ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.97 鹿児島城

2014年08月17日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年8月17日(日)


この日訪れる鹿児島城は、島津家久が標高107mの城山東麓に築いた平城である。
島津氏七十七万石の居城で、別名を鶴丸城と呼ばれる。

慶長六年(1601)に築城工事を開始、その約10年後に完成した。
城山を背後におき、中世以来の館造りを踏襲した城構えであった。
本丸と二の丸が連郭式に並ぶだけのシンプルな縄張で、御楼門以外に天守も櫓もなかった。
これは戦国期に領内に設置された多くの外城(支城)が外敵の侵入を防ぐことで、
本城を要害化する必要がなかったためとされる。
城は元禄九年(1696)に焼失、宝永四年(1707)に再建されたが、明治六年(1873)再び焼失してしまった。


この日は午前中に鹿児島城、午後には人吉城への登城を計画している。
「かんぽの宿日南」を8時を少し回った頃に出発し、鹿児島城を目指した。
11時20分、中央公園地下駐車場に到着した。

先ずは、駐車場から一番近い、明治維新の推進者のひとりである小松刀帯像へ。
駐車場を出ると、目の前に宝山ホールが目に入った。


小松刀帯像は、宝山ホールの前に建てられていた。
小松刀帯は天保六年(1835)喜入領主肝付家の三男として生まれ、20歳で吉利(日吉町)の領主小松家の養子となり、
小松刀帯と名を改めた。
子供の頃から学問や武芸に優れ、27歳で家老となり、西郷隆盛や大久保利通などを重要な役目につけた。
寺田屋事件・生麦事件・薩英戦争を乗り切り、薩長同盟を結ぶなど明治維新に向けて活躍した。
維新後も外交官など要職に就いたが、34歳で亡くなった。


銘文には次のように紹介されている。
この像は、京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、
王政復古を実現させた小松刀帯の功績を讃える像である。
時に小松三十三歳、慶応六年(1867)十月十三日であった。


次に向かったのは、薩摩の英雄西郷隆盛像である。
宝山ホールに隣接する中央公民館前を進むと、


正面の国道10号線(歴史と文化の道)の向こうに西郷隆盛像が見えた。
西郷隆盛像全体が見渡せるため、中央公民館前が撮影ポイントとなっている。
後ろの小高い山が城山公園である。


国道10号線(歴史と文化の道)の歩道橋から見た鹿児島城二の丸、本丸方面


横断陸橋を渡って西郷隆盛像とご対面。


鹿児島城二の丸、本丸方面へ。


市立美術館
旧二の丸跡に建てられている。
城山の山麓に位置するこの地は、歴史的に政治・文化の中心地として発展してきた場所である。
地元関係作家を中心とし、19世紀末葉以降の西洋美術の作品を主として収集・保存・展示している、とのこと。


市立美術館を過ぎると、石垣が少しだけ高くなった。
この辺りも旧二の丸跡だ。


鹿児島県立図書館前を通過
かつてはここは二の丸への入口だったところだ。


二の丸跡を過ぎると歩道の左側に植え込みがあり、道幅が広くなった。
間もなく本丸跡への入口である。


本丸跡の濠は一面蓮で覆われていた。
現存する一段と高い石垣や水濠が往時の姿を今に伝えている。


ポツンとピンク色の蓮の花が咲いていた。


本丸跡へ通じる石橋が架かっている。


鶴丸(鹿児島)城碑
鶴丸城は別名だと思っていたが、地元ではどうやら鹿児島城が別名のようだ。


この石橋の先に御楼門(本丸大手に建っていた櫓門)があったが、明治七年(1874)に焼失してしまった、とのこと。
御楼門の跡は石垣の立派な枡形が残されている。


石橋中央から濠と石垣を見る。


本丸枡形


本丸枡形を右に折れ、


さらに左に折れると本丸跡に辿り着く。


現在では鹿児島県歴史資料センター「黎明館」となっている。


黎明館は、明治百年(昭和43年)を記念して、昭和五十八年(1983)に開館。
人文系の総合博物館で、鹿児島の歴史・考古・民族・美術・工芸を紹介している。
鹿児島城復元模型や歴史資料も展示されている、とのこと。


黎明館の敷地は、江戸時代の鹿児島(鶴丸)城の本丸跡で、今でも濠・石垣・石橋など
由緒あるものが残っており、これらは県指定の史跡になっている。(黎明館案内書より)


本丸跡の一角に天璋院(篤姫)銅像が建てられている。
篤姫は、薩摩藩の名君島津斉彬の娘(養女)となった。
21歳のときに、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立のために、第13代将軍・徳川家定の正室となるため、大奥に送り込まれる。
しかし、家定が慶喜を極度に嫌っていたことなどにより、慶喜擁立は成功せず、結果的にはこの政略結婚は失敗に終わる。
その後、家定は結婚後わずか2年で死去。篤姫は23歳で寡婦となってしまう。
彼女は「徳川の女」として生きることを選び、戊辰戦争では西郷隆盛に徳川の家名存続を求める書状を送るなど、
幕末という激動の時代に存在感をみせた。(Wikipediaより)


黎明館へ入ってみる。
お腹も空いたし、外は何しろ暑い。
黎明館内部は冷房が効いていて涼しかった。
涼を求めてなのかどうかは分からないが、外からは想像できないほどの人がいたのにはびっくり。


ホールには、NHK大河ドラマで篤姫が乗った女乗り物(駕籠)が展示されていた。


金襴振袖打掛数点も展示されていた。


歴史資料センター
ここで100名城のスタンプ押下完了。
内部見学は有料(310円)となっているが、せっかくなので、中を覗いてみることにした。
なお内部は撮影禁止となっている。

歴史資料センター1Fを駆け足で回り、城山公園へ行こうと思ったが、かみさんたちはここで休憩して待つと言う。
仕方なく、一人で城山公園へ行くことにした。

本丸跡から城山に至る途中に薩摩義士碑があった。
愛知・岐阜・三重の3県にまたがる濃尾平野を流れる、木曽川・長良川・揖斐川は、
合流地点で度々大水害を引き起こしていた。
宝暦三年(1753)、幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩は家老の平田靭負を総奉行に任じ、約1,000名を派遣した。
平田は大阪の商人から22万両を借り、工事に取り掛かったが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めた。


さらに監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により、自刃・病死する者が続出。
完成までの1年3カ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していた。
平田総奉行はその責めを一身に負い自刃。藩主重年も後を追う様に病没した。
藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、
大正九年(1920)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられた。


碑の横に城山自然遊歩道があり、城山公園への上り口となっている。


城山自然遊歩道は石段だったり、


緩やかな坂道だったりする。


城山展望台への途中、木々の間から黎明館と市街地が垣間見えた。


さらに城山自然遊歩道を上る。


上り始めて約30分ほどで、城山展望台に到着した。
20人ほどの人が眺望を楽しんでいた。


展望台の側には茶店もあった。
冷たい飲み物でも買って、喉を潤しながら眺望を楽しむことにしよう。


展望台からの鹿児島市街地の眺望は”素晴らしい”の一言。
かみさんたちにも見せてあげたい。


桜島
朝方は雲に覆われていたが、きれいに晴れ上がってくれた。
”ありがとうっ”


市街地の眺望
鹿児島市街地は思っていたよりも大きな町だということが分かった。


城山を下りてかみさんたちと黎明館で合流し、黎明館内部のレストランへ。
天文館辺りで食事をしたかったが、次の人吉城のことを考えるとここで済ませるのが一番と判断。


鶏飯(けいはん)を注文
ご飯に鶏肉・卵焼き・しいたけ・奈良漬・ねぎ・海苔などを混ぜ、だし汁を掛ける茶漬けである。


『さっぱりしていて美味しいわねぇ』


食事の後は、駐車場へ戻る際に二の丸跡を通ることにした。


二の丸御角櫓(おすみやぐら)跡
御角櫓は、本丸の南東角に位置し、城の防禦とともに美観や威厳を保つ施設。
明治初期の資料では、「御角屋蔵」と表現され、物品収蔵施設としての用途もあったものと推測されている。
元禄九年(1696)に焼失し、幕府の許可を得て再建されたが、明治六年(1873)の大火で再び焼失した。


二の丸跡に建てられた県立図書館
かつて、本丸に政庁と藩主の居館・表書院などが置かれ、
二の丸には世継や側室などの居館や庭園が設けられた。


14時30分に駐車場へ戻り、次の目的地人吉城へ向けて車を走らせた。


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