竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

木倉の話

2009-06-29 | 「竿忠の寝言」
木倉の話
竿忠が黒田さんへ出入りするようになつて深川の木倉の竹を切り出した。当時は至つて淋しかつた。竿忠が竹を切つていると頭の上で五百羅漢の鐘がゴーンと鳴る。誠に淋しい風情、この木倉に番人がいて、或る日退屈の余り窓から顔を出して土手の方をみていた。すると土手の小穴からニョロ/\と出た奴が頭に角のある蛇だ。之を見て番人が其処へ駈付けて行くと蛇は穴の中へ這入つて了つたから、小屋へ引返して鉄瓶を提げて来ると穴の中へ湯を注ぎ込んで掘つて見たが幾ら掘つても蛇はとう/\出て来なかつた。之は番人が見違いでは無い。立派に角があつたのだ。此処には角のある蛇が予てから評判ではあつたが。此時以後には見たという人も無い様子だが。若し旨く捕まえたとしたら珍しい蛇とて定めし評判にもなつたろうに。又この木倉には狐がいて。木倉の構内に落ちている物は何でも翌朝。門の処へ置いて在つたとの事。或時この番人が竿忠方へ支那焼か何かも見事な印肉壺をもつて来。買つて呉れろと言われたが。お金のゆきさつで買わなかつたが大層立派な物であつたそうだ。之は確か宮様が木倉の鯉の御用釣にお出の際。印肉壺の中に餌でも入れてきて。お忘れ置きになられたものだろうとの噂であつた。又或時木倉で御用材を木挽(こびき)が挽いていた処。その木の中からポタ/\と血が垂れてきた。テモまあ不思議な事もあるものだ。そこで段々調べてみると、夫れは御用材全部、木倉の堀へ浸けて置くもので、この木の空虚の中へ鯰が小さい内に這入つて、中で育つて大きくなり、外へ出られなくなつた。それを切つたから血が出たのだ。だが斯う分かれば何でもないが其時は、木挽もびつくりした事だ。此時分の木倉の野布袋は竿忠家で全部手に入れていた。


もながしの松

2009-06-22 | 「竿忠の寝言」
もながしの松
本所菊川町に住していた、池田屋万次郎さん、俗称馬鹿万。この馬鹿とは、白痴、阿呆と言う物を指して言つたので無く、元深川の馬鹿貝を商つていたからで、誠に結構な通り名となつた。この人は七十八歳迄長寿したが釣舟乗りの名人であつた。此馬鹿万が、子供の時分に、深川大島町の漁師で、松五郎と言う男の傍櫓(わきろ)を漕いでいた事があつた。或る夜の事、大島町の松五郎が品川沖の鈴ヶ森から鮫洲、あの方面の岸寄りで「こびき網」と言うのを曳いていた、此時には浅い方の地方を曳いていたが、彼方向うの方に品川宿場の、女郎屋の燈火(あかり)がチラ/\と海の面に写っている。実に見事だ、ホイッ/\駕籠屋の掛声、馴染に急がす遊客の、繰込むのかして威勢がいゝ。又二階からは三味や太鼓の音も一段と陽気に、浮かれ調子のドン、チャン\/チリカラカツポの大浮れ、其の騒ぎが水面を伝わって手にとるように聴え、何となく胸もさゞめくよう。又障子にチラ付く人影も何の事やら癪の種だ。綱を曳き乍ら(此綱は泥のような処を引く)「あゝ詰らねえ。俺は斯う綱を曳いていても幾銭(いくら)にもならねえ。銭金のある奴はあんな面白そうな騒ぎも出来る。銭せえありゃ何の事も出来るんだ。ェヽイ何うなるものかえ。長え浮世に短けえ命だ。こいつあ一番太く短く、うんそうだ、今つから商売替(げ)えだ」と何を思ったか船も綱も放置(おっぽり)ぱなしで、自宅(うち)へ帰つて了つた。此処を芝居にすると、花水橋の場、本舞台下手から上手へ斜めに大きな橋、この下から彼方百本杭の遠見の書割、上の方二重の石垣、これへ桟橋をかけ、この傍らに丸物の障子船がある。其の障子を引き抜いて、内の島屋文蔵と妾のお咲の両人の種々のいちゃつきを鋳掛屋の松五郎、荷を担いで橋の上から見ている。思い入れがあつて、松五「こう見たところ江戸ぢやあねえ。上州あたりの商人体(あきんどてい)だが横浜(はま)でゞでも設けた金か・切放れのいゝ遣いつぷり、あれぢや女も自由になる筈。鍋釜鋳掛をしていちゃあ生涯出来ねえあの栄耀、あゝあれも一生これも一生」とつまらないという思入、この時花道揚幕の内で題目太鼓が鳴る。松五朗これへ聞き耳を立て「あの太鼓は、清正公様か」すると船の中の文蔵が、文「おゝ二十四日はたしか庚甲」お咲「今夜は寝ると泥棒の」という台詞に続けて、松五「こいつあ宗旨を」といい鋳掛の荷を川へ打ち込む。どんと水の音、これで両人びつくりして飛び退く。松五朗は橋の上で高欄に片臂かける。双方見合つて、木の頭、チョン「替えにゃあならねえ」と下を見込む、と言う幕切れの場面だ。

余り芝居の方が明細になり、肝心の実説がお留守になつて了つたが、扨、松と一緒に傍にいた船の、漁師たちは、松の奴は何したんだえ、船も網も放置(おっぽり)ばなしで変じゃあねえかと不審に思い、仲間の者が夫等を始末して、持つて来てやつたが、一方、松は家へ帰ると、多くもない家財道具を売りとばして金に代え、友達を皆呼んで、お別れの盃をするとて酒を出し、俺もこの「もながし」の商売を今日限りで止めるんだと言つた侭、夫れつきり何処へ行つたか姿を見せなかつた。
暫くしてから馬鹿万が、永代橋を渡つて来た時に向うから鋳掛屋が来た。擦れ違つた時に、何の気もなく、ひよいつと顔を見ると、夫れが松だつた。万「やあ小父さん。松さんぢやあねえか」と言葉を掛けたが、ウンともスンとも口を利かす、其侭行つ了つた。其事を後で皆に話しをすると松の奴は、そんなら鋳掛屋になつたのかと噂をした。後で段々と聴くと,鋳掛屋をしながら諸々の露地/\を歩いて夫々の家を様子を調べていたのだ。夫れで見当を付けた家の土蔵の矢尻を(やじり)を切つて忍び込む娘師(むすめし)であつたとの事。両国橋の上で、岡っ引に出合い、予て尾行(つけ)られていたと見え、松御用だツと組付かれた時に一生懸命之を振りもぎり、川へドブンと飛込んだ。飛込むと姿を見せぬ、根が何しろ漁師だから水に這入つちゃあ達者なものだ。代地の葭の中に這入つて首丈出している。其頃には代地に中州があつた。代地から首尾の松へかけて中州になつていた其中州の葭の中から首丈出して潜んでいて様子を窺い、程を計つて逃げ出したが、天網恢々疎にして漏らさずとか、遂に悪運尽きて召取られた。後で身元調べから、あの松が、然うかえというので分かつたこの時分には「もながしの松」と言われていた。この事情を河竹黙阿弥が五十一歳の時芝居に仕組んで守田座に書きおろされた。慶応二年二月だ。表題は{船打込橋間白波}(ふねへうちこむはしまのしらなみ)俗に{鋳掛松}という。この興行の時、あまり世話狂言に風俗人情を穿ち過ぎてはいけないから注意しろという、お上からの達しがあつて小団次が、えらく憤慨し、其の為死期を早めたという逸話がある位の有名なものである。役割の内で主人公の鋳掛屋松五郎には有名な市川小団次、世話物の随一といわれた名人で当時大評判大入大当たりであつた。以上馬鹿万こと池田屋さんの話から松五朗の実説斯くの通り。
注{娘師}土蔵破り


少し遅れた速報 

2009-06-16 | 大将の独り言
先日竿忠の寝言の巻頭に紹介した竿忠四代目 中根喜三郎(僕達は大変失礼乍、大先輩の名人竿忠さんを きーちゃんと呼ばせて貰っている) そのきーちゃんから突然電話が有った、 喜「どおお元気?あのさあ 5月21日発売の週刊文春にさあ載ってるから立ち読みでいいから見てョ、表紙に猫が寝てるやつ、立ち読みでいいよ、350円だけどさ」 お互い職人、生涯現役を約束して電話を切った。
最初は何の事だか判らなかったが、何うもきーちゃん本人が載ってる様子なんだけどそれは云わない。
折角の電話だ、立ち読みって訳には行きません、早速買ったね、載ってる/\PAPAS ON PAPAカラーで2ページです ダンディーなきーちゃんが、背が高いからカッコいいねェ~
「皆さんこの方が」と云っても文春さんの写真を使うと叱られそうだから、ウン、なあーに 350円ですよ、それとも床屋さんか歯医者さん、蕎麦屋さん辺りへ行けば立ち読みどころか座って見れるかもです・・・・もち、それぞれ商売屋さんですらお代の方はいりますが・・・くにお

盲人が万引きを知る

2009-06-12 | 「竿忠の寝言」
盲人が万引きを知る
或る日、中田屋の店へ来た客が「たなご竿がありますか」「ありますよ」「一つみせておくんなさい」五六本出して夫れへ列べた。その客は継いで見たり、振つて見たりしていたが「鮒竿はありますか」「えゝありますよ」出して見せた暫く捻(ひね)くり廻して見て居たが、立ち上がつて「又買に来ます」と出て行つて了つた。此時に中田屋のばあちやんと言われた眼の不自由な人が居て、店での話を聞いて居られたが、件の客が帰つた後で直ぐ何か気が付いた様子で「ねえ今の人はタナゴ竿を買に来て夫れお買わず、鮒竿も見たようだが買わず、何にも買わずに帰つたが、今のタナゴ竿を調べて御覧なさい、確かに一本足りないでしょうから」と言う。眼開きが眼を光らして居るのに持つて行かれるなんて、夫れに盲のお婆さんに分かるものかと思い、そんな事があるものかと言い乍ら、念の為め調べて見るとなる程一本不足だつた。眼明きに盲が万引きの被害を知らしたと言う話。その頃の客の中に銭があつてか無くてか、風儀の良くないのも混じつていて、釣針を買いに来る。撰り取つて見ながら左の袖口へ三つ四つと引懸けて、万引きする奴があつたと言う事である。

生涯の恩人

2009-06-09 | 「竿忠の寝言」
生涯の恩人
竿忠が死ぬ迄も恩人として敬つて居た先代中田屋鉄五郎さん、この方には、抑(そもそも)竿忠が菊川町に世帯と云うものをもつた時に「忠坊が世帯をもつならば」と屛風、火鉢、漆を乾かす風呂なぞの品々を寄贈して下すつた事がある。何だ彼だと種々(いろいろ)面倒を見て呉れたお方で、斯んな訳柄の仲であつたから、住んでいた菊川町は、鎮守様は亀戸の天神様であつたけれど、浅草三社様の神輿を舁いでいた。材木町から祭礼には毎年揃衣が届いていたものでこの時分から世話になつたもので、一生の恩人と立てゝいたのだ。

番所 (前稿より続く)

2009-06-05 | 「竿忠の寝言」
後ろでは竿忠の連れの連中が面白がつて、モツとやれ/\と煽動して「竿忠さん、しつかりやれ。骨は俺が拾つて遣る」なんて云う騒ぎ、竿忠の剣幕が余り強いので、外国人も気を呑まれ、結局折れて出て「然なら、これ一ト口食べれば良いですか」と一口摘んで食べた。斯うなれば竿忠も何時まで怒つても居られない「然うして呉れりやあ私も面目が立つ」とニッコリ笑つて肌も入れ鉢巻も取り、傍らにあつた柿を買つて外人の前へ出し「之は返礼だよ」と云つて差出した。其時ここに居合して一部始終を知つて居る人が、人造デグスを発明せられた内山滝次郎さん。松竹に居る井上芳太郎さんの兄さんで此稿を了えた今年二月に逝去された。この騒ぎの後で並木鎌さん内では雫(こぼ)す事、零す事。あの異人さんは内の良いお客さんで来る度毎に沢山お祝儀を呉れるんだのに、竿忠さんが追つ払ったと零された。竿忠は後で云うには「あの異人のピストルは恐くなかつたが、傍らに居た犬が俺の顔をジイツと見ているので、飛付いて来やあしないかと、こいつが恐かった」と。この話を竿忠の本所花町、三の橋際の上伊と云う塩物屋の旦那が聞いて、大層喜び、忠さんに褒美に家を一軒買つて遣ると云われたが、絶つてお断り申上げた。右の話は竿忠が生前、柳原緑風先生に申上げた事があり、昭和三年八月発行の雑誌「現代」九の八に掲載されているが、祖父の直話と柳原先生の御筆で迚も面白い。乞御参照。  この稿終わり