ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.60 赤穂城

2012年08月10日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月10日(金)


この日も朝から暑かったが、今回最後の100名城巡りとなる赤穂城を訪問した。

赤穂城は、正保二年(1645)に常陸国笠間から石高53,000石で入封した浅野長直が、
近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで
13年を費やして完成させた甲州流軍学の海岸平城である。

縄張りは赤穂浅野氏初代長直の時代、浅野氏に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。
別名・加里屋城かりやじょう)、大鷹城おおたかじょう)と呼ばれる。

赤穂城は5万3千石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。
5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、
天守台のみが今日に残っている。
『忠臣蔵』の舞台の一つとして余りにも有名である。

赤穂城三之丸大手門辺りから大手墨櫓を見たところ。


赤穂城三之丸大手門と三之丸外堀
すっきりとした姿を見せるのは、大手隅櫓
大手隅櫓は、二重櫓で大手門を監視する到着櫓としての性格を持ち、大手門防備の要となる櫓である。
外堀は三之丸と城下の間に設けられた堀である。


大手門の前に老舗のお菓子屋(巴屋本店の字が見える)の蔵が建っていた。
最初は、城の櫓かと思っていたが、老舗御菓子司の蔵であった。
まるで本物の櫓のようだ。


赤穂城大手門
大手門の虎口は内枡形をなし、東面する高麗門(写真)と南面する櫓門から構成される雄大な城門であった。
明治初期に二つの門は失われたが、昭和三十年(1955)高麗門だけが大手隅櫓とともに再建された。


大手門の高麗門を入る。


大手門枡形から大手墨櫓(左)と高麗門(右)を見る。


大手門枡形を右に曲がると、番所跡休憩所がある。
赤穂城に関するさまざまな案内説明文が展示されていた。


大手門枡形


角が丸い石垣は初めて見た。


近藤源八宅跡長屋門
赤穂城の設計を担当した近藤三郎左衛門正純の子、近藤源八正憲の屋敷の長屋門である。
近藤源八は父の跡を継いで甲州流軍学を修め、浅野家の軍師として1000石番頭の重職にあった。
その屋敷は間口33間、奥行31間もの広大なものであった。
今は、当時の三分の一が残されており、赤穂市の指定文化財となっている。


大石良雄宅跡長屋門
大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から断絶まで家老として大手門西側の一画に屋敷地を構えていた。
屋敷地は間口28間、奥行45間余りの広さを誇り、庭には池泉を構えていた。
元禄十四年(1701)の刃傷事件を知らせる早籠が叩いたのがこの門である。


大石良雄宅跡長屋門を過ぎて右に大石神社の鳥居が見えた。


大石神社山門前の両側には四十七義士の像が並んでいる。
右側には四十七義士石像表門隊 大石内蔵助以下23名の像が、


左側には四十七義士石像裏門隊 大石主税以下24名の像が。
(大石主税像と大石内蔵助像は別に山門の前にある)


大石神社の山門


山門前の右側には、大石内蔵助像


左側には、大石主税像が建てられている。


山門を入って真直ぐ進むと本殿が見えてくる。


大石神社本殿
大石神社は三之丸の一部の大石内蔵助及び藤井又左衛門の屋敷跡に大正元年(1912)に建立された。


本殿
祭神は、赤穂義士47人及び萱野三平・浅野家3代、森家の先祖7代の武将である。


大石内蔵助の像


大石神社を出て、本丸へ向かう途中に『忠臣蔵』で有名な片岡源五右衛門宅跡があった。
源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召出された寵臣であった。
元禄十四年(1701)3月14日内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は、下乗で供待中、
主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸士に大事を伝え、
事態の収拾にあたった。
主君が田村邸で切腹する直前に、許されて長矩に会い、万感の思いを込めて主君長矩に最後の決別をしたのは、
片岡源五右衛門である。
討ち入りの時は表門隊に属し、真っ先かけて屋敷内に踏み込み、朱柄の十文字槍をふるって戦った。


二之丸門跡付近
門は桁間4間半、梁間2間、建坪9坪の規模を有していたというが、現在は門・石垣ともに失われ、
明治初期に撮影された古写真で往時の姿をうかがえるにすぎない。
虎口の設計にあたっては、山鹿素行が自ら手を加えて手直ししたと伝えられている。


山鹿素行の像
儒学者であり兵学者であった山鹿素行は、浅野長直に禄1,000石で招聘され、江戸において藩士に文武を講じた。


二之丸庭園表門
二之丸庭園の南東隅角にあたり、発掘調査から門が存在したことが判明した。
庭園への表門として平成二十年(2008)3月に脇戸付きの冠木門が整備された。


大石頼母助屋敷跡
大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の実の大叔父に当たる人物で、とくに藩主長直に重用され、
赤穂においては二之丸に屋敷を賜った。
平成二十一年(2009)3月に発掘調査に基づいて薬医門形式の屋敷門が復元された。


本丸の表玄関となる本丸門は高麗門となっている。
高麗門は二の門となる。


二之丸御門の前の堀(左側)
堀が赤く見えるのは水草のためで、たっぷりと水が溜まっているので注意が必要だ。


二之丸御門の前の堀(右側)


高麗門(二の門)を内側から見たところ。


左の高麗門(二の門)を入ると、本丸門は長方形の枡形の備えとなっている。


本丸への櫓門(一の門)
高麗門とともに、壮大な虎口を形成している。
櫓門の先が本丸である。


本丸御殿跡
広大な御殿だったことが伺える。


本丸内の大部分は藩邸である御殿が占めていた。
御殿は、表・中奥・奥から構成されていた。
表御殿は政務を行う公的な場、中奥は藩主の私的な場、奥は女中達の部屋として使用された。


大池泉
表御殿の南面にある池泉(ちせん)である。
池には中島・入江・岬をしつらえ、護岸汀線は直線・曲線を巧みに組み合わせ、
池の底には割石・砂利石・瓦を幾何学的に敷き詰めるなど趣のある造形をもっている。


復元された池は、
東西38m、南北26m、外周約150mの規模を持ち、藩邸の庭園にふさわしい力強い池泉となっている。


本丸天守台
四方石垣の独立したもので、当初から天守閣は造られなかった。
石垣は打ち込みハギを主としている。


天守台への階段


天守台からの眺め
表御門大池泉方面を見る。


天守台からの眺め
二之丸御門方面を見る。
コンクリートで覆われているところが、本丸表御殿跡である。


天守台からの眺め
厩口門方面を見る。


本丸から刎橋門(はねばしもん)跡への階段
刎橋門は、本丸の裏口非常門で、建坪5坪の小門であった。
この門より二之丸へ刎橋が架けられていた。


外堀からは刎橋で上ってくるようになっていた。
敵が攻めて来た時には落せるようになっていたと思われる。


厩口門(本丸側から)
浅野家時代には厩口門、森家時代には台所門と呼称されていた。


厩口門(本丸二之丸側から)
廃城後には失われ、後には県立赤穂高校の通用門として改変されていた。
平成十三年(2001)に門、橋、土塀及び周辺石垣が整備され、往時の姿を取り戻している。


二之丸内堀


二之丸外堀


武家屋敷公園
清水門の西側に位置し、浅野時代には坂田式右衛門の屋敷があった。
昭和五十八年(1983)に門と瓦葺土塀を復元。
屋敷地の植栽には当時の侍屋敷の生活を偲ばせる花木や薬草類なども植えられ、
往時の侍屋敷の景観を再現している。


武家屋敷公園の前に復元された、坂田式右衛門の屋敷門。


清水門跡
川口門とも呼ばれた清水門は、刃傷事件後の赤穂城明け渡しの際、
大石内蔵助が最後に城と惜別した舞台として知られる門である。


市立歴史博物館の入口


市立歴史博物館
赤穂城の清水門の外にあり、往時には米蔵があった。
外観は米蔵にちなんだ白壁の土蔵風の建物で、「塩と義士の館」として平成元年(1989)に建設された。


8月3日の小谷城に始まってこの日の赤穂城で今回の「日本100名城巡り」は終わった。
この間、10の城を巡ったことになるが、毎日猛暑日のような天気で正直言って疲れた。
これでようやく75の城を巡ったことになるが、まだ先は長い。
これからは、遠いところばかりが残っているので、全部の城を巡り終えるは何時になるのか。
しかし、何とか頑張って100城を目指したい、と思っている。


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