ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.38 岩村城

2013年05月05日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2013年5月5日(日)


GWに家でゴロゴロしている訳にもいかないので、後半の4日、昨年8月以来の9か月ぶりに
かみさんと「日本100名城巡り」に出掛けた。
巡りと言っても、今回訪れたのは、岐阜県の岩村城(No.38)だけである。
4日午後に自宅を出発し、岩村城に最も近い道の駅「らっせぃみさと」で一泊し、この日の登城に備えた。


「日本100名城」公式ガイドブックには、
岩村城は、近世山城の代表で、標高717mの日本一高い地に築かれた城である。
高取城・備中松山城とともに近世城郭における日本三大山城といわれる。
別名「霧ヶ城」といい、非常に霧が発生しやすい地勢にあることから名付けられた。

5日は先ずは岩村城歴史資料館へ向かった。
岩村城歴史資料館は、かつて、山麓部の居館群があったところで岩村藩主邸跡に建てられている。
岩村藩主邸(御殿)は江戸時代初期(1610年頃)松平家乗(いえのり)によって創設された。
藩主は山頂の岩村城本丸から降りてここで居住していた。
8時をちょっと過ぎたばかりだったため、まだ開館されていなかった。


明治二年(1869)版籍奉還により岩村県となり藩主が知事となると、ここを県庁とした。
明治四年(1871)廃藩置県により知事松平乗命(のりとし)は東京移住を命ぜられ、
藩主邸は空家となったが、明治十四年10月30日夜、失火により全焼してしまった。
平成二年(1990)に太鼓櫓や表御門などが再建された。
歴史資料館側から見たところ。


再建された太鼓櫓と表御門を歴史資料館の外から見たところ。


知新館は元禄十五年(1702)藩主松平乗紀によって創立された、美濃国において最初の藩学校であり、
全国的に見ても古く十指に入る、という。
知新館の名称は論語の「温故知新」から採ったものである。


藩主邸跡に再建された岩村藩校知新館の正門。


知新館の正門を内側から見たところ。


スタンプは下山後にして、山頂の本丸跡を目指すことにした。
歴史資料館を出て右手本丸への坂道上り口の大きな岩に「岩村城登城口」と刻まれている。
ここが岩村城への登城口である。


歴史資料館の前(登城口左手)に旅館岩村山荘がある。
城のような造りだったため、最初は歴史資料館と間違って入ってしまった。


本丸まで800m
登城道100M毎に設置されているのが嬉しい。


上り始めて直ぐにこのような看板が。
きのこ採りや墓参りなどで山へ上る時には特に注意が必要だ。
鈴を携行するよう注意を呼びかけている。


本丸まで700m


登城道左側に”下田歌子生誕の地”の立て札があった。
下田歌子女史は、現実践女子学園の創立者で、愛国夫人会の会長を務めるなど、明治・大正の女傑と云われた。


生誕の地は岩村藩士平尾家のあったところで、父■蔵(金偏に柔)の長女として誕生した。
下田歌子の生い立ちや種々活動した履歴の碑が建立されている。


近代植物学、環境保護の先駆者と云われる三次学博士(1862~1939)の像と碑もある。


坂道に戻り、登城道を上って行くと右手に立派な塀が見えて来る。


下田歌子勉学所の門だ。
門の前の説明板には次のように紹介されていた。
下田歌子女史の祖父は東条琴台で、「聖世紹胤録」など多数の著述を持つ学者であり、
父■蔵(金偏に柔)も岩村藩校知新館の教授をしたことがある、学者の家庭に生まれ育った。
女史は5歳で俳句をつくり和歌を詠み、七・八歳にして見事な韻を踏んだ漢詩を賦し、神童と呼ばれた。
しかし、女であるため、すぐ近くにある知新館に学ぶことは許されなかった。


家庭において祖母貞から読み書きの手ほどきをうけ、祖父と父の豊富な蔵書を読みあさって、
次第に頭脳を多彩的なものとし、詩的な情操をより豊かにしていった。
独学で修めた和漢学は、知新館の教授も驚嘆するほどになった。


この室は父の書斎であり、女史の勉強した室である。
幼い頃から女史の胸中に秘かに燃えていた炎は、女というだけで知新館へ入学できなかったという反発であった。
十八歳で上京し、やがて実践女史学園を創立するにいたった苦難の道を進むのを支えたのはこの炎であった。
(説明板より)
そのうちNHK大河ドラマにでもなりそうな活躍ぶりである。


本丸まで600m
藩主邸から一之門まで続く急な坂道は「藤坂」と呼ばれている。


加藤影廉(かげかど)の妻重の井(しげのい)が輿入れの際に、生まれ育った紀州藤城村から持参した種から育てたと伝える、
藤の大木があったことが、その由来と云う。


直線的に伸びる登城坂のこの部分だけが、行く手を遮るようにU字形に大きく曲げられている。
有事の際にはここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため、「初門」と呼んだという。
岩村城の最初の関門である。


本丸まで500m


杉木立が美しい。
散歩やハイキングにお勧めの道だ。


本丸まで400m
前方に石垣が見えてきた。


一之門跡
二層の櫓門があり、大手一之門と呼ばれた。
城に向かって左側には単層の多聞櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていた。
内側には番所が置かれていた。


侍屋敷跡から一之門跡を見たところ。


土岐門跡が見えてきた。


土岐門は、岩村城第二の門で、内側は馬出し状の曲輪となっていた。
絵図には、門は薬医門または四脚門として描かれている。
土岐氏を破ってその城門を移築したという伝承からこの名(土岐門)がついた。
廃城後に徳祥寺(岩村町飯羽間)山門として移築され現存している。
本丸まであと300mだ。


杉木立の中を進む。


この奥の大手門へ進むには空掘に架かるL字形の橋を渡って内部に入るようになっていた。
現在はその橋はなく空堀りを歩くことができる。
その橋は床板を畳のようにめくることができたことから、畳橋と呼ばれたという。


追手門(大手門)は、畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門である。
脇には畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていた。
三重櫓は岩村城唯一の三層の櫓で天守に相当し、城下の馬場と本通りはこの櫓を正面に見るように設定されている。
城下街から見上げたとき、ここが最も見栄えのする地点であったからだそうである。
大手櫓門は、岩村城の正門で、岩村城最大の門であった。
本丸まであと200m


この辺りの石垣は美しい曲線を描いている。
その曲線は”扇の勾配”とも又は”武者返し”とも呼ばれている、とのこと。
これほど反り返っている石垣は初めて見た。


竜神の井
この井戸は岩村城のうち、最大の規模で、昭和60年に創築800年を記念して復元したもの。


昭和62年に岐阜県の名水五十選に認定されたが、今も絶えることなく、味は天然のうまさがあります、
と紹介されていたが、直接飲まないよう注意書きがあった。


五郎作屋敷跡
城内住込みの侍屋敷があった場所。


両側に二の丸と八幡曲輪の石垣が築かれている。
この辺りは侍屋敷が建ち並んでいたと思われる。


霧ヶ井
岩村城の別名「霧ヶ城」の由来となった井戸である。
敵が城を急襲したとき、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると、忽ち霧が立ち込め城を覆い隠したという。
蛇骨は二の丸の宝蔵に修蔵されており、虫干しをした記録が残されている、そうだ。
この水は今も絶えることなく湧き出し、昭和62年に岐阜県の名水五十選に認定されている。


登城道を左手に曲がり、八幡曲輪の八幡神社(霧ヶ城龍神社)へ向かう。


八幡神社は、中世の城主遠山氏の氏神で始祖加藤景廉(かげかど)を祀る。
明治五年(1872)に山麓の現在地へ移転した。


登城道へ戻る。
本丸まであと100mだ。


杉並木が続く。


三の丸の菱櫓
菱櫓は山城特有のもので、山の地形に合せて石垣を積んだので、菱型になった。
この上にあった建物も菱型であったので、菱櫓と呼ばれた。


菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多聞があって、大円寺・水晶山方面を遠望監視した。
大円寺へ通じる険しい急坂は残っているそうだが、今は通行止めになっている。
俄坂門は、実際は使わないが、落城等の非常口として用いられた。


六段壁
本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の見事な石垣が現れた。
岩村城のシンボル的な石垣である。


元は最上部のみの高石垣だけであったが、崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、
現在の姿となった、そうである。


階段を上ると正面は東曲輪である。
左手は、水晶山方面の監視の役目を持つ二重櫓跡になる。


右手は長局埋門(ながつぼねうずみもん)である。
両側の石垣の上に多聞櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門があった。
前面の一段低い曲輪は東曲輪で、本丸の外枡形的機能を持っている。
(埋門とは、城の石垣・土塀の下方に設けた小門のこと)


門の内側の細長い曲輪は長局と呼ばれている。
入って左手の本丸に入る内枡形状の通路は東口門で、本丸の正門になる。


最後の石段を上ると・・・


本丸跡だ。
山城の山頂だが、意外に広い。
本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多聞櫓2棟が石垣上に構えられていた。


本丸跡から六段壁方面を望む。
本丸跡の内部には特に施設はなく、広場となっていた。


岩村城跡の碑が建てられている。
岩村城は別名霧ヶ城と呼ばれ、峻険な地形を利用した要害堅固な山城で、海抜717mに位置し、
全国の山城の中でも最も高地にある。
岩村城は文治元年(1185)から慶応四年(1868)まで683年間、全期に渡って城が厳存したことは、
日本の城史にも例を見ない、と案内に記されている。


昇龍の井戸
標高717mという山の頂きにありながら、水が枯れることが決して無かったと云われている。


中は覗けなかったが、井戸の縁に賽銭らしき小銭が置かれていた。


織田信長が「本能寺の変」の80日前に宿泊した城との立て札が。


本丸東口正門辺りからの眺望は素晴らしい。
かつては、城下が見下ろせるように余計な木はなかったのだろう。


本来は埋門を通る道があるが、本丸の裏手の坂道を通って出丸へ向かう。


出丸平重門跡から本丸方面を望む。
出丸平重門は出丸の正門であり、厳重に防備された門であった。


出丸は、本丸の南西の防備を担う重要な曲輪で、2棟の二重櫓、3棟の多聞櫓で厳重に固められていた。
二重櫓の一つは時を告げる太鼓が置かれた太鼓櫓であった。
また多聞櫓は大工小屋として使われるなど、平時には城の維持管理を担う櫓であった。
復元された出丸の氷餅蔵(籠城に備えて氷餅を貯蔵していた)


出丸から本丸裏手を通り、帯曲輪方面へ向かう。
本丸は高い石垣で守られている。


帯曲輪への中間辺りのところに南曲輪(仮称)がある。
本丸の南の尾根に伸びる戦国時代の遺構で、堀切や堅堀、土橋などの遺構が残っている。
江戸時代には一部が侍屋敷として用いられた。


本丸をぐるりと一回りして、二の丸へ向かう途中に見えた六段壁。


二の丸櫓門跡
二の丸の正門で、右手で軍馬を飼育していた。


二の丸跡
米蔵・武器蔵、番所と建物は多い。
水を湛えた堀の中央に弁財天社があった。
現在はロープが張ってあって、中には入れないようになっている。
何百年も放っておくとこのように大きな杉などが生い茂ってしまうのだ。
改めて自然の力強さを感じる。


ちょっと気がひけたが、少しだけ中を歩いてみた。
堀のような石垣が見える。 弁財天社跡の弁天池だろうか?


本丸搦手門(埋門)の石垣
出丸から本丸へ通じる門である。
両側と奥の石垣の上にすっぽりとかぶさるように櫓門が載せられていた。
門の右側には納戸櫓(二重櫓)が建てられていた。


この石垣を右に曲がると本丸である。


再び本丸に出た。


岩村城本丸を後にして、山を下り、歴史資料館に戻った時には10時30分を過ぎていた。
2時間半ほどのハイキングを楽しんだことになる。
この後、昼食でもと岩村城の城下町を歩いてみることにした。

”明治・大正にタイムスリップ 岩村城城下町を歩く” へ


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2 コメント

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岩村城行きたい (おこめ)
2014-04-30 19:30:03
ブログ拝見して 詳しい説明で 私も連休に行きたいです
700メートルはきついですね。

時間はどのくらいかかりましたか?
返信する
2時間半ほどでした (ウマさん)
2014-05-08 18:53:12
上り始めたのが8時頃で、下りて来たのが10時半ですから、2時間半かかったことになります。
この後、岩村城の城下町を歩きました。「ウマさんの気ままなウォーキング」で紹介しています。
結局、昼頃まで岩村町にいたことになります。
1日かけてお城と城下町を楽しむのが良いと思います。


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