ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

彼岸花に魅了される 歴史の道常総

2013年09月27日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2013年9月27日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成25年度第20回(2013年第31回)、「歴史の道常総」を巡るウォーキングに参加した。

この日の第一集合場所は乙戸沼公園。
16名が集まった。大体いつものメンバーといったところだ。


車4台に分乗して第二集合場所の「JA常総ひかり」(北水海道)へ。
駐車場は事前に了承を得ていたので安心して止めることができた。
参加者は、現地直行者と併せて22名となった。


早速、会長の掛け声で準備体操。
『いやぁ 空が眩しいっ!』
この日の空は、台風(20号)一過で雲一つなく晴れ渡っている。
本当に気持ちが良い。


『腰を降ろしてアキレス腱伸ばし~っ』
後ろに見えるのは、「JA常総ひかり」


9時57分、先ずは彼岸花で名高い弘経寺(ぐぎょうじ)目指して出発!
この日の先頭は久しぶりにOさんが務める。


水海道有料道路
2年前には一時期試験的に無料になったが、現在はまた有料に戻っている。
道理で車は少ない。


『あそこに見えるのは富士山じゃないっ?』
『えっどれどれ、あっ本当だっ』


指差す方角に目を追いやると、うっすらと富士山が見えた。
この辺りから富士山が見えるということは、それだけ空気が澄んできたということだろう。


水海道有料道路下のトンネルには弘経寺にゆかりのある千姫の絵が描かれている。


弘経寺が近づくにつれ、道端には彼岸花が出迎えてくれている。
『綺麗だわねぇ』
『見頃じゃない?』


10時25分、JA常総ひかりを出発して30分弱で大本山増上寺別院弘経寺に到着した。


境内に入ると先ず目に付くのが、天然記念物の杉の大木(来迎杉)である。
目通り幹囲り7.5m、樹高約33mの堂々とした杉だ。


文化財に指定されている本堂にお参り。
千姫の菩提寺として莫大な寄進を受けたことから、弘経寺は「関東十八壇林」の一つに数えられる巨刹となり、
今なおその荘厳さを残している。


境内の本堂左手奥に千姫の墓(天樹院廟)がある。
千姫は、徳川2代将軍秀忠の子として生まれ、僅か7歳で豊臣秀頼に嫁ぐが、大坂城は落城し豊臣家は滅亡。
大坂城落城後江戸に移り、庵花で本田忠刻と再婚し1男1女をもうけるが、10年で忠刻と死別してしまう。
この後は落飾(らくしょく)して天寿院と号し、江戸城北の丸竹橋の屋敷で余生を送った。
落飾したときより弘経寺を菩提寺と定め、莫大な寄進をし、本堂・鐘楼・山門等を再建した、とのこと。


天樹院は、寛文六年(1666)70歳で死亡。
天樹院の死後、北の丸の住居は取り壊され、その用材の一部と千姫愛用の数々の遺品が寄付された。
遺体は家康の母方伝通院を葬ってある寿経寺に埋葬、弘経寺には遺髪を埋葬した、と伝えられていたが、
平成9年度の保存修理により、遺髪ではなく、遺骨が納められていたことが判明した、そうである。


弘経寺には、数々の建造物がありゆっくりと観て回りたいが、今回の目当ては彼岸花である。
弘経寺の境内を歩いてみる。
境内の林の中のいたるところに彼岸花が咲いていた。


前回訪問(2011年10月14日)したときはあまり人は見掛けなかったが、カメラ片手にお参りする人がたくさんいた。
弘経寺が彼岸花で名高いということを納得した。


彼岸花は弘経寺の門の外の道路沿いでも観ることができる。
境内の薄暗い林の中よりも、こちらの方が見栄えが良い。


『今日は来て良かったわねっ』


弘経寺の次は元三大師(がんざんだいし)を目指す。


弘経寺から15分ほどで元三大師(安楽寺)に到着した。
天台宗の別格本山で、正式には正覚山蓮前院安楽寺と云い、正月3日に生まれた平安期の僧侶“良源”を祀ったことから、
別名“元三大師”と呼ばれているとのこと。


元三大師(安楽寺)の南門へ続く鬱蒼とした杉並木の参道は、静けさがあり趣がある。
時代劇のロケ地としてたびたびTVなどに登場するそうだ。


安楽寺の南門をくぐる。
安楽寺には東門(福禄祈願)、西子安門(子孫繁栄祈願)、南門(延命長寿祈願)、中門(厄除け)の四つの門があり、
願い事によって入る門が異なるとのこと。
この日は南門から入ったが、我々には相応しい門だったといえるだろう。


左手の二階建ての鐘楼が目に入る。
説明がないので詳しいことは分からないが、建物は比較的新しい。


中門の前に大きなカヤの木が立っている。
幹回り5m、樹高は20mはあるだろうか。
昭和30年の火災でほとんどの枝が枯れたそうだが、樹勢は次第に回復してきているとのこと。


中門(厄除け)をくぐると・・・


左手に本堂がある。
未来の願いをする所である。


元三大師堂
現在の願いをする所である。
願いは大体”未来”のことだと思っていたが、”現在”との境界はどの辺りなのだろうか?
素朴な疑問である。


西子安門へ進む途中、「哀しい人柱伝説のお伽羅の供養塔」があった。
説明板には次のように紹介されていた。

昔、幾日も幾日も大雨の降り続いた年があった。
鬼怒川は増水し、河畔の村々では皆が今にも決壊しそうな堤防を固唾をのんで見守っていた。
逆巻く濁流に全てを押し流される恐怖心は募るばかりで、誰も彼も唯なす術もなく天を仰ぎ無力感に襲われるばかりであった。
そんな時、誰云うともなく、「龍神様に人柱をたてて怒りを鎮めてもらおう」と言いだした。
その声は次第に広がり、誰を人柱にするかということになったが、誰もすすんで人柱に立てようとする人はいなかった。
人柱をたてるということは難工事の際、荒ぶる神の心を和らげる為、犠牲に(いけにえ)として生きた人を水底や
土中深く生き埋めにすることであるため、誰一人として愛しいわが子を人柱にしたくはなかったのである。
その時どこからともなく「お伽羅を人柱にしよう」と誰かが言い出した。
お伽羅という娘は、諸国巡礼の母娘の二人連れで、旅の途中、水海道まで来た時、母は病気で亡くなり、
天涯孤独の身となった娘であった。名主が境遇に同情し、奉公人として養っていた。
気立ての良い心のきれいな娘であったが、村人達は身寄りのないお伽羅を人柱にしようとしたのだった。
名主は反対したが、他に代りがあろう筈もなく、とうとう賛成し人柱にすることが決まってしまった。
嫌がるお伽羅を「皆の為、村の為に犠牲になってくれ」といい水中に投げ込んでしまった。
お伽羅は哀しい悲鳴とともに激流の中に身を没していった。
やがて悲しい出来事も終わり、村は水没することもなく、家屋敷財産田畑、何一つ失うことなく人々は助かったが、
一人として明るい表情をみせる人はいなかった。
皆が罪の意識にさいなまれ、ある者は「川の中からお伽羅の鳴き声が聞こえた」といい、
又、村に疫病が流行り始めると「お伽羅の祟りだ」と言って畏れた。
いつしか、人柱にしたお伽羅を供養しようということになり、村中こぞって鬼怒川辺りでお伽羅の霊を慰めた。
村落の菩提寺であり、この地方の本寺でもある安楽寺に供養塔を立て、お伽羅の菩提を弔うようになった。
疫病もおさまり平安な暮らしが戻ると、お伽羅の供養の為として「伽羅免」と呼ばれる田畑をお寺に寄進し、
永代に亘り供養がつとまるようにとの村人の願いからであった。
茲(ここ)にまつられる石塔は、村人の改心と感謝の誠をあらわしたものと伝えられている。
優しいお伽羅の哀しい一生を思い遣り(やり)、懺悔と慈悲の懇ろ(ねんごろ)なる供養と
末永き回向がつとめられることを念じつつ・・・
南無妙法一心観佛   安楽寺第五十六世住職博英謹誌


西子安門(子孫繁栄祈願の門)を出て


大生郷(おおのごう)天満宮へ向かう。
工事中の側溝の上の方が安心して歩ける?


青少年の家のグラウンド(かつての向ヶ丘中学校の校庭)が見えて来た。


幼稚園児らしき子供達が運動会の練習でもやってるのかな?


銀杏の木


良く見ると大粒の銀杏がたくさん生っていた。
実りの秋は近い。


大生郷天満宮の看板に従って右折し、少しすすむと・・・


11時39分、目指す大生郷(おおのごう)天満宮に到着した。


天幡宮では学問の神様菅原道真を祀っており、必ずと言っていいほど牛の像がある。
牛の由来は、御祭神の菅公の誕生日が承和十二年(845)乙丑(きのとうし)の丑日であったと伝わる。
菅公が大宰府で亡くなった後、遺骸を牛車に乗せて進んでいたところ、急に牛が伏し、門弟が、
「菅公の御心である」と、その地に遺骸を葬った。
このことが、太宰府天満宮の始まりとなった、そうである。
また、天神信仰がはじめは農耕神として発展したことや、牛が農耕のシンボル的存在だったことも大きく関係している、
など諸説あるようだ。


大生郷天満宮本殿
菅原道真公を祭る日本三天神の一つ。
この天満宮は道真公の第三子である景行が創建し、父の遺骨を奉斎した唯一のところで、
それ故に福岡太宰府天満宮京都北野天満宮とともに日本三天神の一社とされる由緒ある神社、だそうである。


親鸞上人が布教で立ち寄り、お手植えしたと伝えられる「親鸞礼拝の杉」がある。
樹齢700年の大木であったが、明治35年の台風で折れ、大正8年の社殿炎上の際に類焼してしまった。
覆屋を建てて永久保存が図られている。


大生郷天満宮の裏手に小さな池と公園があった。


池には睡蓮の赤い大輪の花が浮かぶように咲いていた。


睡蓮の花でも眺めながら、弁当にしよう。


『やっぱり天気の良い日に外で食べると美味しいわねっ』


弁当も食べ終え、次の目的地坂野家住宅へ向かう。


水海道風土博物館 坂野家住宅の表門
薬医門は武士の家に許される格式の高い門であるが、坂野家はこの地に土着して500年ほどになると云われ、
この地方の惣名主的存在でもあったため、薬医門が許された。
国の重要文化財に指定されている。
入館料は300円であるが、65歳以上は無料となっている。


坂野家の主屋は藁葺き屋根である。
その重厚な佇まいに圧倒される。
主屋も国の重要文化財に指定されている。


今回は時間の都合上、ビデオを見るだけに留めた。
詳細は前回訪問(2011年10月14日)したときのブログを参考にしていただければありがたい。


直ぐに常総線三妻駅に向かおうかと思ったが、
せっかく来たので、和風庭園と


竹林だけは、見ておこう。
この見事な竹林は、TVでも何度かお目にかかっている。


坂野家を後にして、常総線三妻駅を目指す。


蕎麦の畑
間もなく秋蕎麦の収穫を迎える。


県道123号線を鬼怒川方面へ進む。


鬼怒川に架かる美妻橋を渡る。
緑色の橋が印象的である。
大型トラックが通る度に震度2くらいの揺れを感じる。
『この橋、大丈夫だろうねぇ』


鬼怒川の向こうに見える筑波山が美しい。


三妻小学校、


鬼怒中学校と通過して・・・


13時53分、関東鉄道常総線三妻駅(無人駅)に到着した。


『けっこう疲れちゃったわねぇ』


三妻駅から50mほど進んだところに地蔵最中を売っている店(いろはや)がある。
2年前はあいにく閉まっていたが、この日は開いていた。


三妻の”とげぬき地蔵最中”と称しており、箱入りもあるが、1個(栗入りの最中130円、大福85円)でもOKとのこと。
かみさんのお土産に”とげぬき地蔵最中”と大福を各々3個買った。
2年前の宿題が今終わったような気分である。


駅でしばらく列車を待っているところ。
日陰がないので、改札口を出た線路の直ぐ側に腰をおろしている。


14時19分、時刻表どおりに列車が来た。


1両編成の車内の様子


列車に乗ること8分ほどで、三妻駅から2つ目の北水海道駅に到着。
『ここで終わりじゃないんだよなぁっ』
かなり疲れが出て来た様子だが、残念ながらあと500mほど歩かなくてはならない。


5分ほどで、ゴールの「JA常総ひかり」に到着した。
この日は整理運動は省略だ。
『皆さん、大変お疲れ様でしたぁ』


この日は、前回(2011年10月14日)と同じコースを歩いた。
快晴でやや汗ばむくらいの空の下、弘経寺・安楽寺・大生郷天満宮・坂野家など常総の歴史を感じた一日であった。
懸案だった弘経寺の彼岸花に魅了され、また、”とげぬき地蔵最中”も買えて、個人的には満足の一日だった。
会員のリクエストがあれば、また別の時期に訪れてみることにしたい。
次はまた違った景色を楽しめることだろう。


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