うぐいすの丘日記

趣味の家庭菜園や、草花、旅の様子をお伝えします。

堺・まち歩き(12)

2011年08月31日 15時02分15秒 | Weblog
堺市の大阪湾に面した部分は、殆どが工業地帯のコンビナート群で埋まっているが、大和川の河口の部分には堺旧港が残っている。その突端に位置しているのが旧堺燈台である。西宮燈台と共にレトロな姿が心を和ませてくれる。

旧堺燈台

建築されたのは明治10年(1877)であり、所在を変えずに現存する木造様式燈台としては、わが国で最も古いものである。


国の史跡の指定されている。


約100年大阪湾を照らし続けたが、埋立地の拡大と共に役目を果さなくなり、昭和43年灯を消した。





直ぐ側を阪神高速湾岸線が通っている。

堺・まち歩き(11)

2011年08月30日 16時10分03秒 | Weblog
旧堺港の近くの大浜公園・蘇鉄山に一等三角点が設置されていることが分かり訪ねてみた。日本一低い山に設置されている一等三角地点がアピールポイントである。

蘇鉄山の一等三角地点

日本一低い山とは海抜6.84mの蘇鉄山と云うようだ。




三角地点とは近代地図作成のための基準点のことで、一等三角地点は全国で約1000点あるそうだ。柱石が設置されていて、この石囲みにあったようだが・・見落としたようだ。


山頂の様子。


擁護霊の碑。嘉永7年(1854)に起きた東南海地震・南海地震では約2000人の死者が出た。地震と津波の恐ろしさを記し対処法を後世に伝えている。

堺・まち歩き(10)

2011年08月28日 16時26分23秒 | そぞろ歩き社寺

「与謝野晶子生家跡」の近くには、天下一の茶匠と称せられた「千利休屋敷跡」が残されており、その面影を偲ぶ事が出来る。生き抜いた時代は異なっても、わずか数百メートルの距離に歴史の面白さを感じる。しかし、訪ねた時は暑さで汗びっしょりの昼時、隣にあるちく満せいろ蕎麦に、わが腹は食欲を空腹を訴えている。

千利休とせいろ蕎麦

千利休は、堺の豪商魚屋の長男として生まれた。


権勢を振るった頃の屋敷跡には椿の井戸屋形がある。




隣にあるちく満。


ここは、このせいろ蕎麦一品のみである。蒸あげた蕎麦を生卵で割った出汁を漬けて食べる。なんとも美味い。


堺・まち歩き(9)

2011年08月27日 19時05分37秒 | そぞろ歩き社寺

ザビエル公園のすぐ近くに歌人 与謝野晶子の生家跡がある。青春時代をこの生家で過ごし、その後上京した。現在は堺の中心部を通る大通りに面して碑が残されている。

歌人 与謝野晶子生家跡

晶子は明治11年鳳宗七の三女として生まれ、明治34年与謝野鉄幹の元へ上京した。




“海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女となりし 父母の家”の句で自筆を刻字したもの。




生家の絵画。菓子商駿河屋を営んでいたそうだ。


附近の蘇鉄が見事な大通り。


堺・まち歩き(8)

2011年08月26日 14時21分24秒 | Weblog
ポルトガルから伝来した鉄砲を当時わが国最大の生産地にした町、聖フランシスコ・ザビエルが近畿での布教活動の中心にした町が堺であり、その名前を付けたザビエル公園(戎公園)が中心部にある。

堺とポルトガル

町の中心部にあるザビエル公園(戎公園)。もと豪商 日比屋了慶の屋敷跡であった。

  
園内には堺のシンボル樹木である年を重ねた蘇鉄が目に付く。


堺鉄砲之碑。


園内にあるポルトガルとの関係を表わす記念碑。

  
左:大阪万博でポルトガルが出展した彫刻「東と西の接点」
右:堺出身の詩人 安西冬衛の代表作「春」の詩碑。

堺・まち歩き(7)

2011年08月24日 13時35分58秒 | Weblog
妙国寺にまつわる伝説には徳川家康に関係するものもあった。本能寺の変が起こった天正10年、家康はこの妙国寺に逗留していたが、この訃報を聞くと“伊賀越えをして三河に逃げ帰った”そうだ。これはボランティア氏の言い回しだが、未だに大阪での家康への不人気が感じられる表現で面白い。

妙国寺の歴史の一ページ

家康の句。“妙なりや 国にさかゆる そてつぎの ききしにまさる 一もとのかぶ”信長と大蘇鉄の伝説を詠ったものだろうか。


堺事件(慶応4年)での土佐十一烈士切腹の地慰霊碑。


堺事件とは、明治維新初頭に起きた土佐藩士によるフランス護衛兵殺傷事件。維新直後の土佐藩により藩士の切腹がここで行われた。


道標にも名残を見ることが出来る。


境内にある堺出身・与謝野晶子の故郷を偲ぶ一文。

堺・まち歩き(6)

2011年08月23日 15時10分24秒 | Weblog
堺のこの辺りには、実にお寺が多い。それも比較的小さなお寺である。ボランティアの方の話によると、堺の豪商達が自分の権威を発揚する為に競ってお寺を創建した結果だそうだ。そんな中、妙国寺の歴史上に果したエピソードを面白く聞く事が出来た。

妙国寺と歴史の一ページ

日洸上人による妙国寺が完成したのは永禄十一年(1568)だそうだから、戦国時代の最中である。ゆかりの人として、織田信長、徳川家康などの武将や、維新の堺事件と縁の深いお寺である。


第二次大戦の末期、妙国寺も大部分を消失した。現在の本堂は昭和48に建造されたものである。


信長と蘇鉄の伝説。妙国寺の蘇鉄の噂を聞いた信長は、建てたばかりの安土城に寺から撤去し、安土城の天守閣前の庭に植えさせた。


数日後、蘇鉄の株から「堺へ帰りたい」と言う泣き声が聞こえ、怒った信長が切り倒すと切り口から鮮血のような液体がほとばしった。そのような事柄もあり蘇鉄はお寺に返された・・そんな伝説のある蘇鉄。


小堀遠州作の枯山水の庭。

堺・まち歩き(5)

2011年08月22日 13時40分40秒 | Weblog
少しずつ暑さも和らいできたが、堺を訪れたこの日(8/16)は猛烈な暑さで移動中に乗ったタクシーの運転手も“今年一番の暑さ!”と云っていた。よりによってそんな中、歩いた距離は約15km。山口家でもそうであったが、訪れた何箇所かの訪問先にはボランティアの人達がいて、親切に解説してくれた。よほど閑とみえて、まれに訪れてきたカモを放してくれない。ここでも数十分の相手をしてくれた。お茶までは出してはくれなかったが、このような歩きも悪くは無い。

江戸時代の町家・山口家住宅

座敷と茶室。この時代の和室には趣がある。


このような座敷が沢山ある。


これは北土蔵。蔵をギャラリーとして活かしている。


庭園。


土間の天井からが下がっている。当時、奥方が使ったもの。


井戸。

堺・まち歩き(4)

2011年08月21日 18時35分00秒 | Weblog
堺の北部では戦災にあっていない地区もあって、そこに江戸時代初期に建築された町家が残っている。山口家住宅と云い、昭和41年に国の重要文化財にも指定されている。暑い昼下がり足を一歩踏み入れたら、ヒンヤリとした涼しさを感じさせた。

江戸時代の町家・山口家住宅

通りに面した南側。敷地面積832㎡、主屋面積450㎡の広さがある。


何度も増改築が繰り返されたそうだが、平成21年新たに公開された。


中に入ると広い土間と高い天井に梁が見事な美しさを醸し出している。


かまど。


土間に面して幾つもの座敷が並んでいる。近隣農村の庄屋も務め、奉行所と町方・村方をつなぐ役割も担っていた。

堺・まち歩き(3)

2011年08月20日 14時35分44秒 | Weblog
今回の“まち歩き”のスタートは南海電車・七道駅であった。急行も止まらない小さな駅であるが、歩きながら“七道の由来は何だろう”と何時もの癖が頭をもたげてきた。自分なりに“街道筋の拠点?”と考えたりしたが・・正しくは、この近くに浄得寺というお寺があるが、七堂伽藍を備え付近一帯の寺領であったことが由来になったらしい。いつの日にか堂が道に変わったものようだ。

七道駅の銅像は誰?

駅前広場にある像。河口慧海(エカイ)と刻まれているが、正直云って誰だかさっぱり分からない。


大きな荷物を背負って羊のような動物を連れている。


ヒマラヤを踏破する姿のイメージ像である。


近くに生家の跡が住宅に挟まれた狭い場所にある。慶応2年堺に生まれ、明治33年困難を乗り越えてチベットに入国した。日本人初めてのヒマラヤ踏破者で「西蔵旅行記」はチベット研究では国際的な評価の高い文献だそうだ。

堺・まち歩き(2)

2011年08月19日 17時08分39秒 | そぞろ歩き社寺

鉄砲町は紀州街道に面しており、隆盛を極めている頃の名残が、残された街並みや道標にも感じ取る事が出来る。大坂城攻めの為の大砲や鉄砲はこの地で作られ、わが国の鉄砲製造発祥の地となった。

鉄砲町の面影

榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡。江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用された。両家共に堺鉄砲鍛冶の中心的地位にあった。


水野鍛錬所。法隆寺大改修時、国宝五重塔九輪の四方に上げられている「魔除け鎌」を鍛造し奉納した。(この後、訪ねた場所でボランティアの人が教えてくれたが、この時は無意識に撮ったもの)


ひっそりした通りに紀州街道の道標。


戦災からもまぬがれて残った佇まいである。

鉄砲鍛造の技術は刃物や自転車に活かされ、堺の主要産業になっている。この辺りには、その工場も多い。


堺・まち歩き(1)

2011年08月18日 15時19分03秒 | そぞろ歩き社寺

大阪堺市は、84万人が生活する大きな制令都市である。京都・神戸・大阪への観光客は多くても、堺の認知度は小さい。しかし、江戸時代中後期の鎖国時代にも、先駆けて発展し近代化への礎を造っていた街でもあった。至る所にその痕跡が残されており、灼熱の一日足を棒にして訪ねた。

出発は南海電車・七道駅から

“中世自由都市の面影を残す”と書かれた案内板を参考にしながら散策開始。


七道駅前広場の片隅に見かけた鉄砲鍛冶射的場跡の石碑。種子島に伝来した鉄砲は、その後、堺に伝えられ江戸時代にかけて全国諸大名に供給した。最盛期には三十余軒の鉄砲鍛冶がこの辺りで競い合っていたのだそうだ。


近くの大和川堤に的を立て試撃していた丘を鉄砲塚と呼んでいた。


戦災で焼ける事もなく残った鉄砲鍛冶屋敷(非公開で中には入れない)。現在、この辺りは鉄砲町と呼ばれている。


鉄砲鍛冶屋敷町跡。


虎の尾(サンスベリア)の花

2011年08月16日 16時18分53秒 | Weblog
どこの家庭でも良く見かける観葉植物に虎の尾があるが、正確にはサンスベリアと云うらしい。我が家の虎の尾が最近になって、見かけたことが無い花を咲かせている。小生、全くの花音痴でもあり、その良し悪しも分からないまま掲載す。ご評価下さい。

虎の尾(サンスベリア)

最初はひょろ長いものが出始め、花の蕾らしきものが付き始めた。


それから数日後の写真。細いものはオシベだろうか?白い水滴のようなものが付いており、ネバネバしている。舐めてみたら少し甘い。蜜であろうか・・


普段は“連れ合い”が面倒をみている。水遣りはたまに、日当たりは東の窓辺、肥料もたまに・・その偶然の効果であろうか?


調べてみたが、虎の尾の花についての記載に見当たらず知識も無い。何方か教えてください。

京都・亀岡の里(10)

2011年08月15日 15時23分35秒 | Weblog
京都観光に来た事がある人は知っているでしょうが、嵐山渡月橋の上流に保津川下りのゴールがある。その出発点は16km上流の亀岡にある。ちなみに保津川は渡月橋から下流は桂川・淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

亀岡・保津川下りの乗場

保津川は京都の豪商・角倉了以が丹波の物資を京都に運ぶために開削したことから歴史は始まった。これは途中の風景のポスター。


乗船場近くは、穏やかな風景を見せている。




一人でおまけに車で来ていた為に乗船はかなわず見送るだけ。


2時間程度の船旅で料金は大人3900円。

京都・亀岡の里(9)

2011年08月14日 15時40分14秒 | Weblog
神社を数多く訪ねてきたが、よく摂末社と言う社を境内に見かける。摂末社というのは、その神社の管理に属し、その境内や附近にある小規模な神社のことのようだ。昔は36の摂末社があったそうだが、現在は6社だそうだ。

亀岡の寺社・出雲大神宮(3)

第十代天皇 崇神天皇社。


上ノ社御祭神。


稲荷社御祭神。


春日社御祭神。


弁財天御祭神。上の5社は摂末社であるが、この弁才天は摂社には入ってないらしい。