ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

ちょっと寂しいひな祭 常福寺から土浦城を巡る

2017年03月03日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年3月3日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第38回(2017年第9回)、「常福寺から土浦城(亀城)を巡る」ウォーキングに参加した。

この日の集合場所は土浦イオン駐車場だ。
スタート&ゴール地点でもある。


天気も良く、地元ということもあって、34名が集まった。


いつものようにOさんの号令で準備体操


『腕をしっかり回して~っ』


9時19分、Oさんを先頭に出発!
会旗を持つ姿が板についてきたOさん、
『今日も良い天気だよな~っ』


皆さん後に続く。


イオンの前の道路沿いを進み、


イオン正面入口前の道を下高津方面へ。


県道123号を横断して国道354号に通じる市道を進む。


下高津小学校方面への坂道を進む。
緩やかな上りは、足慣らしにはちょうど良い。


9時31分、下高津小学校前を通過。
”祝 学童野球県大会出場”の横断幕が。
『中高津ファイターズって強いんだねっ』


下高津3町目辺りを通過し、


国道354号まで100mほどの畑と住宅地が混じった道を進む。


国道354号を横断し、もみじ幼稚園(常福寺)を左手に見ながら進む。


JA土浦県南会館(農機センター)前を通過。
右手には霞ヶ浦医療センターの看板が見える。


旧水戸街道の緩やかな下りの坂道を進むと・・・


9時45分、愛宕神社に到着した。
下高津の愛宕神社は、平貞盛によって開かれたとされている。
戦国時代になると、菅谷氏が崇敬し、江戸時代になると土屋氏が崇敬した。


愛宕神社の石段を上る。


愛宕神社は、旧土浦城下を望む高津台にあり、
寛文九年(1669)に城主となった土屋数直が、城の鬼門を守護するために奉斎し、
社殿などを改築したと伝えられる。
現在の社殿は、文化八年(1811)の再建と伝えられている。


大きな声で呼ばれたような気がしたので声のした方へ行ってみると、
数人がかりで境内の銀杏の木を取り囲んでいる最中だった。
記念に撮影して欲しいとのことである。
気軽に応じて記念の1枚を撮ったが・・・
カメラに顔を向けてもらうべきだった(反省!)


この銀杏の木は、樹齢は約400年と推定されているが・・・
(2011年9月22日、旧水戸街道を歩いた時に撮影したもの)


大半の枝は伐採されてかつての面影はない。
この木は雌株なので、大量の銀杏の実が落ちるのを嫌って切ったらしい。


常福寺は平安時代初期に最澄の弟子天台僧最仙の開基と伝えられる。
後に真言宗に改宗して現代に続いている。


本殿内部


ご本尊の木造薬師如来座像は平安末期(十二世紀)頃の作で、
国の重要文化財に指定されている。


見晴らし台へ。


『いやぁ ここからの眺めは素晴らしいねぇ』
土浦市街地が一望だ。


左手に見えるのは筑波山


右手には土浦市役所が入居した高層ビル「うらら」が見える。


パノラマ画像
正面の河津桜がちょっと視界を遮るが、ここは我慢しよう。


常福寺の子育地蔵尊も見守っている。


見晴らし台からの景色を満喫して、常福寺を後にする。
無縁仏が林立する急坂を下り、


旧水戸街道を土浦市街地へ。


旧水戸街道沿いの一軒。
この辺りでは数少ない、歴史を感じさせる家だ。


10時7分、銭亀橋を渡る。


銭亀橋から見た桜川(下流側)
桜川はもともと土浦の街の真ん中を流れていたが、洪水を避けるため、
今から五百数十年前に、大曲付近から現水路に切り替えられた。


銭亀橋を渡り、土浦市街地へ


南門跡
東光寺南門土塁跡のそば、県道24号線の大町交差点に土浦城南門跡がある。
享保十二年(1727)に大町が築かれるまではこの地が土浦城の南端であった。


10時16分、東光寺に到着
東光寺は、慶長十二年(1607)、心庵春伝(しんあんしゅんでん)によって
開かれたと伝えられる。


東光寺瑠璃光殿
朱塗りの建物は瑠璃光殿(るりこうでん)と呼ばれる薬師堂で、
市指定の文化財になっている。


乃木希典将軍とその母親の関係について住職の説明に聞き入る。
母親の名前は寿子といい、土浦藩士長谷川金太夫の長女として
文政十一年(1828)に生まれた。
土浦藩主土屋寅直の息女、欽子が長州藩主毛利元運の奥方として腰入れの際に付き添い、
そのまま長州藩にいるうちに、長州藩士乃木希次の後妻となった、そうである。


乃木希次と寿子との間には4男2女があり、希典は次男にあたる。
明治二十九年(1896)、希典が日清戦争の旅順攻略で武勲を挙げ、
台湾総督を拝命。
その際一緒に海を渡った寿子は、1年経たずにそこで命を落とした。
墓は「台北郊外の共同墓地のような所にあったと聞きます」と住職。


乃木希典の母親が、土浦出身であることをこの日初めて知った。
乃木寿子の墓は、ミカゲ石の台座に鉄筋コンクリートの六角形の霊堂である。 


弁天堂


東光寺本堂にお参りし、


10時26分、東光寺の直ぐ隣に位置する等覚寺に到着。


「人間一生 酒一升 まだある筈が もう空だ!!」
我々ももう空に近い年齢になってきたと実感するこの頃である。


等覚寺鐘楼


銅鐘は、常陸三古鐘のひとつで、関東に現存する最古の梵鐘と云われている。
国指定重要文化財(旧国宝)となっている。
建永年間(1206~1207)に八田知家が極楽寺に寄進、のち土浦城に移され、
明治十七年(1884)に極楽寺ゆかりの等覚寺に移された。


等覚寺の黒松
樹種は黒松で、樹高4.6m、東西8.9m、南北10.3mと見事な枝張りである。
土浦市指定名木・古木になっている。


等覚寺を後にして土浦城(亀城)へ。


跡で訪れる予定の「土浦ひな祭り」会場のまちかど蔵の通りを見ると、
人の姿が見えない。
今日3月3日は「土浦ひな祭り」の最終日である。
もっとたくさんの人が来て賑っていると思っていたのだが・・・
この人出の無さはどうしたことだろう。
まちかど蔵は後で訪れることにして、先ずは土浦城大手門跡へ向かう。


10時35分、旧土浦市立土浦幼稚園跡に到着


旧土浦市立土浦幼稚園跡
土浦幼稚園は、明治18年(1885)に土浦西小学校(現土浦小学校)付属幼稚園として、
この地に開園した。
当時、茨城県に幼稚園はまだなく、県下で最初に設置された幼稚園である。
当時の幼稚園は、公私立合わせても全国で30園程度だった。
ドイツの教育家フレーベルの考案した教育法・保育法を援用した指導を展開してきた。
平成24年4月に「いくぶん幼稚園」と統合し、新しく文京町に移転した。
現在は、土浦小学校になっている。


旧土浦城大手門跡
旧土浦幼稚園跡(現土浦小学校)の門の前には土浦城大手門跡の碑が建っている。
かつてはここに土浦城の大手門(正門)があったのだ。


土浦城へ向かう。


水戸地方裁判所前を通り、土浦城へ。


旧前川口門は高麗門の形式で、江戸時代末期の建築と伝わる。
武家屋敷であった多計郭(たけくるわ)と町屋の間を仕切る「前川口門」
だったと云われている。
明治十八年(1885)土浦戸帳役場の門として、さらに大正九年(1920)には
等覚寺山門として移され、昭和56年(1981)、寺の寄贈を受けて、
土浦城内の二の丸入口に当る二之門のあったこの位置に移築された。
昭和46年に土浦市の文化財として指定されている。


内堀に沿って二の丸へ。


二の丸櫓門前


10時44分、本丸表門の太鼓櫓門に到着
”本丸にある江戸時代の櫓門としては関東地方で唯一現存する”と云われる櫓門。


本丸表門の太鼓櫓門を城内から見たところ。
階上に太鼓を置き、時刻を知らせていたことから「太鼓櫓」とも呼ばれていた。


本丸
土浦城(亀城)は、江戸時代前期には松平氏・西尾氏・朽木氏等、
中期以降には土屋氏が城主となった。
土浦城を拠点とする土浦藩は、土屋氏のときに藩領が9万5千石となり、
常陸国では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇った。


西櫓
土浦城の建造物は、元和六~七年(1621-22)頃城主西尾氏の時代に
本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。
昭和25年に復元を前提として解体されたが、その後復元を見ず今日に至り、
土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時を偲ばせるに過ぎなかった。
平成に入り、市民の浄財をもとに復元したものである。
平成4年7月 土浦市教育委員会


東櫓
櫓内の見学は有料で、一般105円(20名以上の団体は75円)となっている。


霞門を潜り、本丸の外へ。


内堀から東櫓を望む。


10時50分、東櫓が見える内堀の休憩所で一休み。


直ぐに腰を下すのが慣習になっているのかな?
『だって楽なんだも~ん』


前川口門を出て、まちかど蔵へ。


中城山不動院脇の狭い路地を通り、


中城山不動院参道へ。


退筆塚(たいひつづか)前を抜けると、


11時ちょうど、まちかど蔵「大徳」の正面に出た。
土浦宿は江戸から十八里半の距離にあり、千住から11番目の宿場町であった。
まちかど蔵「大徳」は、江戸時代末期からの商家・呉服商「大徳」の
見世蔵・袖蔵・元蔵・向蔵を改装し、特産品の販売や郷土資料のされた蔵で、
市民交流の場としての開放や、民俗・展示、観光案内などをしている。
向いにはまちかど蔵「野村」もあり、ひな人形を展示しているだろう。
ここで少しばかり時間を割いて、各自自由に見学してもらうことにした。


まちかど蔵「大徳」のひな人形は二階で展示されていた。
階段を上ると・・・


七段飾りや、


土浦の商家に伝わる雛人形、


他にも手作りつるし雛やちりめん細工も展示されていた。


別の部屋でも雛人形が展示されていた。


袖蔵には、「野村」から寄贈された明治時代の雛人形や、


人形作りで名の知れた仲秀英作の雛人形が展示されていた。


雛人形の他に、二尺玉(20号)の打ち上げ花火が展示されていた。
二尺玉(20号)の直径は57Cm、重量は65Kgとある。
右は10号用打上げ筒(直径30.3Cm)


10号尺玉花火
直径は27.5cm、重さは8Kgとある。
玉の大きさを表す号数は、玉の直径ではなく、打上げる筒の大きさを表している。
10号玉は、1尺(30.3Cm)の筒を用いる、とのこと。
参考までに三尺玉(30号)花火の直径は約88.5Cm、重さは280Kgもあるそうだ。
『今まで、尺って玉の直径とばかり思ってたよ』


まちかど蔵「野村」は、まちかど蔵「大徳」の向い側に建っている。
江戸後期から明治初期に建造された蔵で、現在は、市民交流の場としての開放や、
民俗・予科練関係の資料を展示している。


まちかど蔵「大徳」と「野村」前の通りの人影は少ない。
「土浦ひな祭り」の最終日としては、寂しい限りである。


まちかど蔵「野村」の霞蓮(かれん)雛人形
蓮の花が散った後の「ハチス」を使っているのが特徴だ。


交通安全祈願雛人形
内裏さまを始め、三人官女や五人囃子それぞれの人形が、
交通安全の標語を持っている。


11時20分、まちかど蔵「大徳」「野村」を後にして、


天神通り・中城通りへ。


天神社(天満宮)へ参拝
創建年代は不詳とのこと。
源義家が奥州征伐の軍馬を閲したという伝説がある。
江戸時代には三月に駒市(馬市)がたち、沢山の人馬が集まった。
祭神は、菅原道真で、書道・学問の信仰を集めている。


祭神が菅原道真ということで、境内には牛の像もある。


土浦ニューウェイ(土浦高架道)を横断。


路地を進む。
前方に「うらら」が見えてきた。


さくら通りの路地を抜けると、11時33分、「うらら」の横に出た。


国道125号を桜川方面へ。


桜川の堤防上を川上に向かって進む。
次第に風が強くなってきた。
『予報が当っちゃったねぇ』


11時42分、匂橋を渡る。


匂橋から川下(霞ヶ浦)方面を望む。


風がかなり強い。
帽子は手で押さえておかないと、飛ばされてしまうほどだ。


桜川を渡って、対岸の堤防上を進む。


ゴールの土浦イオン駐車場を目指す。


11時55分、銭亀橋に続いて、土浦橋を横断


旧国道6号沿いに進む。


前方丘の上に、最初に立寄った常福寺の高台が見えた。
子育地蔵尊も見える。
『あそこから市内を見たんだねっ』


土浦イオンが見えた。


土浦イオン前の道を進む。
生垣が風除けになるかと期待したが、あまり効果はなかった。
ここまで来ると、後は早くゴールしたい一心である。


間もなくゴールだ。


12時14分、先頭集団がゴール。


後続Gも続いてゴール。


締めは恒例の整理体操だ。


『最後に深呼吸~っ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


土浦イオンをスタート&ゴールとする例会は、これまで何度か実施したが、
旧水戸街道から土浦城を巡り、土浦市街地を散策するのは初めてである。
この日は、「土浦ひな祭り」の最終日ということで、まちかど蔵の通りは
かなり賑うのではないかと予想していたが、意外と観光客は少なく、
やや寂しさを感じた。

「土浦ひな祭り」は今年が13回目とのことだが、ひな人形を展示している
場所は、まちかど蔵の通りでは「大徳」と「野村」だけがメインのようで、
他に展示している店は少ないように思われた。
(「大徳」と「野村」以外は訪れていないのではっきりしたことは分からないが)

土浦は旧水戸街道が城の中心を通っていたという城下町で、歴史ある町である。
そうした歴史を感じさせる雛人形で、たくさんの人が訪れるような「ひな祭り」を
続けていって欲しいと願うものである。

この日の万歩計は、13,000歩を少し超えていた。

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