うぐいすの丘日記

趣味の家庭菜園や、草花、旅の様子をお伝えします。

童謡の里「竜野」遊歩(6)

2014年12月31日 17時05分50秒 | Weblog
竜野出身の作詞家として三木露風の他に矢野勘治と云う方がいる。全く知識が無い方であったが、その顕彰碑があり第一高等学校の寮歌「ああ玉杯に」を作詞した人であることを知った。その他にも「春爛漫」も作詩をしているが、この歌はタイトルをうっすらと記憶している程度である。「ああ玉杯に花受けて・・」の歌詞とメロディーは今でも少しは歌える。

「ああ玉杯に・・」歌碑

矢野勘治公徳碑。「ああ玉杯に花受けて 緑酒に月の影宿し 治安の夢に耽りたる 栄華の巷低く見て 向こうが丘にそそり立つ 五寮の健児意気高し」





三木露風、矢野勘治などの文献や遺品が展示されている霞城館。


霞城館の庭。


旧居を示す案内板。
*今年も終わりました。ボケ防止と閑に任せて投稿してきましたが、お訪ねいただいている方々有難うございました。どうぞよいお年をお迎えください。

童謡の里「竜野」遊歩(5)

2014年12月29日 16時57分26秒 | そぞろ歩き社寺

三木露風の生家から歩いて数分の所に竜野公園があり、その入口には三木露風像や「赤とんぼ」歌碑が建てられている。また少し上った白鷺山には童謡の小径があったり、一日三回市内には赤とんぼのメロディーが流れるなど、露風と竜野の縁の深さを感じ取れる。晩年には露風は東京・三鷹で過ごしているが、そちらには旧宅や墓所もあり竜野市と三鷹市姉妹都市にもなっているのだそうだ。

露風像と「赤とんぼ」歌碑

三木露風像。


赤とんぼ歌碑。




作曲は山田耕作であるが、二人で作詞作曲の童謡は三十曲ほどある。しかし、その題名をみてメロディーを口ずさむことが出来るのは「赤とんぼ」だけであった。浅学を恥じ入る。




「赤とんぼ」歌碑五線譜は山田耕作の絶筆だそうだ。


童謡の里「竜野」遊歩(4)

2014年12月27日 14時26分52秒 | そぞろ歩き社寺

竜野が「童謡の里」と云われている由縁は誰もが知っている「赤とんぼ」の作詞家三木露風のふる里であるからである。その生家が龍野城の埋門の坂を下りた所にあり、無料で見学することが出来る。「赤とんぼ」が作詞されたのは大正10年であり、山田耕作により作曲されている。竜野を離れて上京してから故里を懐かしんで作られたものである。

三木露風の生家

木造平屋建てで明治初めから中頃に建てられたもののようだ。明治22年生まれの露風は本名を操と名付けられている。

  
外観は思ったより小さい家であるが、お城の真下にあり幕藩時代は政治の中心地であったようだ。


玄関を上がると両側に4つの和室がある。


仏間から座敷の様子。


庭。


向井にある幼稚園に入園したが、6歳の時両親は離婚し露風は転宅している。


童謡の里「竜野」遊歩(3)

2014年12月24日 17時10分54秒 | Weblog
竜野は脇坂藩の城下町であるが、その山城は約5百年前に赤松村秀により築かれたものである。その後、歴史の流れの中で平山城になっていったのだが、市街には武家屋敷の白壁や土蔵が残り、醤油の町と相まって風情ある風景を醸成していて「播磨の小京都」とも呼ばれている。

龍野城の景色

背後の山は鶏籠山と呼ばれ、当時龍野城はこの山頂付近にあった。その後、平山城にだけになったが、これは平山城の埋門。


戦国時代になると信長の命による秀吉の播州征伐の軍門に下り、脇坂安政により治められていた。


再建された本丸御殿。


その内部。


隅櫓。春は桜の名所でもある。

童謡の里「竜野」遊歩(2)

2014年12月22日 16時44分58秒 | Weblog
まず、駅前の竜野観光案内所で散策のコースを指南してもらおうと立ち寄った。冬の寒いウイークデイで訪ねる人も無いのか、まことに親切なおばさんが「竜野遊歩」マップに赤ペンでコースをなぞってくれ、それに従って歩くことにした。「遊歩」というのはそのマップのタイトルであり、遊び心で歩くことを心掛けて出発。

醤油の町・竜野

駅から暫く歩くと揖保川に架かる橋に出る。その畔にあるのがヒガシマル醤油の工場。大手の醤油会社であるが、竜野にあることことは来て初めて知った。


町中にあるカネヰ醤油の工場。ゐの文字が歴史を感じさせてくれる。


これも醤油の蔵であるが建物が保存されている。


末廣醤油の看板が掛かり販売もしている。


一歩路地を入るとこの様な風景が見られる。戦災にもあっていない町でレトロな雰囲気を感じさせてくれる。

童謡の里「竜野」遊歩(1)

2014年12月20日 12時23分34秒 | Weblog
兵庫県の西部にある竜野は童謡の里として知られているが、まだ訪ねた事は無い。また、醤油の町としても名を馳せており、千葉野田の濃い口醤油、竜野のうすくち口醤油の町としても知られている。寒さが和らいだ日に爺さんの一人遊び歩きである。

竜野駅の風景

竜野の町を歩くにはJR姫新線の本竜野駅が拠点となる。山陽本線に竜野駅があり、いままでそちらが中心の駅だとばかりに思っていた。姫路で姫新線に乗り換え4つ目の駅が本竜野である。


姫新線は姫路と岡山県の新見を結ぶ65.9㎞の路線であるが、列車には「赤とんぼ」の絵が描かれている。


姫路からは播但線も出ているが、そちらには銀の馬車道と描かれている。終点の和田山の近くには生野銀山があり、当時はそこから姫路港までは馬車で運んでいたそうで、それに因んだネーミングが描かれている。


本竜野のプラットフォームには童謡「赤とんぼ」に因んだ童像。作詞家の三木露風のふる里がこの竜野の町である。


駅前広場にある赤とんぼのふる里像。

初冬の庭

2014年12月17日 14時50分38秒 | Weblog
ネタ探しで歩いた社寺の写真も尽き、近畿各地のガイドブックと睨めっこしているが、次の目標がなかなか決まらない。殆どの歴史スポットや社寺に足を延ばしているのもその理由だが、この数日の本格的な冬将軍の到来のせいで気が乗らないのもある。そんな分けで、何の変哲もない我が家の庭の花木を撮ってみた。

我が家の庭の花木

柚子。今年は例年になく大きな実がなっている。毎年の繰り返しだが、年によって生り方が違うのも自然の摂理だろうか。


水仙が小さな花芽を付け始めている。


山茶花はほっておいても毎年沢山の花を咲かせるね。


まんりょう。


南天。花に関する知識は殆どゼロ爺さんだが、色が綺麗なのは良いね。

錦秋の湖東三山を歩く(11)

2014年12月15日 16時06分39秒 | Weblog
百済寺の「天下遠望の名園」の東側山麓を少し上ると西側の眺望が広がり、はるか彼方には比叡山やそれに連なる比良山系の山を遠望することが出来る。三山の中でこの様な景色を見ることが出来るのはこのお寺だけであり、他の二寺とは異なった趣である。

境内の様子と眺望

千年菩提樹。中央の空洞部は焼き討ち当時の幹の直径に相当している。


百済寺城の石垣遺構。信長が安土に築城するに当たり、近隣から石曳をしたが、この城砦化した石垣は小石を積み上げたもので破壊されずに残ったのだそうだ。


赤門。


本坊の屋根と紅葉。


西側の眺望。はるか彼方には比叡山や比良山系の山が遠望できる。手前の山の右方が安土城址がある。

*湖東三山を巡り、彦根経由で帰宅。この日の歩行距離は13Kmを超えた。ゆっくり食事をする時間も無く、電車に乗る際に缶ビールとつまみを買ってEさんと談笑しながらの帰宅・・疲れたが楽しい一日でした。

錦秋の湖東三山を歩く(10)

2014年12月13日 15時39分51秒 | Weblog
百済寺の紅葉スポットは本坊庭園にあるようだ。別名「天下遠望の名園」と謳われる池泉回遊式庭園で格別の紅葉が広がっている。また、庭園は東側の山を借景にし、少し上って西側の借景は琵琶湖を隔てた比叡山の広大なパノラマ展望を望むことが出来る。

百済寺の紅葉

百済寺と書くがヒャクサイジと読む。推古天皇の御代に聖徳太子の御願により百済人の為に創建されたことに由来しているようだ。


庭園に足を踏み入れると見事な紅葉が広がっている。




池泉回遊式の庭園。


東側の山を借景にし紅葉は広がっている。


紅葉と瓦のコントラストが美しい。

錦秋の湖東三山を歩く(9)

2014年12月11日 13時40分00秒 | そぞろ歩き社寺

湖東三山の三つ目のお寺は百済寺である。金剛輪寺からは7㎞程あるようでシャトルバスで向かった。お寺の門前に着いた頃には、つるべ落としの晩秋の陽は冷たさも持ち込んできたが、何とか散策には間に合って今日の目的は達せられそうである。

百済寺の紅葉

境内に入って“オヤッ?”と思ったのは、“紅葉が無い・・”この写真はお寺のパンフレットにも飾られている紅葉ポイントの筈だが・・見事な二つの寺とは明らかに違うようだ。気候の所為か種類の違いか、不思議な気持ちで歩を進めた。


仁王門から入っても紅葉の気配がない。

  
大きな草鞋と仁王像も心なしか寂しい。


本堂。創建されたのが推古天皇14年(606)で三山の中でも一番古い。


「天下遠望の名園」があるようでそこの、紅葉を期待しよう。


錦秋の湖東三山を歩く(8)

2014年12月09日 17時35分49秒 | そぞろ歩き社寺

金剛輪寺の境内は鈴鹿山系の北西側の山麓に広がっているが、東海道新幹線の米原駅もそれ程は離れていない。冬になると雪の為の新幹線が遅れることもあるが、少しだけ南西に位置しているためにそれ程雪の影響を受ける地ではないようだ。今頃は紅葉も落葉に変わってしまったと思うが・・

境内の建物

三重塔。南北朝時代の建立と考えられているが、その後、破損が進み現在の姿は昭和の大修理によるものである。


三重塔と紅葉。


茶室。


護摩堂。


地蔵堂。

  


境内の山麓には千体地蔵が祀られ、紅色の風車と前掛けが周囲の景色の中で映えている。


錦秋の湖東三山を歩く(7)

2014年12月07日 17時11分29秒 | Weblog
金剛輪寺ではイロハカエデやヤマモミジを中心に全山が色鮮やかに紅葉し、本堂の周囲や名勝庭園の紅葉は「血染めのもみじ」と云われるほど鮮やかな深紅に染まっている。各地の紅葉をきちんと見ている訳ではないが、これ程の紅葉をしっかりと見た経験は無いほどのものであり、良い経験をした一日である。

名勝庭園の紅葉

二天門の西側にある名勝庭園は、桃山、江戸初期、中期の三庭からなっており、その庭山腹には「血染めのもみじ」が目を楽しませてくれる。


三庭と云っても、それを判別できる訳ではなく全体から燃えるような一体感を感じさせてくれる。






水と石、苔と紅葉が何とも見事である。


同じアングルでも醸し出す雰囲気は異なった趣を感じさせてくれる。


錦秋の湖東三山を歩く(6)

2014年12月05日 13時34分13秒 | そぞろ歩き社寺

この数日の寒波で紅葉のシーズンも終わりに近く、新聞の紅葉便りを見ても落葉の印が目立ち始めてきた。とは云っても、折角のネタ探しで歩いた湖東三山でもあり、今しばらくお付き合い下さい。この金剛輪寺も歴史は古く、聖武天皇の祈祷寺として行基菩薩が天平13年(741)に開山された古い由緒あるお寺で「湖東三山真ん中のお寺」として親しまれている。二人の爺さん、バスより早く着いて気分よく境内巡りを楽しんだ。

金剛輪寺の本堂と紅葉

境内の参道を上ると二天門がある。室町時代のもので重文に指定されている。


大きな草鞋が迎えてくれている。七難即滅を願うものだそうだ。


本堂(国宝)。現在の本堂は弘安11年に再興され、信長の焼き打ちからも難を逃れたもの。昭和になって大修理が行われている。


本堂横手から裏側にかけての紅葉は見事で特に血染めのもみじと呼ばれている。


裏側の斜面から見た紅葉。


紅と黄と紫のコントラストが素晴らしくお気に入りの一枚。


錦秋の湖東三山を歩く(5)

2014年12月03日 16時07分20秒 | Weblog
西明寺を出て次に向かうのは金剛輪寺であるが、シャトルバスの時間は1時間半後である。多分、交通渋滞もあってバスの到着も遅れそうな気配でEさんとの相談の結果歩くことにした。寺のおばちゃんに訊ねると山道も含めて1時間弱は掛かるらしい。彦根駅を出発の際、コンビニで買ったおにぎりで腹ごしらえして二人の爺さんは“しゅぱ~つ”。

金剛輪寺への湖東三山自然歩道

金剛輪寺までは3.2kmであるが、このような自然歩道が半分で後は野辺の道だが、我々以外に歩いている人はいない。観光バスかマイカーだが、歩いてこその値打ち・・なんてやせ我慢をしながら・・


Eさんは未だ若く足取りもしっかり。


金剛輪寺はここから始まるが、寺の近くに来ると結構な渋滞が始まる。我々が到着しても西明寺からのバスはまだ出発時間前である。してやったりと二人の会話。


黒門。


参道を歩くと紅葉が一段と映えている。「血染めの紅葉」と云われる鮮やかな色で知られているそうだ。


石楠花、さつき、紫陽花と四季折々の花の寺としても有名だが、この時期の参拝者が一番多い。


錦秋の湖東三山を歩く(4)

2014年12月01日 12時04分28秒 | そぞろ歩き社寺

西明寺が建立されたのは平安時代(834)であるが、本堂は鎌倉時代の初期、三重塔は後期に建立されている。信長の比叡山焼き打ちの直後に当寺も焼き打ちにあったが、本堂・三重塔・二天門は火難を逃れている。江戸時代になって本格的に復興され現在に至り、いずれもが国宝に指定されている。

西明寺の本堂・三重塔

本堂。純和様建築で釘は使用されていない。


桧皮葺きで格子模様など鎌倉の様式が保存されている。


本堂の裏側の紅葉。


三重塔。塔の高さは23.7mで総桧の建物である。


内部には入れないが、堂内一面に大日如来の脇侍仏32菩薩などが極採色で画かれていて、鎌倉時代の壁画として国内唯一のものらしい。


鐘楼。