ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.86 大野城

2017年06月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月18日(日)

この日は、古代飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城、大野城跡を訪問した。
大野城跡は、国の特別史跡に指定されている。

7世紀の激動する東アジア情勢の中、天智天皇二年(663)、
大和朝廷は、百済復興をかけ、朝鮮半島で起こった白村江の戦いで
唐・新羅連合軍に敗れた。
連合軍が日本に来襲することを恐れた大和朝廷は、朝鮮半島から近い
北部九州を中心とした防衛体制を固めるため、664年に水城を、
翌665年に大野城と基肄城(きいじょう)を築城したと云われる。

大宰府の北側の守りとして四王寺山に築かれたのが大野城である。
大野城は、大宰府政庁が攻撃された時に備えた籠城のための城であった
と考えられている。

大野城は守り易く攻めにくい山城で、山の尾根線には土塁を、
谷間には石塁を築き、城を囲むように城壁が築かれており、
その総計は8Kmにも及ぶ。

往時の建物は失われているが、石垣や門柱の礎石、
そして土塁跡などが現在も点在している。

これらの古代山城は、百済の亡命貴族の指揮のもと、朝鮮半島の技術が
活かされていることから、朝鮮式山城と呼ばれている。
朝鮮式山城は、九州や瀬戸内地方に多く見られ、居住スペースがないなど、
戦国期の中世山城、江戸時代の近世山城の造りとは大きく異なっている。

概略以上の大野城に関する予備知識を下に、
最初に訪れたのは、四王寺県民の森管理センターである。
先ずは96城目となる100名城スタンプを押しておこう。
全くの地理不案内のため、事務所の方に県民の森の案内図をいただき、
かみさんとその妹の3人で訪れたため、女性連れでも訪問し易い場所
(百間石垣、尾花礎石群と焼米ヶ原、土塁など)を教えてもらった。


四王寺県民の森管理センターの向いに学習展示館があった。
四王寺山の模型、県民の森の風景、森の働き、昆虫展示など、
四王寺の森に関する様々な資料が展示されている。
また、水城・大野城・基肄城の地理や歴史に関するVTRで
四王寺山の予備知識を得ることができた。


地図で場所を確認するが、四王寺山は初めての訪問なので、
方角が皆目見当がつかない。


戴いた地図を頼りに先ずは百間石垣へ向かった。
県民の森センターから宇美町方面へ1kmほど下ると、
大野城最大と云われる石塁「百間石垣」へ通じる径があった。
かなり急坂である。


かみさんたちも後に続くが、かなりきつそうだ。


急斜面の途中に石垣見学路と書かれた標識があり、
丸太の階段が続いていた。
標識辺りから百間石垣の一部を見ることができる。
かみさんたちは、百間石垣の一部を見ただけで引き返してしまった。


丸太の階段を上り切った所に、百間石垣があった。
見学路からの高さは5-6mほどで、長さが百間(約180m)あることから、
百間石垣と呼ばれるそうだ。


百間石垣を逆方向から見たところ。


見学路を進むと、行き止りのように見えたが・・・


よく見ると、突き当りにさらに階段が続いていた。


階段を上り切ったところに音楽堂・屯水を示す標識が。
反対側は登山道となっている。


階段を上り切ったところから百間石垣を振り返ったところ。


登山道方面へ戻り、百間石垣を見る。
7世紀に造られたものとしては、なかなか立派な石垣である。


音楽堂を示す標識が気になったので、行って見ることにした。
径は、意外にも急斜面だった。
砂岩でできた径だったため、滑り易く上り難い。


汗をかきかき急斜面の山道を15分ほど上って行くと・・・


音楽堂があった。
現代風の野外音楽堂である。
神楽殿のような建物を想像していたのだが、予想が外れた。
この日は、大野城の次に福岡城を訪れる予定なので、
音楽堂で引き返すことにした。
もう少し足を延ばしておけば大野城の排水施設の水門である
屯水があったようだが、音楽堂で引き返して少し後悔している。


次に向かったのが焼米ヶ原の駐車場である。
駐車場から土塁が続いていた。


大野城跡には尾根に沿って土塁の城壁が築かれている。
尾根の部分は土塁(土をつき固めて積み上げる版築工法)の城壁、
また谷の部分は石塁(石垣)が築かれている。
その総延長は8Kmにも及ぶ、とのこと。


土塁の上から見えた景色


逆方向から土塁を見る。
土塁の上は、今ではハイキングコースになっているようだ。


史蹟大野城・四王寺址碑
四王寺山は、古くは大野山とも大城山とも呼ばれていた。
天智天皇四年(665)に大野城が築かれたことで、
日本の防衛という重要な役割を担った。
その110年後、奈良時代の宝亀五年(774)に四王寺(四王院)が創建された。
これは、当時外交関係が緊張していた新羅の日本への呪詛の動きに対し、
大野山の清浄な地を選んで四天王像を安置し、呪詛を祓い国を護る祈祷を
することが目的だった、と云われている。
これ以降、四王寺山と呼ばれるようになった、とのこと。
現在、四王寺山には、四天王である毘沙門天・広目天・持国天・増長天
と呼ばれる地名が残っている、そうである。


四王寺址碑の脇に四王寺山33石仏巡り5番札所の千手観音像が祀られていた。
大野城跡の土塁線上を中心に、33体の石仏が点在している、とのこと。
これらの石仏は、江戸時代後期に建立されている。
寛政十年(1798)に福岡城下町の大火災、翌年天然痘の大流行、
干魃や豪雨などの転変地異が続いたため、大野山(四王寺山)一円に
石仏巡りの札所をつくり、観音様のご利益にすがって、現世の不幸から
逃れようとの願いから博多の人々が発起し、博多・大宰府・宇美の人々が
協力して、四国33か所に倣って四王寺山全域に霊場建立を成し遂げた、
と云われている。


5番札所の石仏の奥に、尾花礎石群があるということで、
建物跡の説明があった。


建物の復元図
尾花礎石群では奈良正倉院のような高床式の倉庫が10棟ほど
建っていた、とのこと。
倉庫内には米や武器などを収納していたと思われる、とのこと。


尾花礎石群の建物の礎石跡(1)


尾花礎石群の建物の礎石跡(2)


尾花礎石群の建物の礎石跡(3)


建物礎石跡の近くに”焼米ヶ原”の説明があった。
この場所から炭化して黒くなった米が見つかっているので、
”焼米ヶ原”という名前が付けられている、とある。


焼米ヶ原


焼米ヶ原の一角に玄清法印之墓と刻まれた石碑があった。
玄清法印は、太宰府に生まれ、17歳のときに視力を失うが、
盲僧となり琵琶を弾いて人々を救った、そうだ。
延暦八年(789)に四王寺北谷に成就院を建立したと伝えられている。


太宰府で天然痘が流行した際、玄清法印は四王寺山に登って
地神陀羅尼経を唱えながら、琵琶を弾き続けて、天然痘の流行を
鎮めたという。
玄清法印は弘仁十四年(822)に57歳で亡くなった。
一千年忌(1834)に建てられたのがこの四王寺山上のお墓だそうだ。


玄清法印の墓から焼米ヶ原を見たところ。


焼米ヶ原から見た景色


焼米ヶ原から土塁の上を駐車場へ引き返す。


駐車場へ引き返す途中見えた大宰府市街地


駐車場からさらに下へと土塁が続いていたので、行ってみることに。


下り坂の土塁入口右側に戦国武将岩屋城城主
「高橋紹運」(たかはし じょううん)辞世の歌碑があった。
流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水


土塁の突き当りに史蹟大野城四王寺阯と刻まれた碑が建っていた。


史蹟大野城四王寺阯碑の手前に大宰府口城門の標識があったので、
標識の指す方へ急坂の径を下って行くと・・・


大宰府口城門跡があった。


大宰府口城門跡
(反対側から見たところ)


大宰府口城門の礎石跡
ここに城門が建っていたのだ。


大宰府口城門跡近くに建っていた鳥居を潜り、
かみさんたちが待つ駐車場へ向かった。


四王寺県民の森管理センターで入手した地図を参考に、係の方に紹介して貰った
大野城の百間石垣・焼米ヶ原・尾花礎石群・大宰府口城門跡を見て回った。

時間的に余裕があれば、総延長8kmに及ぶ土塁を歩いてみたかったというのが、
正直な気持ちである。
他にも見所がたくさんあり、初めての訪問で、しかも半日足らずという
短時間で観て回るのは極めて困難ということが分かった。
可能であれば、もう一度訪れてみたいとは思うが、その思いが叶うのかは
定かではない。

後ろ髪を引かれる思いで、この後、福岡城へ向かった。

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