ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.96 飫肥城

2014年08月16日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月16日(土)

飫肥城は平山城で、別名を舞鶴城と呼ばれる。
主要城主は、新納氏、島津氏、伊東氏である。

飫肥城は長禄二年(1458)、島津氏の臣新納忠続が飫肥城主に封じられるのが史料上の初出である。
その後島津氏一族が城主となり、新納氏との間で城をめぐって攻防戦が繰り広げられた。

天正十五年(1587)九州平定に乗り出した豊臣秀吉にいち早く味方した伊東氏が飫肥を与えられ、
関ヶ原の戦い後は徳川氏より領地を安堵された。
後に伊東祐実による貞享三年(1686)からの大改修により、近世城郭としての体裁を整えた。


前日8月15日に大分臼杵市の親戚の初盆を終えたことから、2泊3日の予定で九州南部の城巡り
(飫肥城・鹿児島城・人吉城・熊本城)に出掛けることにし、この日は朝から飫肥城を目指した。
かみさんの妹も同行することになった。
東九州道から国道10号、宮崎県に入って再び東九州道を走り、飫肥城のある日南市には昼頃に到着。

飫肥城下町案内処(大手門観光センター)に到着した時には12時30分を少し回っていた。
ここで、飫肥城下町にある各種資料館等の共通入場券(610円)を購入。


飫肥城登城の前に大手門前のおび天「蔵」で腹ごしらえをしていくことにした。
おび天「蔵」の建物は江戸時代に建設された飫肥城下に残る唯一の建造物だそうだ。
飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物を改修したもの、とのこと。


おび天「蔵」の定食を注文
飫肥名物のおび天に厚焼玉子とカニ巻き汁が付いている。
おび天も厚焼玉子もかなり甘い味付けである。
関東風の味に慣らされた自分にとっては、大げさに聞えるかもしれないが、ケーキのような味に思えた。


おび天「蔵」の前の大手門通りの向かいに「おび天茶屋」がある。
ここでも、おび天「蔵」同様に名物おび天の実演コーナーを設けて、揚げたてのおび天を味わうこともできる。
樹齢約千年と云われる楠木で造られた火鉢があるとのこと。
重さは何と二屯有余で日本一の貫録があるそうだ。


大手門前の通りを進む。


飫肥城大手門を潜る前に、大手門手前の豫章館(よしょうかん)に立ち寄ることにした。
豫章館の薬医門を潜り中に入る。
(共通券で入館可)


象余館の前庭から薬医門方面を見たところ。


豫章館の玄関
残念ながら中には入れない。
豫章館は、明治二年に造られた藩主伊東家の住まいである。
藩主伊東祐帰が飫肥藩知事に任ぜられて、城内よりこの屋敷に移った。
その時邸内にあった樹齢数百年の大楠にちなんで豫章館と名付けられた。


豫章館の南側に回って見ると・・・
母屋は明治初期に造られた建物で飫肥藩の典型的な武家屋敷。
飫肥城下では最も格式のある武家屋敷とのこと。


南面は武学流の作庭といわれる庭園で、広い空間に庭石や石灯籠・庭木などが巧みに配置され、
愛宕山を借景した閑静な佇まいの枯山水式庭園である。


豫章館の庭木(竹を主体としたもの)


豫章館の庭(きれいに剪定された柘植が美しい)


裏(北側)から見た豫章館


豫章館の奥の御数寄屋(おすきや)へ向かう。


苔むした和風庭園の先に


小さな庵のような建物(御数寄屋)が佇んでいた。


御数寄屋の裏手に酒谷川が流れている。
飫肥城は、西から南に蛇行する酒谷川を天然の堀とし、標高20m~30mの小丘陵の上に築かれていることが分かる。


豫章館を出て、飫肥城大手門へ。
飫肥杉を用いて木造二階、高さ12.3mの櫓門として昭和53年(1978)に再建されたもので、
格調高い大手門が再現されている。


枡形から見た大手門櫓門


大手門枡形内部


二の丸から見た大手門枡形虎口


大手門虎口を上って右手を見たところ。
大手門前の広場で、かなり広い。
飫肥城歴史史料館への近道となっている。


大手門から左手に進むと、松尾の丸に通じる。


4本ある「しあわせ杉」のうち2本
四隅にある杉の対角線の中心に立つと「しあわせ」のパワーがもらえる、そうだ。


松尾の丸への階段を上ると、


松尾の丸御殿の玄関に辿り着く。
明治六年(1873)にすべての建物が取り壊されたが、昭和54年(1979)に飫肥杉の100年杉を使用し、
慎重な時代考証を重ね、江戸時代初期の書院造りの御殿として再建された。
(共通券で入館可)


玄関の間


殿様になった気分を味わってみよう。


茶室


川御座船
重要人物を迎えた際に、この船を川に浮かべて遊興したものと思われる。
実物の1/4の模型である。


松尾の丸御寝所


殿様用御厠(小)


殿様用御厠(大)


浴室(通常の風呂)


こちらは蒸し風呂


蒸し風呂の湯殿


蒸し風呂の焚き口


台所のかまど


台所の間(賄方)


賄方の間には正月用献立が展示されている。


飫肥城第五代藩主伊東祐実公の正月料理を再現したもの。
かなり豪華である。


松尾の丸を出て本丸へ向かう。


右手に本丸跡に建てられた飫肥小学校を見ながら進むと・・・


旧本丸跡へと続く緩やかな石段が続く。


旧本丸跡には立派な飫肥杉が林立している。
まるで植えられたようにも見えるが、自然に生えたものかもしれない。


旧本丸跡は平坦だが、ここだけ一段と小高くなっている。本丸の天守台跡にしてはやや小さい。
現在城内に立つ飫肥杉の木立とも相まって独特な風情を醸し出している。


旧本丸の裏門


旧本丸の裏門の先は崖になっており、崖の上から飫肥中学校のグラウンドが見える。


飫肥城歴史史料館
ここで、100名城のスタンプを押下出来る。
飫肥城歴史資料館では、城下町である飫肥の文化遺産を今に伝えており、
藩主の伊東家や家臣の武具、古文書などを見ることができる。
(共通券で入館可)


飫肥藩伊東家の城下町には多くの文化財が残されている。
この貴重な文化財を保存し、公開するために昭和53年に開館された。
現在飫肥藩ゆかりの歴史資料220点(甲冑・刀剣・女乗り物(駕籠)・武具・古文書・衣服等)が展示されている。
(なお、館内は撮影禁止となっている)


歴史館を出て大手門へ向かう。


大手門広場に出た。
右手に飫肥城歴史史料館が見える。
左手が大手門へと通じる。


大手門を出て、大手門通りを見たところ。
ここで、かみさんたちと分かれ、一人で武家屋敷や商人屋敷などを観て回ることにした。


大手門から見た武家屋敷通り


少し進むと右手に国際交流センター小村記念館がある。
日本近代外交の礎を築いた明治の外交官・小村寿太郎侯の遺徳を顕彰し、国際交流、教育文化活動及び
世界に飛躍する人材育成に寄与することを目的に設置された。
小村侯の業績等を紹介した史料なども展示されている。
(共通券で入館可)


武家屋敷通り(横馬場通り)
全ての屋敷は石垣と高い塀で囲まれている。
また、武家屋敷通りは碁盤目状に整備されている。


小村寿太郎侯生家
武家屋敷通りの一角に小村寿太郎侯の生家があった。
日本近代外港史に輝かしい足跡を遺した小倉寿太郎侯が生まれた建物の一部は、
生誕地から振徳堂の裏手に移築された後、大正十年(1921)現在位置に移された。


近年になって老朽化にともない、日南市によって改修整備がなされ、平成16年より公開されている。


武家屋敷服部邸
服部植物研究所の創設者、服部新佐博士の実家で、現在は食事や喫茶の人気スポットとなっている、そうだ。


武家屋敷通り(横馬場通り)
明治維新の廃藩置県に伴い、藩士は俸禄を失い、屋敷を離れた物も多かった。
ここの馬場通りは、飫肥藩士屋敷の典型的な姿を色濃く留めている。
それは、傾斜地のため屋敷囲いに石垣を巡らしているので、原形はあまり崩れていない。
また、屋敷規模も大きく、一戸平均900坪と広い。


武家屋敷の馬場通りは横馬場通りの他にも加茂馬場通り・八幡馬場通り・常真馬場通りがあるが、
全部見て回る時間もないので、鳥居下公民館を回って大手門通りへ戻ることにした。


鳥居下公民館を右折して大手門交差点へ少し進んだところに「元祖おび天本舗」がある。
昼食の際に立ち寄ったおび天「蔵」のおび天はこの店で作られている、とのこと。


大手門交差点を左折し、屋敷大手門通りを本町商人通り方向へ進む。


屋敷大手門通りの横の道も武家屋敷町同様に碁盤目状に整備されている。
堀割もあり、鯉などが放たれるとのことだが、この時期は鯉は見ることはできなかった。


旧山本猪平(いへい)家
この建物は、飫肥の豪商であった山本猪平が明治40年頃に建築した商家の本宅で、
建築当初の屋敷が残されている。
(共通券で入館可)


商家本宅風景


商家本宅廊下


商家本宅座敷風景(1)


商家本宅座敷風景(2)


商家本宅座敷風景(3)


裏から見た商家本家


小村寿太郎生誕地が旧山本猪平家の隣にあった。
説明板によると、
小村寿太郎は、安政二年(1855)、小村寛の長男としてこの地で生まれた。
生家は飫肥本町の別当職で、小禄十八石の徒士であった。
幼少から祖母熊子の厳格な養育を受け、六歳から藩校に学び、十三歳から寮に入った。
藩校時代には提灯を下げて早朝一番乗りをし、寮生となっても寮僕のアルバイトを終えた
夜の勉学が一番の楽しみだったという。(続)


明治38年のポーツマス講和条約のことは承知のとおりであるが、
よく大国の間に伍し、一貫して興亜外交に終始したのである。
碑面は元帥「東郷平八郎」の書である。


本町商人通り
電柱などはなく、電源・通信ケーブルは地下に埋められ、
広々としてすっきりとした町並みである。


商家資料館
飫肥城下の商人町の代表的な建物である妹尾金物店を移築復元して、本町の商家資料館としている。
建物は明治三年(1870)に当時の山林地主山本五兵衛が建てたもので、木造一部二階建ての白漆喰壁の土蔵造り。
樹齢200年以上の飫肥杉を使った豪壮な建物である。
(共通券で入館可) 


商家資料館の位置する本町商人通りは、飫肥城下町の商人通りとして栄えた所で、
江戸時代風の豪商宅を資料館に改修し、


当時の飫肥本町の商人たちが使用していた道具200点余を展示している。


展示品の数々


泰平踊(たいへいおどり)
折編み笠を目深にかぶり、羽二重熨斗目(はぶたえのしめ)を着流しに、白足袋白緒の草履姿。
腰には朱鞘の刀に印籠という粋な元禄の武者姿で踊る、とのこと。


泰平踊の着流し


本町商人通りを通り、かみさんたちが待つ大手門観光センターの駐車場へ向かった。


大手門観光センターの一角に四半的射場(しはんまといば)がある。


飫肥藩に伝わる半弓で、射場から的まで四間半、弓・矢ともに四尺五寸、的が四寸五分で、
全て四半であることから四半的と呼ぶ、とのこと。


最後に車で本町商人通りを走り、この日の宿泊地「かんぽの宿日南」へ向かった。



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