小川洋子、新潮文庫、1998年。『博士の愛した数式』の小川洋子の短編です。時間も場所もぼんやりとして、どこか最後まで幻想的な掌編です。登場人物の姿さえも呆として、姿形を特定するのに苦労します。しかし、それが独特の雰囲気を醸し、まるで夢のなかの物語のように尾を引きます。それは標題の作品「薬指の標本」、もうひとつの短編「六角形の小部屋」にも共通しています。
主人公の少女は、サイダー工場の機械に指を巻き込まれ、薬指の一部を失います。職を辞め、海辺の村を出た少女は、街のなか、古ぼけた建物の求人広告を見つけます。それは「標本室」の事務員募集を告げる内容でした。「標本」、それはとても不思議な職業でした。生き物ばかりでなく、無機質なもの、たくさんの人々の思い出を封じ込める、どこかにありそうで、しかし醒めた目では決してあり得ないとも思える仕事です。
標本技術士の弟子丸氏の優しく、おそろしく、人間味にあふれたようで機械的な、その人格は、正体不明で、しかしながら、日常生活で頻繁に感じる圧倒的に不可知な”他者”であるようにも思えます。その氏に、素敵な靴を送られ、少女はあまりに足にぴったりなそれを毎日履き続けることを約束させられます。氏の理不尽な要求にも、少女は当たり前のように応じます。
たぶんこれは、恋愛の話なのでしょう。少女は「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」と語ります。象徴のレベルで分析することも可能だと思うんです。フロイト流に言えば、靴は性的な意味。薬指は日本では男女の制度的な意味合いを有しています。ただ、そのように正解探しをしても何の意味もありません。本を読むという行為は、ただその読まれている書物のその世界を生きること。
少女の足が弟子丸氏の靴に侵されるかのように、読者は本の活字の世界に浸食されることこそ、至福と言えると思います。