女子大だから、伝えたかったこと
~ 恵泉女学園大学に出前してきました ~
~ 恵泉女学園大学に出前してきました ~
2010年12月20日 11:00~12:30
ボランティア入門 川村研二先生の講座
ボランティア入門 川村研二先生の講座
ついつい油断して、ごめんなさい
連日の出前ということで、前日の「グローブ日本」でゲットしたボランティア・竹下青年を頼りに、ややお疲れ気味で準備したのが、そもそもの失敗。
また、やってしまいました。道順もわかっているつもりで、ついつい所要時間も短めにみちゃったんですね。年末だというのに。
かくて、授業開始ギリギリに到着。バタバタと話し始めることになってしまったのです。
それに、ゲットした竹下青年は、つい最近、水俣現地で「ほっとはうす」のみなさんと交流してきたばかり。そのときのことを是非話してもらいたい。
それに、去年、同じく川村先生のところで出前させてもらって、そのことをキッカケに、今年2月の相模大野での写真展『水俣を見た7人の写真家たち』にボランティア参加してくれた学生さんが出てきたこともあるし、その写真展の報告をして、「ボランティア入門」に触れた話もさせてもらいたい。
などなど、と、ついつい盛り込んで、スライドを動かしていたので、このギリギリに到着したことのダメージがそこにまで響いてしまったのです。
だから、とにかく、ごめんなさい。
女性だからこそ知っておきたい、身体の内側にある環境
盛りだくさんで用意してきたしまった上に(伝えたいことを欲張るといけない、と、常々意識しようとしているのですが・・・)、女子大だからこそ、子どもを生む性として「水俣」の学びに触れてもらえたら、という思いも強くありました。
いのちの誕生が卵子と精子の出会いから始まるとして、女性の体内にある卵子は、そのいのちの誕生と共に体内に用意されます。つまり、自分の生むいのちは、自分の親の体内で生まれてくるのです。私は、私のいのちを、子世代のいのちともに刻むことになるのです。逆に、私は、子どもを孕むとき、その子が娘であるなら、孫のいのちをいっしょに孕むわけです。
いのちのつながりをそのままに生きていく性として、身体の内側の環境は外側の環境のそのままであるなら、それがいのちを継いでいくということなら、誰もが環境のために、次世代のいのちのために考えなければなりません。
そのことを最も意識する性でありたい。そう願います。
こんなことを話して脱線していたので、この日、肝心の患者さんの言葉、杉本栄子さんのメッセージのことなどを伝えることができませんでした。
チッソ分社化に触れないではいられない訳
もうひとつ。
ついつい話が長くなってしまったのは、チッソの分社化に触れないではいられなかったからです。
12月15日、環境省はチッソの分社化の申請について認可を出しました。この認可によって、チッソは液晶部門などの採算部門を独立した会社とし、チッソ自体は被害者救済の補償会社となります。速やかに補償を終えたら、役目を終えたとしてなくなるのです。
いったい、補償の完了というのは、いつまでのことを言うのか。
今まで、一度も、主体的に住民の被害調査を行ってこなかったチッソが言う「被害者救済の完了」とは何のことなのでしょうか。
救済も補償も、とてもわかりにくいことです。水俣病の認定にしても、国の制度にかかわることは、とても理解することが難しい事柄です。
難しいけれど、実は、簡単なことでもあります。
水俣病によって健康被害を受けた人たちは、くらしそのものを奪われたのです。夢描いた職業に就けなかった人もいるでしょう。人生を奪われたわけです。
人生を奪われた人たちへの救済はひとつ。「ああ、生きていて良かった」と思えることではないでしょうか。
さて、私たちは、どういうとき、どうなれば、「生きていて良かった」と思えるでしょうか。
ついつい言葉多く伝えて、時間切れになってしまいました。反省ですね。
帰りがけ、川村先生に、触れて欲しいと思っていた、と言っていただいたのが少し慰めになりました。
川村先生からいただいた感想
出前のあと落ち込んでいたら、追いかけるように川村先生からお礼メールが届きました。
いえいえ、恐縮です。以下、その一部をご紹介。
学生の感想をお送りします。
「水俣病の認定基準」について質問している学生がいますが、国が頑なに認定基準を変えようとしないことについて、次回の授業で、少し補足する予定です。
あらためて思います。環境省幹部たちが「悪意」を持っているのではなく、いわゆる「救済策」に真剣に取り組んでいるであろうこと。しかしながら、政治的圧力などいかんともしがたい状況があるであろうこと、はわからないではないですが、結果として、水俣という小さな地域の中に、深い亀裂を生み出してしまう構造は、いつまでたっても変わらないのでしょう。正義を求め続けるのは、正しいけれど辛い。「救済の手」を受け入れることは一時、生活を改善するかもしれないけれど、新たな不安を抱えることになるのかと思います。
そして、認定されている患者さんたちの将来を危うくすることになりはしないかと、「業」の深い法律のもとで「救済」が進むことに、どのように対処したら良いのか、わからずにいます。
ただ、今回、田嶋さんに来ていただいて、少しわかって来たことがあるとすれば、学生たちにもっともっと、判断のための情報を出し続けることの重要さです。
特措法、分社化について「知らなかった」「理解が不足していた」のは学生だけに問題があるのではなく、伝えるべき人間がその役割を果たしていないこと、それは、教員を職とする自分の問題ですし、マスメディアやジャーナリズムの責任でもあるでしょう。
伝え続けることの大事さを、今年ほど強く感じたことはありません。
最後に
恵泉の学生のみなさん、真剣な表情で目をまっすぐにして話を聞いてくださってありがとうございました。
なかでも、貴女。清々しい表情で顔をまっすぐに向けてくださった貴女から、眼を離すことができませんでした。話すことは拙くても、貴女にまっすぐと応えたい、そう願って話しつづけるかっこうになりました。
あまり、見つめ返しては、気詰まりではないかと、向きを変えたりしてみましたが、貴女は、全くそんなことを気になさるそぶりも見せずに、向き合ってくださっていました。
そんな瞳に出会うと、勇気をもらいます。
貴女に感謝を捧げて報告を終えます。ありがとう。