上海ウエブサイト

上海の経済、都市計画、住宅等の情報を中心に投資の視点から、もろもろの話を書きたいと思っております。

四平路の親子スリ

2006-08-18 12:04:28 | Weblog
写真をクリックすると大きな画面で見ることが出来ます。


副都心五角場より虹口区の同済大学の前を通り市中心部に向かう、四平路がある。
この四平路と海倫路が交差する辺りは地下鉄4号線の駅も出来、区画整理中である。

この辺りも、戦前は多くの日本人が住んでいたところで、現在もその当時の家屋が使用されているとの事である。

交差点でタクシーを降りると、通訳さんが子連スリがいるという。

女性が赤ん坊を抱いて交差点を渡ってくる。
その後、ちょっと間隔をあけて、10歳ぐらいの男の子がついてくる。

親子共、瑠璃色の目をしている。
身なりは粗末だけれども、女性はぞくっと来るほどの美人である。
赤ん坊は目が大きく愛嬌のある顔をしている。

赤ん坊の愛くるしい仕草に見とれて、あやしていると隙を見てもう一人の子供が財布や持ち物をかっぱらって逃げる。

中国人ではない。

いや、人種的には中国人ではないが、国籍は中国だそうである。

通訳さんの解説によると、中央アジアに近い辺境、新疆辺りから一家で出稼ぎに来ている人が多いそうである。

男は電車やバスでの強盗、スリ、かっぱらい。

子供だけの場合でも、電車や駅構内で物貰いをさせられる。
欲を出さなければ、子供の物乞いだけで、親子三人が生活できるそうである。

昔から人、金、物、情報が集まる上海は富の集積地でもある。

人は富に群がる。
富める人も貧しき人も変らない。

富める人も、さらなる富を求めて犯罪を犯す。


魯迅は国民性の改造を目指し、医学より文学に転向する。

後、郭沫若、田漢、郁達夫らと共に中国左翼作家連盟を結成し活動する。

魯迅の悲願、いまだ路遠し。


(注)中国左翼作家連盟の碑は四平路から海倫路を横浜橋方面に約200m入ったところにあります。)

著作権 ネットシステムズ











四川北路の横浜橋

2006-08-04 22:09:59 | Weblog


写真をクリックすると大きな画面で見ることが出来ます。


虹口区の北部にある魯迅公園の南側から四川北路は始まり、南下し人民公園、南京路の上海中心部に通じている。

戦前、この辺りは共同租界になっており日本人が一番多く住んでいた所である。

又、四川北路と山陰路が交わる所にある中国工商銀行の支店は昔、内山書店があったところである。

内山完造は共同租界の成功者であり、上海に行った日本人文筆者が世話になっている。

また、魯迅をはじめ中国左翼作家の多くがこの共同租界にすんでいた。

当時のこの辺りの様子を、詩人金子光晴の自伝どくろ杯より引用してみよう。

「バルザックの表現にならえば、二つの胡桃割りのように、魯迅と、郁達夫がつれ立つてあるいている姿を、北四川路近辺で、どこへいっても私は、よくみかけた。
やや背の低い中年の魯迅のそばに、ひょろりとした郁達夫がよりそって、なにかひどくこみいった内緒話でもしているように、話かけると、魯迅は、しきりにうなずいている。
蘇州河の河岸っぷちにしゃがんで、魯迅が石で土のうえに図を書いて説明していることもあったし、横浜橋のらんかんに郁さんが腰かけて、一時間ほども二人でじっと考えこんでいることもあった。」

魯迅をはじめ中国の左翼作家の人々は何故内山書店の周りに住居まで移して集まったのであろうか。

当時の中国は共産党のバイブル、マルクス、エンゲルスの資本論等の書籍は日本語を通じてしか得るすべがなかったからである。

また、租界内部には日本人の自治組織があり、現在の魯迅公園、記念館があるところは、射撃練習場であった。

また、射撃訓練場の南に日本海軍陸戦隊本部があり、蒋介石政権にとっては介入することが出来ない場所であった。


注1(横浜橋は日本の横浜橋とはなんら関係ありません。上海語で横は東西の方向に向きを変えること。
浜は水の流れ、用水路、クリーク等をさします。
租界内に横浜路の名称がありますが、人の流れを水の流れにたとえて、転用したものと思われます。

注2「------」で囲まれた部分は金子光晴、どくろ杯、中公文庫、中央公論新社よりの引用です。

            著作権 ネットシステムズ