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虹口区の北部にある魯迅公園の南側から四川北路は始まり、南下し人民公園、南京路の上海中心部に通じている。
戦前、この辺りは共同租界になっており日本人が一番多く住んでいた所である。
又、四川北路と山陰路が交わる所にある中国工商銀行の支店は昔、内山書店があったところである。
内山完造は共同租界の成功者であり、上海に行った日本人文筆者が世話になっている。
また、魯迅をはじめ中国左翼作家の多くがこの共同租界にすんでいた。
当時のこの辺りの様子を、詩人金子光晴の自伝どくろ杯より引用してみよう。
「バルザックの表現にならえば、二つの胡桃割りのように、魯迅と、郁達夫がつれ立つてあるいている姿を、北四川路近辺で、どこへいっても私は、よくみかけた。
やや背の低い中年の魯迅のそばに、ひょろりとした郁達夫がよりそって、なにかひどくこみいった内緒話でもしているように、話かけると、魯迅は、しきりにうなずいている。
蘇州河の河岸っぷちにしゃがんで、魯迅が石で土のうえに図を書いて説明していることもあったし、横浜橋のらんかんに郁さんが腰かけて、一時間ほども二人でじっと考えこんでいることもあった。」
魯迅をはじめ中国の左翼作家の人々は何故内山書店の周りに住居まで移して集まったのであろうか。
当時の中国は共産党のバイブル、マルクス、エンゲルスの資本論等の書籍は日本語を通じてしか得るすべがなかったからである。
また、租界内部には日本人の自治組織があり、現在の魯迅公園、記念館があるところは、射撃練習場であった。
また、射撃訓練場の南に日本海軍陸戦隊本部があり、蒋介石政権にとっては介入することが出来ない場所であった。
注1(横浜橋は日本の横浜橋とはなんら関係ありません。上海語で横は東西の方向に向きを変えること。
浜は水の流れ、用水路、クリーク等をさします。
租界内に横浜路の名称がありますが、人の流れを水の流れにたとえて、転用したものと思われます。
注2「------」で囲まれた部分は金子光晴、どくろ杯、中公文庫、中央公論新社よりの引用です。
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