伝えるネットねこレポート

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークのブログです

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「水俣」を伝える季節を迎える前に思うこと

2017-02-12 23:51:01 | 会員レポート
第12回 水俣病事件研究交流集会 参加 
2017年1月7日(土)、8日(日)
於・水俣市公民館 
主催:熊本学園大学 水俣学研究センター



水俣病資料館の窓から海と恋路島をのぞむ
窓ガラスに書かれた文字は「あなたはどんな未来をつくりますか?」



 熊本地震後、初めての訪水

水俣病公式確認後60周年目の慰霊祭に行く予定が、熊本地震のために流れてしまい、久しぶりの水俣訪問となりました。

今回の訪水では、ここ何年か参加し続けている「水俣病事件研究交流集会」に出席し、リニュアルした水俣病資料館を訪ね、しばらく目にしていない水俣病ゆかりの場所を確かめることにしました。


「水俣」の話をしにきてくれないか、というお誘いが集中するのが、毎年2月から3月にかけて。
小学校5年生の3学期の社会科で公害のことを勉強することになっているせいですが、ポツポツと依頼が年末あたりからきて、こう、顔を振り上げるように、「水俣」のことを考え始めるのです。
だから、毎年1月の第2土・日に開催される水俣病事件研究交流集会が、わたしにとっては、おさらいと新しい知識や考え方を得る格好の機会となっているのです。
事件研究集会の発表やそこに集う人びとに刺激されることで、さらに「水俣」の意味を考えることができます。
もちろん、水俣の懐かしい友人たちに再会することも、その刺激のひとつです。

今年は、豊橋窓口の金子さんと同行の訪水となりました。



 久しぶりの百間口、川本さんのお地蔵さん、チッソ正門


いつものことながら、スケジュールはギリギリです。
なので、なかなか、いろいろな場所を目に刻むことはできません。

やはり、行きやすい場所と、行き過ぎてしまう場所がどうしてもあるのです。
それで、あえて立ち寄ることにしたのが、こんなところ。


阿賀から運ばれた石でできたお地蔵さん。わたしたちは、川本さんのお地蔵さんと、呼んでいます。



川本さんのお地蔵さんが見つめているのは、百間の排水口。ここからメチル水銀を含んだ汚水が海に流されました。
この排水口がそのまま残っているか少し不安だったのですが、ちゃんとあった!



チッソの正門。何か変化はないかと探るのですが、特措法以来、掲げられている「JNC株式会社」が輝くばかりです。
正門前に車を止めて写真を撮っていたら、しっかり守衛さんに叱られました。



さまざまなことを教えられ、知り、考えるなかで、川本さんのお地蔵さんが百間排水口に向き合っていることも、わたしのなかで、さまざまに意味を考えさせていくようです。
ここ何年か、ついつい親水護岸の「魂石」と呼ばれるお地蔵さんばかり見ていたせいかもしれません。
「JNC」の社名にしても、現在、あらためて謝罪と責任について考え始めているせいかもしれません。



 ねえ、あの軸と網、どこに行ってしまったのでしょう・・・?

水俣病資料館にどうしても行きたかったのは、公式確認60周年にあわせてリニュアル・オープンされたのを確かめたかったからです。

子どもたちに「水俣」のことを伝えるとき、しばしば、締めくくりに水俣病資料館のことを、話してきました。

事実を知ることは、どんなに大切かということを水俣のひとたちは知っている。
水俣病によって差別やいじめが起きてしまったことを、事実と向き合うことでしか乗り越えられないと知っている。
だから、市立の資料館を建てて、一つ一つ確かめようとしているのだ。
熊本の小学生は、みんな、この資料館を訪ねることになっているんだよ。

いろいろな展示がいっぱいあって、そのいちばん奥に、ひときわ大きく掲げられている写真がある。
資料館の展示をたどる動画を見てもらって、いちばん奥の写真を大きく写して子どもたちに見せる。

智子さんを抱くお父さんの写真。
智子さんとお父さんは笑って互いを見つめあっている、その写真。


そんなふうに語ると、「水俣」を伝えるときにいつも教室に展示している桑原史成さん撮影のその写真を、何も言わなくても子どもたちは一斉に見やるのです。
そんな資料館がどう新しくなったかを確かめたくて。


資料館の展示のようす。

智子さんのお父様が、「もう智子を休ませてあげたい」と思われて、展示を断われた、と聞きました。
かわって、いちばん奥に半永さんの笑顔が見えるのは、また、とても温かい気持ちにもなります。

資料館では、ちょうど、芥川仁さんの「リトルヘブン」写真展も開催されていました。
水俣を撮るなかで「リトルヘブン」を見出すことを知ったといわれた芥川さんの、全国各地で見つけた「小さな楽園」が集められた写真展でした。


芥川さんは、このリニュアルを「毒にも薬にもならない展示」と言われました。

わたしは批評するつもりはありません。
しかし、芥川さんから、大阪のコンサル会社が行ったリニュアル、と教えられたときは、少なからず残念な気持ちが起こりました。

事実を知り、事実に向き合う展示は、どこかの会社が請合う筋のものではなく、市民の手でつくられるべきものだと思ったからです。
水俣病公式確認60年にして、いまだ、水俣病事件解決のみえない現在。
その展示が、これでしょうか?
解決しようする意思、何をもって解決とするのかという提案を語る展示であってほしい。
そういう展示になるなら、60年を70年につなげる意味も生まれるように思えるのでした。


わたしたち、伝えるネットは、水俣病資料館とつながってきていたつもりでした。
【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の3つの窓口での開催は、そんな資料館とのつながりのなかで実現できたものです。
だから、いつもいつも水俣からもらうばかりだから、こちらからも返したい、その気持ちの表れとして首都圏窓口から贈ったのが、写真展来場者が残してくれた感想からつくった『群詩 朽ちない言葉の網』でした。
決して見返りを求めるつもりでなく、わたしたちも、また、水俣に生きるひとたちとともにあることを伝えたい、その思いが作らせたものです。

それを資料館が飾ってくださっていることが、本当に嬉しかったのです。
不遜かもしれないけど、少しは水俣にお返しができたんじゃないかなって。



水俣病資料館に飾られていた【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の感想が書かれた網と群詩。

リニュアルされて、その網や群詩の軸がどこにいってしまったか?
資料館の方にお訊ねしたら、その網と軸のこと自体がおわかりにならないようでした。

ど~しよ~。
たとえば『石川さゆり~水俣絶唱』音声ガイドの台本。
そして『水俣病~患者さんとその世界』の音声ガイドDVDも寄贈させていただいたけど、そういうものも、みんなリニュアルなんだろうか?




 研究会で震えるように発言したこと

実は、水俣病事件研究交流集会に期待するものがありました。

昨年、「水俣」を伝える活動をつづけて20年になろうとしているわたしたちのまちは、とても悲惨な事件を体験しました。
津久井やまゆり園の”虐殺”事件です。
この事件をどう受け止めるか、どのように克服していくか。
わたし自身を含め、わたしたちのまち全体が迷いのなかにあります。


ひとの想像力には限りがある、傷みは共有できないと知った上で、わたしは、あえて水俣に「  」を付け、「水俣」は、わたしたちのまちだ、わたしたちもまた加害者にも被害者にもなると語ってきました。
だからこそ、「水俣」に学ぼうと呼びかけてきたのです。

そんな活動をつづけてきて、このまちで、たくさんのいのちが無残に奪われました。
わたしには、それがひとりの狂気によって奪われたとは思えませんでした。
社会が、時代が内包している誤謬が拡がった末の出来事にしか思えないのです。
わたしは、この事件において、加害者であり、やがて被害者になるかもしれない。

「水俣」を伝えるとき、わたしは、自分の主体性に深く食い込んで問いを投げかけようとしてきました。
しかし、自分の内側へと向かう問うかけだけでは、足りなかった。
社会との共有、社会がどんなものであり、どのように構築されるべきか、社会化への働きかけに欠けてきた、と鋭く思わないではいられないのです。


今は亡き宇井純先生も、原田正純先生も言われていました。
この研究会は、学者だけでなく、市民も、どのような立場のひとも参加し語り合える場にしたい、と。

わたしは、この研究会で、津久井やまゆり園の事件をどう考えるかのヒントが欲しかった、と、振り返ります。
なぜなら、やまゆり園の事件も水俣病事件とつながっていると、直観するからです。

ここでも、わたしは、特段の批評も判定もするつもりはありません。
ここ数年の事件研究会の発表は、しばしば、言葉がわからないものがあります。
今年、あまりにもどかしくて、気がついたら、挙手して発言していました。

主体に切り込むような問いかけがあるように思えない。
これまでも、個のなかで、水俣病事件にある普遍的な問いを自身に深く投げかけてきた。
しかし、津久井やまゆり園のあるまちで、「水俣」を伝えるということに欠けてきたものがあるように思えてならない。
そのことへの示唆こそをここに求めたい。


それが、声を震わせながら質問をした経緯なのでした。


学者とか、市民とか、あるいは行政とか、共有できる言葉はあるはずと思います。
制度や裁判のなかで語るような言葉を使って語るのではなく、分かり合える言葉で語りませんか。

その日、”おにゆう”は、胎児性水俣病の知見に関わる発表があるということで、研究会に出席していました。
その言葉は、”おにゆう”に語りかけられる言葉だったでしょうか?

研究会自体が迷路に入っているような印象をもったのは、わたしたち、だけだったのでしょうか・・・。



 出前活動シーズンが始まる


子どもたちは、見抜く力を持っています。
いい加減に語りかけているか、真剣に語りかけているか。
向きあっているか、ごまかしているか。

わたしは、やまゆり園のことを問いながら、今年の出前活動にのぞもうと思っています。

そして――。
支えてくれるのは、多分、半永さんや”おにゆう”たちのように思えます。







これからの出前活動予定(2017.2.12現在)

2月15日 相模女子大学 小学部 5年生
2月23日 座間市立相模が丘小学校 5年生
2月24日 座間市立旭小学校 5年生
3月2日と3日 相模原市立清新小学校 5年生
3月6日  相模原市立湘南小学校 5年生
3月8日  相模原市立桜台小学校 5年生



※参観をかねてのお手伝いを募っております。



























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このまちから水俣の60年を思う その4

2016-10-09 21:19:07 | 窓口レポート

いのちが生みだす波紋を見つめて

~ このまちの惨劇をどう引き受けるか ~



前記事「その3」でご紹介した『アゴラ』の原稿を書いたとき、
わたしの、このまちで、このような事件が起きることを、もちろん予想していませんでした。

「相模原障害者殺傷事件」が起きたのは、このまちで、です。
わたしたちが、伝えるネットが、活動の拠点としている、このまちで、なのです。
津久井やまゆり園は、わたしたちにとって、とても身近なところだったのです。

茫然となりました。
そして、考えました。

わたしは、このまちで「水俣」の何を伝えてきたのだろう。
これからも、「水俣」のことを子どもたちに伝えることができるのだろうか、と。

ちょうど、3.11が起きたときと同じように、です。

このまちで起きたことを知って、水俣の友人から気遣いの電話をもらいました。
直接の被害者でもないのに、心配だと。
学生時代にわが家にホームステイしていたシルビアは、
遠くカリフォルニアから「大丈夫か?」と訊いてきました。
「相模原」というこのまちの地名のついているニュースに気づいて。

わたしは、いま、この事件とどう向き合うかという問いなしに
子どもたちに「水俣」を伝えることはできないと考えています。



 無駄ないのちはひとつもない

「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークを立ち上げた翌年、
熊本日日新聞がわたしたちの活動を紹介する記事を書いてくださいました。
真っ先に浮かんだのは、その記事です。

インタービューに応えた記事の見出しが「無駄な命は一つもない」だったと、思い出したからです。
以下が、その2001年3月11日付けの熊本日日新聞です。





写真に写る自分は15年前の姿で、言葉もゴツゴツしているようです。
「生まれてきて無駄な生命はひとつもない」という普遍的なこと――。

ちゃんと、わたしたちは、伝えてきたでしょうか?

胎児性水俣病患者さんたちに導かれて、いのちの不思議、感動に胸揺すぶられての言葉でした。
いのちって、スゴイ。
いのちって、わたしたちが量ろうとするのを凌駕して素晴らしい、と。

その眼差しで、このまちを、ちゃんと見つめてきたでしょうか?




 働かざるもの食うべからずと思ってきた自分

生まれてきて無駄な生命はひとつもない――

それは、具体的にはどのようなくらしのことでしょうか。
それは、だれとどのように生きていくことなのでしょう。

ひとは、必ず社会的存在です。
ひとがくらしていくとは、他者とどのような関係性を築いていくかということと同義です。

その問いの前で、ひとが社会に対して何ができるか、どう貢献できるかという問いかけは逆転しているのではないでしょうか。

そして、気づいたのです。
「働かざるもの食うべからず、よ」と、子育てのときに言っていた、と。
つい、休日にグデグデしていて、どこかしら罪悪感を感じてしまう自分だったこと、を。


もともと、「働かざるもの食うべからず」というのは、新約聖書の中でパウロが言った言葉だそうです。
その意味は、できる者の怠惰を戒めたものであって、商品交換のように「働く」ことをいうものではないそうです。

でも、どこかで、「できること」だけに価値を置き、賞品価値的なものだけでひとの優劣を量り、等価交換の術を持たない者は、そのままいのちの価値がない、とそういう価値観にくみしてきたのではないか。
くらしのいちばん真ん中、日常のなかで、刷り込みをしてきたのではないか。


くらしの真ん中から、わたしたちは気づかねばならないのではないか。
現在の社会にあるいのちの価値観の誤りに。

できることは、便利に過ぎない、と。
便利は、ひとのいのちの前に何ほどのことがあろうか、と。
ひとはひとの存在の生みだす波紋によって、揺れ漂い、いのちを生きるのだ、と。



 もう一度、いのちに向き合うために




10月5日まで相模原市立環境情報センターで行っていた「伝えるネット活動20周年展」が終わりました。
上の写真はその展示を見てくれた子どもたちの感想です。

素直な気持ちにあふれる子どもたちの言葉は、どうしてこんなに温かく響くのでしょう。

わたしは、いつも考えてきました。
水俣病の患者さんたちの写真をみるときに、こみ上げるこの思いはなんだろうか、と。

同情、とは思えませんでした。
もっと強く感動するものがあるのを否定できなかったからです。

いのちの、いのちの生きる波紋が押し寄せてくるからではなかったろうか、と思います。
いのちの波紋を受けることが、わたしにとっても「生きている実感」です。

なにひとつ自分でできることがなく、あらゆることにひとの手を借りて生きても、いのちの重さは波紋を起こし、ささやかな波はわたしに影響を与えていくはずです。
互いに波紋を寄せ合うことが社会であり、人間的関係性である、と思わないではいられません。


胎児性水俣病は、お母さんのおなかのなかで水俣病になります。
どんなに多くのいのちがお母さんのなかで失われていったでしょう。
だから、生まれた胎児性水俣病の赤ちゃんは、ひときわ強い生命力を持っていた、と言われます。
芽生えたいのちは、生まれ出づることができなくとも、生まれたならさらに、波紋をえがくはずです。

その波紋を感じ取ることこそが、ひとである、ということではないでしょうか。


案山子が、一本足で動けなくて、障がい者をなぞらえているものと、聞いたことがあります。
案山子は、語らず動かず、そこにいることによって、それゆえに、世界の真理をいちばんに知るものなのだ、とも聞きました、

「ひとは最重度障がい者として生まれ、最重度障がい者となって死んでいく」
そう語ったのは、ご自身が障がいをもっている安積遊歩さんです。



いのちと向き合う生き方を、わたしたちは取り戻さねばなりません。
「水俣」を伝えるということはそういうことなのだと思います。


水俣病にいのちを傷つけられた無名の方々と
匿名のまま、いのちを奪われ傷ついたやまゆり園の方々に思いを馳せつつ、書きました。

今年度の「水俣」を子どもたちに伝える活動が10月下旬から始まります。
伝えるネットが発足してから足掛け17年目となります。

活動を始めたころから思うと、「水俣」の意味はさらに深く、もっと深く誘うようです。

3.11がそうであったように、
やまゆり園のことを、考えつづけていこうと決意しています。    
(田嶋 いづみ)





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このまちから水俣の60年を思う その3

2016-09-17 16:46:11 | 窓口レポート
相模原 市民がつくる総合雑誌 
季刊アゴラ 2016年夏号 から ~~~


「水俣」を自分の街で受けとめる




ただいま、相模原市立環境情報センターに伝えるネットの写真展を開催させていただいております。
この展示ができたのは、センターの方から声掛けされたということは、前記事の「その2」でお伝えしました。

このまちで、<水俣病公式確認60年>を気にかけてくれていたのは、環境情報センターさんだけではありませんでした。

このまちには、1997年に創刊された市民の手による総合誌『アゴラ』が発行されております。
創始者の西尾さんが亡くなられたのちも、山田広美さんが引き継いで、この夏で77号を数えます。
市民の編集委員がいらして、それをささえる市民読者がいてこそではありますが、山田さんのガンバリには、このまちの人間として敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。

「公式確認60年を迎えるということで、原稿を書いてくださいませんか?」
そう山田さんからお誘いを受けました。

お声を掛けられて、このまちで「伝える」ことを振り返って、ああ、20年が過ぎたのか、と気づいたのが正直なところです。
お声掛けいただかなければ、年数など数えることもなかっただろうからです。

気づけば、数えることは大切なことですね。
原稿を書いてみて、あらためて感じました。
やはり、「総括」になるからです。

7月1日が発行の77号に掲載させていただいた原稿をこちらで公開させていただきます。

5ページ半にわたる文章になっています。














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このまちから水俣の60年を思う その2

2016-09-15 15:58:48 | 窓口レポート
ただいま相模原市立環境情報センターにて展示中!

このまちで「水俣」を考える
~ 伝えるネット活動20周年特別写真展 ~

展示期間:2016年9月5日(月)~10月5日(水)





 伝えるネット設立から17年ながら・・・

そうなんですね。
「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークの設立は2000年4月。
なので、活動20周年というのは、厳密に言えば正しくはありません。

でもね。
このまち、相模原で呼びかけたのは1995年のこと。
土本監督の『海とお月さまたち』と『水俣病 その20年』の上映会をもって、水俣病のことを知ろう、と呼びかけたのは、公式確認40年を迎える前年のことでした。

(20年が過ぎた現在でも、このドキュメンタリーを最初の一歩として選んだことは、ナイス・チョイスだったと思えます。・・・・あはは、手前味噌。)

以来、「いちばん大切なことは、お隣さんに伝えることから」「とても大事なことは、大事にひとに伝えたい」と心に決めて伝えてきて、逆にこのまちの仲間からお誘いを受けたのです。
「公式確認60年になるから、何かやってみない?」って。
水俣に地縁・血縁あるわけでなく、いつの間にか、にもかかわらず「ミナマタさん」とこのまちで呼ばれたりするようになって、そんな流れのなかで機会をいただいたわけです。

そんなわけで、この際「20周年」記念展示会と。





 伝えることで実った果実に、伝え返される・・・

手探りで伝えてきました。
20年前、「あなたたちは何も知らないんだから」と水俣病闘争に長く携われた方たちには、よく叱られたものです。
確かに何も知らなかったです。
いまも、知り得たことは、わずかです。
現実の被害者ではない、地縁・血縁なき者として、到底知り得ないこともあります。

そう自覚しながら、惹かれるように、捜し求め、「  」を付ければ、わが身も当事者と考えて、伝えてきました。
たぶん、それは、とても不遜なことだったでしょう。
それでも、伝えることは、コミュニケーションすることなので、子どもたちとのやり取りのなかで、多くのことに気づき、学び、考えてきました。

それは、果実となりました。

果実をいただいたので、それなりの展示となりました。


たとえば、会場で一風変わった写真のキャプションだな、と思われると存じます。
それは、2009年の夏休み、小・中学生のこどもたちが「視覚障がいのある方にこの写真を伝えようと思ったらどんな風に伝えるか」というワークショップでつくったキャプションだからです。

写真を視る。写真を伝える。
そして、写真で伝える。

活動の果実は展示のなかで顔を出しております。




 写真から考えてみませんか♪

桑原史成さんと宮本成美さんの写真を惜しげもなく展示させていただいております。
(お二人に、ここで改めて深く御礼を申し上げます。)

本当に写真の力とはすごいものです。
智子さんの成人式の写真はいくら視ても、飽きません。
写真のなかにお若い石牟礼道子さんを見つけるのも楽しみかも。

桑原さんは、相模原市が主催する事業<フォトシティ相模原>写真大賞の2006年度受賞者です。
相模原市は受賞作品をなかなか公開してくれないので、この機会に、じっくり視ることもできます。


ぜひ、このまちの方にお運びいただけたら嬉しいです。
相模原市役所そば、体育館のならびの環境情報センターです。

※ 環境情報センター の休館日は展示を見ることができません。
  9月15日(木)、19日(月)、10月2日(日)は休館です。






伝えるネットの倉庫で眠っていた<起ちなはれ>の軸も久々にお目見えしています。



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このまちから水俣の60年を思う その1

2016-06-26 21:45:30 | 窓口レポート
チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム №14

公式確認60年 水俣病が終わらないのは何故か?

~ 2016年 6月25日(土) 13:00~17:00 ~
会場:YMCAアジア青少年センター



はや、水俣病責任を問うシンポジウムも14回目、というご挨拶と先の熊本震災犠牲者への黙祷から始まったシンポジウム。

珍しく開会直前に会場にすべり込んで、「14回目」という言葉にブルッと身を震わせての参加となりました。



 14回目のシンポは、公式確認60年の節目のはなし


今回は、公式確認60年ということで、写真家・宮本成美さんの写真投影とお話、新宿の「ノアノア」というお店を経営しながら絵を描き、水俣に多大な浄財を捧げた故・若槻菊枝さんのご主人の若槻登美雄さんがその思い出を語るというのをメインに、新潟からの報告、山口弁護士のお話、水俣からは谷洋一さん、「ほっとはうす」から加藤タケ子さん、永野ユミさんのお話と、盛りだくさん。


会場の感銘深い宮本さんのお話を少しでも共有できればと、ツィートしておりましたが、ここに再掲してみます。

■14回目になる「チッソと国の水俣病責任を問うシンポジウム」なう。熊本地震の犠牲者への黙祷から始まりました。すでにカメラを手放したという宮本成美さんの講演が始まりました。



■写真を投影して宮本さんの水俣へのこだわりを語ります。巡礼行脚の写真から始まるのは、加害者意識があってその姿でなければ水俣に入れなかった、と。川本さんの写真には、彼の「人間だから話せばわかる」という絶対の人間信頼に惹かれた、と。

■激しく共感。チッソと患者の交渉に立ち会ったとき、会社側の言葉の方が自分には分りやすかった、患者の言葉の方が難しかった、そのことが自分は何者かという問いにつながった、と。
もやいなおし、というが、患者が言っても加害者が言っていいのか。

■緒方正人さんをシステム社会の弊害を語った。宮本さんは、今の社会は、人を信頼する人間の方が生きづらいのではないか、と指摘。
そっか、と、さらに共感。

■砂田明さんの生涯の傑作は、『天の魚』というより水俣行脚のような気がする、演じることを街中に出した、と宮本さん。砂田さんは役者としても優れた方だと思うが、すごいのは『天の魚』を演劇の世界に閉じ込めなかったことだと思う、と。


■宮本さんが紹介した最後の写真。「船が出る」と題した。水俣を話そうとしてテーマは「信頼」だと改めて気づいた。自分は人を信頼できるか、自分は信頼に足る人間か、と。人を信頼して船をこぎだそう、伝えることを丁寧にしてネットワークを、と。



■宮本さんのあとは、新宿「ノアノア」の元店主・若槻登美雄さんのお話。新宿の名物ママ・若槻菊枝さんの肝っ玉ぶりを語る。お勘定書きに 「水俣カンパ」というのがあったとか。お店に置いてあったカンパ箱は「ほっとはうす」へ寄贈されました。


■桑原さん登場。沖縄から戻ってきたと日に焼けた姿。自信のために延期になっていた水俣病慰霊祭は10月29日になったそうです。

■微笑んでしまった。来年2月11日に行う石川さゆりのコンサートの主催は「若かった患者の会」。
土本監督のドキュメンタリー映画『石川さゆり 水俣熱唱』の主催は「若い患者の会」だった。
伝えるネットはこの映画に音声ガイドをつくりました。


■山口弁護士、60年経っても水俣病が解決していないのは、これは「人間ではない」と。患者さんにとっての60年は、わたしたちにとっての60年ではないか、と。被害者と加害者を同一平面上で並列で語られるなんて許されない、と。



■公明党は「改憲して環境権を」などと言うのであれば、水俣病患者を救済しなさい。と、山口弁護士。





 水俣は、個を貫き、まちをえぐり、憲法を問う


一夜明けて、シンポジウムで語られた言葉を反芻しています。


宮本さんが、声を震わせて最後に触れられた「船を漕ぎ出す」には、優しいけれど厳しい「希望を失うな」という叱咤が聞こえたようでもありました。

それは、山口弁護士の語る、水俣病患者をここまで放置しているなんて、「人間じゃない!」という響きと呼応しているように聞こえるのでした。

時代状況の厳しさに思わずくじけそうになっているこころを立て直させられました。

何が水俣で起きたか。
水俣病患者にどのような仕打ちを与えたか。
憲法第25条第二項では、「国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会福祉および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」とあるにもかかわらず、この仕打ちは、憲法違反そのものではないか。

問いは、そして、人間存在の根源まで達している。

シンポジウム14回まで数える誠実さは、問いを深化させていると実感しました。
宮本さんと山口弁護士の言葉をきっかけに、この国が、この社会が、この時代が、深く抉られているのを感じると、不遜な言い方ですが、「ここまで、ひとは考えられるのか、応えようとしてしているのか」と感動したのでした。

さらに、山口弁護士の「被害者のなかにある他者性」のお話には、ここまで深まるのか、と衝撃のようなものを感じました。

これが60年という「とき」なのかもしれません。
わたしたちは、時代の突端にある。

そこに、どれぐらい、わたしたちが当事者性をもって、信頼に足る決断ができるか。
むかし、学生時代に考えていた「主体性」というよりも、あるいは仕事の場面で「主体たれ」と屈辱に耐えながら思ったよりも、「主体」となることを考えています。

(田嶋 いづみ・記)

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