夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

送り火

2011-08-16 06:55:22 | つれづれなるままに
8月15日(月)31.4℃

 朝方激しい雨が降った。雨乞いしたくなるような暑い毎日だったので、この激しい雨は何日ぶりだろう。車のワイパーが久し振りに役立っている。
 家内と庭の紅葉枝の剪定をして、その廃棄処理をした。私はこれまでほとんど自宅の庭木など触れたこともないし、家内ももちろんそうである。
 何故始めたtかということを改めて考えている。今年は春先から町会の公民館活動として、厚生部のお鉢が回って来た。今までは町会の審議委員、監査などが私の役目としてあった。
 今年は家内と私も駆り出され(本当は一軒で一つの当番だが)、お花の当番や納涼祭、その他レクリエーションの準備委員を担当することになった。先日の町会の納涼祭の準備やら、当日の模擬店での作業を行っている。そういうことが新鮮に感じているのか、急に家内の視線が今までと違って来ている気がする。それはもうひとつの理由として、同居している家内の母親が高齢になって来たことによる彼女なりの配慮のようだ。義母は昭和3年生まれだから83歳で、腰がいたいと言いながらも野菜作りは欠かさない。未だに女学校時代の仲間と年に数回は旅行に出かけるし、なにより義父存命中から始めている宗教活動(神道)に熱心である。
 私も家内もそういう意味では、それらは彼女が自分自身を活性化するためのツールであり大切なこととして干渉しない。庭の手入れは今まで 町会の造園業者に依頼しているのだが、今回家内が自分でやり始めている。だから彼女がやれないことを仕方なく請け負っているというのが理由である。とかく私は他人から指図を受けるのが嫌で、そういう意味でも家人のことにはあまり手を出さないことにしている。いや、そうすることが私にとって次王が良かったのかも知れない。好きなようにやってよというのが、私の思いである。
 だが、今回はなにか違って来た。それは夫婦の還暦ということも影響しているのかも知れない。いつまでも義母任せにはできないという事情だ。
 盂蘭盆の迎え火や送り火も以前は私もしたことがあるのだが、概してそういうことを私がやらなくても、義母がやれるうちは任せておいた方が義母のためという思いが強い。できなくなったことをフォローすることで、私の役割がある気がしている。この家を建てたのは今から20年前になる。義父が逝去してすぐに建てたから、そういうことになるのだろう。
 敬老会が間もなく迫り、私の敬老精神はいかほどのものか甚だ怪しいとは思う。今年も町の敬老会のアトラクションが準備作業に入るが、罪滅ぼしに今年もがんばろうと思っている。

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