●大駱駝鑑
大駱駝鑑という舞踏集団の『穴』という演目を見てきた。
大駱駝鑑はHPを見てもらえばわかりますが、全身白塗りで踊る人たちで、いわゆる<正統派>な踊りではない。
奇妙奇天烈な感じはあるかもしれないけど、エンターテイメント性もあって楽しく見れる。
異質な世界なのになぜか同質な世界を感じる。
違うのに同じ。同じなのに違う・・・。
この舞踏を生で見て五感で感じたこと。
それは、最近感じて考えていたことでもある。
それは、『同じ』と『違う』に関しての事柄。
■『同じ』と『違う』のあわい
僕らは、『同じ』と『違う』のあわいの世界(あわさった部分)を生きている。
僕らの「五感」や「感覚」の世界は『違う』世界である。
全ての人間は『違う』し、この世に存在する万物は全て『違う』。
わたしとあなたも『違う』し、わたしとあれもこれも・・全部『違う』。
見るもの、聞こえるもの、触るもの、におうもの、食べるもの・・・全ての人で全てのものは全て『違う』。
でも、そんな世界だけだと生きにくい。混乱する。
自分の目の前にある「何か」を「誰か」に伝える時、何かとっかかりがないと何も伝えることができない。
たとえば「言葉」を発明したことで、何らかの『同じ』概念世界ができて、その共通のものがあるおかげで、誰かに何かを伝えることができる。
『違う』世界は感覚の世界であり、
『同じ』世界は概念の世界である。
そんな『同じ』と『違う』の二つの円が交わるあわいの領域に僕らは生きている。
●「ミカン」
例を挙げる。
僕が「ミカン」と言うとする。
僕も貴方も、「概念」として『同じ』ようなミカンが想像できる。
黄色くて、球体で、片手の大きさくらいで、食べ物で、甘くて・・・というように、だいたい『同じ』ようなミカンが想像できる。
しかし、目の前にあって触れることのできるリアルな世界でのミカンは、全て『違う』。色や触感や大きさや表面の凸凹や匂いや・・・全てが全て『違う』。
そんな『同じ』と『違う』世界を結びつけているものが、「ミカン」という「言葉」であって、僕らは常にそのあわいの領域を生きている。
●『違う』と『同じ』を求める
僕らは人と『違う』ことを求めると同時に、『同じ』であることを求める。
洋服、小物、持ち物、趣味、考え・・・。
他人と全く同じでは満足できない。
でも、誰からも認められないのは嫌である。
全ての人から途方もなく『違う』ことだけを求めているわけでもない。
生まれてから死ぬまで、この世の誰一人からも共感を感じてもらえない人生は辛いだろう。
つまり、『違う』ことを求めながら、『同じ』であることも強烈に求めている。
言語的に矛盾するけれど、実際にはそんな世界に間違いなく生きている。
●『同じ』がはらむ危険性
『同じ』でくくられる世界は、そこで閉じられる構造をつくる。
そして、その閉じた『同じ』世界からはみ出す人を、『違う』と名づけ、その人を排除することで『同じ』を保とうとする力が働く。
それはイジメや差別や暴力につながる。
輪が『同じ』を維持することだけが自己目的化すると、輪は分裂していき、小さい輪を作ってとじていき、『同じ』を保とうとする。
それは、専門馬鹿や井の中の蛙などの構造を生み出す。
『同じ』の力は強いし、暴力性を帯びる。
『違う』色を『同じ』色で染めようとする力が働く。
でも、『違う』は、人間の尊厳や「かけがえのなさ」の本質だと思うのです。
●『同じ』と『違う』の輪が交叉する場所
最近、そんな風に『同じ』の輪と、『違う』の輪をイメージしながら、「今のこの状況は二つの輪がどんな感じで重なっている状況かなー」なんて想像するとすごく面白い。
そして、この発想は『生死』『男女』『自己と他者』『こころとからだ(心身)』・・・色んな二つの用語において全て応用できることがわかってきた。
そのあたりは、目下思索を深め中なのです。
そんな風に、僕らは『同じ』と『違う』のあわいを生きている。
『同じ』と『違う』のあわいの領域が大きければ大きいほど、より理想的な状態なのかもしれない。
そして、より多い『同じ』と、より多い『違う』を同時に共有して、そのあわいが多ければ多い人こそ、自分が好きな人なんだと感じています。
大駱駝鑑という舞踏集団の『穴』という演目を見てきた。
大駱駝鑑はHPを見てもらえばわかりますが、全身白塗りで踊る人たちで、いわゆる<正統派>な踊りではない。
奇妙奇天烈な感じはあるかもしれないけど、エンターテイメント性もあって楽しく見れる。
異質な世界なのになぜか同質な世界を感じる。
違うのに同じ。同じなのに違う・・・。
この舞踏を生で見て五感で感じたこと。
それは、最近感じて考えていたことでもある。
それは、『同じ』と『違う』に関しての事柄。
■『同じ』と『違う』のあわい
僕らは、『同じ』と『違う』のあわいの世界(あわさった部分)を生きている。
僕らの「五感」や「感覚」の世界は『違う』世界である。
全ての人間は『違う』し、この世に存在する万物は全て『違う』。
わたしとあなたも『違う』し、わたしとあれもこれも・・全部『違う』。
見るもの、聞こえるもの、触るもの、におうもの、食べるもの・・・全ての人で全てのものは全て『違う』。
でも、そんな世界だけだと生きにくい。混乱する。
自分の目の前にある「何か」を「誰か」に伝える時、何かとっかかりがないと何も伝えることができない。
たとえば「言葉」を発明したことで、何らかの『同じ』概念世界ができて、その共通のものがあるおかげで、誰かに何かを伝えることができる。
『違う』世界は感覚の世界であり、
『同じ』世界は概念の世界である。
そんな『同じ』と『違う』の二つの円が交わるあわいの領域に僕らは生きている。
●「ミカン」
例を挙げる。
僕が「ミカン」と言うとする。
僕も貴方も、「概念」として『同じ』ようなミカンが想像できる。
黄色くて、球体で、片手の大きさくらいで、食べ物で、甘くて・・・というように、だいたい『同じ』ようなミカンが想像できる。
しかし、目の前にあって触れることのできるリアルな世界でのミカンは、全て『違う』。色や触感や大きさや表面の凸凹や匂いや・・・全てが全て『違う』。
そんな『同じ』と『違う』世界を結びつけているものが、「ミカン」という「言葉」であって、僕らは常にそのあわいの領域を生きている。
●『違う』と『同じ』を求める
僕らは人と『違う』ことを求めると同時に、『同じ』であることを求める。
洋服、小物、持ち物、趣味、考え・・・。
他人と全く同じでは満足できない。
でも、誰からも認められないのは嫌である。
全ての人から途方もなく『違う』ことだけを求めているわけでもない。
生まれてから死ぬまで、この世の誰一人からも共感を感じてもらえない人生は辛いだろう。
つまり、『違う』ことを求めながら、『同じ』であることも強烈に求めている。
言語的に矛盾するけれど、実際にはそんな世界に間違いなく生きている。
●『同じ』がはらむ危険性
『同じ』でくくられる世界は、そこで閉じられる構造をつくる。
そして、その閉じた『同じ』世界からはみ出す人を、『違う』と名づけ、その人を排除することで『同じ』を保とうとする力が働く。
それはイジメや差別や暴力につながる。
輪が『同じ』を維持することだけが自己目的化すると、輪は分裂していき、小さい輪を作ってとじていき、『同じ』を保とうとする。
それは、専門馬鹿や井の中の蛙などの構造を生み出す。
『同じ』の力は強いし、暴力性を帯びる。
『違う』色を『同じ』色で染めようとする力が働く。
でも、『違う』は、人間の尊厳や「かけがえのなさ」の本質だと思うのです。
●『同じ』と『違う』の輪が交叉する場所
最近、そんな風に『同じ』の輪と、『違う』の輪をイメージしながら、「今のこの状況は二つの輪がどんな感じで重なっている状況かなー」なんて想像するとすごく面白い。
そして、この発想は『生死』『男女』『自己と他者』『こころとからだ(心身)』・・・色んな二つの用語において全て応用できることがわかってきた。
そのあたりは、目下思索を深め中なのです。
そんな風に、僕らは『同じ』と『違う』のあわいを生きている。
『同じ』と『違う』のあわいの領域が大きければ大きいほど、より理想的な状態なのかもしれない。
そして、より多い『同じ』と、より多い『違う』を同時に共有して、そのあわいが多ければ多い人こそ、自分が好きな人なんだと感じています。
強烈だけどなんだかほっこりさせられるような一面もある、印象的な舞台でしたネ。
同じ舞踏を一緒にみて、また私はあなたと「同じ」く「ちがう」ことを考えたから、目下、まとめにかかっていますが、、、もう少し時間がかかりそう。
いや、それにしても!!としくんよ!
*****
より多い『同じ』と、より多い『違う』を同時に共有して、そのあわいが多ければ多い人こそ、自分が好きな人なんだと感じる
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というところ!
まったくその通りだね。最近自分がまさに考えていたテーマだったので、ビックリしました。
私、誰かを好きだと思うとき、「違う」が好きなのか「同じ」が好きなのか、よくわからなかったのだけど、最終的にそれは不可分なのではないかと思い『あわい』に到達したのですよ。
んんん~~
起きて生活している現実の世界と対比的に、寝てる夢の世界を覗いてる気がしたものです。
同世代の人が、ああいう世界に人生かけて生活かけて打ち込んでるっていうのは心に響くわー。
「違う」と「同じ」って、言葉としては表と裏なんだけど、そこが大きく重なる部分が間違いなくあって、そこに僕らは生きていて、その合わさった部分からそれぞれの方向を眺めているに過ぎないんだなーってシミジミ思ってます。
それがどんどん分離していくと、危険なんでしょう。
「同じ」と「違う」は間違いなく交叉する部分がある。
人を愛するとき、同じとこも、違うとこも好きになれるってのが、その人の全体を好きだってことだと思うのですよね。
同じとこだけ好きってのはその人の部分に過ぎなくて、違うとこだけ好きってのも部分に過ぎない。
まず関係性(縁)が先にありきで、その上でワタシとアナタが生まれる。
ワタシがアナタを、アナタがワタシを好きなのは、同じであり違うである、そんな全体を好きでないと、その関係性は破綻する。それが、一人の人間の全体性なんだと思う。
若いときって自意識過剰で自分に都合よく考える傾向があるから、あるときは「同じとこが好き!」とか「違うとこが好き!」とか、自分勝手に都合よく切り取って使い分けちゃうんですよね。
それは、すごく自己中心的でエゴ丸出しな一方通行なんだと思います。
こうやって、少しずつ色んなものごとを疑って(デカルトの方法的懐疑?)自分で丁寧に考え直すと、なんか大人になったなーって思います。(笑)
「大人の階段、のーぼるー」(H2O「想い出がいっぱい」)って感じ?