では、マタイ福音書の他にどんなテクストが使われているかというと、まず気づくのは旧約聖書続編の知恵の書(この書の位置づけについてはこちらを参照)第7章第26節が何回か使われていることです。この節全体の「知恵は永遠の光の輝き、神の働きを映す曇りのない鏡、神の善の姿である。アレルヤ」が第2曲の後半に、第5曲の後半に短い「知恵は永遠の光の輝き」の形で、続いて第6曲に全体が、さらに第12曲の途中に短い形で引用されています。マタイ福音書における光が知恵と結びつけられて、リフレインのようになっているんだろうと思います。フルートとマリンバなどでゆらめくような光が描写されています。
次に目立つのは6回出てくる詩篇ですが、すべて異なった箇所からの引用です。マタイ福音書と関連しながら、音楽に彩りを与えているんじゃないかなと思うので、個別に説明しましょう。
第3曲の前半は詩篇第77章第18節からで「稲妻は世界を照らし、地は震え、揺れ動いています」で、光のイメージを展開させたものと考えられます。ここではお約束のような稲妻と地震を描写した音楽を聴くことができますが、ヴェルディの怒りの日のようなゴージャスで親切な音楽を期待してはいけません。
第5曲の前半は第84章第1~3節から一部省略して引用され、「あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。わたしの魂は主の庭を恋い慕って絶え入らんばかりです。私の心も身も、生ける神に喜びの歌を歌います。……あなたの祭壇に……私の王、私の神」となっていて、直前のぺテロが言った幕屋を受けた内容になっています。それだけでなく、テクストではカットされた箇所には「雀さえも、住みかを見つけました。つばめもひなを入れる巣(=神の祭壇のこと)」という記述があって、音楽では鳥の声が聞こえ、いかにもメシアンらしい内容になっています。ここはチェロのカデンツァで知恵の書につながります。
第7曲では第48章第1節からで「主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。その聖なる山、われらの神の都において」となって、第1部の終わりにお話の舞台の山を再度印象付けたコラールになっています。
第12曲の最初に第104章第2節から短く「あなたは光を衣のように着て」が引用されていますが、これはその後のトマス・アクィナスの「神学大全」からの「キリストの衣服の輝き」を導き出す役割があるんでしょう。
第13曲の最初では第43章第3節から「あなたの光とまことを送ってください。彼らはわたしを導き、あなたの聖なる山、あなたのお住まいに連れて行ってくれるでしょう」が使われています。光と山と住まいという関連するイメージが出てきますね。
第14曲では第26章第8節で「主よ、わたしはあなたのおられる家と、あなたの栄光の住まうところを愛します」が使われています。これもペテロの言った幕屋の示唆を受けて神の栄光とつなげたように思えます。この締めくくりの音楽はソロ楽器も打楽器群も沈黙した中で、声楽のヴォリューム感で盛り上がっていくなかなかいいコラールです。ピッコロがやや耳障りなほど鳴りますが、高い山の鳥のような感じです。
さて、ここまでで述べたマタイ福音書と知恵の書と詩篇からの詩句によってこの曲の骨格は形成されています。第1部ではあと第2曲の前半がフィリピ人への手紙第3章第20~21節からの「主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ姿に変えてくださるのです(reformabit corpus humilitatis nostrae configuratum corpori claritatis suae)」という引用が「姿」"figura"で①の部分からつながります。また、第3曲の後半はヘブライ人への手紙第1章第3節からの「イエス・キリストは神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れである(figura substantiae ejus)」という引用で、光のイメージや"figura"が現れています。
これに対して、第2部はかなり様相を異にするテクストが含まれていて、トマス・アクィナスの「神学大全」からの引用とイエスの変容の祝日の祈りなどからの引用がかなりのヴォリュームを占めています。変容についての神学理論面からのアプローチと実際の礼拝との関連性といったことが第2部の大きな要素となっていると一応理解しておきます。
名前のみが知られている観のある「神学大全 Summa Theologica」の一般的な構成について少し紹介すると、例えば「父なる神が『これはわたしの愛する子』と言ったという証言は適切なものではなかったのではないか?」といった異論を立て、それに対してトマスが反論していくというスタイルで書かれています。つまり古代ギリシア以来の哲学論争の系譜につながるもので、神学書というと想像しがちなありがたいお説教が一方的に書かれたものではありません(それだけに相当理屈っぽい代物で、これを音楽をつけようという発想にはちょっと驚きますが)。
その第3部第45問が「キリストの変容」に関する異論と反論に当てられていて、こちらに原文(とチェコ語の対訳)が、こちらに英語版がありますから見ていただければいいんですが、さっきの異論はその第4節です。……で、メシアンは第9曲の全部をこの第4節のうちの"Respondeo"("I answer that")から始まるかなり長い個所を若干の省略をしながら使っています。そのポイントだけを紹介すると「キリストの変容において、来るべき神の栄光が予め明らかにされており(in transfiguratione autem praemonstrata est claritas futurae gloriae)」、「神のみがキリストが間違いなく自分の子であることを完全に認識している(solus est perfecte conscius illius perfectae generationis)」ということになるでしょう。この"generationis"をどう訳すかはむずかしいものがありますが、さっき見たようにここのテーマは神がイエスを自分の子と認めたのかどうかですので、その回答だということをはっきりさせるために血筋といった意味合いで上のように訳しました。英訳・仏訳ともに"generation"、独訳は"Zeugung"となっていますが、日本語で「完全な出生」ではちょっと意味不明かなと。……で、ここは音楽としてもかなり特徴的で、鉦がチャーンチャーンと鳴って、チューバが太く荒い音を出したりして、まるでチベット仏教の音楽のようです。実際にもテクストに聴衆の注意を引き寄せる意味合いがあるんだろうと思います。しかも全曲中最も長く、CDでは17分かかり、チェロの短いカデンツァが何回か挿入されています。
次にさっきちょっと触れたところですが、第2節の3番目の異論の「体だけならまだしも服まで輝くのはおかしいじゃないか」(要はそういうことでしょうw)への反論の一部です。テクストは「キリストの体の輝きは彼の未来の輝きを表し、その衣服の輝きは、キリストによって乗り越えられる聖者たちの未来の輝きを表している。まるで雪の輝きが陽の輝きによって乗り越えられるように(claritas vestimentorum eius designat futuram claritatem sanctorum, quae superabitur a claritate Christi, sicut candor nivis superatur a candore solis.)」といった内容で(この反論に説得力があるかどうかは私は知りませんが)、やはり光のイメージの修飾として第12曲の一部に用いられています。
第13曲の最後の部分で用いられているのは、第4節の2番目の「福音書では神の声と同時に聖霊が鳩の形で登場するのに、この変容の場面ではそうなってないのはおかしい」といった異論への反論の一部で、「2番目の再生の秘蹟であるキリストの変容では、三位一体全体が現れている。すなわち、声としての神、人としての子、輝く雲としての聖霊である(in transfiguratione, quae est sacramentum secundae regenerationis, tota Trinitas apparuit, pater in voce, filius in homine, spiritus sanctus in nube clara)」です。ここも"secundae regenerationis"がわかりにくいですが、洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けたときに「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マタイ福音書第3章第16~17節)ことを踏まえて、トマスが洗礼をイエスの最初の再生の秘蹟と言っていることに対応してのものです。この箇所は最後のコラールの直前に置かれていることやトマスの引用が3箇所あることから言っても、おそらくメシアンの変容に対する神学的理解のエッセンスだろうと思います。蛇足的に言えば鳩が出ないなんて失敗した手品みたいな話ではなく、変容の場面においても正しい三位一体が現れているようにトマスが聖書を解釈し、かつ"regeneration"(生まれ変わったこと、宗教的な覚醒と理解してもいいでしょう)と位置づけたのにメシアンは共感したんでしょう。……ここの音楽も第9曲と同じようなイメージになっています。
イエスの変容の祝日(8/6だそうです)の祈り(Oratio)は、第10曲に置かれてその直前の「神学大全」の内容と関連して、チェロに先導されるようにして始まるもので、変容において神が自分の息子だと認めたことを讃えるとともに、それが複数形になって信者すべてが神の子とされているようです。カトリックのお祈りなんてあまり知られていないでしょうから、神頼み的な感じの出ている最後の部分だけ挙げてみます。「お慈悲ですから、我らを栄光の王の遺産とその栄光の分け前にあずからせてください、アレルヤ、アレルヤ(concede propitius, ut ipsius Regis gloriae nos coheredes efficias, et ejusdem gloriae tribuas esse consortes. Alleluia, Alleluia)」
次に第13曲の前半には変容の賛歌(Hymnus)と序誦(Praefatio)が先に見た詩篇43章に混ぜ合わされるような感じで出てきます。「キリストを求めるあなたたちすべては目を高く上げよ。そうすれば主の永遠の栄光を見るだろう(Quicumque Christium quaeritis, Oculos in altum tollite: llic licebit visere Signum perennis gloriae.)」や「もし見える神を認識すれば、見えない愛に魅せられる(dum visibiliter Deum cognoscimus, per hunc in invisibilium amorem rapiamur)」というように信者の側が「見る」(おそらくひれ伏した弟子たちが顔を上げてイエスを見たことと関連してるんでしょう)ことが強調された内容が選ばれていて、それがトマスの示した変容の真の姿である三位一体を「見る」ことにつながるという構成だろうと思います。
テクストで紹介していないものがもう少しだけあります。第12曲もいくつかのテクストが混じったような構成ですが、その1つはルカ福音書第4章第14節というよりもミサの通常文として有名な「Gloria in excelsis Deo いと高きところに栄光が、神にあるように」があり、音楽も"Gloria"にふさわしいものです。もう一つは創世記第28章第17節の「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」で、神の家(domus Dei)が終曲につながっているんでしょう。合唱が"Terribilis"おそれおののくような叫びを挙げます。
では、これまで述べたことを曲順に簡単にまとめてみます。テクストはすべてラテン語ですが、マタイ福音書に係る曲と2つのコラールの標題だけがフランス語になっています。たぶん標題はメシアンがつけたんでしょう。
<第1部>
Ⅰ RECIT EVANGELIQUE(福音書叙唱)
マタイ福音書①:山上でイエスの顔と服が光る。
Ⅱ CONFIGURATUM CORPORI CLARITAS SUAE(キリストの栄光ある体と同じ姿に)
フィリピ人への手紙:キリストは我々を同じ姿にしてくれる。
知恵の書:知恵は永遠の輝き。
Ⅲ CHRISTUS JESUS, SPLENDOR PATRIS(イエス・キリストは神の栄光の輝き)
詩篇:稲妻が世界を照らす。
ヘブライ人への手紙:キリストは神の栄光の輝き。
Ⅳ RECIT EVANGELIQUE(福音書叙唱)
マタイ福音書②:キリストがモーセとエリヤと語る。ペトロが3つの幕屋を提案。
Ⅴ QUAM DILECTA TABERNACULA TUA(あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう)
詩篇:あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
知恵の書:知恵は永遠の輝き。
Ⅵ CANDOR EST LUCIS AETERNAE(知恵は永遠の輝き)
知恵の書:知恵は永遠の輝き。
Ⅶ CHORAL DE LA SAINTE MONTAGNE(聖なる山のコラール)
詩篇:聖なる山で主を讃える。
<第2部>
Ⅷ RECIT EVANGELIQUE(福音書叙唱)
マタイ福音書③:光る雲が弟子たちを覆い、「これはわたしの愛する子」という声が聞こえる。
Ⅸ PERFECTE CONSCIUS ILLUS PERFECTAE GENERATIONIS(完全に神の子であることの完全な認識)
神学大全:変容において、神はキリストを自分の子だとはっきり認めた。
Ⅹ ADOPTIONEM FILIORUM PERFECTAM(息子たちであることの完全な認知)
変容の祝日の祈り:変容におけるイエスと同様、我々も神の子として栄光にあずかれるように。
ⅩⅠ RECIT EVANGELIQUE(福音書叙唱)
マタイ福音書④:神の声に恐れる弟子たちにイエスは恐れないよう、また他言しないよう言う。
ⅩⅡ TERRIBILIS EST LOCUS ISTE(ここはなんと畏れ多い場所だろう)
詩篇:あなたは光を衣のように着て。
神学大全:キリストの輝く体は自身の栄光を、衣服の輝きは聖者たちの栄光を先取りしている。
ルカ福音書:高きところに神の栄光。
知恵の書:知恵は永遠の輝き。
創世記:ここは畏れ多い場所、神の家。
ⅩⅢ TOTA TRINITAS APPARUIT(三位一体全体の顕現)
詩篇:光とまことを求め、神の住む聖なる山に行くことを祈る。
変容の賛歌:目を高く上げれば主の永遠の栄光を見るだろう。
変容の序誦:見える神を知れば見えない愛に魅せられる。
神学大全:変容の場面では神=声、キリスト=人、聖霊=輝く雲と三位一体すべてが現れている。
ⅩⅣ CHORAL DE LA LUMIERE DE GLOIRE(栄光の光のコラール)
詩篇:主の家と栄光の住まうところを愛す。
どうでしょうか? だいぶこの曲の見通しがよくなったんじゃないかと思います。少なくともカトリックの知識に乏しい我々としてはこの程度の整理は必要のような気がします。しかし、それで楽しめるものになったかというとそんな気はしません。この曲はジャンルとしてはカンタータの一種なんだろうと思いますし、バッハのそれを意識していると思いますが、ルター以降の伝統に依拠しながらテクストの字句に音楽を鋭敏に反応させるというバッハの行き方からはかなり遠くにあるせいかもしれません。少なくとも人を飽きさせないトゥランガリラ交響曲から20年を経てメシアンは変容してしまったという感じです。
なお、コンサートのブックレットの対訳は、聖書の訳文は新共同訳に依拠したそうですが、少なくともこの曲のラテン語テクストの訳として適当と思えない箇所があったので、変えたところがあります。また、聖書以外のトマスなどの文書の訳文はCDの英訳(これも仏訳には劣るようです)あたりを頼りに訳したと思われる誤訳が多いので、参考に留めました。さらに、出典箇所の誤りも気づいた限りで直しました。
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なんかいろんなものがあるサイトです。
書くのはもっと大変だったことでしょう…
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積極的に聴きに行くことはきっとないでしょうが。
お蔭でその後ブログを書く気力がなかなかわかないという羽目に陥りました