大川周明
対満無政策の暴露
張作霖が早かれ遅かれ没落することがわかりきって居たことだ。特に田中内閣は満蒙積極政策を標榜し、二度までも東方会議になるものを開いて、満蒙問題の解決はちゃんと胸の中にあるやうに見せかけて居たから、あやしいと思ひながらも万が一の望みをかけて居った。
ところで爆弾事件の突発によって、これもまた世間をごまかす吹聴で、立案も腰も座っておらず、満蒙問題に対して全く無方針であったことが露顕してしまった。
吾々はあの号外を手にした時、現内閣はこれぐらいの変に応ずる方針が、とうの昔に確立して居るものと思った。それは誰も思ひ設けぬ急変が起こったのではなく、有り得べきことが実現したに過ぎないからである。
しかるに政府の狼狽はどうだ。緊急閣議を開いてこれから方針を極めようという沙汰だ。周章どころか、堂々として予ての方策を断行するだろうと待設けて居た吾々は、あいた口が塞がらぬという始末である。
さて然らば泥棒見てからなひ始めた其縄はどんなものかと見れば、第一にはいざという時はポーツマス条約で認められた最大限度の兵を出すこと、第二は内政に干渉せぬこと、第三には満州は広いから散在せる邦人を集注して保護することと云ふのだ。これだけのことなら決して田中内閣を煩わすまでもない。民政党だってこれ位のことはやるであらう。
殊に不思議なのは、支那本部に於て現地保護主義を固執してきた政府が、満州と云ふ肝心のところでこれを放棄したことだ。田中内閣も斯様な有様では、私利には横着至極、公事には臆病至極と言われても仕方なからう。(斯禹)
(以上、『月間日本』第四四十号、昭和三年七月)
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