日常

一条真也「法則の法則」

2012-04-29 18:50:14 | 
一条真也さんの「法則の法則」三五館 (2008/6/23)を読みました。
この本、ものすごく面白い本でした!めちゃくちゃおすすめです!20冊分くらいの価値あります。

一条さんの知識の深さと広さはすごい。しかも文章がうまいのでとても読みやすいツルツルと読めてしまう。
一条さんのブログは、更新頻度も質も量も、ブログの中で一番すごいと尊敬しています。毎日見てます。
一条さんのHPには個人本棚も紹介されていますが、ビジネスから、古典から、神秘主義、ホラー、オカルト、宗教、流行もの・・・・ありとあらゆるジャンルをカバーしていてほんとにすごい。読書界の偉人として(単に読むだけではなくて質の高いものを書いているのがさらにすごい)、個人的に大尊敬のお方です。(すごいしか言えない自分のボキャブラリーの貧弱さが悲しいですが・・。)


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<商品の説明 内容紹介>
■人類の叡智がこの一冊に結集!
「黄金比」「白銀比」といった“美的法則”から、ガリレオ、ニュートンの“科学法則”、マルクスの「資本論」、マルサスの「人口論」、ダーウィンの「進化論」といった“人類の法則”までを縦横無尽に語りながら、最終的には、「人類の法則」を導き出しました。
独自の視点から「法則」に迫った史上初の「法則研究本」にご注目ください!

■本書に登場する「法則本」の数々
『引き寄せの法則』『「原因」と「結果」の法則』『鏡の法則』『「そ・わ・か」の法則』
『ザ・シークレット』『思考は現実化する』『ザ・マスター・キー』『ランチェスターの法則』
『マーフィーの法則』『資本論』『国富論』『人口論』『般若心経』『エミール』『聖書』
『人を動かす』『道徳感情論』『空想から科学へ』『天球の回転について 』『幸福論』 etc...


<内容(「BOOK」データベースより)>
なぜ、「法則」などというものが存在するのか?
そして、いったいどんな「法則」があるのか?
「法則」を知った者は、本当に仕事がうまくいき、成功して、愛を得て、幸せになれるのか?本物の法則とは何だろう―。
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この本は、自己啓発の世界でも使われたりする色々な『法則』を俯瞰して、その色々な『法則』の根底にある共通テーマ(=法則の法則)を探ろうとしている。

自己啓発本はpositive thinkingから生まれ、positive thinkingはニューソート(新思想)というキリスト教へのアンチテーゼとしての新霊性運動から来ている。ニューソートは巨人スウェーデンボルグ(神秘思想家であり大科学者であり霊界探索までした人。当時の科学会でもノーベル賞20個分くらいの業績を残しているとんでもない偉人)に行きつく・・・。


この本では、ありとあらゆる世界を縦横無尽に駆け巡る。まるで先の見えないジェットコースターに乗っているかのように、ワクワクした期待とドキドキした驚きとで読み進めることができる。素晴らしい読書体験を伴う本だった。



この本の中から印象的だったものをメモ書き程度にお知らします。興味を持った方は、是非買って読んでみてください。



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小林正観さんの「そ・わ・かの法則」=「掃除、笑い、感謝」が大事。
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中村天風『ありがたいという気持ちを持ち続けていれば、不平、不満、怒り、おそれ。悲しみなんか自然に消えてなくなる。』

中村天風の三行の生活:正直に、親切に、愉快に過ごすこと。
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美輪さんの「ああ正負の法則」より(←自分も美輪さんの本の中で一番好きな本!!!)
『正負の法則に反して、正ばかりになると天界の法則になり、地球の法則に反してこの世では生きられない。
逆に負ばかりになると、それは魔界の法則になり魔界に呼ばれる。地球の法則に反してこの世では生きられない。
地球上で生きている限り、魔界の負の部分と天界の正の部分とのバランスをとりながら保ち続ける。』
『人を見たとき、魔界族か天界族かを見分けるようにするといい。この人は魔界から来てるんだ。だからこういう人なんだ。と割り切って考えれば、人間関係は楽になる。』
『負と共に生きる知恵が大事。悪いことが起きても嘆き悲しむことはない。なぜなら悪いことは長く続かない。
でも、同様に良いことも長くは続かない。
だから、良いことがあったときは、施しをするなどして、そこそこの【負の先回り】を自分で意識してつくるといい。
そうすれば、予期しないものすごい負に襲われなくて済む。』
(ほんとうに名言だと思う・・・)
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アレンの「「原因」と「結果」の法則」より

心は思いの工場である。
心で自分を破壊する兵器を作り続けるか、美しい人格を作るための優れた道具を作り続けるか。
その選択は自分自身にかかっている。
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【引き寄せの法則】に関して。
ロンダ・バーン「ザ・シークレット」がヒットした。
「引き寄せの法則」とは、思い、イメージすることが、あなたに引き寄せられてくる。ということ。
「思考は似た思考を引き寄せる」「思考は現実化する」
その源流をたどると、「ニュー・ソート」に行きくつ。
アメリカは、初期時代から「幸福追求運動」なるものがあり、そこと結び付いた。それが成功哲学やpositive thinkingへとつながる。

【引き寄せの法則】は、人が何か欲しいものに意識を持続的に集中させると、宇宙はその最大の力で欲しいものを引き寄せる。
ただ、欲しいか欲しくないか、不要か必要かは選別できない。
そのため、悪いこともいいことも、思い続けるとそれは何らかの形で現実化する。
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「マーフィーの法則」を最初に紹介したのは渡部昇一(大島淳一という別名を使っている)
この中で、お金持ちになるための、「富」を全面的に肯定している。
お金持ちになるための科学となった。
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→「引き寄せの法則」は、「考え」が「現実」を引き寄せる(そして、その人の現実Realityを作り出す)、ということ。
「いいこと」を考えれば「いいこと」が現実化する、という側面が強調されると、アメリカ式のpositive thinkingへとつながる。

ただ、この世界は人間の善悪の概念をはるかに超えた法則で動いている。だから、「いいこと」というものが「自我」とか「利己」から来ていたら。とんでもないしっぺ返しを食らう事がある、という側面もあるみたいです。それはその通りだと思いますね。善悪の概念なんて、平和なとき、戦争時、自分が殺されようとするとき、・・・・いろんな状況でどうとでも変わってしまうのが、歴史を学ぶとよくわかることでもありますから。

思考が現実を引き寄せる、というのはよくわかります。
思考することは集注(集中)すること。注意を集めることでフォーカス(焦点)が合い、その焦点を中心点とした世界が自分の中でのRealityとして展開していく(映画のスクリーンを見るように)、という感じかもしれません。
それは、現実を引き寄せていると同時に現実を作り出しているようなもので。物事は本当はニュートラルで中立でそれ自体には意味がないのだけれど、「思い」が意味を与え、作り出していくように。

さらに深読みすると、「引き寄せの法則」は本当に何かを「引き寄せ」てしまう。「お金がほしい!」と思うことは、逆に言えば「お金が足りないという現実」を思っていることの裏返しになる。お金が自分の手に入ってくる、という非現実な事柄よりも、むしろ「お金が欠乏している」現実がさらに自分に引き寄せられる、という効果を生んでしまうのかもしれません。そうなると、何がなんだかよくわかりません。笑

いづれにしても、この天地自然を巡る宇宙の法則は、ちっぽけな一人の人間の浅はかな都合通りに動いてくれないのは間違いありません。






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岸田秀の「唯幻論」
『人間は本能の壊れた動物であり、本能にかわる行動指針として自我を作った。
自我は人為的な作りものであり、幻想にすぎない。
人間は「幻想」を必要とする。』
『動物の個体生命は、同種の他の生命とつながっているので、種全体の一部。だから動物には死の恐怖はない。本能だけ。』
『人間が分離の不安と共に得たものが、死の恐怖。
「死の恐怖は耐え難い恐怖ですから、人間はその恐怖を鎮めるために、実は自我というのは切り離されていないんだ、神につながっているんだ、という信仰を必要としているのです。それが宗教になったんだと思います。」
人間は壊れた本能の代わりに自我を持つ。
世界全体も、何らかの意思を持つ主体と見えてくる。それがアニミズムになる。』
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→精神科医の岸田さんの考えはユニークで面白い。
確かに、人間は動物が持つ「本能」の一部が壊れ、その埋め合わせに「自我」を配置したのかもしれない。「自我」はサーチライトのような司令塔。基本的には自分の損得ばかり勘定して活動する性質を持つ。「自我」のおかげで人間は「思考する」働きを持つことができて動物と違う道を歩み、個人個人は「みずから」の意思で生きることも許されるようになったのでしょう。
それはよくもあり、わるくもありますね。



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天動説では、月を境界として、月から上の世界(天上界)と月から下の世界(地上界)とに分けて考えていた。
天上界ではエーテルという元素でできているが、地上は火・水・空気・土の四元素の組み合わせで物質ができるとされた。
天上界の星は等速円運動をするが、地上界では落下と上昇の直線運動が起きる。
法則は別々とされた。統一した科学は生まれなかった。
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→天動説は月を境界とした考えに基づいていた、というのは初耳でした。月を境にして法則を二つに分けていたんですね。すごく勉強になります。
天動説(周りが動いている)から地動説(周りが動いているように見えるだけで、ほんとうは自分たちが動いている)へと、「コペルニクス的転回」が起こり、物事の視点が完全に入れ替わる時期が到来する。
僕らも、そういうことを知識では知っていても、本当の意味で理解するのはなかなか難しいですよね。
太陽が東から登って西に沈むとき、「あー自分たちが回っているなぁ」とはなかなか思わないものですし。笑
でも、ほんとはそういうことなんだよ、と思いながら朝日や夕日を見ることができたら、この宇宙法則の深遠さに、さらに圧倒されます。



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ピタゴラス→プラトン→フィチーノ→コペルニクスの流れがある。

【ピタゴラス】(BC582-BC496年、古代ギリシア):大いなる知のためには、マテマタと呼ばれる四つの学問をしなければいけない。
「数の学」「形の学」「星の学」「調和の学」。それぞれ、算術、幾何学、天文学、音楽、に発展した。
ピタゴラス派の霊魂不滅説をプラトンが学ぶ。

【プラトン】(BC427-BC347年、古代ギリシア)::真の世界としてのイデアの世界があり、この現実界は仮の世界に過ぎない。
世界は根元における「一者」を頂点として成立する。
「一者」は多様性と統一性であり、善であり完全である。
「一者」は全宇宙に偏在しており、人間は仮の住まいである肉体を離れて魂の目で宇宙を見るとき、その中に真の秩序としてのコスモスを見る。
このコスモスは人間の魂の中の内的宇宙でもあり、マクロコスモスとミクロコスモスは合一する。

魂は、故郷であるイデア界に帰還する。
天上的なプラトンに対して、地上的なアリストテレスが生まれるが、アリストテレスにも「第一動者」としての『神』は同じように想定されていた。

【マルシリオ・フィチーノ】(1433-1499、イタリア):ルネサンス期の15世紀、「普遍的自然宗教」を考えた。
プラトンを受け継ぎ発展させた。新プラトン主義と名乗り、「太陽論」を書いた。

「太陽論」では、「一者」と天地創造を読み重ねると、「一者」とは「光」であり、具体的には「太陽」である。
太陽は、熱や光や愛を流出する存在。
世界を司る宇宙全体の霊を「世界霊」とした。

【コペルニクス】(1473-1543、ポーランド)は、フィチーノを受けて宇宙の中心を太陽とした。
2世紀にプトレオマイオスが大成させた「天動説」を12世紀後に「地動説」へと変えた。

【ニュートン】(1642-1727、イギリス)、ガリレオ(1564-1642)が亡くなった年に誕生した。
1687年にプリンキピアで運動の3法則(=慣性の法則、運動の法則(万有引力は距離の2乗に比例する)、作用反作用の法則)。
ニュートンは敬虔なキリスト教徒であり、聖書解釈学者であり、錬金術師でもあった。
ニュートンの遺稿の半分を落札したのは経済学者のケインズ。
かなりの部分が錬金術の研究でケインズも驚いた。
ニュートンは、最初の物理学者であり、最後の魔術師だった。
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→ピタゴラスは、頭のいい数学者というイメージがあるけど、ほんとうは「ピタゴラス教団」という秘教的で閉鎖的な宗教集団のようなものを作っていた人なんですよね。でも、概してそういう人は宇宙の真理を直観的につかんでいることも多いわけで。

いろんな天才的なひとたち(ある種の予言的な能力者)が考えることは、大勢のひとの考えや時代の波長に合い、同調すると、時に応じて宗教になり、科学になり、流行になり、思想になり・・・・いろんなものを形作っていくのだろうと思う。時には違う時代や違う場所になって初めて理解されることもあるわけで。

僕らは、そういう色んな歴史の落とし子を、第3者の目で冷静に平等に学ぶことができる。なんとも恵まれた時代だと思う。ちゃんと勉強しないと罰があたりますね。







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アメリカでの動き。
クインビーは「病気は心に思うことから生じる。」とした。
精神療法がニューソートのはじまりで、その源流はスウェデンボルグ。

宗教改革を経てイギリスのピューリタンが新大陸アメリカにやってくる。
こうした倫理が宗教と結びつくと、宇宙の調和と美、神の愛、人間本性に宿る神的なものの自覚と人間への善性への信頼などを強調する、肯定的で力強い宗教思想が形成される。これがニューソートの考え方の根幹。
人間の負の側面に関しては、意思と信仰(信念)の問題ととらえる。

エマソンは各人が自由、明朗な個性を伸ばす事の重要性を唱えた。

ニューソートは、第2次世界大戦後、「ポジティブ・シンキング」の名で大流行した。
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→やはりスウェーデンボルグは偉大だなぁ。大哲学者カントの同時代の人。スウェーデンボルグの幻視や千里眼や霊界の話を聞いて、カントも人間が持つ「理性」の極限を考えるようになり、それが「純粋理性批判」につながった、と聞いたことがある。ちなみに、最初にスウェーデンボルグを日本に紹介したのは、世界的に有名な禅僧の鈴木大拙です。
スウェーデンボルグはもっと研究されていいと思う。(「天界と地獄」は、宮崎伸治さんいう方の翻訳で再販(ミヤオビパブリッシング (2012/01))されてるのを本屋で見かけます)
むかし感想を書いたランディさんの「アルカナシカ」でも少しふれられてます。(→田口ランディ「アルカナシカ」(2011-07-03)


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松下幸之助
「無理をしないということは、理に反しないということ。理に従うということです。」

日本では、法則よりも理を重視。
論理、情理、倫理、実理、真理、道理・・・
物知りよりも、理を介する事を物分かりとする。
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松下幸之助
「天地自然の理に従った生き方をすればいいのです。
それは別にむずかしいことではなく、言いかえれば、雨が降れば傘をさすということです。」
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→松下幸之助さんのおっしゃるように、登山をするたびに「天地自然の理」というのを全身で体感します。その中で自分は生かされている、という感覚も。 「理(ことわり)」というのは確かに響く言葉ですね。糸がこんがらがってなんだかよくわかんなくなったら、「これは果たして天地自然の理に適っていることなのか?」と考えてみると、道は自ずから開けてくることも多いように感じます。


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小林正観さんのブッダ解釈。
苦とは、思い通りにならぬこと。それを受け入れることが楽になること。
仏陀は、この世の苦しみの根源は思い通りにならないことだと見抜いた。
だから、思い通りにしようとせず受け入れよ、と言った。その最高の形がありがとうという感謝の言葉。

いまの状況が気に入らないということは、その状況を用意している宇宙や神に対して宣戦布告しているようなものだ。

宇宙を味方にする最良の方法は、ありとあらゆることに不平不満、愚痴、泣きごと、悪口、文句を言わないこと、否定的、批判的な考え方でものをとらえないこと、に尽きる。
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→このブッダ解釈は素晴らしい。受け入れようとする受容的な態度は、自分の「器」を広く深いものにしていきます。「理解できるもの」だけを受けれいれるのではなく、「理解できないもの」でもそのまま受け入れれば、自分の器が深く広く大きくなったとき、やっと「理解できるもの」になるのでしょう。

肯定的な考え方でものごとをとらえるのは、宇宙や天地自然すらも味方にしてしまうという考えは、とてもよく分かります。物事は、実はニュートラルで中立ですから、自分の人生の中でそこにどう意味づけするかは、結局自分しかいないんですよね。






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手足を失った中村久子さん。
無の世界から有の世界を見出した。

手もひじから先がないのではなく、ひじから上が、ある。
膝から下の足がないのではなく、膝から上が、ある。

ととらえた。


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『ある ある ある』 中村久子

さわやかな秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える良人がある
「ハーイ」という娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し かおを洗う
短いけれど指のない
まるいつよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな秋の朝
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中村久子さんは、両手がないことで唯一の不便は、両手を合わせて感謝の念を示す合唱をできないこと、だけだと言った、と。
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→中村久子さんのこの深い言葉は衝撃だった。自分でお金を稼ぐために見世物小屋のようなアンダーグラウンドの世界で20年近く働いていた、と。
そんな人間の闇の闇、底の底まで見るような生活の果てに得た真理は、「ある」という真理。
「ない」のではなく、「ある」。生命が「ある」。存在が「ある」。
ある、ある、ある。という真理。

中村久子
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」







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自分の誕生日は、両親に対して心からの感謝をする日。心を感謝モードにする第一スイッチ。

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→これは自分もガツンと来た。自分の誕生日は、プレゼントをもらったり、祝ってもらったりする日だと、勘違いしていた。
そんなことよりも、「自分」という「存在」をこの世に生み出してくれた両親たちへの「感謝の日」にすればいい。それは、中村久子さんの「ある」という真理にも近い。自分が「ある」。
これは自分も実践しようと思った。 親孝行は大事ですね。幼稚園でも習うことです。



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吉田松陰
「志というものは、国家国民のことを憂いて、一点の私心もないものである。
 その志に誤りがないことを確信すれば、天地、祖先に対して少しも恐れることはない。
 天下後世に対しても恥じるところはない」
「志士とは、高い理想を持ち、いかなる場面に出会おうともその節操を変えない人物を言う。
節操を守る人間は、困窮に陥ることはもとより覚悟の前で、いつ死んでもよいとの覚悟もできているものである。」

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→吉田松陰が放つ高潔な言葉に、現代の僕らは思わずたじろいでしまうくらいの熱さがある。享年30歳(満29歳没)の短い生涯を命がけで全速力で駆け抜けた人生から学ぶべきことは多くあります。自分は吉田松陰の享年よりも年上になっていますが、そこまで情熱をかけて生きているのか、と、少し恥ずかしい気持ちになってしまいました・・・・・。




最後に、一条さんの言葉から。一条さんのお人柄や人格の高さを表していると思います。


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「夢」から「志」へ、
「求めよさらば与えられん」から、「足ることを知る」へ、
「黒魔術」から「白魔術」へ
「呪い」から「祈り」へ
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このことに尽きますね。

この本を読んでいろんなことを学べたし、それでいて心に深く染み込んできました。
・・・とってもいい本でした! 一条さんの本は全部集めて全部読みました。どの本もすべて味わい深いのです。


なにはともあれ、「そ・わ・かの法則」=「掃除、笑い、感謝」を!

2 コメント

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百万画素。 (さ。)
2012-04-30 02:03:45
「そもそも「見る」という行為は、ほとんど幻覚に近いと私は思っているのです。携帯電話でさえカメラは何百万画素もありますが、ヒトの目の網膜は百万画素しかありません。精度から言えば、荒くざらついた映像にしか脳にと届いていない。でも、脳が「見た」と感じる風景は全く違いますよね。少ない情報を得たうえで、脳は「目の前にあるのはきっと××だろう」と決めつけている。だから少ない情報でもこんなになめらかな世界を感じることができる。網膜から入ってきたわずかな情報を手がかりに、本当は見えていないはずの膨大な情報を推測しながらリアルな体験をしている。だから幻覚に近いんです。」


脳科学者の池谷裕二さんが、対談でこう言われていたのを最近読んで、がーんとなりました。百万画素だったんだーっていう「がーん」と、逆に考えると、人間の想像力って、すごくない?!という「がーん」だった。見るという行為は、どういうことだろう。私たちは、一体何を見ているのだろうかと、考えさせられた。これは、想像力、想念というものの力の強さの裏返しであるようにも思えた。
一番恐ろしくもあり、面白さでもあるのは、自分が見えている世界というのは、自分にしか見えないということだなあということ。だからこそ、芸術が生まれるのだとも思うけれど。先日、友人と小さい頃の話になって、お絵描きの時間に、その子は、見えるままに、地面を緑に塗って、「地面は茶色でしょ!何見ているの!」と、先生に怒られて、初めて、自分の見えている世界が人と違うのだと知りショックを受けたというのを聞いて、驚きました。いわゆる色盲?なのだろうけど、そういう話を実際に聞くと驚いた。この前、TVでも、亀は、人間よりも多くの色が見えているというのをやっていて、それも驚いた。
大多数の人が茶色と見えていても、ごく一部の人は緑色に見えていて、それはどちらも同等に真実なはずなのに、茶色であると決められる。そして、これは、多分、細かいことを言えば、一人一人が微妙に違う色に見えている可能性もあるわけで。。 養老先生が、言葉というのは、「違う」ものを「同じ」にしまうものだと書いてらしたのを思いだすけど。 この世とあの世、生きている世界、見ている世界、生きていると思っていることも、実は丸ごと幻覚だったりして・・・なーんてことも、思い浮かんでしまう。マトリックスの世界になってくるよなあ。こわーい。。。 


・小林正観さんは、ずっと興味があったけど、やっぱり読んでみたいなと思いましたー(あ、この一条真也さんの本も。)

「掃除、笑い、感謝」「正直に、愉快に、親切に」 ←シンプルで、ストンと体に落ちてくる。


・引き寄せの法則で、欠乏状態を引き寄せるという無残な逆効果、というのに、ナルホドと思いました。言われてみれば確かにそうだ。

・誕生日、私も、いつからか、「産んでくれてありがとう」だなあと思って、自分のなかで、ありがとうの日にしました。喜んだり悩んだり笑ったり泣いたり生きていると色々忙しいけれど、それを全て味わえるのは、産んでくれた人がいるからで。すごいことだなあ。生命の不思議。命は鎖みたいだなあと思います。人間の場合は、必ず二つから一つが生まれる。それが一つでもかけたら、今の自分もないわけで。自分が親になったら「生まれてきてくれてありがとう」と思うのだろうな。


・それにしても、スウェーデンボルグは、やはり偉大だったのだなあ。「天界と地獄」を丁寧に読み進めていると、思わず瞑想をして宇宙とつながりたくなります。小さいことに悩んで、大きいことに嘆いて、ジタバタしている毎日や自分がちっぽけだなあと思うと同時に、その毎日の行いが大切なのだなあと、気付かせてくれる。偉大です。

いつも本の紹介が、嬉しいです。楽しみにしています。

思わず読んだ気になってしまうという噂もあるけど。笑。。
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偉大な人はたくさんいるもんだ。 (いなば)
2012-05-01 18:59:12
・そうそう。生理学で習うんだけど、池谷さんがおっしゃるように、視覚の基本は100万画素。それを再構成してる。
他にもいろんな錯視や錯覚の集合体なんだよね。
よく出てくる例として、本を読んで文字を縦に読むとき、脳は自動的に文字が止まっているように補正してくれる。だから文字も読める。それを体感するには、携帯についてるカメラを通して本の活字を追ってみるといい。頭が痛くなる。(笑)

そういう意味で、脳を通過している段階で、基本的に『偏見』がうまれれちゃうんだよね。間違いなく。でも、それを自覚しているのと無自覚でいるのは、かなり違うと思うのです。そういう意味で「目を覚ますように」主張した初期の人としてブッダがいると思います。あなたが見ている夢からちゃんと目を覚ましなさい、と。

・小林正観さんはやや自己啓発本に近い印象はあるけれど、一条真也さんは本当に本物の読書人で知識人だっていう気がする。松岡正剛さんのような博覧強記の生き字引きで。人格的にもいろんな面で尊敬できるお方です。いつかお会いしたい。

・誕生日ふくめ、不断から親に感謝することは大事だと思うんだよね。なんでも言うは易し行うは難しなんだけど、ある年齢を超えてから、その辺は自分で自然にできるようになった。恥ずかしさ自体が、自意識過剰だ、ということに気づいてしまったし。(笑) 中村久子さんのように、やはり『生きている』ことを『ある』として考えて、その肯定の1点から全てを展開していけば、それは無理のない力強く気高い人生になるのだな、と感じます。

・スウェーデンボルグは確かにすごいね。彼に影響を受けている人は数知れずいるでしょう。ヘレンケラーとかドストエフスキーとかもそうだしね。
ヘレン・ケラー「My Religion」
『私はこの偉大な川に私の指を突っ込む。
これはすべての星よりも高く、私を包む沈黙よりも深い川である。
それのみが偉大であり、他のすべては小さく断片的である。
スウェーデンボルグの著作に埋まっている激励的な思想と高貴な情感との半分でも、
私が他の人々に説明することができさえしたら・・・。
もし私がスウェーデンボルグを、霊的に盲聾である世界にもたらす手段となることができたら、
私にとってどんな大きな喜びであるだろう』

・スウェーデンボルグが、人間の一生の記録は霊界の書物に記録され、それが最終的には一文字として表現される、とか書いていて、結構衝撃だった。(笑)
基本的に、この世界は<神の愛と知恵>の現れなのだ、という壮大な世界観は、現世も霊界も全て含んで話しが展開していくので、クラクラしちゃいます。


とにかく。
一条さんの本はどの本も読みやすくて面白くてためになる。ほんとうの読書人っていう感じがします。


スウェーデンボルグ「生命」
『宗教はすべて生命に関係し、宗教の生命は善を行なうことにある。』
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