ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

関東ふれあいの道(神奈川)No.10「大田道灌・日向薬師のみち」

2014年01月12日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2014年1月12日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、昨年(2012年)は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破し、認定証を受領した。
そして次は神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩こうということになり、企画したものである。

第11回目となる今回は、コースNo.10(大田道灌・日向薬師のみち:約8.5Km)を歩くことにした。

この日の参加者は9名。
いつものように常磐線日暮里駅で乗り換え山の手線で新宿に向かった。


小田急新宿駅
7時41分発の小田原行き急行を待っているところ。
ほぼ10分間隔で小田原行きがあるので便利だ。


鶴巻温泉駅には9時42分に到着した。


暫くの間バスを待つ。
この日は準備体操を省略したが、ストレッチ体操で身体をほぐす人も。


9時55分、伊勢原駅北口行きバスが到着。
発車は10時5分、朝食用のおにぎりとお茶を買いに駅前のコンビニに走っても十分時間がある。


バス車内は我々一行のみ、思い思いの席に座って発車を待つ。
出発間際には他に数人が乗っただけだった。


10時12分、ほぼ定刻どおり坪ノ内バス停に到着。


「関東ふれあいの道」の案内図は坪ノ内バス停から少し離れた国道246号線にある。
昨年9月8日「弘法大師と桜のみち」で歩いたときに確認しておいたのが役に立った。


10時15分、先ずは長福寺目指して元気良く出発だ!


田園風景の中を進む。
寒気が少し和らいだため、気温はそれほど低くない。
穏やかな太陽の日差しが気持ち良い。
少し歩くと、汗ばむほどである。


道端に石像が並んでいた。
「歴史の道」に相応しい風景ではある。


右に折れるように道標があるが、道は二つあった。
最初に写真左の道を進んだところ、ミカン畑へと通じていた。
間違っていることに気付き、引き返してさらに右の細い道を進んでいるところである。
道標が分かり難い。


ほどなく八幡神社に到着。
「関東ふれあいの道」の案内図にも乗っていない小さな神社だ。


最初に拝むのは、やはりこの日の無事安全である。


八幡神社から4分で長福寺に到着した。


70段ほどの階段を登ると長福寺の本殿があった。
とりあえずお参りして行こう。


長福寺を過ぎ、のどかな風景の中を進む。


丹沢山系の麓に建物が点在する。
後方一段高く見えるのは大山だ。


鈴なりのみかんは、夏みかん?それとも八朔だろうか?
『何時収穫するんでしょうね?』 『今でしょっ!』
なんちゃって!


前方に比々多神社の森が見えてきた。


拝殿前は参拝やご祈願の人たちで賑わっていた。


”御参拝お済みの方に、御神酒、御守をお授けします 無料”の看板が目に付いた。
御神酒をいただいたのは、平成十八年(2006年)に出身地大分県国東の「白髭神社」に
初詣した時以来で、あまり経験がない。
『ちょっと物足りないねっ』率直な感想である。


『私も撞いてみようっと』
神社で鐘を撞けるのもそう何度もあることではないのでは?


次の目的地、上粕屋神社へ向かう。


11時32分、上粕屋神社に到着。


神社の前に推定樹齢600年と云われる大きなけやきが立っている。


神社境内には他にも推定樹齢数百年と思われる古木が多数植えられている。


このけやきは御神木に相応しい古木で見事である。
奥にみえるのが拝殿


弁当の前に太田道灌公の墓前で証明写真を撮ることにしよう。
上粕屋神社から200mほど東へ行くと太田道灌公の墓地があった。


太田道灌公の墓地をバックに全員の証明写真を撮影。


洞昌院(とうしょういん
洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)の弟道悦和尚のため建てた寺と伝えられている。
今では道灌の霊廟が建てられている。


洞昌院の枝垂れ桜が印象的であった。


七人塚
上粕屋神社と道灌公の墓地の中間にひっそりと佇んでいる。
道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀反心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺された。
そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討死した道灌の家臣7名の墓で「七人塚」と伝えられている。
この墓は上粕屋神社の境内の杉林の中に七つ並んでいたが、明治の末期、開墾する時に
一つ残された伴頭(ともがしら)のものと云われ、今でも「七人塚」と呼ばれている。
(説明板より)


上粕屋神社に戻って弁当タイムだ。
上手い具合にベンチとテーブルがあった。
時計は12時ちょうどを差していた。


弁当も終わり、日向薬師バス停に向かって出発!


産業能率大学湘南キャンパスが見えてきた。
校地は、かつて室町時代に関東地方で勢力をふるった上杉定正の「糟谷の館」の址と云い伝えられている。
定正が勢力をふるった背景には、その家臣太田道灌の力があった。
太田道灌は江戸城をはじめ、川越・岩槻などの諸城をつくり、また軍略に巧みな名将として知られている。
近臣の讒言(ざんげん)にあって、定正に謀殺されるが、その舞台となったのが、
この糟谷の館であるという。(産業能率大学 説明板より抜粋)


県道603号線中丸バス停を通過。


県道603号線を途中で左折し、住宅地へ。


住宅地を抜けたところに鎧塚(よろいづか)古墳があった。
小さな塚で特に目立つようなものがないので、見落とすところだった。
古墳塚にはいろいろな碑が建てられていた。
正面は希典書と刻まれた忠魂碑。あちこちの神社などでよく見かける。


忠魂碑の脇の石には、鎧塚神社と刻まれている。
以下の説明によると、どうやらこれが御神体と思われる。
明治14年、道路の拡幅工事を行っていた当時の西富岡村の住民66名は、鎧塚古墳の蓋の石が露出して、
玄室(棺を納める室)が壊れそうなので、これを修理し、古墳に使われていた巨石を「鎧塚神社」の
御神体として祀ったそうである。
忠魂碑や鎧塚神社の基礎、盗掘などにより、今では石室の大半は失われてしまったそうだ。


塚の頂上に観音像が祀られていた。
台座には”武運長久”と刻まれている。


道路沿いには石屋が数多く見られた。
この辺りに石切り場があるのだろうか?


道端で地元産のみかんが売られていた。
このような無人販売所を道路沿いにたくさん見掛けた。


ゴールの日向薬師バス停を目指して進む。
13時28分、藤野バス停辺りで、路線バスが我々一行を追い越していった。
このバスが日向薬師バス停で折り返して伊勢原駅行きになるのだ。
何とかこのバスに乗りたい、しかし日向薬師バス停まで残り1.5Km、
バスに間に合うかどうか微妙である。


前方に大山が見えてきた。
時計は13時32分を過ぎたところだ。
13時45分発の伊勢原駅北口行きには間に合わないかもしれない。
その場合は1時間待たされることになる。


13時40分、日向薬師バス停の2つ手前の高橋バス停に到着。
時刻表を見ると、次のバスまであと7分しかない。


前方に日向薬師の歓迎の看板が。
『ここまで来たんだからここからバスに乗っても許されるんじゃないっ』
の力強い声に・・・・


高橋バスから伊勢原駅北口行きバスに乗ることに決定。
皆の顔に安堵の表情が浮かぶ。


高橋バス停で待つこと数分の13時47分、日向薬師折り返しのバスがやってきた。
帰りのバスは意外に混んでいた。
座れたのは数人だけで、残りは伊勢原駅までの約20分立ちっ放しだった。
『日向薬師に行っても座れなかったかもね』
『少しでも乗ってる時間が短くなって良かったわね』


14時4分、伊勢原駅北口に到着


小田急線伊勢原駅


『早めの電車に乗れて良かったわね』
『今日は本当にお疲れ様でしたぁ』


この日も好天に恵まれ、伊勢原路を歩くことが出来、太田道灌の頃に想いを馳せた。
最後は勝手な判断で指定されたゴールまで歩かなかったが、許される範囲だと思う。
この日コースNo.10「大田道灌・日向薬師のみち」を歩き終わり、残すところあと4コースとなった。
順当に行けば、5月には神奈川県「関東ふれあいの道」全17コースを歩き終わることになる。
次の「関東ふれあいの道」をどうするか、そろそろ本格的に検討を進めたい。


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