宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。
 藤田幸右 管理人

鍬ヶ崎「防潮堤」(9)あやふやな説明会

2013年11月29日 | どうなる鍬ヶ崎

 わたしは初めて参加した。2013.11.22 宮古市役所6階大ホールに主催者の県庁宮古土木センターおよび宮古市と、主に鍬ヶ崎地区民6~70人が参集した。主催者の徹底した準備不足で説明も質疑応答も低調であった。


 鍬ヶ崎の防潮堤事業の説明会

 次第

1、防潮堤計画について

2、日立浜船揚場の移設(前出し)計画について

3、今後のスケジュールについて

                

配布資料

<表>   

 <裏> 


[配布資料] 市販A4判コピー用紙一枚。裏表白黒印刷。おもて面:表題、会次第、防潮堤位置図。うら面:防潮堤断面図、日立浜船揚場断面図。貧しいペラ紙一枚ですまそうとして文字も数字も小さくて読めない。各図もあまりに大雑把で、これでは説明にならない。知らせたいところも知りたいところも資料からは読み取れない、というより、資料にはあるべき知見がない。詳しくはプロジェクターの映像からというのであろうがスクリーン画面は誰も見ていなかった。画面はちらちらといそがしく変わって用が足りていない。このような文明の利器は主催者側の内部の打ち合わせや説明には有効であろうが、主権者住民に対する説明には実も効果も無効である。そのようなものは持ち込まないでいただきたい。配布資料に戻って、これでは鍬ヶ崎の命運を説明する資料としては貧弱すぎて、あまりにも情けない。絵の意味が読めないばかりか寸法も読めないのだ、主催者は鍬ヶ崎地区の100年先き200年先きの防災、景観、産業の事を本当に考えているのか?! と詰問した。黙って下を向いたようであったが出直してくると反応したようでもあった…


 

こんな説明や質疑応答の空虚さで鍬ヶ崎の防潮堤が建設されるとはとんでもない、という実感。

 

詳しくは次ページにゆずるが、突然のような事業計画の説明では出席者は取りつく島もなかったように思われた。震災後2年も鍬ヶ崎地区復興まちづくり検討会で説明されてきた防潮堤の位置「変更」の説明を求めたがあやふやな説明しか返ってこなかった。鍬ヶ崎防潮堤の高さ10.4mの合理的な説明もなし。明治津波の宮古湾奥の遡上高が10.4mだった、から、という。何のこっちゃという反応。

 

日立浜の船揚場については、専門的な事を何一つ専門家(当事者=漁師)と事前協議していなかったのか? あるいは深く合意済みなのか? 唐突な内容の質問や突然の内容の意見が多く出ておどろいた。後述

 

今後のスケジュール説明の一応の準備もあったようであるが、鍬ヶ崎・光岸地の区画整理や閉伊川水門の延期延長もある現実ではスケジュールの説明の意欲もあるべくもないという状況であった。



(10)につづく

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