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竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

復興の魁 (前稿からの続き)

2011-09-29 | 「竿忠の寝言」
そこから毎日焼跡へ通って居る内、政府で材木を売ると聴いて買いに行くと、都合よく其日の内に買えて、恰度隣の大工が田舎から帰って来たので、早速建築に掛かり、初めてバラックを建てたところ、近所の人が木の家が出来たと見に来るやら、何程(いくら)位費(かか)ったかと訊きに来た。未だ此家を建て無い前、毎日焼跡へ通って居る際、焼跡の方から小松川の方へ向かって、書生風の男が釣竿を担(かつ)いで釣りに行く姿を見た。之れを見たので竿忠は「これアぐず\/して居る時ぢやア無い。早く竿を拵える支度を仕なくちゃア成らない」と焼け損じた道具に火を入れて焼きを直し、研ぎをかけ、撓木其他の道具を造ったりしたが、焼けた金属製の道具で直らないのが鋸ばかり、之ればかりは駄目。其内に未だ九月だと云うのに、林町の井戸林さんと云う人が竿を誂えに来た。竿忠平気で受け合って居る。材料の竹も無いのに「ヘイ宜しゅう御座います。幾ら\/の竿で何日\/迄に畏まりました」と引受けた。傍らで音吉心配して「お祖父さん、竹も無いのに大丈夫かえ。どうするのだえ」「いゝよ、黙って居ろよ。今に拵えて見せるから見て居ろよ」と夫れから親子三人して持ち山へ行き竹を伐った。夫れをトタンの上に列べて置くと竹の涸れること妙だ、ドン\\涸(か)れてゆく。やがて仕事に掛かった。桶の吊りの針金を持って来て、挽き通しの中を貫いた。並大抵の苦心ぢやア無い。糸巻きは樫の木で造った。今に時折この際に造った名残の竿を見る事がある。之れで初めておあしを頂いた。此時ある竿師は豆腐屋となり、或は外套、或は畳、曰く醤油と、一時は商売を転じられた人が多かったが、おの節に於いては全く前途暗澹として、同う方針を立てゝ進んで良いか、釣竿なぞの需用者は何日に成ったら出て来るのか、復興と云う言葉さえ始まらぬ頃だもの、一面無理からぬ事であったが竿忠見る所があって断然他を見向きもせず、釣竿唯一本槍、まだ余燼の納まらぬ内から竿を造ったのだ。斯うした時に海軍中将の某氏(名を秘す)が竿の注文に来て値を負けろと云ったので、竿忠は怒って「大笑いさせやアがら。海軍中将が中将湯に利きやアしねえや」と受付けなかった。後で先方から誤解したんだろう云々の手紙を寄越されたが、此際だから負けると思ったのだろう。此震災の直後に
焼跡を廻りて見れば哀れなり 火伏せの神は何処にまします
と詠んだが、此歌は神様を恨んだのだから意味が悪い。竿忠自分ながらよろしくないと思ったので取消した。


復興の魁 (前稿からの続き)

2011-09-26 | 「竿忠の寝言」
小名木川えお渡ろうとすると、空から女物の黒襟の掛かった、裾の焼けている大島紬の着物が落ちて来た。之れ幸いと頭から引被り、この近所で塩せんべいを買い、子供達に喰わせてやるのだと片手に抱えて、のこ\/と砂村の川口屋へ着くと仁三郎始め女達ちは来て居無い。心配して心当たりを捜したが判らず、兎斯うする内日が暮れ、川口屋へも火が移った。それから大島寄りの砂村へ逃げた。在る家の前迄来て休んでいたが、江東方面の空は真赤に染まって此の辺迄飛んでくる固まった火の子、風の唸りに混ざった轟々の響の声は、阿鼻叫喚の地獄の悲鳴だ。いやどうも物凄い有様にまだ暑い時分だのに身内も凍ると思われるばかり。其処の家でも家内一同皆戸外へ出て夜明かしをしている。幸いにもそこは焼けなかった。永い\/夜は明けた。何うもお世話様になりましたと、分かれようとすると、お前さんたち、これから焼跡へ帰っても何にも食べ物が無いでしょう、私の所で、お汁(つけ)で飯でも食べておいでなさいと親切な言葉に。折角の御好意を受け二人共に馳走になった。お名前を拝見すると小菅徳松さんと云うお方の家。さて焼跡へ来て見ると無残や灰も殆ど無い位だ。以前は庭が広かったから、そこで早速拾いだした節抜きの金棒を四方に建て、焼けトタンで周りを囲い、どうやら中へ潜り込める様な小屋の形が出来た。そうしている内に近くの蒲団屋の竹内与吉さんが戻って来た。やはり焼けトタンの小屋を拵えたが、何にしても食べ物が無い。其うち近所の知った女たちも帰って来たが、家の女たちはまだ見えない。又心配し始めた。時に腹が空いたがと、米屋の焼け跡から少しばかりの米を拾いなぞして、色々の苦心の結果何うやら腹も出来た。音吉が前の下水で顔を洗おうと思い手を出すと、水の中からプックリと芋が浮上がって来た。これは/\とばかり其処を掘って見ると、ひ芋が約一表分も出た。其処は芋屋の焼後だ。すると近所の人が魚屋の焼後から鮪のどての完全(そっくり)したやつを拾って来た。之れは井戸の中へおっぽり込んで置いた物がうまく助かったものだ。夫れを刺身にして振舞って呉れたが竿忠も喜んだ。やがて二日之日も暮れかゝったのに、まだ依然として二三郎の消息は無い。竿忠居ても立っても寝られない。音吉は前からの疲れで小屋の内で眠って了った。傍らで竿忠寝ようとしても寝入られず、音吉の寝顔を眺めて深い吐息をつき、暫く考えに沈んでいたが「有り金は全部仁三郎に持たせて遣り、俺達二人は裸一貫。是れから先音吉に戸板の上へ飴菓子を並べて売らせるようでは、これ迄に苦労して来た竿忠の名前に対して恥ずかしい。又御先祖様にも済まない。頼りに思う伜の仁三郎なんぞも今だに何の音沙汰無い処を見ると、多分助かっては居るまい。彼(あれ)等が死んで了ったんでは、もう竿忠もお仕舞だ。後々惨めな恥を忍ぶより、一つ思い切って可愛い孫の音吉を、此刀で一ト突きに殺して了って、返す刀で俺も腹ア切って死んで了おう」と決心した。よく//考えての上、思案に思案を重ね、早まってもいけぬと又ぢッと考え直して居る内に、東が白んで来た。普段ならばコケコッコウとか東天紅とか鶏が啼くのだが、今はその鶏さえも焼死んで、虫の子一匹も居ないだろう。今日は早くも震災第三日だ。ヤア二三郎だ、仁三郎が戻って来た。トクマア無事で居て呉れた。何処に居た、越中島へ非難して居て一同無事との事に、今が今迄の心配も一時期に晴れて蘇生した様な心持ち、親子三人互いに手を取り合って男泣き、竿忠の考えでは、家の者で仁三郎は女房や四人の娘を庇って助からないかも知れぬが、総領のいね丈けは何うにかして助かって居るだろう。夫れにしても昨日一日中の心配苦労は何だったか、先ず之れで安心した。一方でも又二三郎は父と伜の安否気遣って、早く戻って尋ねたかったのだが、女達丈置いて来る事が当時の状況(ありさま)としては不安で夫れが出来無かった。夫れだけ一層心の内では苦しかった。引返して一同をつれ、皆無事な顔を見合ったのでお互いが安心して、小さなトタン小屋へ入って先ず納まる事に成った。其内に五ッ目の山田庄之助さんと云う竿忠昔馴染の人が来て「お爺さん\/大事なお爺さん、斯んな処に居て眼でも悪くしてはいけないから、私の家の方へ来て呉れ」と云われ、二代目と音吉とを後とに残して女達一同も共に其家へ引移った。   (この稿続く)

復興の魁

2011-09-20 | 「竿忠の寝言」
復興の魁
柱暦(カレンダー)は八月三十一日、一枚捲り取った今日は九月一日、土曜日で八白先負(せんおう)ひとの未(ひつじ)、旧暦の七月二十一日、朝から天気不良、雨に加えて強い風、何となく気持ちの良くない日だ。夫れが十時頃には忘れたかの様な快晴に成った。先ず此分では結構なお朔(ついたち)だと、何時も遅い朝飯を殊更遅くになってから始め、茶を飲み乍四方山話、今晩は裏の常磐津のお師匠さん処で林町の柳さん達と皆して騒ごうかなどゝ話をしている竿忠の家、音吉は朔(ついたち)休みで此日は日頃の寝坊に似ず割合朝早くから眼が醒めたが、生憎の雨で其の其侭起きもせず蒲団の上に寝そべって居たが、天気のなると直ぐ浅草の電気館へ一人で活動見物に行って来ますと飛出した。昨日の正午(どん)に合わせた時計はカッチンカッチン、今正に十一時五十杯分。此の時だ、俄然彼の凄惨を極めた大正十二年の関東大震災が起こったのは。此際、此際と云う言葉が夫れから当時流行ったが、まだ流行らぬ本当の此際だ。二代目の妻は四畳半の隅、常に竹が置いてある処へ、二十三貫六百目と云う肥満した身体を、どっかりと据え込んで、娘達に向い「いやね、皆んなも早く此処へお出で、此処なら竹があるから大丈夫だよ」と云ったから、娘達も其処へ座り込もうとした時に、竿忠は之れを見て大声で「馬鹿ア、今日の地震は常(いつも)とは違うから其処に居ちゃア駄目だア。竹藪じゃアねえや、早くこっちへ来い」と呶鳴られたので、一同周章狼狽(あわてふためき)、表の庭の方へ飛び却(の)くと、又一揺れ二揺れすると思う間もなく、平屋建ての家屋はガラ/\メリ//と大音響と共にぶっ潰れた。恰度幸いにも一方は瓦で一方はトタン屋根であって、夫れが左右に分かれて潰れたので、誰も怪我も無くホッと一息ついたが、余震は後から/\続いて安心出来ない。四辺(あたり)は砂埃で濛々、竿忠は孫の音吉の安否を気遣って、夫ればっかりが心配だ。処へ浅草から途中二箇所も火災の中を潜り抜け、息せき切らして無事に帰って来た見れば我が家はペッチャンコ、家族は皆頭から埃で真白、音吉の顔を見ると姉は往来中(なか)で手をとって暫しオイ/\と泣いている。其内にどうやら少し落着いて、少しづゝ始末を始めようと、竿忠は麻のジンベイ一つで、潰れた家の下から竹を引張り出しては一生懸命整理をしている。此時竿忠は金銭も宝も何も忘れて、唯日頃から丹精の竹より外の考えは少しも頭に無かったのだ。二代目は娘達を手伝いに、建直す際に使うのにと屋根の瓦を一枚づゝ御苦労様に片付けて居る。然し一同の頭からは驚怖の念が去ったのではない。だが幸いに音吉は今年十九の歳若だけに、他の者よりは幾分頭が冷静であったから「お祖父さん、そんな事をして居ないでサ。今に火事にでも成ったら仕様が無いよ」と云うと初めて、竿忠もそうかと気付いて、屋根を捲り、天井を破って、仕切り帖、預金帖実印と認印、有金を取り出して、之れを悉皆二代目の身に着けさせた。其の内に各所に火の手が揚り、段々と近くなった。今の内に女達を逃がそうと夫々身支度させ、先ず銘々に足袋を履かせ、赤の飯でお握りを造り、水差しに水迄入れてこれを持たせ、二代目が引連れて一トまず先に避難させる事にした。別けて二代目の先妻は前にも云った通りの人並み勝れたおでぶさん、だから竿忠一層心配し「御前達は風上へ逃げろ。落着く先は砂村で、海よりの方へ逃げろ」と云い含め、後には竿忠と音吉の二人。そこで音吉は大事な観音様の像をシッカと肌に着け、着物の上から半纏を着て、祖父に鎧櫃の中から、昔の刺しッ子を出して着せ様とすると、竿忠何としたか頑として着ない。麻のジンベイ唯一に三尺帯、向う鉢巻素足だ。用意の一腰擢り出して、暫く其処に突立ていたが、何と思ったか潰れた家の下から三味線一丁を擢り出して之れを背中に背負い込んだ。まるで大津絵か鳥羽絵の様な姿だ。流石に我乍ら可笑しいので残念乍ら其処へ叩き付けて了った。音吉は其辺を引掻廻して台所の辺から昆布を見付けて缶に入れ、次にマッチと鎧通しを一振り、懐に入れた。火はそろ\/廻って来た。名残は尽きぬが立退く事にした。誰しも御同然の事ながら今にして思えば、皆慌てて居たものだ。各博覧会の褒状賞牌、黒田さん始め其他の貴重な書画骨董類、充分に持出せたものに、幾ら冷静であったと云え其処迄は気が届かぬ。五六軒先の潰れた家の上に乗っかり「音吉、今に内では大きな音がするぜ。何しろあれ丈の竹が破裂するんだから。一つどんな音がするか見て居ようぜ」と見て居る内に、火が附いたかと思うとポン\/\/\/物凄い音がして、タッタ一ト嘗め、忽ち虹蓮の炎に包まれて、渦巻く煙に見向きも出来ぬ様になって了った。竿忠は一刀を杖に、音吉は三尺の樫の撓木を肩に担ぎ、悠々と国定忠治赤城の山超えと云う恰好で、成るべく人通りの稀れな所をと大手を振って退却、途中百軒の金魚屋の池へ墜落、アイテッテと蚊の様な脛を摺り剥いた。
   この稿続く  

流石の名人も舌を巻く 御先祖様のお陰げ 珍妙な踊り「がに迷う」

2011-09-17 | 「竿忠の寝言」
流石の名人も舌を巻く
或る時三代目の東作さんから「忠さん、是非こゝで振出しの、五本継ぎの竿を間に合わせて貰いたい」「及ばず乍ら、お手伝い致しましょう」と引受けた。五本継ぎの振出しを百本、翌日(あくるひ)直ぐ切組みに行って、三代東作さんの前で切組をした。約二時間内外で百本の切組が済んで家へ持って来た。すると間もなく東作さんが俥を飛ばしてやって来た。「忠さんどうも馬鹿々々敷く、早く切組が済んだが、あれで竿に成るんだか何うだか聴きに来たよ」「アレで確かに竿になります」之れを聴いて東作、安心して帰った。此竿の出来上がった時には流石の三代目東作さんも余んまり早いので驚異の目を見張り、舌を巻いて感心した相だ。父親の貿易当時、腕に覚え込んだ仕事の速い処だ。斯んな仕事に掛けて仕事の速いのでは誰も向う者が無かった。夫れで上手で出来が良いとの定評であったが、芸術的竿になると日限の遅れるのも又有名なもの。

御先祖様のお陰げ 
竿忠は亡父釣音を呼ぶのに御先祖様と称していました。俺が斯うして居られるのも、御先祖様が釣竿師になられたからだ、と口癖に云って居た。三度/\の食事の時に、南無御先祖様戴きますと云う事を死ぬ迄も欠かせませんでした。

珍妙な踊り「がに迷う」
此処は浅草公園の割烹店、一直の大広間、善美を尽くしたお膳に山海の珍味を盛ってズラリッと列んで居る。列席の人々は何れも紋付袴で、改まってはいるが、御一統のの顔は何となく晴れやかにニコ/\として居る。斯う申すと殿方ばかりの様に聞こえるが、ご婦人方も混じって居て、無論袴は穿いていない。余計の無駄口を利くな、イヤ叱り給うな、今日は大正九年の十一月、水本徳次郎さんの御婚礼の御披露宴の席ではないか。左様、左様、然りご尤も様、何にしてもお目出度い席だ。常には出無精の竿忠も、御懇望黙(も)だし難く、晴れの御招待へと出席した。其席には土地一流の美技連中が大勢で、主客の間を取持って居る。祝宴も酣の頃、竿忠一座の方へ進み出て「本日はお日柄も良く、誠にお目出度う御座います。就いては何か御祝儀と存じまして、私が水本氏の十八番「香に迷う」を、虫の蚊に擬(なぞ)らえて踊ります」と身繕いして立ち上がった。何しろ年配の人が踊ると云うので腕っこきの婆さん芸者が、三味線抱えて乗り出した。すると水本さんの御隠居さん、現在は湯ヶ原の隠居、梅園に閑日月を楽しんで居られる方が「忠さんが蚊に譬えて踊るなら、私が蚊に濁りを附けて「がに迷う」を唄いましょう」とサア始まった、チレツンシャン「がにまよう、むめがのぎばのにほいどり、ばなにおゝぜをまずどぜの云々」と全部言葉に濁りを附けて唄った。夫れに連れての竿忠の珍妙な踊り、ヤンヤ、ヤンヤ、之れが竿忠二度目の踊りだ、誠に珍な恰好であった。若い頃黒田伯の前で歓喜の余りに踊ったのが蠅の踊り、今度は蚊の踊り、何だか妙な取合わせだ。この水本さんは竿忠の大の贔屓で、随分高価な竿を数々拵えた。彼の大正十二年の震災の年、白木屋の展覧会へ出品された事があった。実に優美と云うか華麗と申そうか、高尚で立派な竿が数々出来たが、惜しいかな震災で焼失されて了った。此の方は立志伝中に於いても稀れに見る人格者、曽て以前、硬質硝子を発明せられ、理、化、医の各学会方面に、多大なる貢献をせられた。此の発明の動機に就いては頗るデリケートな機会から会得されたもので、浅草公園で噴水の落滴状態(おちるさま)を別段何の考えも無く見て居た際に、繁吹(しぶき)に太陽の光線が反映して、虹が現れた。余人は知らず水本氏には、何か此の大自然の現象の裡に得る何物かがあったか、ハタと手を打って、之れが後の大発明のショックと成って、苦心研究を進められたものであるとの事、我々門外漢の窺い図られぬ事だ。斯の様な方だが趣味も多方面に渉って居られる。又御艶聞の方もお持ち合わせがあるとの噂だが、第一の趣味としては釣りだ。釣師としては海川掛けての名士、斯道に於いても勇将として音に響いて居られる。

軽薄のお世辞にあらず

2011-09-12 | 「竿忠の寝言」
軽薄のお世辞にあらず
釣竿師、釣道具商の新年宴会上野の東仙閣で催されるに就て、稲荷町の四代目東作さんと、神田通新石町の亀山テグス商会の代表者藤原見徳さんとお二人連れで竿忠の家へ来られた。申す迄も無く此四代目さんは名家泰地屋の御当主。それから藤原さん、此方はお歳は未だ至って若いが、釣具店では東京で屈指の大商店を御主人が御少年であるから之れを忠実に守護して全国に捗る手広い業務の一切を引受け、全責任を持って背負って立っている方、御自分では「私は亀山の店で育って、お蔭様と釣道具丈は多少分かりますが、釣具の外の事は世間様の事によらず何事も判らん者で青二才の小僧っ子でッ御座います」なんと少しも様子振る処なく、どこ迄も謙遜して居るが、何うしてどうして目から鼻へ抜ける敏腕家、御商売に掛けては元より精力絶倫、対者(あいて)を逸らさぬ円滑親切な外交振り、夫れでいて所謂商人気質と云われる我利我利の利己主義と云う処が微塵も無い、至って気立ての良い方だ。
竿忠も此人の将来に期待する処大きいものがあった。お互いに如才なく「ネエ藤原さん、ザックバランに今日はの挨拶も、抜きに仕様よ」と云う位に気を置かなくて済んだ仲。扨、話はお二人の見えた事になって「オヤ東作さん良くお出になりました。サアどうぞお揚り下さいまし。誠にご無沙汰致しまして申し訳ありません」「イヤお爺さん、私こそご無沙汰して申し訳もありません」と先ず一ト通りの挨拶から、種々(いろいろ)の話の末「竿忠今日在るのは東作さんのご先祖があればこそ、眠るにも稲荷町へ足を向けて寝た事は有りません」と云う事を云った。之れは何も表面(うわべ)丈けのお世辞を述べたのではなく、前にお話しした電車の内でさえ感謝の礼を捧げているのだから真実の言葉なのです。この東作さんの家へは、其先々代が釣音の師匠故、終始出入りして居て其頃は盆暮れには黒砂糖を持って顔出しを仕て居たが、偉人と貿易を仕た為め当時未だ偏見の国粋主義?から東作の逆鱗に触れ、交際を絶つ事になったが、其後は御無沙汰の梩に釣音が亡くなり、永年途絶えて居たお出入りも伜竿忠の代になって復活した。因みに申しますが、二代東作さんは明治十年丁丑二月二十日に歿せられて泰量院豊元道三居士と三代目東作さんは明治四十四年一月三十日に六十二歳で世を辞され、慈雲院秀月道英居士が諡、お寺は何れも浅草阿部川町の延命院、宗旨は禅宗。誠に線香臭い訳ですが、戒名を列べた次手に御参考迄に竿忠の先祖も御披露致して置きます。
釈元成信士 越後屋忠兵衛 明治四年六月二十五日 行年七十八歳(竿忠の祖父にして八歳の時)
釈実元信士 中根音吉(釣音) 明治三十一年六月一日 行年六十一歳(竿忠の父にして三十五歳の時)
お寺は浅草新堀端の善照寺、と斯う申上げると竿忠の寺と違うなと思召す方もありましょうが、竿忠は二代目釣音と云う事に成っては居りますが、前にも申上げた事が有る通り、弟に家を譲って独立したのですから、竿忠の寺は女房の関係上、即ち芦田家の菩提所たる、亀戸の光明寺と云う訳なので御座います。尚火葬にされるのが嫌だとの考えもあったのです。

師の恩  九代目と三代目

2011-09-03 | 「竿忠の寝言」
師の恩
月に一度か二タ月に一度は必ず孫の音吉を連れて、上野の帝室博物館hw出掛けて行った。子供心で音吉は祖父が一体博物館へ何しに行くのか、良く飲み込めなかったが、今にして考えてみると、之れは古い美術品を観に行ったものだ。其処に何物か得る物が有ったのかも知れぬ。其帰りには型の如く浅草へ廻ったものだ。其都度下谷稲荷町の東作さんの家の前を通ると、電車の内で必ず頭を下げる。或る時音吉が訊いた「お祖父さん、何時(いつ)も此処のところを通る時は、此方側を向いてはお辞儀をするけれど、何処に向かってお辞儀をするのだね」「此処はね、東作さんのお宅(うち)で、お前達やなんかが今日安楽に暮らせるのも、皆この東作さんのご先祖があった為めである。師の恩、職の恩で、其都度あすこでご先祖の御仏壇へ向かってお辞儀をして通るのである。決して師の恩と云う事を忘れては成らないぞ」と教えられた。之れと同じく、材木町の中田屋さんの前を通ると、お宅に向かって必ずお辞儀をした。此の訳も先代鉄五郎さんの御位牌に礼拝するのである。

九代目と三代目
堀越秀、と申し上げては皆様の内で御存知無い方も御座いましょうが、稀世の名優九代目市川団十郎と云えば、三歳の童も良く其名を知れる処で御座いましょう。
この団十郎は釣師としても有名なもので、東作の家へ来て居た。だが最初からの釣師では無かったので、元は鉄砲をやったもので、ある時、柳島妙見の附近で、有名な料理店橋本の河岸あたりで鉄砲を撃った。処が弾がは逸れて、向う河岸に舫って居た舟の船頭がお櫃を直に持って飯を掻込んで居た、其お櫃の横っ腹へ命中した。吃驚した船頭、団十郎も青くなった。こゝで今五寸違えば人殺し云う事になる、大変な事だ。役者商売と云う弱い稼業は人気が第一、他人様に怪我でも為せて見ろ、夫れこそ取返えしが付かない大騒ぎだ。アヽ役者に鉄砲は不釣合い、之れは可けないと考え悟って遂に銃猟を止めて改めて東作方へ来る様になりました。
九代目があれだけの人物ゆえ一段と勝れた眼識(がんしき)もあったし。その相手が名人東作だから二人が堅く握手して釣りの道に進んだから、釣が上手、竿が良いので無い、二人の芸術の力が表現して来る。
夫れは眼に見え無くとも玆に何物か掴む物が出来て来るものと考えられます。東作と団十郎とは親戚のような関係にでも成っていて、深い間柄なので或る時団十郎が何の狂言だが記憶(おぼえ)も有りませんが、舞台で釣りをすりゅ狂言を演った事があります。その台詞のうちに「この釣竿は稲荷町の小父さんに拵らえて貰った云々」と云う台詞の受渡しがあったと聴きました。ザッと斯んなような仲であったので御座います。