ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.67 津山城

2012年08月04日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月4日(土)


この日は午前中に竹田城に登城し、山陽道を約100Kmひた走って、津山城には13時40分に到着した。

津山城は、慶長八年(1603)森忠政(森蘭丸の弟)が信州河中島から18万6,500石の大名として入封されたとき、
13年の歳月を費やして築いた。当初は鶴山に築城開始したことから「鶴山城」と云われていたが、鶴山を津山と改めて
「津山城」として城と城下町の建設を行った。

郷土博物館横に津山城”備中櫓”の名前の由来の看板があった。
それによると、
櫓は一般的には武具や食糧を保管する倉のことであるが、備中櫓は内部が全て畳敷きの部屋で構成されていることから、
藩主やその身近な人の私的な生活空間に使われたと考えられている。
森忠政の長女と四女が嫁入りした娘婿、鳥取藩主の池田備中守長幸がその由来とのこと。
池田備中守長幸が津山を訪れたときに完成した櫓からという説が一番有力視されている。
池田長幸は、織田信長の武将として有名な池田恒興の孫にあたり、姫路城を築いた池田輝政の甥になる。
長幸は慶長十九年(1614)に父長吉の跡を継いで鳥取城主(六万石)となり、元和元年(1615)には従五位下備中守に叙任された。
その後、元和三年には備中松山城主となった。


登城口


登城口の石段を上りきると正面に大きな石垣がある。
その大きさに圧倒される。
じりじりと焼けつくような暑さだが、頑張って行こう。


振り返ったところ


忘れ去られた石
平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が発見された。
石の重さは約2.3トン。
近くにある「津山城石切場跡にある矢穴と同じ大きさのものが石の上下に計9箇所残っている。
津山城築城時に切り出された石の一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようだ。
この石は「忘れ去られた石」と名づけられた。
平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業で「歴史石曳き」として市内中心部を曳かれた後、
津山城に400年振りに届けられた。(案内による)


城主(森忠政公)の像
幼名を千丸。元亀元年(1570)、美濃金山城に生まれた。
本能寺の変で織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟である。
天正十二年(1584)兄・長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられた。
のち徳川家康に仕え、慶長五年(1600)信濃川中島13万7000石を領す。
同八年には美作国一円18万6500石を与えられ、津山に入封。翌九年より築城に着手した。
また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永十一年(1634)3代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死。享年65歳。


三の丸表門前の料金所
入場料300円を払って中に入る。


三の丸表門である冠木門跡


三の丸冠木門を入ってすぐ左にこれまた見事な石垣が現れる。


三の丸へ至る階段


三の丸
明治四年に城は取り壊しになったが、津山町は城を町有にして、鶴山公園とした。
城跡の鶴山公園には数千本の桜が植えられ、日本の歴史公園100選、日本桜の名所100選にも選ばれている、とのこと。


表中門の石垣


表中門
表中門は、三の丸から二の丸にいたる通路の正面にあたるが、それにしても広い階段である。
櫓門の形式で城内に存在する櫓の中で最大であった。
門の櫓部分の長さは十六間(約32m)もあり、大阪城や江戸城の城門にも匹敵する大きさである。


四脚門手前の階段


二の丸への正面を絶ち切り、左へ折れて四脚門が構えられていた。


四脚門を過ぎると二の丸である。
右へ曲って上を見上げると、備中櫓が正面に見える。


備中櫓
津山城には、70棟以上もの櫓があったそうだが、その中で一番大きな櫓が備中櫓である。


備中櫓を左に見ながら進むと切手門がある。
切手門跡辺りから道幅が狭くなる。
これは、大勢の敵が攻め上がって来たときに急に道が狭くなって敵が右往左往しているところを狙い討ちにできる、
という計算があったようだ。


切手門を過ぎると右手に弓櫓がある。


弓櫓を過ぎると、辰巳櫓が控える。


辰巳櫓を過ぎた辺りから備中櫓を見る。
絵になる風景である。


辰巳櫓跡から見た吉井川の支流、宮川沿いの市内(上之町)展望


宮川上流の展望(津山総合体育館方面)


辰巳櫓を左に曲った奥に表鉄門跡がある。
本丸への入口の櫓門で、門扉全体が鉄で覆われていたことから、この名前が付いている。


表鉄門の階段を上ると・・・


ようやく本丸広場に到達する。
かつては、表鉄門二階の櫓の中を通って本丸御殿へ行っていた。
つまり表鉄門は、城門としてだけでなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入口としての役割も持っていた。
見えているのは、本丸の東側の矢切櫓跡である。
武者走りの石段が見える。


長局から見た備中櫓
長局は現在は藤棚になっている。
かみさんの気分が優れないため、ここで、一休みしていくことにした。


長局辺りから見た備中櫓


備中櫓正面


備中櫓内部は、全て畳敷きになっている。


一階にある「御茶席」


櫓二階にある「上段の間」
本丸御殿の一部として機能していたと考えられる。格式の高さが伺える。


本丸天守台への入口、五番門
備中櫓の北側に位置し、天守曲輪への南からの入口になっている。
高麗門あるいは薬医門だったと推測されているそうだ。


五番門を通り抜けると本丸天守台の石垣に辿り着く。


本丸天守台石垣の西側
コンクリートの部分には、かつては多聞櫓があり、その内側には天守曲輪があった。


七番門
天守台の回りには、いつくかの門がある。
天守台の西側には天守曲輪があり、その北西部にある門が七番門である。


天守台へ上がってみる


天守台から備中櫓を見たところ。


天守台
天守は地上五階建て、高さは石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規模であった、とのこと。
いずれ天守閣再現となるのであろうか? 期待したいものである。


時間は15時近くになっていた。
猛暑の中、午前中に竹田城を登城見学したのに続き、約100Km離れた津山城も見学したため、少々疲れた。
津山城の一部しか見て回れていないが、津山城はひとまずここで終わりにして、次の目的地である、
毛利元就築城の郡山城のある安芸高田を目指すことにした。


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