そこから毎日焼跡へ通って居る内、政府で材木を売ると聴いて買いに行くと、都合よく其日の内に買えて、恰度隣の大工が田舎から帰って来たので、早速建築に掛かり、初めてバラックを建てたところ、近所の人が木の家が出来たと見に来るやら、何程(いくら)位費(かか)ったかと訊きに来た。未だ此家を建て無い前、毎日焼跡へ通って居る際、焼跡の方から小松川の方へ向かって、書生風の男が釣竿を担(かつ)いで釣りに行く姿を見た。之れを見たので竿忠は「これアぐず\/して居る時ぢやア無い。早く竿を拵える支度を仕なくちゃア成らない」と焼け損じた道具に火を入れて焼きを直し、研ぎをかけ、撓木其他の道具を造ったりしたが、焼けた金属製の道具で直らないのが鋸ばかり、之ればかりは駄目。其内に未だ九月だと云うのに、林町の井戸林さんと云う人が竿を誂えに来た。竿忠平気で受け合って居る。材料の竹も無いのに「ヘイ宜しゅう御座います。幾ら\/の竿で何日\/迄に畏まりました」と引受けた。傍らで音吉心配して「お祖父さん、竹も無いのに大丈夫かえ。どうするのだえ」「いゝよ、黙って居ろよ。今に拵えて見せるから見て居ろよ」と夫れから親子三人して持ち山へ行き竹を伐った。夫れをトタンの上に列べて置くと竹の涸れること妙だ、ドン\\涸(か)れてゆく。やがて仕事に掛かった。桶の吊りの針金を持って来て、挽き通しの中を貫いた。並大抵の苦心ぢやア無い。糸巻きは樫の木で造った。今に時折この際に造った名残の竿を見る事がある。之れで初めておあしを頂いた。此時ある竿師は豆腐屋となり、或は外套、或は畳、曰く醤油と、一時は商売を転じられた人が多かったが、おの節に於いては全く前途暗澹として、同う方針を立てゝ進んで良いか、釣竿なぞの需用者は何日に成ったら出て来るのか、復興と云う言葉さえ始まらぬ頃だもの、一面無理からぬ事であったが竿忠見る所があって断然他を見向きもせず、釣竿唯一本槍、まだ余燼の納まらぬ内から竿を造ったのだ。斯うした時に海軍中将の某氏(名を秘す)が竿の注文に来て値を負けろと云ったので、竿忠は怒って「大笑いさせやアがら。海軍中将が中将湯に利きやアしねえや」と受付けなかった。後で先方から誤解したんだろう云々の手紙を寄越されたが、此際だから負けると思ったのだろう。此震災の直後に
焼跡を廻りて見れば哀れなり 火伏せの神は何処にまします
と詠んだが、此歌は神様を恨んだのだから意味が悪い。竿忠自分ながらよろしくないと思ったので取消した。
焼跡を廻りて見れば哀れなり 火伏せの神は何処にまします
と詠んだが、此歌は神様を恨んだのだから意味が悪い。竿忠自分ながらよろしくないと思ったので取消した。