ずいぶん前に浮夢時さんにお薦めした『博士の愛した数式』小川洋子、新潮文庫、2005年初版。電車での通勤を利用して読み終わりました。独特のゆるやかな時間が流れる、静謐とした物語でした。その"時間"そのものがテーマのひとつでもあります。
十歳の息子を育てながら家政婦として生計を立てる"私"は、ある日一風変わった雇い主のもとで働くことになります。元数学者の老人である"博士"は、事故の後遺症から八十分しか記憶が持続しません。毎日仕事のために訪れる"私"は、彼にとっては常に初対面と感じられます。
その記憶を補うのが彼の服のあらゆるところにクリップで留められた、メモたちです。一番見やすい袖には「ぼくの記憶は80分しかもたない」ことが記されています。彼の一日はそのメモによって病を告知されることから始まります。
ぎこちないやり取りを経ながらも、博士の数学あるいは数字への純粋な思いと、全ての子どもは守られなければならないと信じる博士の"私"の息子への深い愛情によって、博士、私、息子の三人はかけがいのない繋がりを感じるようになります。
素数や友愛数、さらにオイラーの定式やフェルマーの最終定理といった数学用語(ただ、主人公の私が博士から聞かされる話として語られるので難しい話はいっさい出てきません)、そこにプロ野球という補助線が引かれる形で物語は進行します。
いくつかの波風を乗り切り、永遠に続くかと思われた三人の関係でしたが、しかしやがて…。
フェルマーの最終定理の話よく出てくるなと思ったら、巻末の参考文献に、以前紹介したサイモン・シン著『フェルマーの最終定理』が挙げられていて、嬉しくなってしまいました。読む順番は間違っていなかったと。こういう密やかな連鎖が(音楽もそうですが)読書のまたもうひとつの面白さでもあります。
十歳の息子を育てながら家政婦として生計を立てる"私"は、ある日一風変わった雇い主のもとで働くことになります。元数学者の老人である"博士"は、事故の後遺症から八十分しか記憶が持続しません。毎日仕事のために訪れる"私"は、彼にとっては常に初対面と感じられます。
その記憶を補うのが彼の服のあらゆるところにクリップで留められた、メモたちです。一番見やすい袖には「ぼくの記憶は80分しかもたない」ことが記されています。彼の一日はそのメモによって病を告知されることから始まります。
ぎこちないやり取りを経ながらも、博士の数学あるいは数字への純粋な思いと、全ての子どもは守られなければならないと信じる博士の"私"の息子への深い愛情によって、博士、私、息子の三人はかけがいのない繋がりを感じるようになります。
素数や友愛数、さらにオイラーの定式やフェルマーの最終定理といった数学用語(ただ、主人公の私が博士から聞かされる話として語られるので難しい話はいっさい出てきません)、そこにプロ野球という補助線が引かれる形で物語は進行します。
いくつかの波風を乗り切り、永遠に続くかと思われた三人の関係でしたが、しかしやがて…。
フェルマーの最終定理の話よく出てくるなと思ったら、巻末の参考文献に、以前紹介したサイモン・シン著『フェルマーの最終定理』が挙げられていて、嬉しくなってしまいました。読む順番は間違っていなかったと。こういう密やかな連鎖が(音楽もそうですが)読書のまたもうひとつの面白さでもあります。
時間が有意義に使えるよね。
本を読んだり、音楽を聴いたり・・・
瞑想したり・・・妄想したり・・・(爆)
自分も学生時代、群馬から新宿に通ってて、
電車の中は貴重な時間でした。
最近、小説を読んでませんね・・・
80分しか記憶が無かったら・・・
どうなんだろうね、新鮮なのか?
寂しいのか?辛いのか?
追記
今年の夏・・・
熱中症で倒れたり・・・
野外ライブに行ったり・・・
嫁がツワリだったり・・・
子犬がやってきたり・・・
海に行ったり・・・
音楽から離れちゃってます・・・(寂)
誰しも、忘れたくないとても大事な思い出を持っていると思うんです。それについて、忘れたことさえ思い出せない記憶の喪失という事態は、そのことに気づかされたときには、とても言葉にできない、ただ黒々とした穴のような喪失感がある様な気がします。
どんな風に映像化されたのか興味があります。
今年の夏、良いことも良くないこともぎゅっと凝縮された感じでやってきて、気づけば、自分のほうは音楽と
本しか残ってません(笑)。