脳・・・いろんなとこをグルグル旅して回っている。それが人生のようなものだし、旅のようなもの。でも、それは人体という箱(=宇宙?)の中で起きている。
血液が淀むと、人生である血管もどんどん痛んでくる。
動脈硬化の血管のように硬くコチコチになって、柔軟性や弾力性がなくなる。

人体って不思議な迷宮だけど、似てるなー。
これは、岡本太郎「迷宮の人生」って本読んだときも思ったものです。


『「その場のノリ」ってのがあって、いわゆる空気読む問題』
→俺もアマノジャクかもー。なんか素直に笑えないし、愛想笑いになる!笑
Is氏とか、わしのそのときの表情見ると、顔が不自然にひきつった愛想笑いしているの見て笑っちゃうかもね。笑


もちろん、和は乱さないようにするんだけど、どうも軽いノリとか苦手なんだよねー。


『1:手仕事的自我論』

技術の求道から、やむなく出てくる個性としての自我っていうのは、きっとRym氏が指摘しているような「自分なくし」「自我の忘却」なのかも!!

絵、音楽、スポーツ、武道、技・・・・そういう肉体運動を伴うものや感性を伴うものを極限まで追求すると、行き着く先は「無」の領域なのかも。

自我もなく宇宙もなく上もなく下もなく・・・絶対的な「無」の領域!
これを、仏陀は「悟り」とか言ったのかもね。



『2:空間的自我論』

これは、わしが興味ある「風土」に近い。
人間って、妙に土地にこだわるよね。立ち退き問題しかり。

長年すんでると、土地自体に愛着が湧くし。その土地や空間そのものが自分のような気がしてくるというか。自我自体を自分という箱の中で閉じ込めて置けなくなったとき、空間とか土地とか、そういうのに自分を投影するのかなぁ。この辺はあまり考えたことないけど、3月においしい珈琲でも飲みに行きながら話そう!無限に話せそうだなぁ。楽しみ!

福岡伸一『動的平衡』「私たちを規定する生物学的制約から自由になるために、私たちは学ぶのだ。
…直感が導きやすい誤謬を見直すために、あるいは直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、勉強を続けるべきなのである。それが私たちを自由にするのだ。」(p.60)
→ここ読むだけでも興味深し!
Is氏はいつもわしが全然読まない本を読んでるから興味深いわー。お互い足りないものを補完して補い合いましょうね。
メールでお奨めした、BossaBooks
http://www.bossabooks.jp/cafe/
ここで本棚作って、是非見せてほしいなー。


>>>>>>>>>>>>>>>>>RYM
『自分であろうとする「自律的な」プロセス自体を楽しんでいる』

自律的ってコトバから察するに、やはり僕らは、おのずから「私が私であろう」となっているのかもね。
だって、やはり人の目線や評価が気になって、自分に嘘ついてたりすると、妙な後味の悪さを感じるし、違和感が必ず残る。そして、これは自分しか感じることができなくて、ほかの人は絶対に感じることができないもの。
つまりは、自分にしかその答えはわからないし、自分の中に答えがあるとも言える。

この世には50億人近くの人間がいるから、各々の自律的なプロセスが干渉してしまうんだろうねー。

『みうらじゅん:旅とは「自分なくし」のためにある』

これは確かに的確!
旅に出て、違う風土や土地にいると、自分は異邦人になるしね。
異邦人であるとき、自分はそこには何の存在意義がないように見える。僕がそこにいなくても、その土地は自律的なサイクルで動いている。自分は何の役にも立たないし、時部はその土地にとって木や雲や草のように、風景と同じ存在。それが、「自分なくし」ってことなのかもしれない。
風景や自然と同じような存在になることなのかもね。
そして、これはIs氏の『2:空間的自我論』に近いのかもしれん。

わしが大好きな雑誌のタイトルは「風の旅人」。人は、皆「風の旅人」である、と。
かっこいいタイトルだなぁ。



『私が私であることは、同時に「私が私でないこと」の快楽をも孕んでいる』

色即是空を言うだけではなく、空即是色として逆から返して完成するってのと似ているかもしれんね。そういうメビウスの輪構造。

「私が私である」こと。つまり、私がピタリと一致した瞬間って、「無」なのかも。
それは、同時に「私が私でない」としても矛盾しない。なぜなら、「無」なのだから。

おっと、禅問答みたいで面白くなってきたー笑

またこのへん話しましょー。
一人だとグルグルしてきてよくわかんなくなってきちゃうけど、ほかの人と考えると、奥行きが増しそう。


「私が私でありたい」と願う人同士で、「私が私である」状態を話す。これはかなり刺激的ですなー。想像しただけで楽しみ!



>>>>>>>>>>>>>>>>>ともこさん
『今回のテーマは、ずっと自分にとっても大きなテーマだと思います。』

このグルグル問答に参加してくれて有難うございます!
でも、この辺は、実は同時代を生きて、同じような悩みを共有するもの同士で、実はほとんど同じなのだと思うのですよね。
社会に出ると、社会の論理、集団の論理、職場の論理・・・・いろんなものが幅を利かせて来て、「私が私で」あれなくなってくる。それは自分の根幹を揺れ動かすような出来事。
でも、その感受性に麻痺してくると、そこから感じることに似げて、挙句の果てに感じなくなる。
そうなると、永久に「私が私で」あるチャンスが遠ざかる。
でも、わしは死んでいく瞬間、つまり自意識が消えていく瞬間には、誰もが「私が私である」状態となり、死んでいくんだと思ってもいますね。
この辺は、死とか自意識の消滅を考えていたときに、ふと思ったこと。


『流転する中で、最初は暴れ馬のように激しい鼓動を打っていたものが、少しずつ少しずつ「私」のもつシステムを制御しながら、「私」というコアを作り上げていく。そして、変化し続ける。』
『静的でなく、動的なもの』
→まさしくわしのイメージです!同じような風景を見ていると思います。
しかも、実は自然に目を向けると、森羅万象はそういうもので生きているように見える。

水も空気も気流も風も雲も植物も光も・・・・・・


自然は偉大です。人間なんて自然の部分にすぎないと、個人的に思っているんで。
その全体である自然の営み、自律する自然を丁寧に見ていくと、色々感じることは多い。
だから、わしは取り付かれたように登山にはまったのかもしれない。
みんなで登山とか、自然を共に感じに行きたい。同じ風景を見て、その共通体験をきっかけに、また話すときっと面白そう。
今は都市化されて、自然と分断化されてきているし、自然は意識的に感じに行かないといけなくなったからね。


『自分の器を捨てて、別の器が欲しくなるもの』

隣の花は確かに赤く見えた時期もある。ないものねだりもある。
でも、自分の器を、自分の器と認めないと、実は何も始まらない。

人の借り物ではなく、自分の人生を生きないといけない。
自分の人生を大切にして、自分の人生を生きないといけない。
そんな、各々が自分の人生を生きているのなら、他者を尊重しないといけないし、感謝しないといけない。

「自分の人生を生きよう」と思ったり、「私が私であること」を続けていると、おのずから他者への敬意や感謝は生まれてくると思う。
かく言う自分も、こういうことを意識しだしてから、コメントを書いてくれているIs氏も、Rym氏も、ともこさんにも、すごく感謝しております。もちろん、コメント書いてはいないけど読んでいる人にもね!



『美しい花を咲かせるために葛藤し、傷つき、闘っているから』
『周囲も、他者の苦しみを間接的に感じながら、一心に他者が美しい花を咲かせることを祈っているから』

わしも、他者の美しい花が咲くのを祈っている一人です。
この世は百花繚乱!

わしも人間、好きです。
生きとし生けるもの、すべて好きです。

同志ですね!!

また、続きを話しましょう!
返信する
私とは (ShinK)
2009-02-22 16:59:40
何度も読み、少し自分の中に置いておき、ようやくコメントできそうです。

「私が私であること」。
これはぼくの中でも大きなテーマです。
(そういえば高校生のとき尾崎豊が「僕が僕であるために」と唄っていたのを思い出します)

よく歳をとっていくと、頑固になっていくといいます。それは果たして、私が確立していくことなのかどうかと考えると、なんだか自分の中では違う気がします。

「私が私であるため」こととは、孤立的に凝り固まるのではなく、他との交流が前提で相対的な価値観の中から、しっくりくるものを見つけていき、自信を得ていく中で成っていくものな気がする。

言い換えると、感動するような多くの価値観や生き方に触れ、それらが自分の中に入ってきたときに少しづつ構築されていくのではないでしょうか。

まさにパソコンのインストールという行為に近いイメージがしてます。
何かいいものに触れたら、それが自分に感動という行為によってインストールされていく。

ほんとは、もっとずっと一緒にいたかったのだけれど、それができないときには、その人のいいところが自分の一部になって残るように取り入れたり。

そうやって、様々な知識、価値やものの見方が自分に宿って、自分になっていくのではないかと最近は思います。

同じことを宮澤賢治は、春と修羅の中で「有機交流電燈」と言ってますし、谷川さんは、「成人の日」で「流れ動く多数の意見にまどわされず とらわれぬ子どもの魂で いまあるものを組み直しつくりかえる」って言っている。

*******by 宮澤賢治
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
一つの青い照明です

風景やみんなといつしょに
せはしくせはしく明滅しながら 
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
********

******** by 谷川俊太郎
他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
でき上がったどんな権威にもしばられず
流れ動く多数の意見にまどわされず
とらわれぬ子どもの魂で
いまあるものを組み直しつくりかえる
それこそがおとなの始まり
永遠に終わらないおとなへの出発点
人間が人間になりつづけるための
苦しみと喜びの方法論だ
**********

自己価値が確立していくには、できるだけたくさんの価値観からどれがしっくりくるのかを確かめて、たとえ空気を読まずに壊したとしても自立的に駆動できる知的、体力的充実も必要だよね。

やっぱり周りと違っても自分は自分の道というのは、一度しかない人生を精一杯謳歌するには必須。

宮崎アニメの「耳をすませば」で雫の父親(声:立花隆)が進路で苦しんでいる娘の雫に「人と違う道をいくには、それなりにしんどいぞ」と励ます部分があるんだけど、なんだか「青春漂流」を書いた立花さんが本心で言っている気がして妙に心に残ってます。

ぼくは、まだ何だかなんだいって他人を目を100%気にしていないかと言うとそんなことはきっとないし、多分、よく思われたいという気持ちもあるんだと思う。

でも、自分を押さえて無理して何かにつき合ったり、仕事をしたりは多分長くはできない。そう言う意味においては、変人や宇宙人だと思われても無問題。むしろ褒め言葉に感じるね。

自分色で生きて、自分と自分のまわりの人々が幸せになれればいい。
今はそう思います。
返信する
こんにちは (ちょぴはぴ)
2009-02-22 18:26:42
こんにちは。
おじゃまします~

私が私であることって
自分を自分で認められることかなぁと思います。
まさに同語反復ですね^^

それには自分に注がれる愛情を感じたり、
注がれた愛情があったと気付いたり、
そういう事が作用するのかなぁって思いました。

長く劣等感や自己嫌悪を、今思えば余分に感じながら生きてきましたけど、
最近やっと自分もちゃんと大切にしてあげたいと思うようになりました。
そのきっかけにに、両親だったり周りの人達の愛情が浮かんだ気がします^^


ところで、いなばさんの絵は楽しい絵ですね!
色がカラフルで個性的^^
子供向けのメッセージを付けて絵本にしたら素敵なものができそうだなぁという印象。

私も漫画好きなので、コメントで紹介してくださった、お茶の出てくる漫画をチェックしてみます~
ちなみにMY棚も覗かせていただいたのですが、
数少ないウチにある漫画(借りて読むばかりで、あまり買わない)の5作のうち4作がありました!おぉ。
返信する
色んな視点からのコメントはかなり参考になる! (いなば)
2009-02-23 01:40:13
なんか多様にコメントが連なって楽しいなぁ。
色んな人生から、色んな視点から、色んな角度から、この問題を書いていくことって、かなり深いとこにたどり着けそうな気がする。わくわく。

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>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ShinK
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『孤立的に凝り固まるのではなく』
『他との交流が前提で相対的な価値観の中から、しっくりくるものを見つけていき、自信を得ていく中で成っていくもの』

同感ですね。
「わたし」という狭い檻で自己満足するわけではなく、閉じられては駄目なんですよね。
開かれていないといけないし、緩やかに無理なく循環のサイクルに含まれているような雰囲気。

『感動するような多くの価値観や生き方に触れ、それらが自分の中に入ってきたとき』

感動ってのは大事な感情だよね。
感情の中でも、「感じて動く」と書くわけで(これはあいだみつをの書にもあった)、感情により動的な状態に移行していくことだと思う。
これは、ともこさんがコメントで書いてくれた、「静的ではなく動的なもの」というのに一致します。

感動って何なのだろうか?
何故ああも自分の魂をわしづかみにされ、そして心や魂が震えるのだろうか。
時に涙が出たり、呆然と動けなくなったり、途方もない彼方に連れて行ってくれる。

この辺はかなり大事な要素かもね。
自分の軸とか芯とか、そういう自分にとって最も大事で秘密の領域に、近接しているから、心が共鳴・共振して震えが来るのだろうか。
「恋に落ちる」ってのも、ある意味近い概念なのかも。


『まさにパソコンのインストールという行為に近いイメージ』
→なるほどねー。これは僕らの世代っぽい言葉!縄文時代とか明治時代とかの人とかにはピンと来ないかもしれんけど、僕らにはよく分かる。


『様々な知識、価値やものの見方が自分に宿って、自分になっていくのではないか』
→他人が憑依してきたり、他人のものを受け継いで、自分の部分になったり・・・そういうプロセスで有機的に他者と交流していくってのはすごくよく分かりますね。
それは過去と現在と未来を考えたり、死んでいった人々を思うときにも似たことを感じる。


宮澤賢治「有機交流電燈」、谷川俊太郎「成人の日」
いづれもイイ!すごく感じ入る言の葉。プロの詩人はやっぱすごいね。言霊を感じる。


『自分色で生きて、自分と自分のまわりの人々が幸せになれればいい。』
→自分に目の届く範囲のまわりの人々。これは大事!
あまり大きく欲張っちゃいけない。
自分の友人や好きな人、親しい人、尊敬する人。そういう手の届く人を思いながら、自分がその場の中で、いい気流を生む。その気流は更に別の気流へ・・・・。

『私が私である』って、イメージはわくんだけど、言語化はなかなかムズイなー。ま、今後も、この人生を目いっぱいいきながら、現実逃避しないように一緒に色々考えて生きましょう!



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>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ちょぴはぴ様
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LaStradaさんつながりでコンニチワ!
このブログではお初ですね!

『自分を自分で認められること』
→認めるってのは好きになれるかということにも似てますね!
やはり、自分が好きなものっていうのは、理屈を超えて、自分をよく反映していると思うのですね。好きな本しかり、好きな人しかり・・・。

自分が好きになれるかどうか。それが、『私が私である』かどうかのリトマス試験紙になるのかもしれません。


『私が私である』って、よく考えると単なる同語反復なんですよ!
同語反復って、かなり大事なことなんでしょうね。
どんどん、その本質から離れていっちゃうってことだし、初心に帰ったり、元の根っこに戻るってことなのかもしれませんね。


『自分に注がれる愛情を感じたり、注がれた愛情があったと気付いたり』

そうですね。愛情も一方的なものではなく循環させるもの!

Shin.K氏もブログで引用してましたけど、
Mr.Childrenの"風と星とメビウスの輪"で、
==================
愛されて 優しくなれて
その優しさ故に愛されて
君と僕が
そんなメビウスの輪の上を笑いながら
寄り添って歩けたなら
(作詩 : 桜井和寿)
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という詞を思い出しちゃいます。名曲だー。


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パソコンで絵を描くと、制限があるんである程度でやめれちゃいますけど、手書きで描いたり、それこそ油絵とかになっちゃうと、いつまでたっても絵が完成しなくてキリがないんですよね。
手紙とかちょっとした紙にも、昔からイラストを添えるのが趣味なので、小学生時代から今まで、数え切れないほど意味不明な絵を描き続けてきてます。これは、ほとんど『業』のようなものでしょうか。(笑)


茶道で千利休をテーマにしている『へうげもの』はかなりオモロイですよ!いつかお会いする機会あればお貸しします。漫画は部屋に溢れてきて洪水になりそうなのでなるべく買わないようにしてますが、どうしても買ってしまう。せっかく大人になって自分でお金を稼げるようになったので、漫画文化を支えるという崇高な目的のために(完全なる言い訳)、新品で買うようにしてます。数少ないウチにある漫画・・・逆に興味深いですねー。手塚漫画かなぁ。手塚漫画は、僕の人生でばら撒きまくってるんで、ほんと色々みんなに読んでほしいんですよねー。あんな偉大で素敵な日本人がいたって、みんなに知ってほしい!
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そうですねぇ~ (雨音)
2009-03-05 02:00:18
私が私であることそれは貴方が貴方であることだと思っています。だからこれらをすべて満たすことは大変難しい。
自我の香りムンムンの自分だったはずなの自分が、ここ数年間、成り行き上自我を抑えて暮らす生活をしてきました。
それは人間の形をした人形のようなものでした。
今ごろになって、やっといやなものはいやだとはっきり言えるような強さ?を持てるようになった気がしています。
そして、本来自分が持っていた、生命の歩みを大切にしたいと思っています。
しかし、せっかく奇跡的にこの世に存在し、めぐり会えた人々とは出来るだけ仲良くしたいのですが、現実はそうではありません…
人間は自分一人だけでは生きていけないのだから、そこのところが上手くやれる人と苦手な人とで、生きにくさの違いが出てくるのでは、と考えたりもしています。
とにかく、私が私らしくは、貴方(それぞれ)が貴方らしく在ることが出来ることなので、それは一種の楽園に等しいと思ったりもしています。
では、また~
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A Song for XX (いなば)
2009-03-05 14:46:17
>>>>>>>>雨音様
『人間は自分一人だけでは生きていけないのだから』
と思えるには、まず過剰な自意識が崩れるプロセスが必須になるでしょうね。
自分一人で生きていく!ってのは、僕には自意識過剰な感じがしています。というのも、この世には他者の存在のおかげで全ての生活が成り立っているのは当然で(食事、交通、仕事・・・)、そのことはそのこととして受け入れないといけない。
ただ、人間は独りで生まれて独りで死んでいくのもコトワリですね。
その両ポイントは独りなのだけど、その間は、独りで生きることを続けるのはかなり難しい。

ふと思いだしたのが、初期の浜崎あゆみの「A Song for XX」って曲。
初期の浜崎あゆみって、結構歌詞が哲学的で好きだったんですよね。

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「A Song for XX」
作詞:浜崎あゆみ
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 どうして泣いているの
 どうして迷ってるの
 どうして立ち止まるの
 ねえ教えて
 いつから大人になる
 いつまで子供でいいの
 どこから走ってきて
 ねえどこまで走るの

 居場所がなかった 見つからなかった
 未来には期待できるのかわからずに

 いつも強い子だねって言われ続けてた
 泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
 そんな言葉ひとつも望んでなかった
 だから解らないフリをしていた

 どうして笑ってるの
 どうしてそばにいるの
 どうして離れてくの
 ねえ教えて
 いつから強くなった
 いつから弱さ感じた
 いつまで待っていれば
 解り合える日が来る
 
 もう陽が昇るね そろそろ行かなきゃ
 いつまでも同じ所には いられない
 
 人を信じる事っていつか裏切られ
 はねつけられる事と同じと思っていたよ
 あの頃そんな力どこにもなかった
 きっと 色んなこと知り過ぎてた

 いつも強い子だねって言われ続けてた
 泣かないで偉ねって褒められたりしていたよ
 そんな風に周りが言えば言うほどに
 笑うことさえ苦痛になってた
 
 一人きりで生まれて 一人きりで生きて行く
 きっとそんな毎日が当たり前と思ってた

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最後の方も含めて、思春期の若い時の、自我形成期や孤独感。
そんな心境が満載で、僕はすごく好きなんですよね。この時期の浜崎あゆみって。

自意識を形成している途中の思春期であり、『私が私でありたい』けれど、『私が私であれない』場で感じる孤独感とか、自分への偽善とか・・・。なんか色んなのがこの歌詞に込められてるなーって思っています。

これは結構脱線しました。

雨音様がおっしゃるように、私が私であれる場は、アナタがアナタでいてくれる場と一対になっているのかもしれません。鶏が先か、卵が先かって話はあるかもしれませんが、自分としては、まず『自分が自分であり続けること』を続けさえすれば、同じような趣向を持った人たちが、自然に集まってきて、場は形成されていくんじゃないかと思っています。
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三投稿 (Imura)
2010-08-28 03:19:31
私にとって「私が私であること」は「私の周りの人が喜んでくれること」でしょうか。
「Imura、ありがとう~」「は~い」って会社でやり取りするときが一番幸せです。
コミュニタリアンって言葉、最近NHKのハーバード白熱教室見てて、知ったんですが、僕は90%くらいこの考え方だなぁと思いました。(いなばさんの文章に呼応してるかしら??)
まあ、コミュニタリアニズムって狭い社会では成り立つけど、広くなるとよくわかんないし、自分は狭い社会の中の一員だから、ま、いっかー。
「好かれたい。よく思われたい。もてたい。高い評価を受けたい。愛されたい。尊敬されたい。かっこよく思われたい。イイ人と思われたい。・・・・・・・」
これらのことって、僕は今でも「まあ、そうなんだけど~」って感じですが、(笑)ま、それはおいておいて、その人が喜んでくれたら、それで十分じゃんって感じです。
なので、他人がいないと自分がない、という感じでもあり、もともとの自我がないんではないかとも自分では捉えています。泣
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