名もなきブログ

考えたことメモ

人が恐い、でも……

2011-11-25 20:38:28 | 日記
人を恐がり、大学卒業したら人気のないところに住もうと思ってたら、
また人に希望をもらった、揺れる

それというのも、母さんに哲学の話したら、
何故か大爆笑されて、釣られて父も笑って、
気分がすごい陽気になり、愉快になりということが起こったからでござる。

母さんがオチがないし、事実を淡々と述べてるだけでつまらない、
と言ったんです。まあ新鮮かつ驚きがあって、不発に終わった感があったけど、
こうなったらとことん笑わそうと思って、めちゃくちゃ哲学の話して笑わせたった。

最後は母とデートの話になって、
母「でも私とデートじゃなくて、早く好きな人とデートしなければいけないねw」
って言われたから、この前動画で見た吉高由利子の言った台詞、
「恋はするものじゃなくて、落ちるもの☆」って言って、トドメを刺した。

は~こういうのいいな~。

愛、善、私、世界の最高の状態

2011-11-19 00:25:33 | 愛について
今日も授業中に考えていると、あることに気付いたんだよ~。

スピノザは「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂いに外ならず」
と言っている。
西田がこれを引用し、西田自身も「竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である」
と言っている。(岩波文庫、善の研究、p192)

今日の前の記事「恋愛」で、
「孤独は最も深い愛に根差している」という三木清の言った言葉を説明してみた。

そして善は美で、美的価値は愛するものにある、と論じてみた。
「善と美、最後に愛」

最も深い愛は孤独による。「恋愛」

とすると最も深い愛の原因である孤独は美しく、善くなることの原因でもある。

卑近な例を出せば、「自分にはサッカーしかない、サッカーを最も愛している、
だからサッカーをする」これが善になる。
この人がサッカーをすれば、誰にも真似出来ないプレイをし、
見ている人々を心の底から楽しませ、幸せな気持ちにするだろう。
これが善である。

こうしてスピノザの言ってることと、西田の言ってることと同じになった。


ふと思った。世界のあらゆるものが、その一つ一つが特別であること、
それが最大の愛であり、それが世界の最高の状態なのだろう。

恋愛

2011-11-16 21:04:09 | 愛について
恋愛ってベストは運命の人と結ばれることだよね。
運命の人って言い方じゃなくても、その人じゃなきゃダメって人。

今日はポスティングをしながらずっとこのこと考えてたよ。

好きって言って、よくその理由で挙げられるのが、
例えば優しいから、たくさんいる。面白いから、そこら中いる。
真面目だから、情熱があるから、向上心があるから、いい人だから、
いくらでも代えは利く、嫌な言い方だけど。

そんな理由で一生一緒にいたいというけれど、
その理由だったら一生一緒にいなくてよくなる。
だってその人じゃなくたって、優しい人も面白い人もいるし、
彼氏や夫じゃなくても、そういう人と一緒にいればいいと、理屈上はそうなる。

そこで思った、優しいからとか、面白いからとか、そういうんじゃなくて、
本当にその人じゃなきゃダメな最愛の人って、その人だから好きなんだろうって。

そこでぶち当たるのは、「私とは誰か」という哲学の問題。
私を私足らしめるものは?私にしかないものは?
それがあることで、優しいとか面白いとか代えの利くものじゃなくて、
その人じゃなきゃダメってことがあるのだと思う。

それが運命の人の条件なんじゃないかな~って思った。

僕が好きなアーティストMR.childrenの曲「虜」に、
考えさせられた歌詞があった。

「金曜日に奴に会ってきたろう?
 簡単に別れ切り出せたの?
 どうだったんだ 把握していたい
 最低な君を」

本当に愛していたら、その人の最低な部分まで好きなんだろうな~って思った。

だけど本当に私にしかないものはあるのか、ということをずっと考えていた。
本当にあればホッとする特別な存在だから。
だけどそれは同時に孤独でもある。
孤独というのは特別な存在だ、だから最高に愛されるし、
自分でも自分のことを、自分にしかないその部分を最高に愛することが出来る。

三木清が「孤独は最も深い愛に根差している」と言っていた。

あまり恋愛に直接関係なくなってきたけど、
でも今日考えた限りでは、私にしかないものは見つからなかった。
行き着いたのは、私にしかないものは、
万人に共通する私にしかないものを探すのはナンセンスだということ。
それは私にしかないものではないから。
だから個々の人々にとっての、私にしかないものを探すしかない。

善と美、最後に愛

2011-11-15 22:08:32 | 愛について
前たま蔵には話したのだけど、書きます。

善を美とする立場がある。アリストテレス、西田幾多郎、ウィトゲンシュタイン。
僕が知ってるのはこの人達だけ。多分もうちょっといるんじゃないかと思う。

善を美とするのは、例えば、「人に迷惑をかけない」ということは美意識みたいなものだ、
という感じだと思う。

ここで一つ、善と美には両方とも羊がいる。羊部という部首、
善は部首は違ったかもしれないけど。漢字の成り立ちも二つには共通するところがある。
ぐぐってみれば、漢字の成り立ちも載っていた。
ぐぐってくれた人にさらに言いたいのだけど、
西洋はキリスト教があるから善に羊が入るのはなんとなく分かる、
でもなぜそれが東洋と共通しているのかということが興味深いところだ。
でも案外なんとでもないことが理由だったりするかもしれない。

あと愛について1で善は調和としたのだけど、古代ギリシアや古代ローマ(だっけ?)
では美は調和であるとされた。

だから善は調和と善は美は共存する。また美は愛するものにある。
すると、愛について1で書いたように、善と調和が愛するものにあることを補強する。

さとて、あとは僕は中学生の頃か高校生の頃、善いことは良いことなんだ、
と思ったことがあった。しかし少し考えてみれば両者は区別すげき事柄であると思う。

ある日、授業中集中もせず美を辞書で引いてみた。
②によいこと、と載っていた。
善は美、美はよいこととすると、善いことはよいことになる。

読み方が一緒なものは何かしら共通してることが多い。
美(み)魅(み)魅力あるものは美しい。
魅かれる、引かれる、似ている。
中島みゆきの「糸」をぐぐれば、幸せと仕合せの共通点が見つかる。

つまり善いことと良いことは共通しているのではないか、
区別するよりも共通させてみるともっと理解が深まるのではないかと思った。
中学生の頃区別し、5,6年経った今共通させてみた。

よいことを辞書で引いてみると、
善いこと、良いこと、好いこと、と出てくる。
もう一つ好いことがあった。

やはり愛が善と共通してくる。