日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井孝著『裏から見た支那人』 賄賂の國

2024-03-13 12:07:59 | 中国・中国人

      
    笠井 孝著『裏から見た支那人』    

 


 
   賄賂の國 

 吉良上野介・・・・・無給のコック・・・・・門錢・・・・・外水
・・・・・中飽・・・・・技師長・・・・・三方が五圓・・・・・釐金局
・・・・・警官の儲け口 

〔吉良上野介〕
 支那は米國と共に、有數なるコムミッションの國である。
何事にも手數料と、袖の下は當然である。

支那人は、他人から、物を贈られた時は、先づその物の値踏みをする。
『これは五圓の品物であるナ。
では自分は、五圓がとこだけ、彼れに厚意を表すれば善い』と、
ここまで考へて、ハテこの男は、何を頼みに来たらうか。
何は兎もあれ、五圓がとこ好意を表しようと、斯う云ふ態度で、人に接するのである。
  
 假りに某商が、某大官に手土産を持って、訪問したとする。
『ハハアこの男は石炭屋だナ。それならば石炭の買上げにいて、頼みに来たのだらう。
 宜しい。魚心あれば、水心で遣って見よう』と、
先づ彼れの第六感が働く譯なのである。

 支那では、贈物も、単なる好意ではなく、一應の商取引である。
日本にも、吉良上野介のやうなのがあるけれども、支那の上野介は、一層悪辣である。
 
 三十三年北清の役に、西太后が、西安に蒙塵せられた時、
或る日某縣に泊られたが、取巻き連に對する知縣から袖の下が、足らなかった爲め、
その晩西太后の御飯には、シコタマ鹽が入れてあった。
知縣は、不注意の故を以って、早速首になったことは、云ふまでもない。 
   
  
 官吏に袖の下は、ツキものである。
 彼等が苦勞して書を讀み、
その上で、官吏の試驗を受ける爲めに、
數千圓、乃至一萬、二萬の金を纏めて、上司に奉るのも、
我が身可愛さの故ではあるが、
困った習俗であることに、議論の餘地はない。
清朝の末年まで、支那の官吏になるには、表面上は、試驗制度になって居ったが、
裏道は、賄賂と、縁族と、買官であった。
 
 多分の金を出して、一つの官にアリつくのであるから、
一日も早く、その資本を囘牧する爲めに、
官吏共が有りと有らゆる賄賂を遣るのに、何の不思議もない譯である。
 
   
〔無給のコック〕
 支那では、ポーイ、コックは、殆んど無給に近い料金で、働く習慣であるが、
これは給料の外に、収入があるからである。

 コックは、買物の一割の上前を、ハネるのは通常であり、
日本人や、支那の大官のコックが、
米麥の資を誤魔化すことは、餘りにも有名な事實である。
 
 支那の習慣として
『大官はその勝手もと(臺所)を覘かない』と云ふのが自慢である。
從って料理人達の誤魔化すことも、手に人ったものである。
 
 支那人コックが、一番喜ぶのは、日本人の奥様連中である。
一ケ月に、米を、六斗も、八斗もたべて、魚屋の拂ひが百元からあっても、一向平気だから、

一番相手にし易いと云って居る。

 だから日本人は、モツと臺所をシメてかからなけりや、
支那での發展なんか、六づかしいことである。

 ボーイの如きは、古新聞、空瓶は勿論、
時として、米やら、石炭まで特出して、密かに自分の収入にする。
また不思議に、バケツ一杯の石炭でも、
チャンとそれを買取る専門の買受屋があるのだから、
流石は抜け道だらけの支那ではある。
 
 
〔門錢〕
 大きな住宅、役所などは、門番が出入の商人から、上前をハネることが、當然であって、
北京辺りでは、これを門錢(門包)と称して居る。

 出入の雑貨屋とか、反物屋とかなどから、
買上げの都度、買上高の一割なり、五歩なりを、
頭をハネることが、恒例になって居る。
それからさらに面白いのは、何事にも酒手(酒錢)が要ることである。
 
 例へば私が、自家用の俥に乗って、果物を買ひに行くとする。
車夫は、必らず帳場に行って、鋼貨の五枚か、七枚をセシめる。
曰く『オレがこの旦那を、連れて米たからこそ、
 お前の果物が売れたのではないか。割前をヨコせ」と云ふなのである。
 

〔外水〕
 田舍を旅行すると、ポーイは、
外水(給料以外の収入)と称して、色々な着服や、誤魔化しを遣る。
先づ第一に、宿に泊ると、彼我の間に立って、宿賃を決めて、その差額を着服する。
 
 籠とか、馬車とかを雇ふと、これ等の賃金の中から、
一圓なり、二圓なりを、彼等から手数料として頂戴する。
遣る方も、取る方も、それを当然な収入として、敢えて怪しまない。 
 
 從ってボーイ等の給料は、極めて安いか、
或いは支那人の家庭などでは、全く拂はないものすらある位である。
 
友人を、何處かのボーイなり、小役人に周旋する際には、
その手数料として、月々給料の一割位を、上前としてハネる約束をする。
現に私の貧弱な田舎出のボーイの如きすら、友人を近隣へ周旋をして、
月々一圓餘りづつ、世話役料を買って居った。

 さらに私の某知友は、三軒の借家を特ち、
その外に、四人の小役人を周旋したので、
月々この方からも、二十圓餘りの収入があると喜んで居った。
 
 
〔中飽〕
 支那人の口銭(中飽)制度は、あらゆる階級に、行なはれて居る。

 先年漢口の兵工廠に、日本の某大商店から、石炭を納入したことがある。
一トン十二元で契約したに拘はらす、
會計主任から十三元五十仙として、受取證を出すことを要求せられて、
英國歸りの支店長は、慌てて私に相談に来たものである。

 奇怪は、それだけに止まらす、さらにイヨイヨ現品を納入する段になって、
兵工巌の門番は、通門料として、トン當り十仙宛の酒類を要求し、
さらにカンカン秤りの主任者達は、秤量の手数料として、
別にやはりトン當り十仙宛の酒錢を要求する。
 
 最後に構内苦力は、その石炭を下す代錢を要求し、
今後も、お前の處の物を買ってやるからと云ふことで、
イクラかの酒錢を要求されたので、結局トン當り十二元五十仙ばかりになったが、
この外に、先方の會計方は、十三元五十仙で買った風をして、
官金を誤魔化したこと勿論である。
 
  
〔技師長〕 
 さらに今一つ、これと同じやうな例がある。
上海の某石炭商が、その石炭を、支那側に納入するに方り、
先づ會計方、ついで門番、現場監督から、それぞれ、イクラかの酒錢を要求され、
イヨイヨ、最後に技師長からも、トン當りイクラかのコムミッションを要求されて、
とうとうソロバンが合はないので、契約破棄の已むなきに至ったことがある。

 武器の売込みでも、機械とか、米とかの取引をでも、
その幾割かは、これを仲間の取扱者、関係者一同に分っのが、習慣である。

 曾て民國十三年(1924年)ごろ、
奉天に無線電信を建てる爲め、
某國側、日本、それからオランダの某會社から、入札したことがある。

 日本は七萬圓、オランダは十二萬圓、某國は確か十七萬圓であったが、
某國側は、開係者に對して六、七萬圓のコムミッションを贈った爲めに、
譯もなく十七萬圓の方に、決定したことがある。
入札と云ふのが、これなのだから、妙な入札もあればあるものである。
 
 先年ハルピンで、電燈會社を始めようとしたら、
ハルピンの長官飽貴卿は、十萬元を酒錢として要求した。

 民國六、七年の西原借款や、参戰借款が、何處へ消えたかは、世界周知の好例である。

  支那では、或る事件の成立の裏面には、常に相當な袖の下を必要とする。
これは支那人を扱ふに、大切な要訣であることを、忘れてはならない。
 
 昭和八年(1934年)フランスは、
正太線借款延長に、交通總長へ三百萬フラン贈ったとて、
顧孟餘は、監察院から弾劾せられたものであるが、
弾劾する方が、間違って居るとしか考へられない。

 それほど支那人の金に對する考へは、徹底して居るのである。

 だから、汽車の寢臺は、
ボーイに、一、二圓掴ませるませると、容易に空席を發見し得る。
その方が、ボーイも儲かるし、御客様も儲かるではないかと、平気である。   
 
 昭和五年ごろ吉林、北平間の發行車は、
寢臺用毛布に、一組ごとに錠前をつけて、秦代券と、引換えへにしたのは、
斯る習慣を防止する爲めであったが、
これすら終ひには、何うやら抜け道を考へて、
毛布を別にボーイが、賃貸しすることになった。 
 

〔三方が五圓〕
 曾て山東鐡道で、汽車の切符を盗んで、売りに來た二人連れの支那人があった。
 彼れは
『この十五圓の切符を、十圓で買へ。
 然うすれば、我々二人は五圓儲かるし、
 あなたも五圓儲かる。
 三方五圓宛儲かるではないか』と云ったので、
思はず笑はせられたことがある。

 汽車に乗って、一等車あたりでは、部屋のない時、
一元出せばボーイが、ニヤリと笑って、すぐ部屋を一つ準備して呉れるのは、
餘りにも有り触れた常事である。

 鐡道當局は、時々これを八釜しく取締りを始めるけれど、
不思講に、間もなく、また元の通りになるから面白い。

 上海の電車には、時々監督が乗って、檢査をするが、
それでも車掌は、お客と馴れ合ひで、使ひ古るしの切符を利用して、
三仙、五仙を誤魔化したりするのを發見して、
我輩も、この車掌君の變通性には、ツクヅク、感心させられたことがある。
 
 商人が、支那の田舍を旅行する時、最も困らされるのは、損税局である。
 漢口あたりから、上流漢水を、船で上るとする。

 仙桃鎮あたりまで出るにも、漢水の所々に、公私の集税局がある。
船をつけて、檢査を頼んでも、『今居ない』とか、『忙がしい』とか、
一向遣っては呉れない。
その内に後から來た船は、先きに檢査を濟ませて、出發する。
 
 つまりコッソリ若干の袖の下を、先づ持参したものは、無事に通過するが、
その他は大抵明日まで待たされて、
オマケに集税吏がやって來て、三ッ又になった鋭利な槍で、
一々荷物を上から突き刺して歩く。
衣類とか、大切な物を持つものは、
巳むを得ず、船客共から、幾何かの袖の下を出すことになる。
 
 
〔釐金局〕
 支那の奥地には、軍隊や、土匪の集税局が、澤山あり、
官吏も色々な名目で、収税法を案出する。

 釐金税(註、リキンゼイ。清代、国内通行の貨物に、その価格に応じて特別に課した税金)は、
外國側の要求で、止めることになったけれども、
支那の要所々々に張られたる釐金の網は、斯くして實質的には、何時撤せらるべくもない。

 関税の改正やら、釐金局の廃止を、
眞面目になって考へて居る外國人側には、この裏の眞相は分るものではない。

 殊に掲子江上流地方では、
今でも色々土匪や、軍隊によって、私設の収税所が出来て居り、
河岸から、不意に發砲して、停船納税を命ずるのが沢山ある。

 支那で、比較的確實とされて居る郵便も、電信も、
盆暮には、公然局員や、配達人が、各戸に酒錢を要求して歩く。

 電報配達の如きは、規則以外に毎回十仙なりを、手数料と称して、酒錢を要求し、
それを遣らなければ、次ぎの配達を、遅れさせられるから、
巳むなく金を遣ることになる。
 
 漢口では、電報局員が、
盆暮には奉加帳を持たせて、寄付を募って歩くので、
三圓、五圓と、取られたものである。

 また私自身は、民國十三年(1924年)上海の郵便局で、
某大商店から、四川の重慶に送るべき小包郵便(内容は確か銀製の煙草入を、十箇宛箱入れにしたものであった)を、
局員が内容検査と称して、
差出しの爲めに来た使用人らしい支那人に、開封させて居たのみならず、
使用人と合意づくで、その一箇を失敬したのを、實見したことがある。

 まだ支那に慣れない當時の私は、
アキれて物が云へなかったことを、今マザマザと記憶して居る。
 
 
〔警官の儲け口〕
 それから支那の警察官であるが、これがまた大變なシロモノである。

 支那人は
『一旦警察の手に掛ったら最後、事の善悪如何に拘わらず、
 若千の袖の下を出さなくては、無事に歸ることは出来ない』と云って居るが、

 警察官は、良民を犯罪にカコつけて拘引し、
幾千かの袖の下をセシめることを以って、本業として居るとしか考へられない。

 無論支那に於いても、英、佛、日各國の疎開警察は、
比較的良好であるが、それでも給料が安いので、
辻々に立っ巡補は、附近の受持区域の商店を、時々巡回して、長話をして、容易に歸らない。

 そこで商人は、一圓なり、五十錢なりの酒錢を、包んで遣るのである。
 
 モヒとか、阿片とかを賣る店からは勿論のこと、
その他の店からも、幾らかづつ貰ふので、
月々のツケ届けが良いと、タマには萬引の一人位は、捕まへて呉れるが、
それが責めてもの彼等の御恩返しであらう。
 
 昭和五、六年、天津日本租界の巡捕が、
白河の岸を通過する荷車から、毎囘銀貨一枚宛徴集して居るのを、見たことがある。
本人は、立番して知らぬ顔してをり、ボーイをして、一々徴集せしめて居るが、
一日少くも七、八十仙から、一圓餘りになるさうで、
その遣り方の要領の善いのにも、全く感心させられたものである。
 
 支那の上下を通じて、賄賂公行は當然であり、
また體面を飾る支那人には、種々巧砂なる贈賄方法がある。

例へば賭博に招待して、カケ金を立てかへた風で、貢いでやったり、
ワザと負けて、勝を譲ったり、
この種の贈賄は、上下ともにイクラでもある。

 だから支那で、官吏を数年もやれば、一生の食料には困らない。

 民國八、九年、湖南の督軍であった張敬堯は、三年間に一千萬元を、
港北督軍王占元は六、七年間に、最小限に見ても、三千萬元をタメたと云はれて居る。

 人々が官吏とならうとするのも、無理からぬことであると、云はなければならぬ。

   

 この項目は、金錢に関する記述が、餘り多くなったが、
支那人生活の大半は、金錢欲であり、
一事一物を、對象としないものはないのであるから、
自然斯んな結果になったのである。



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