第12回 水俣病事件研究交流集会 参加
2017年1月7日(土)、8日(日)
於・水俣市公民館
主催:熊本学園大学 水俣学研究センター
水俣病資料館の窓から海と恋路島をのぞむ
窓ガラスに書かれた文字は「あなたはどんな未来をつくりますか?」
熊本地震後、初めての訪水
水俣病公式確認後60周年目の慰霊祭に行く予定が、熊本地震のために流れてしまい、久しぶりの水俣訪問となりました。
今回の訪水では、ここ何年か参加し続けている「水俣病事件研究交流集会」に出席し、リニュアルした水俣病資料館を訪ね、しばらく目にしていない水俣病ゆかりの場所を確かめることにしました。
「水俣」の話をしにきてくれないか、というお誘いが集中するのが、毎年2月から3月にかけて。
小学校5年生の3学期の社会科で公害のことを勉強することになっているせいですが、ポツポツと依頼が年末あたりからきて、こう、顔を振り上げるように、「水俣」のことを考え始めるのです。
だから、毎年1月の第2土・日に開催される水俣病事件研究交流集会が、わたしにとっては、おさらいと新しい知識や考え方を得る格好の機会となっているのです。
事件研究集会の発表やそこに集う人びとに刺激されることで、さらに「水俣」の意味を考えることができます。
もちろん、水俣の懐かしい友人たちに再会することも、その刺激のひとつです。
今年は、豊橋窓口の金子さんと同行の訪水となりました。
久しぶりの百間口、川本さんのお地蔵さん、チッソ正門
いつものことながら、スケジュールはギリギリです。
なので、なかなか、いろいろな場所を目に刻むことはできません。
やはり、行きやすい場所と、行き過ぎてしまう場所がどうしてもあるのです。
それで、あえて立ち寄ることにしたのが、こんなところ。
阿賀から運ばれた石でできたお地蔵さん。わたしたちは、川本さんのお地蔵さんと、呼んでいます。
川本さんのお地蔵さんが見つめているのは、百間の排水口。ここからメチル水銀を含んだ汚水が海に流されました。
この排水口がそのまま残っているか少し不安だったのですが、ちゃんとあった!
チッソの正門。何か変化はないかと探るのですが、特措法以来、掲げられている「JNC株式会社」が輝くばかりです。
正門前に車を止めて写真を撮っていたら、しっかり守衛さんに叱られました。
さまざまなことを教えられ、知り、考えるなかで、川本さんのお地蔵さんが百間排水口に向き合っていることも、わたしのなかで、さまざまに意味を考えさせていくようです。
ここ何年か、ついつい親水護岸の「魂石」と呼ばれるお地蔵さんばかり見ていたせいかもしれません。
「JNC」の社名にしても、現在、あらためて謝罪と責任について考え始めているせいかもしれません。
ねえ、あの軸と網、どこに行ってしまったのでしょう・・・?
水俣病資料館にどうしても行きたかったのは、公式確認60周年にあわせてリニュアル・オープンされたのを確かめたかったからです。
子どもたちに「水俣」のことを伝えるとき、しばしば、締めくくりに水俣病資料館のことを、話してきました。
そんなふうに語ると、「水俣」を伝えるときにいつも教室に展示している桑原史成さん撮影のその写真を、何も言わなくても子どもたちは一斉に見やるのです。
そんな資料館がどう新しくなったかを確かめたくて。
資料館の展示のようす。
智子さんのお父様が、「もう智子を休ませてあげたい」と思われて、展示を断われた、と聞きました。
かわって、いちばん奥に半永さんの笑顔が見えるのは、また、とても温かい気持ちにもなります。
資料館では、ちょうど、芥川仁さんの「リトルヘブン」写真展も開催されていました。
水俣を撮るなかで「リトルヘブン」を見出すことを知ったといわれた芥川さんの、全国各地で見つけた「小さな楽園」が集められた写真展でした。
芥川さんは、このリニュアルを「毒にも薬にもならない展示」と言われました。
わたしは批評するつもりはありません。
しかし、芥川さんから、大阪のコンサル会社が行ったリニュアル、と教えられたときは、少なからず残念な気持ちが起こりました。
事実を知り、事実に向き合う展示は、どこかの会社が請合う筋のものではなく、市民の手でつくられるべきものだと思ったからです。
水俣病公式確認60年にして、いまだ、水俣病事件解決のみえない現在。
その展示が、これでしょうか?
解決しようする意思、何をもって解決とするのかという提案を語る展示であってほしい。
そういう展示になるなら、60年を70年につなげる意味も生まれるように思えるのでした。
わたしたち、伝えるネットは、水俣病資料館とつながってきていたつもりでした。
【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の3つの窓口での開催は、そんな資料館とのつながりのなかで実現できたものです。
だから、いつもいつも水俣からもらうばかりだから、こちらからも返したい、その気持ちの表れとして首都圏窓口から贈ったのが、写真展来場者が残してくれた感想からつくった『群詩 朽ちない言葉の網』でした。
決して見返りを求めるつもりでなく、わたしたちも、また、水俣に生きるひとたちとともにあることを伝えたい、その思いが作らせたものです。
それを資料館が飾ってくださっていることが、本当に嬉しかったのです。
不遜かもしれないけど、少しは水俣にお返しができたんじゃないかなって。
水俣病資料館に飾られていた【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の感想が書かれた網と群詩。
リニュアルされて、その網や群詩の軸がどこにいってしまったか?
資料館の方にお訊ねしたら、その網と軸のこと自体がおわかりにならないようでした。
ど~しよ~。
たとえば『石川さゆり~水俣絶唱』音声ガイドの台本。
そして『水俣病~患者さんとその世界』の音声ガイドDVDも寄贈させていただいたけど、そういうものも、みんなリニュアルなんだろうか?
研究会で震えるように発言したこと
実は、水俣病事件研究交流集会に期待するものがありました。
昨年、「水俣」を伝える活動をつづけて20年になろうとしているわたしたちのまちは、とても悲惨な事件を体験しました。
津久井やまゆり園の”虐殺”事件です。
この事件をどう受け止めるか、どのように克服していくか。
わたし自身を含め、わたしたちのまち全体が迷いのなかにあります。
ひとの想像力には限りがある、傷みは共有できないと知った上で、わたしは、あえて水俣に「 」を付け、「水俣」は、わたしたちのまちだ、わたしたちもまた加害者にも被害者にもなると語ってきました。
だからこそ、「水俣」に学ぼうと呼びかけてきたのです。
そんな活動をつづけてきて、このまちで、たくさんのいのちが無残に奪われました。
わたしには、それがひとりの狂気によって奪われたとは思えませんでした。
社会が、時代が内包している誤謬が拡がった末の出来事にしか思えないのです。
わたしは、この事件において、加害者であり、やがて被害者になるかもしれない。
「水俣」を伝えるとき、わたしは、自分の主体性に深く食い込んで問いを投げかけようとしてきました。
しかし、自分の内側へと向かう問うかけだけでは、足りなかった。
社会との共有、社会がどんなものであり、どのように構築されるべきか、社会化への働きかけに欠けてきた、と鋭く思わないではいられないのです。
今は亡き宇井純先生も、原田正純先生も言われていました。
この研究会は、学者だけでなく、市民も、どのような立場のひとも参加し語り合える場にしたい、と。
わたしは、この研究会で、津久井やまゆり園の事件をどう考えるかのヒントが欲しかった、と、振り返ります。
なぜなら、やまゆり園の事件も水俣病事件とつながっていると、直観するからです。
ここでも、わたしは、特段の批評も判定もするつもりはありません。
ここ数年の事件研究会の発表は、しばしば、言葉がわからないものがあります。
今年、あまりにもどかしくて、気がついたら、挙手して発言していました。
それが、声を震わせながら質問をした経緯なのでした。
学者とか、市民とか、あるいは行政とか、共有できる言葉はあるはずと思います。
制度や裁判のなかで語るような言葉を使って語るのではなく、分かり合える言葉で語りませんか。
その日、”おにゆう”は、胎児性水俣病の知見に関わる発表があるということで、研究会に出席していました。
その言葉は、”おにゆう”に語りかけられる言葉だったでしょうか?
研究会自体が迷路に入っているような印象をもったのは、わたしたち、だけだったのでしょうか・・・。
出前活動シーズンが始まる
子どもたちは、見抜く力を持っています。
いい加減に語りかけているか、真剣に語りかけているか。
向きあっているか、ごまかしているか。
わたしは、やまゆり園のことを問いながら、今年の出前活動にのぞもうと思っています。
そして――。
支えてくれるのは、多分、半永さんや”おにゆう”たちのように思えます。
2017年1月7日(土)、8日(日)
於・水俣市公民館
主催:熊本学園大学 水俣学研究センター
水俣病資料館の窓から海と恋路島をのぞむ
窓ガラスに書かれた文字は「あなたはどんな未来をつくりますか?」
熊本地震後、初めての訪水
水俣病公式確認後60周年目の慰霊祭に行く予定が、熊本地震のために流れてしまい、久しぶりの水俣訪問となりました。
今回の訪水では、ここ何年か参加し続けている「水俣病事件研究交流集会」に出席し、リニュアルした水俣病資料館を訪ね、しばらく目にしていない水俣病ゆかりの場所を確かめることにしました。
「水俣」の話をしにきてくれないか、というお誘いが集中するのが、毎年2月から3月にかけて。
小学校5年生の3学期の社会科で公害のことを勉強することになっているせいですが、ポツポツと依頼が年末あたりからきて、こう、顔を振り上げるように、「水俣」のことを考え始めるのです。
だから、毎年1月の第2土・日に開催される水俣病事件研究交流集会が、わたしにとっては、おさらいと新しい知識や考え方を得る格好の機会となっているのです。
事件研究集会の発表やそこに集う人びとに刺激されることで、さらに「水俣」の意味を考えることができます。
もちろん、水俣の懐かしい友人たちに再会することも、その刺激のひとつです。
今年は、豊橋窓口の金子さんと同行の訪水となりました。
久しぶりの百間口、川本さんのお地蔵さん、チッソ正門
いつものことながら、スケジュールはギリギリです。
なので、なかなか、いろいろな場所を目に刻むことはできません。
やはり、行きやすい場所と、行き過ぎてしまう場所がどうしてもあるのです。
それで、あえて立ち寄ることにしたのが、こんなところ。
阿賀から運ばれた石でできたお地蔵さん。わたしたちは、川本さんのお地蔵さんと、呼んでいます。
川本さんのお地蔵さんが見つめているのは、百間の排水口。ここからメチル水銀を含んだ汚水が海に流されました。
この排水口がそのまま残っているか少し不安だったのですが、ちゃんとあった!
チッソの正門。何か変化はないかと探るのですが、特措法以来、掲げられている「JNC株式会社」が輝くばかりです。
正門前に車を止めて写真を撮っていたら、しっかり守衛さんに叱られました。
さまざまなことを教えられ、知り、考えるなかで、川本さんのお地蔵さんが百間排水口に向き合っていることも、わたしのなかで、さまざまに意味を考えさせていくようです。
ここ何年か、ついつい親水護岸の「魂石」と呼ばれるお地蔵さんばかり見ていたせいかもしれません。
「JNC」の社名にしても、現在、あらためて謝罪と責任について考え始めているせいかもしれません。
ねえ、あの軸と網、どこに行ってしまったのでしょう・・・?
水俣病資料館にどうしても行きたかったのは、公式確認60周年にあわせてリニュアル・オープンされたのを確かめたかったからです。
子どもたちに「水俣」のことを伝えるとき、しばしば、締めくくりに水俣病資料館のことを、話してきました。
事実を知ることは、どんなに大切かということを水俣のひとたちは知っている。
水俣病によって差別やいじめが起きてしまったことを、事実と向き合うことでしか乗り越えられないと知っている。
だから、市立の資料館を建てて、一つ一つ確かめようとしているのだ。
熊本の小学生は、みんな、この資料館を訪ねることになっているんだよ。
いろいろな展示がいっぱいあって、そのいちばん奥に、ひときわ大きく掲げられている写真がある。
資料館の展示をたどる動画を見てもらって、いちばん奥の写真を大きく写して子どもたちに見せる。
智子さんを抱くお父さんの写真。
智子さんとお父さんは笑って互いを見つめあっている、その写真。
水俣病によって差別やいじめが起きてしまったことを、事実と向き合うことでしか乗り越えられないと知っている。
だから、市立の資料館を建てて、一つ一つ確かめようとしているのだ。
熊本の小学生は、みんな、この資料館を訪ねることになっているんだよ。
いろいろな展示がいっぱいあって、そのいちばん奥に、ひときわ大きく掲げられている写真がある。
資料館の展示をたどる動画を見てもらって、いちばん奥の写真を大きく写して子どもたちに見せる。
智子さんを抱くお父さんの写真。
智子さんとお父さんは笑って互いを見つめあっている、その写真。
そんなふうに語ると、「水俣」を伝えるときにいつも教室に展示している桑原史成さん撮影のその写真を、何も言わなくても子どもたちは一斉に見やるのです。
そんな資料館がどう新しくなったかを確かめたくて。
資料館の展示のようす。
智子さんのお父様が、「もう智子を休ませてあげたい」と思われて、展示を断われた、と聞きました。
かわって、いちばん奥に半永さんの笑顔が見えるのは、また、とても温かい気持ちにもなります。
資料館では、ちょうど、芥川仁さんの「リトルヘブン」写真展も開催されていました。
水俣を撮るなかで「リトルヘブン」を見出すことを知ったといわれた芥川さんの、全国各地で見つけた「小さな楽園」が集められた写真展でした。
芥川さんは、このリニュアルを「毒にも薬にもならない展示」と言われました。
わたしは批評するつもりはありません。
しかし、芥川さんから、大阪のコンサル会社が行ったリニュアル、と教えられたときは、少なからず残念な気持ちが起こりました。
事実を知り、事実に向き合う展示は、どこかの会社が請合う筋のものではなく、市民の手でつくられるべきものだと思ったからです。
水俣病公式確認60年にして、いまだ、水俣病事件解決のみえない現在。
その展示が、これでしょうか?
解決しようする意思、何をもって解決とするのかという提案を語る展示であってほしい。
そういう展示になるなら、60年を70年につなげる意味も生まれるように思えるのでした。
わたしたち、伝えるネットは、水俣病資料館とつながってきていたつもりでした。
【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の3つの窓口での開催は、そんな資料館とのつながりのなかで実現できたものです。
だから、いつもいつも水俣からもらうばかりだから、こちらからも返したい、その気持ちの表れとして首都圏窓口から贈ったのが、写真展来場者が残してくれた感想からつくった『群詩 朽ちない言葉の網』でした。
決して見返りを求めるつもりでなく、わたしたちも、また、水俣に生きるひとたちとともにあることを伝えたい、その思いが作らせたものです。
それを資料館が飾ってくださっていることが、本当に嬉しかったのです。
不遜かもしれないけど、少しは水俣にお返しができたんじゃないかなって。
水俣病資料館に飾られていた【写真展 水俣を見た7人の写真家たち】の感想が書かれた網と群詩。
リニュアルされて、その網や群詩の軸がどこにいってしまったか?
資料館の方にお訊ねしたら、その網と軸のこと自体がおわかりにならないようでした。
ど~しよ~。
たとえば『石川さゆり~水俣絶唱』音声ガイドの台本。
そして『水俣病~患者さんとその世界』の音声ガイドDVDも寄贈させていただいたけど、そういうものも、みんなリニュアルなんだろうか?
研究会で震えるように発言したこと
実は、水俣病事件研究交流集会に期待するものがありました。
昨年、「水俣」を伝える活動をつづけて20年になろうとしているわたしたちのまちは、とても悲惨な事件を体験しました。
津久井やまゆり園の”虐殺”事件です。
この事件をどう受け止めるか、どのように克服していくか。
わたし自身を含め、わたしたちのまち全体が迷いのなかにあります。
ひとの想像力には限りがある、傷みは共有できないと知った上で、わたしは、あえて水俣に「 」を付け、「水俣」は、わたしたちのまちだ、わたしたちもまた加害者にも被害者にもなると語ってきました。
だからこそ、「水俣」に学ぼうと呼びかけてきたのです。
そんな活動をつづけてきて、このまちで、たくさんのいのちが無残に奪われました。
わたしには、それがひとりの狂気によって奪われたとは思えませんでした。
社会が、時代が内包している誤謬が拡がった末の出来事にしか思えないのです。
わたしは、この事件において、加害者であり、やがて被害者になるかもしれない。
「水俣」を伝えるとき、わたしは、自分の主体性に深く食い込んで問いを投げかけようとしてきました。
しかし、自分の内側へと向かう問うかけだけでは、足りなかった。
社会との共有、社会がどんなものであり、どのように構築されるべきか、社会化への働きかけに欠けてきた、と鋭く思わないではいられないのです。
今は亡き宇井純先生も、原田正純先生も言われていました。
この研究会は、学者だけでなく、市民も、どのような立場のひとも参加し語り合える場にしたい、と。
わたしは、この研究会で、津久井やまゆり園の事件をどう考えるかのヒントが欲しかった、と、振り返ります。
なぜなら、やまゆり園の事件も水俣病事件とつながっていると、直観するからです。
ここでも、わたしは、特段の批評も判定もするつもりはありません。
ここ数年の事件研究会の発表は、しばしば、言葉がわからないものがあります。
今年、あまりにもどかしくて、気がついたら、挙手して発言していました。
主体に切り込むような問いかけがあるように思えない。
これまでも、個のなかで、水俣病事件にある普遍的な問いを自身に深く投げかけてきた。
しかし、津久井やまゆり園のあるまちで、「水俣」を伝えるということに欠けてきたものがあるように思えてならない。
そのことへの示唆こそをここに求めたい。
これまでも、個のなかで、水俣病事件にある普遍的な問いを自身に深く投げかけてきた。
しかし、津久井やまゆり園のあるまちで、「水俣」を伝えるということに欠けてきたものがあるように思えてならない。
そのことへの示唆こそをここに求めたい。
それが、声を震わせながら質問をした経緯なのでした。
学者とか、市民とか、あるいは行政とか、共有できる言葉はあるはずと思います。
制度や裁判のなかで語るような言葉を使って語るのではなく、分かり合える言葉で語りませんか。
その日、”おにゆう”は、胎児性水俣病の知見に関わる発表があるということで、研究会に出席していました。
その言葉は、”おにゆう”に語りかけられる言葉だったでしょうか?
研究会自体が迷路に入っているような印象をもったのは、わたしたち、だけだったのでしょうか・・・。
出前活動シーズンが始まる
子どもたちは、見抜く力を持っています。
いい加減に語りかけているか、真剣に語りかけているか。
向きあっているか、ごまかしているか。
わたしは、やまゆり園のことを問いながら、今年の出前活動にのぞもうと思っています。
そして――。
支えてくれるのは、多分、半永さんや”おにゆう”たちのように思えます。
これからの出前活動予定(2017.2.12現在)
2月15日 相模女子大学 小学部 5年生
2月23日 座間市立相模が丘小学校 5年生
2月24日 座間市立旭小学校 5年生
3月2日と3日 相模原市立清新小学校 5年生
3月6日 相模原市立湘南小学校 5年生
3月8日 相模原市立桜台小学校 5年生
※参観をかねてのお手伝いを募っております。
2月15日 相模女子大学 小学部 5年生
2月23日 座間市立相模が丘小学校 5年生
2月24日 座間市立旭小学校 5年生
3月2日と3日 相模原市立清新小学校 5年生
3月6日 相模原市立湘南小学校 5年生
3月8日 相模原市立桜台小学校 5年生
※参観をかねてのお手伝いを募っております。