旧堺燈台
建築されたのは明治10年(1877)であり、所在を変えずに現存する木造様式燈台としては、わが国で最も古いものである。
国の史跡の指定されている。
約100年大阪湾を照らし続けたが、埋立地の拡大と共に役目を果さなくなり、昭和43年灯を消した。
直ぐ側を阪神高速湾岸線が通っている。
「与謝野晶子生家跡」の近くには、天下一の茶匠と称せられた「千利休屋敷跡」が残されており、その面影を偲ぶ事が出来る。生き抜いた時代は異なっても、わずか数百メートルの距離に歴史の面白さを感じる。しかし、訪ねた時は暑さで汗びっしょりの昼時、隣にあるちく満のせいろ蕎麦に、わが腹は食欲を空腹を訴えている。
千利休とせいろ蕎麦
千利休は、堺の豪商魚屋の長男として生まれた。
権勢を振るった頃の屋敷跡には椿の井戸屋形がある。
隣にあるちく満。
ここは、このせいろ蕎麦一品のみである。蒸あげた蕎麦を生卵で割った出汁を漬けて食べる。なんとも美味い。
ザビエル公園のすぐ近くに歌人 与謝野晶子の生家跡がある。青春時代をこの生家で過ごし、その後上京した。現在は堺の中心部を通る大通りに面して碑が残されている。
歌人 与謝野晶子生家跡
晶子は明治11年鳳宗七の三女として生まれ、明治34年与謝野鉄幹の元へ上京した。
“海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女となりし 父母の家”の句で自筆を刻字したもの。
生家の絵画。菓子商駿河屋を営んでいたそうだ。
附近の蘇鉄が見事な大通り。
鉄砲町は紀州街道に面しており、隆盛を極めている頃の名残が、残された街並みや道標にも感じ取る事が出来る。大坂城攻めの為の大砲や鉄砲はこの地で作られ、わが国の鉄砲製造発祥の地となった。
鉄砲町の面影
榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡。江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用された。両家共に堺鉄砲鍛冶の中心的地位にあった。
水野鍛錬所。法隆寺大改修時、国宝五重塔九輪の四方に上げられている「魔除け鎌」を鍛造し奉納した。(この後、訪ねた場所でボランティアの人が教えてくれたが、この時は無意識に撮ったもの)
ひっそりした通りに紀州街道の道標。
戦災からもまぬがれて残った佇まいである。
鉄砲鍛造の技術は刃物や自転車に活かされ、堺の主要産業になっている。この辺りには、その工場も多い。
大阪堺市は、84万人が生活する大きな制令都市である。京都・神戸・大阪への観光客は多くても、堺の認知度は小さい。しかし、江戸時代中後期の鎖国時代にも、先駆けて発展し近代化への礎を造っていた街でもあった。至る所にその痕跡が残されており、灼熱の一日足を棒にして訪ねた。
出発は南海電車・七道駅から
“中世自由都市の面影を残す”と書かれた案内板を参考にしながら散策開始。
七道駅前広場の片隅に見かけた鉄砲鍛冶射的場跡の石碑。種子島に伝来した鉄砲は、その後、堺に伝えられ江戸時代にかけて全国諸大名に供給した。最盛期には三十余軒の鉄砲鍛冶がこの辺りで競い合っていたのだそうだ。
近くの大和川堤に的を立て試撃していた丘を鉄砲塚と呼んでいた。
戦災で焼ける事もなく残った鉄砲鍛冶屋敷(非公開で中には入れない)。現在、この辺りは鉄砲町と呼ばれている。
鉄砲鍛冶屋敷町跡。