龍一京/瓜生章の活動日記

作家龍一京/瓜生章の日々のあれやこれやを綴っています

書きたくない症候群

2016年10月01日 | 龍一京の一口メモ
今私は「書きたくない症候群」に陥っています。
なぜでしょうか、このところ小説など長編の文章を書きたくない。文章から一度離れたい。解放されてじっくり考えてみたい。そんな気持ちに陥っています。こんな気持ちに陥ったのは初めてといっていいでしょう。最も何もかも書かないというの

ではありません。歌の詩は相変わらず、ぼちぼちですが作っています。どこかで毎日少しずつは、何らかの文章を書かなければ落ち着かない、気になる、そんな気持ちもあるのです。よくよく考えてみるとやはり体力の落ち込みからくるものだと思い直し、今は、少しでも体を動かし、体力作りから始めています。有り余るほどの体力を持つことは不可能ですが、歩いても、軽く走っても息切れをしない。普通に歩ける程度にだけはしたいと、そちらの方に力が入っているような気がします。

もちろん、それだけであれば時間は有効に使えません。ですから、書くことが完全に切れないように、好きなことを毎日書いていきたいと思い、少しずつペンを走らせています。
面白いことに、今はまだ何も書かないと腹をかためてしまうと、気が楽になる一方で、時間を持て余してしまいます。その間はごろごろして寝るだけなのですが、「小さな旅」「ドキュメンタリー」などのテレビを見ていると、いつの間にかメモ

帳を持って、漁師料理や、その港の特徴、漁港の様子、春夏秋冬の珍しい動植物の営みなどなど、興味のある部分をどんどんメモしています。
「書きたくないとき、書けないときはメモを取れ」これは私の考え方ですし、長年守ってきたことなのです。メモを取っておけばいざというとき(どこかでメモをしたはず)と思い出し、必ず後から役にたってくるものと私は信じて疑いません。事

実、メモをしたことは小説にも、童ばなしにも、作詞するときでもそのメモが大いに役立っています。とはいえ、物書きが文章を書きたくない。そうなってはもう終わりです。私の場合、次に各小説、わらべ話のため、作詞のために今は充電中。そんところです。体調が整い次第、自分の書きたいものをとことん突っ込んで書いてみたい。それが物書きの生きざまだと理解しています。5年、10年、まだまだ元気で生きていたいものです。  ではまた。



















早めの健康診断必要ですよ

2016年09月25日 | 龍一京の一口メモ
病院にはなかなか行きにくいものです。ちょっと調子が悪いと思っても、つい勝手に素人が自己診断をして、まあいいだろう、もう少し様子を見てみようと勝手に思い、なかなか病院には行かないものです。しかし、病は静かに、ひたひたと近づいているのは間違いありません。私の場合、昨年一昨年と「肝細胞がん」で二度の手術をしました。しかし、今年の春検診を受けたところ全くその気配すら感じられず、医師から゜今のところ大丈夫です」と言われ安心していたのですが、夏、3

か月ほどして定期検診をしたところ、7ミリ程度のがんができていました。まだ小さいですが、発見されたということは彫っておけば確実に大きくなってくるのは間違いありません。
つまり、言いたいことは、春に発見されなかったがんが夏には見つかったということです。わずか三か月での出来事です。私の場合、幸いなことにまだ程度が深刻な段階にまで至っていないからよかったものの、体がだるいとか、熱が出るとか、

痛みがあるとか、人によっていろいろと症状は違うでしょうが、もし進行性のがんなどで、場合によっては取り返しがつかないこともあるのです。自己診断ほど危険なものはありません。
特に、糖尿病などの場合、ひどい体のだるさを感じたり、何もしたくなかったりすることがあります。ただ、糖尿病を放っていると、足が壊死して切断しなければならないなど、大変なことになります。心臓にしても、脳の病気、脳梗塞なども同

じです。絶対に自己診断して「まあいいか」と思い治療しなければ、病気はいっぺんに進みます。危険なことなのです。
私の周りにも病院嫌い、医者嫌いな人はいます。しかし、たとえ健康そうであったとしても、せめて半年に一度くらいは健康診断をしたいものです。

病魔は身近にいる。そう思って面倒くさがらずに、健康診断は確実に受けてほしいものです。   ではまた。





















頼りすぎ、任せすぎは友人を失う……

2016年09月15日 | 龍一京の一口メモ
人を信用し、信頼すると、つい頼りすぎ、任せすぎるようになる。当然のことだとは思うが、注意をしなければ大事なものを失う危険性をはらんでいる。そのことを自覚しなければならない。
誰でもそうだと思うが、信用、信頼している相手に対しては、胸襟を開く。そこで悪気など全くなく、ついつい何でも気軽に頼んでしまうことがある。そのこと自体が危険なのである。自分は気軽に頼み事をしても、無理やりでなければ何も感じ

ないが、頼まれた相手は貴重な自分の時間を割かれるわけだから、あまりいい気はしなくなる。もちろん一度や二度であればそうも思わないだろう。だが何度も重なってくると次第に、頼まれること自体がうっとうしくなってくる。それは頼んだ側からすると、これくらいはいいだろうとか、あの人だから頼めるなどと、勝手に自分の気持ちで判断している。しかし、うっとおしくなった相手は次第に遠ざかるようになり、気が付いたときは「なぜあいつは俺から離れて行ったのだろうか」

「俺が何か悪いこと、癇に障るようなことをしたのだろうか」と考えるようになる。だが、いくら考えてもすぐには気付かないものである。
つまり、しょせん他人同士、ほんの少しでもいいから相手のことを考え、付き合いをしていけば相手を怒らせることもないし、付き合いも長続きする。ところが親しいがゆえに、親しすぎるがゆえに、相手のことを気にしなくなることがある。そ

うなったとき、気が付いたら友達は自分の傍から離れていた。そんなことは常にあるのだ。
どんなに親しくても、気の許せる相手でも、そこは礼儀というものをわきまえて気を使わなければならないのである。過去に、私自身が何度も同じ失敗を繰り返している。だから「親しき中にも遠慮あり」そんな姿勢を常に考えながら日常生活を

していかなければならない。つまり、時々は自分自身と、自分の周りの人間関係を振り返ってみることが必要なのではないだろうか。  ではまた。

















































趣味でも仕事でもすぐ諦める者は……

2016年09月12日 | 龍一京の一口メモ
「諦めるな」とはよく聞く言葉である。
例えば趣味でも仕事でも、結果は続けることで結果に近づくものだし、結果は出るものである。今になって過去を振り返ってみると、あれもしたい、これもしたいと思い、もちろんできなかったこともあるが、「これだけは何が何でもやり通して

みたい」と考えて、真剣に取り組んできたものはそれなりに満足がいく結果が出ています。ところがやり始めて、途中から嫌になったり、気が変わったり、面倒くさいと思って諦めたことというのは、間違いなく放り出しているし、何も結果は出ていない。何事かをやろうと思って、自分なりに納得ができるのは、大体10年くらい続けたときですし、10年経過すれば、世間の動きも変わってきています。10年前にやり始めたことでも、10年も経つと全く役に立たないもの、時代遅れ

になって使い物にならないこともあります。もちろんそんなときは無用なものは諦めたり、捨てたりしてもいいのですが、ちょっと待った! 10年間続けてきたことは必ず自分の中で、後々役にたったり、自分の考え方の基礎をしっかり作ってくれているものです。それは、諦めずこつこつ続けたことえの「ご褒美」と言ってもいいでしょう。

例えば私は警察官をやったり、商売をしたり、いろいろしてきて、そこには失敗もあったし成功もありました。しかし、小説を書きたいと思い一直線に突き進んだとき、警察官の時の体験や、商売をして成功したり、失敗して大きな借金を抱え、生きることさえ諦めそうになった時期のことが、小説を書くことによって、その経験がものすごく役に立ちました。つまり、趣味でも仕事でも、決して無駄なことは一つもありません。いつか役に立ちます。

いま私は日本全国各都道府県に関わる歌謡曲・演歌・わらべ歌などの詩を自分で書き、その詩に曲を付けるということをやっています。これももう10年近く続けていますが、まだ目が出るまでに至ってはおりません。しかし、作っておけばいつか、誰かが唄ってくれる。そんな期待感が今の自分の気持ちを支えてくれています。 楽しみを持つこと。楽しみは自分で作ること。そうすれば前向きな気持ちになれます。  ではまた。


ちなみに私は今日から後期高齢者ですが、老け込んでなんかいられません。もう少し、結果が出るまで楽しみながら続けたいと思います。

ということで、今日は、徳間初戦の岩淵さん、光文社の遠藤さんと、久しぶりに会います。話して唄って、楽しい席になりそうです。 













人と接するときは褒めるべき……

2016年09月01日 | 龍一京の一口メモ
物事を教えたり進めるときには二通りの方法がある。一つは相手に厳しく接すること、そしてもう一つは相手を褒めながら接することである。
ただ、人というのは厳しく当たられると、つい反発したくなったり、ついて行けずに腰折れしたり、悩みを抱え込んだり、諦めたりすることが多い。また、我慢してついて行ったとしても、イライラしたり、ストレスを貯め込んだりして、あまり

いい結果が期待できないのが現実である。もちろん厳しく接することで相手がすごく伸びてよくなったり、強くなったり、逆に厳しさに対する辛さというものを身を持って体験しているだけに、やさしく接することができたりすることもまた事実である。しかし、人は褒められる方が伸びるのだ。

褒められるということは気持ちを前向きにさせる。つまり、気持ちの中で嬉しくなり、自分から物事を前向きにとらえるようになる。褒められて悪い気になる者は誰もいない。やはり気持ちがいい物なのである。一度褒められたら、次も褒められようと思い頑張る。その繰り返しが相手を大きく伸ばしたり、いいところを引き出し、良い結果を生み出す。それは間違いない。

しかし、ここで注意しなければならないのは、褒めっぱなしでもよくないということである。10に一つくらいは厳しさを混ぜないと、緩みっぱなしでわがままになってくる。人間ともすれば楽な方に、楽な方に流されていく傾向がある。よって時には厳しさも必要である。とはいえ、褒める人のところには人が集まる。だから仕事相手など、個人的にあまり深い付き合いをしていない相手に対しては、時に厳しい顔を見せることも大切だが、おおむね褒めていれば間違いない。厳しく、厳

しく接するのは、結果として自分のところから人が去っていくことにもなりかねないのだ。
特に、女性や子供はその傾向が強い。褒めてくれた相手はよく覚えているし、厳しく怒られた相手に対しては、たとえ覚えていたとしても排除しにかかる。こうしたことから真の友達に対しては厳しく接することも必要だが、日常の付き合い程度

の相手なら、褒めて誉めちぎればうまくいく。嫌なことでも、時には自分を殺して相手を立てることも大事なことである。   ではまた。