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④-6キリシタンへの迫害 

2014-08-30 | 残酷実話 
こんにちは、不思議館へようこそ 

勝家は唐津藩主と共にこの度の戦争の責任は悪政によるものだと問われた。
勝家は改易、所領を没収され、4月12日には美作国津山藩主に預けられた。

勝家の屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が多数出てきたため、これが決め手となり、5月になって江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首に処せられた。
通常、大名が不名誉な斬首に処せられることはなかったので、いかに幕府が勝家の悪政を重罪として扱ったかがわかる

農民のたくさんの犠牲はほんの少しだが、報われたのだ。

今回の一揆勢の中にキリシタンは多かったが、武器を持って戦った為に殉教とは見なされなかった。
この一揆は農民一揆である。事の発端がキリシタン捕縛に、総大将が天草四郎時貞であったことからキリシタン一揆のように扱われるが、実際の指導は庄屋、地頭といった農民指導者である。

キリシタン弾圧だけでこのような一揆は起こらなかったのだ。
しかし、幕府はこれをキリシタン一揆であると発表。

キリスト教は日本の国を攻撃し、占領しようとする邪宗であるとの考えを国民に更に植え付けたのだ。
こうして、完全に豊臣の大阪方につく者はいなくなったのだ。

キリシタン達もこの制度の中、ますます身動きできなくなり、宣教師もやって来ない為、教える人も、励ます人もいなくなった。

もはや、出口の見えない夜明けを待つしか無くなったのである。

④-5キリシタンへの迫害 

2014-08-30 | 残酷実話 
こんにちは、不思議館へようこそ 

領主の勝家はたとえ凶作でも容赦せず、重い年貢の取立てを行ったが、払えない農民の責任は庄屋や地頭の責任として激しく攻めた。
そして、卑怯にも庄屋や地頭の子供や女を人質に取ったりもしたのだ。

津村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、晩秋の冷たい水牢に裸で入れられた。
庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、寒さに震えた。

そして出産を迎えたがそれは、暖かい産湯ではなく、汚く冷たい水中で出産し、絶望の中で子供と共に絶命してしまった。そしてとうとう、耐えかねた領民はついに立ち上がり、代官を殺害した。

百姓一揆は領内全域に広がり、天草の庄屋たちも一揆勢に呼応。
総大将に天草四郎時貞が担ぎ出された。

寺沢の富岡城を包囲攻撃するが、板倉率いる幕府軍の到着を察知し、島原の城に立て籠もることなった。
籠城者は26800人であったという。

やがて九州からも幕府軍への援軍が到着するが、城を落とすことが出来ない。
幕府は松平信綱を派遣して事に当たるが、それでも落城しなかった。

幕府軍の総勢は12万人余であった。
松平はオランダ商館に、原城砲撃の命を下した。

オランダ商館は「オランダ人忠節」を実行し、海上から.原城に砲撃を加え、その見返りとして、ポルトガル船の日本からの締め出しを計ったのである。

更に、各大名の九州や東北諸藩に一揆を警戒するよう、幕府が呼びかけた。
他の地方の一揆が起こらないようにしたのだ。

1638年4月、幕藩連合軍の一斉攻撃により島原城は落城。

哀れに正義の為にたちあがった老若男女の別無く、皆殺しとなった

④-4キリシタンへの迫害 

2014-08-30 | 残酷実話 
こんにちは、不思議館へようこそ 

その当時、島原は有馬晴信、天草は小西行長というキリシタン大名の領地であったため、領民もキリシタンが多かった。

赴任した領主、松倉と寺沢はキリシタンを過酷に弾圧した。
また松倉は島原に城を建設、農民を大量に導入し過酷な作業に手伝わせた。

更に幕府に良いところを見せようとした松倉・寺沢の両氏は、領民に凄まじい税金をかけた。
当時の藩の2.5倍の負担を幕府に申し入れていたと言うから、農民からの年貢等の取り立てはとても厳しかった。  

寛永11年(1634年)になると悪天候と旱魃が凶作を引き起こしたが、領主の勝家はたとえ凶作でも容赦せず、重い年貢の取立てを更に行ったのだ。

米や農作物の取立てだけでなく、重ねて人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して取り立てた。

税を払えない農民は娘や子供が蓑(みの)を着せられ、それに火をつけて苦しむ姿を「蓑踊り」と呼んで見せしめにもした。
その姿を見て、近所の者達は涙を流し、親は狂わんばかりに泣き叫んだ。

領内にあったキリシタン達は更に弾圧され、苦しみと飢餓の中潜伏するしかなく追いつめられていった。
それも見つけれられて、穴吊りにされ殉教をくりかえした・・

誰もが、何が正義で悪なのか、自分が生きている意味がわからなかった。
怒りや憎しみは頂点に達した・・

そして、自分達を助けるヒーローを待ち望んだ・・

④-3キリシタンへの迫害 

2014-08-30 | 残酷実話 
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1614年の禁教令から1644年までの30年間で、密入国しようとした宣教師は百名以上にのぼった。
彼らは、キリシタン禁制がゆるく、流刑にあったキリシタンも多くいた東北地方などで布教を行っていた。

1629年までにフランシスコ会は東北で26000人の信者を獲得した。
1626年までにイエズス会も20000人以上を獲得している。

しかしそれも禁教令が強化されていく中、迫害は厳しく、殉教者、辞める者が次第と増えていった。
1638年、イエズス会の幹部でアントニオ・ルビノは、フェレイラを立ち返らせようと、日本潜入を計画し二つの宣教隊を組織した。

ルビノを含む宣教師5人と他の4人の一行(第一隊)は、1642年マニラを出発したが、薩摩に着いたとたん捕まり、長崎で全員が穴吊り刑で殉教した。

一年後、日本管区長ペドロ・マルケスを頭とし、ジュゼッペ・キャラを含む十人の一行(第二隊)は、筑前の大島で捕らえられ、江戸の切支丹屋敷に護送される。

なんということか、彼らは立ち返らそうとしたフェレイラこと沢野忠庵に会ったのだ。
逆にフェレイラに、教え諭され十人そろってキリスト教をすてるはめになった。
フェレイラは、人に説教をするのが得意で、その話術は素晴らしかったとある。

彼らはフェレイラと同じく、日本名を与えられ、妻を強制的にとらされ、小日向の屋敷で生涯を送ることとなった。

このうちの二人はキリスト教に立ち返ろうとしたが、一人は女囚の牢に入れられ(宣教師への拷問の一つ。女囚の牢に入れ、性的欲望を促す)そこで病死。
一人は家族(強制的に作られた)の反対により断念した。

キャラは岡本三右衛門と名付けられ、フェレイラと同じ宗門改方となり余生を過ごした。

十人の宣教師が全員日本人になり、念仏を唱え、しかも戒名をつけられたというのは無残としか言いようがない。

何をしに日本に来たのか・・

皮肉にも十人は、長生きした者が多くキャラはこの小日向の屋敷で42年間過ごし、84歳で死亡。他にも80歳前後まで生きた者が3人いた。人生50年の時代に。

この後65年間、宣教師潜入は途絶えた。

④-2キリシタンへの迫害 

2014-08-30 | 残酷実話 
こんにちは、不思議館へようこそ 

大幹部フェレイラが裏切ったことは他のキリシタンに、どれほどの精神的ショックを与えたかは計り知れない。
そしてフェレイラを待っていたのは、恥さらしの生き地獄であった。

江戸の小日向にある下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることになった、フェレイラは沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。

そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに信仰を捨てる事をすすめ、宣教師との通訳を務めさせられた。
これにより、キリシタンの会合の日時や、集会場は次々に暴露されキリシタンは、迫害されるに輪がかかったのだ。

彼は、同じ信心しているもの同士が、残酷な拷問を受けているのにもかかわらず、見ているしかなかった・・
火あぶりで、穴吊りで阿鼻叫喚でそれぞれ殉教し死んでいき、裏切ることは無い同志を見ていて何を思ったのだろうか?

彼は1650年長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた
ちなみに同じ時同じ拷問を受けた中浦ジュリアンは、穴吊りに屈せず殉教した。

どの時代にも、獅子身中の虫がいるものだ・・

④ キリシタンへの迫害

2014-08-28 | 残酷実話 
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家康は関ヶ原の戦いの後、改易された多数のキリシタン大名達が、キリシタンに好意的な大坂方についていることで、結びつくことを恐れていた。

キリシタンの高山右近が加賀前田氏の元で重職を担いつつあったことも、家康の恐れるところであった。

その為に何かきっかけがあれば、キリシタン禁止令を施行したいと思っていた。
しかしキリシタン人口は順調に勢力を伸ばし、1613年には、蝦夷の地まで布教の手が伸びたのだ。

キリシタン禁止令直前の頃に信者は36万人いたといわれている。
そしてついに、1614年1月(慶長十八年十二月)、「伴天連追放文」が日本国中の人へ公布された。

幕府は、最初こそキリシタンを次々と殉教させていったが、ある日気ずいたことがあった.

それは、栄光の殉教者となることは、キリシタンにとっては、凄く名誉の死になることを。
それよりも拷問により、布教及びキリスト教をキリスト教徒の目の前で捨てさせることに方針を切り替えたのだ。

その為、よりさらなる悲劇が生まれてきた。

1609年日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように布教活動を行った。
1614年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続する事になったが、その後フェレイラは日本区長になった。

1633年捕らえられたが、フェレイラを他のキリシタンは彼が殉教するものと信じて疑わなかった。

彼は、使節の中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。
穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。

その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というシンプルなものであったが、内容は残酷極まりない。
吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにし、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開けて血を抜き、そう簡単に死なないようにした。
穴の中に大小便、嘔吐などの汚物を入れ、地上で騒がしくし寝むらないように、気絶しないようにした。5時間に及ぶ拷問の末、フェレイラはキリシタンを裏切ってしまった。
穴吊りで意識が朦朧とした者に「念仏を唱えよ、されば助けてやる」と迫っていたのである。

そしてとうとう、フェレイラは「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えてしまったのだ・・

⑥ 死んだお婆さん

2014-08-28 | 怖い話
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田舎に住んでた時に、当時生きていたおばあさんから聞いた話だ。

ある月夜の晩に、飼い猫が屋根の上で二本足で踊っているのを見たのだ。
おばあさんは、びっくりしたが特に怖いとも思わず、次の日その猫に

「踊るのはいいけど、近所の皆に見られたら化け猫だって思われちまうから気をつけるんだよ」
と猫に声をかける。

猫は驚いた顔をすると、それっきりどこかへいなくなってしまった。
おばあさんは可愛がっていたので「あんなこと言わなければよかったねぇ」とたいそう悲しんだそうだ。

そのおばあさんは89才まで生きたけど、死ぬ前に少しぼけた。

祖母が小さい頃面倒見てくれてたらしい“死んだばあや”(故人)
の所に行くと言ってきかなかった。

ある時、何もない部屋の隅を見てしきりに「ばあや、ばあや」と
言うので、母が「そこにばあやが来ているのか?」と聞いたら
「来ているんだよ」
との答え。

その翌日祖母は亡くなった。
どうやら本当にお迎えが来ていたらしい。

① 恐怖のヒグマ

2014-08-27 | 恐怖の生き物
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男女2人ずつの4人のパーテーは夕方テントを張った。
大いに盛り上がり、深夜遅くまで4人は騒いだのだ。
残飯をそばの草むらに投げ捨てた。

ここは、北海道で季節は夏から秋。
深夜にはかなり涼しくなり、むしろ寒いくらいだ。
その深夜、妙なうなり声を聞いた一人が目が覚めた・・

他の3人を起こして、そのうなり声に4人は奮えた。
「熊だ!」
しかし怖くて、テントの外に出る事が出来ない。
それでも、勇気をだして火を燃やし、缶詰めの空き缶等を棒で鳴らした。

しかし、皆さんは覚えていて欲しい・・北海道のヒグマは、火を恐れないのだ。襲われた人達は皆一応に火を焚き、ヒグマの侵入を阻止しようとしたが、全く意味がなかったのだ!
しかも、缶詰の空き缶等の音を鳴らした為に熊の気配をも消してしまっていた。
どこにいるかも知れぬ恐怖。
ヒグマの姿は夜の為、肉眼では見えない。
うなり声が聞こえなくなり、静かになった。

4人は少し安心しテントの中に入った。
と、その瞬間テントがバキ、バキ音を立ててペチャンコになった。
4人は、完全にパニックになりその中から出ることすら大変な状態だった。
「ぎゃー」
男の1人が絶叫と共に暗闇に消えて行く。

他の3人は、逃げるしかなかった・・
それから2日後、1人の女子が、顔、体が傷だらけで村人に助けられた・・

その女子は、恐ろしい出来事を語った。
それは、1人はすぐに見えなくなり、月夜に照らされた山道をしばらく2人で一緒に逃げたが、熊は凄いスピードで追いついたと言う。片方の女子は細木に登った。しかし、ヒグマは木をゆすり、その子を落とした。
落ちた子は、打ち所が悪かったのか痛がり動けなかった。
ヒグマが被いかぶさった。絶叫が闇にこだました。

その間に彼女は必死に逃げた。
これは、実話である。

ヒグマは一度、新鮮な人間の肉の味を覚えてしまうと大変危険だ・・
その肉の味を求めて、執拗に他の人間を追い続ける様になるからだ。

冬が近い北海道のヒグマは、冬眠前で飢えてそして苛(いら)立っている。

彼女等は一生懸命逃げたが、ヒグマは、一度背中を見せて逃げてしまうと、その動物を何処までも追いかけるという強い習性が有るのだ。

⑤ 真夜中の電話

2014-08-27 | 怖い話
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これは、親友の武藤の話だ。

武藤は、高校を卒業し、奈良県の社員寮に入った。

電話会社に勤めた彼は、当時携帯電話が大流行りしたこともあり、帰宅時間は真夜中であった。
ある日を境に真夜中に必ず枕元の電話が鳴ったという・・
最初は、電話に出ていた彼だが、いつも無言のその電話に腹が立ちある夜に、滅茶苦茶文句を言い電話を切ったのだ・・

それから、数日電話が鳴らずにいた。仕事帰りに武藤の同僚の友人が遊びに来て、いつしかその電話の話になった。

その時だ!
電話がまた鳴り始めたのだ。

武藤は、同僚に電話にでてもらった・・

同僚は、「えっ!」と言ったきり武藤に代わった。

武藤はいつものいたずら電話だと思い「いい加減にしろ!」と叫んだのだ。

間もなく、彼は一言もしゃべることができなくなってしまった・・
何故なら、その電話の受話器の向こう側からは、あの時に無茶苦茶文句を言った自分の声が聞こえてくるからだ・・

更に、電話を切ったそのあとの「くそ-、誰だよ」という自分の言葉まで聞こえてくる・・
それだけでなく、その声に交じり、「えーん、えーん」男の子の鳴き声も聞こえてきたのだ・・

それ以降は、夜中に電話が鳴っても二度と出ることはしなかったという。

⑩ 超能力探偵

2014-08-25 | 不思議な話
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アメリカにはFBIや警察に協力する超能力探偵が何人もいます。「男の子が下水にひっかかって死んでいます。」アリソンはそう警察の通報して有名になった。
「その子は緑の服を着て靴を左右逆に履いています。背後には灰色の壁と、金文字の書かれた建物と数字の8が見える」

2か月後彼女の証言どうりの状態で、5歳の男子が死体で発見された。

アレックスも有名だ。

行方不明の少年の捜索を依頼されたアレックスは少年の一家の住むアパートに行くと「彼は死んでいて、死体はこのアパートにあり何かにくるまれている」と話した。

そして、似顔絵を警察にだし犯人は逮捕されたのだ。
犯人は少年と同じアパートの住人で、彼の部屋のべットから毛布にくるまれて発見されたのだ

 猫背の直し方-2

2014-08-24 | 日記
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もともとは人は猫背じゃないので治りますが、猫背が楽なのでその姿勢に戻りやすいので、頑張らないと治りません。

歩くときには下を向かない、少し上向きを意識するようにして、周りを見ながら歩く。
歩行のときは腰の上に上半身が載っている感じを意識する

座っているときはへそを前に出すようにしておくと、猫背になりにくい。

残念ながらしばらくすると疲れてすぐに戻ってしまうので、思い出したらへそを前にする。
これらをがんばるのは結構大変なので、協力してくれる人がいれば指摘してもらうように。

腹筋のトレーニングは役に立つ。

荷物は肩掛けにしておくと後ろに引っ張られるため、腹筋も鍛えられる。

注意としてパソコン、携帯、テレビとか見ていると、集中してほとんど猫背状態になる。

それなりに時間がかかるが、やっぱり猫背じゃないと格好いいですよ

 猫背の直し方-1

2014-08-24 | 日記
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以外と人に見られている猫背。
年をとると大変な丸みを帯びた背中になってしまいます。

自分が猫背なのかをチェックするには壁を利用し壁の前に普通に立ってバックしながら壁に体をつけます。

そのときにかかととお尻、肩甲骨が壁につくかチェックして下さい。つかない人はその時点でアウト!猫背です。

猫背を治すには、はっきり言ってあなたが何歳かで大きく変わります。
もし、30以上の方であれば強い意志と家族の猫背時の注意であることを知らせてもらうことが必要です。

正しい姿勢を知って体の使い方を知る必要もあります。
猫背じゃない正しい姿勢とは、頭を糸で上から引っ張られているイメージです。
胸を前に出すのではなく、体の筋肉を正しく使うために、寝たまま腹筋に力を入れるエクササイズや胸や背中の筋肉をゆるめるストレッチをすると良いと思います。

正しい姿勢や体の使い方を理解し意識して、毎日の生活を送るようにすれば、自然と猫背は改善されます。
猫背改善グッズを利用するのもひとつの方法です。

日本人はつま先に重心を置きながら歩くので、猫背になる人が多いと言われています。
なので、かかとに重心を置くようにするといいらしいです

③-3 ナチスの恐怖 (ヨーゼフ・メンゲレ)

2014-08-24 | 残酷実話 
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特にメンゲレは、2眼異色に異常に執着していた。

其の為に子供の目に化学染料を注入して、瞳の色を人工的に変えようとする実験も試みた。

この実験だけでも50人余のユダヤ人の子供達が実験にされたが、結果は感染症にかかり失明してしまうだけだったのだ。

化学染料を注入され痛がり、転げまわる子供たち・・

この子供たちの行き先は死だけなのだ・・

そして残酷な実験の最後は視力を奪われ子供たちは、用済みになり、無情にもガス室へと送られ殺された。  

メンゲレの実験室には壁一面に棚が打たれ、そこには数百もの人間の目玉が整然と並んでいた。

鮮やかなブルー、黄味がかったブルー、灰色や茶色や紫やグリーン・・・・。

人間の目玉の標本が、その一つ一つに番号が打たれ、まるで昆虫の標本のように並べられていたのだという・・

③-4 ナチスの恐怖 (ヨーゼフ・メンゲレ)

2014-08-24 | 残酷実話 
こんにちは不思議館へようこそ

その他の非道な実験。

低温実験メンゲレ達はその他に、ロシア人捕虜に対して、耐寒力実験を行なった。

それは、ロシア戦線で苦戦していた為、遺伝子や耐寒力が、ドイツ人よりも強いのではないかと思われていたからだ。

タンク一杯の氷水の中に5時間もいれさせた。

更にマイナス6℃の外に裸で何時間も立たせもした。

倒れると、棒とロープで繋がられ、また立たさられた。

この低温実験で100人のロシア人捕虜が死んだ・・

また、低温実験で体が動けなくなった者はガス室へと送られた。

凍傷になり、手か足が腐れた者はその手、足を切られどれくらい生きていられるか、実験した。

あまりの苦しさに逃げようとした者は番犬に襲わせ、半殺しにした。

そして、ガス室か、瀕死のまま穴に投げ込まれた・・

マラリア実験
ダッハツ収容所で健康な実験者のみを選び、蚊のマラリアを直接注射し、その抗体テスト
を行ない、さまざまな薬剤を飲ませた。

勿論、とんでもない薬剤も飲ませた。

飲んで、すぐ泡を吹いて死ぬ者、体がケイレンし硬直する者も後を絶たず、死者は1000人を超えた・・

マスタードガス実験
ザクセンや、ナッツバァイラー収容所では体にマスタードガス、びらん剤を実験者の体に直接浴びせ、酷い科学火傷を負わせて、治療法の実験が繰り返された・・

もの凄い痛みに絶叫する人々は、棒に繋がれそのまま死ぬ者も多かった。

また治療法の為、皮膚がどうなっているのかを調べる為に、泣いて許しを請う者を、生きたままで大火傷の火傷の部分の皮膚を剥(は)いだのだ。

痛さと、絶望の中でその殆んどがショック死、あるいはそのまま息絶えた・・

まるで、地獄の鬼が亡者の皮をはぐかのように。

サルファ剤
ラーフェンス収容所ではウエルッシュ菌、破傷風菌などのバクテリアを実験者に感染させた。

戦場の兵士と同じ環境を造る為に、実験者たちには、削った木を傷口に入れたり、ガラスを傷口に無理やり入れ込みサルファー剤の効果を調べた。

殆んどが、傷が悪化し労働にも不向きになった為に、生きたままガス室へ送られた。

海水実験

ダッハツ収容所で、海水を飲むことを可能にする為の方法を、いくつかのグループに分けられ実験をした。

90人のグループは食事を一切与えず海水のみを飲まさせた。

全員が酷い脱水状態で、自分や、他人の小便を飲む物も多かった。

飲み水を少しでも得ようと、水モップがけをした床を舐める捕虜達が大勢見受けられた・・

シャム双生児実験
人口的に、奇形児を(頭が1つで体が2つなど)作れないかの実験も行なわれ、たくさんの妊婦の腹が切られ、結果を見る為に赤ん坊が取り出された。

また、科学薬を飲ませ奇形児が生まれるかも実験した。

妊婦の腹を、棒で叩き、どの様に腹の子が変化するかを調べたりもしたのだ。

たくさんの死んだ、胎児や、母体はトラックで運ばれユダヤ人が掘った穴に捨てられた・・

また、全ての血を抜き取り、血の入れ替えができるかも行なった・・

捕虜の体の脂肪から石鹸、骨から肥料、髪から靴、皮から防寒着を作った。

財産没収
ユダヤ人から取り上げた財産、金品などは全てナチスの財源になった。

金歯、ネックレス等は溶かし金塊にした。

一生懸命稼いだ、財産はナチスの為に使われてしまったのだ・・

未だに金塊はスイス銀行に保管されている話もある。

ヒットラーを霊媒した者によると、ヒットラーは泥の中で真っ暗な闇の中を永遠に歩いているとのことだ。

人の命を軽んずる罪多き、罪深き罪人達よ、暗く深い闇の地獄へ落ちて行くがいい・・

③-2 ナチスの恐怖 (ヨーゼフ・メンゲレ)

2014-08-23 | 残酷実話 
こんにちは、不思議館へようこそ 

メンゲレの実験は"失神状態における体温水準"を計るために、真っ裸にした子供たちを冷水と氷を満たした水槽に浸したりもしたのだ。

冬には心臓麻痺で死ぬ子も続出し、同じく穴に投げ捨てられた・・

双子のかたわれも、同じように胃液や体液をとられ、体温を測定された。

ただし、もう1人は薬物は注入されなかった。

それは、2人を比較することが実験の目的だったからだ。

残酷な事に、奴は実験中に片方が死ぬと、もう片方もすぐに殺された

解剖され、薬物で病んだ臓器と健康な臓器を比較するためなのだ。

更に、奴は身体の一部分だけに偏執する癖があり、少年の耳だけを2時間も延々と測定し続けたこともあったのだ。

メンゲレのユダヤ人憎悪は、ユダヤ教の行事期間に激しく発揮された。

たとえば1944年の贖罪(しょくざい)の日には、収容所の運動場にあるサッカーゴールのポストの横木に手が届かなかったというだけの理由で、1000人ものユダヤ人少年を処刑したのだ。