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6代目菊五郎「鏡獅子」 平櫛田中 ~ 「本物そっくり」のなかに芸術家の魂の「ぶれ」がある

2014-11-27 00:24:27 | 文学・絵画・芸術

     

 「鏡獅子試作」(左)、「鏡獅子試作裸形」(右)

 

■ 「本物」に近づくための菊五郎裸形

 世の中には、本物と偽物、そして「本物そっくり」と、「複製」がある。「本物そっくり」は、本物ではないが、偽物ではない。 

 平櫛田中彫刻美術館は、東京の小平市にある。平櫛田中(ひらくし でんちゅう)の代表作は、「鏡獅子」。国立劇場ロビーにある高さ2メートルの木彫像で、目にしたことがあるかもしれない。僕はその実物像をまだ見ていないが、その像の数分の一(58cm)の田中本人作の試作像を何回か見ている。田中館は、僕の散策コースにあるところなので、何回も行っているし、そこに行けばいつでも見ることができる。試作像といっても、国立劇場の実物を彫るためのものだから、縮小されているとはいえ、単に小さいだけで実物像そのものである。 

 この「鏡獅子」を彫るために、そのモデル、尾上菊五郎(6代目 1885年~1949年)の裸形像も田中は彫っている(鏡獅子試作裸形)。大きさは、実物像より小さくはあるが、顔といい、身体つきといい、筋肉の付き方まで菊五郎本人そのままである。この裸形像も、ぐるり、ぐるりと周りながら見ていて飽きない。何より、本物の菊五郎にそっくりなのに驚く。

 田中は「鏡獅子」を彫るのに、20回以上も菊五郎の歌舞伎「鏡獅子」を見ている。その結果、衣装の上から見たままの鏡獅子では、本物を彫れないとし、それで菊五郎に裸になってもらったのだ。これは、唐突でもなんでもない。菊五郎は先代がいた頃から自分が稽古する時も、弟子に稽古をつける時も、常に裸体であった(念のため、言うまでもないが褌だけは締めていた)。 

 裸体であることによって、歌舞伎を演じる時の筋肉の動きや四肢のバランス、頭の位置や腰つきがわかるという。幾重もの分厚い衣装の上からでは、微妙な筋肉の動きまではわからない。その裸形像を見ていると、顔もそうだが、身体つきがあまりに実物に近いので、ぞっとするほど見とれてしまう。

 ところで、裸形像のモデルとして立つ時、菊五郎は「裸体であるなら、顔の隈取りまでは必要ないだろう」と田中に言った。

「それがなければ、だめなのです」

 と、即座に田中は返したという。

「そういうものか」

「そいうものです」

 菊五郎も、田中の迫力にその覚悟を悟った。

 かくして、裸体で顔を隈取りした、異様な「鏡獅子」の原型が出来上がっていくのである。だが、「鏡獅子」の実物像が完成するのは、戦争の影響もあり、衣装を着けた試作像ができてから22年もかかった。それが今、国立劇場にある。色は、専門の彩色家が色付けし、まことに眩く、美しく、力強い。そこには、月並みな言い方だが、魂が宿っている。

■ 3D複製と「本物そっくり」では本質が違う

―― 本物そっくりななら、今は3Dプリントで十分できる。実物そっくり、本物そっくりなのが、そんなにすごいことか。

 という声が聞こえてきそうな気がする。では、精密につくられた3D複写模型像を持ってきて、国立劇場の横に並べてみたらいい。どちらが本物か。

―― そりゃあ、田中さんのものだと言いたいだろうが、やっぱり3Dのほうが本物そのままだね。

 と言うだろうか。

 そうなのだ。それは、すぐわかる。本物と寸部違わず精確に同じなのは、3Dの方だろう。今後、技術がもっと進んでいけば、実物とまったく見分けがつかなくなるだろう。

 しかし、田中が彫ったのは複製ではなく、「本物そっくり」の像である。だからこそ、精密な複製と比べると似てはいない。そこには、田中なりの歪みや「ぶれ」がいたるところに、わずかずつだがあるはずだ。それが、彫刻家田中の魂の「ぶれ」だ。田中は、その「ぶれ」もろとも、本物そっくりに見えて本物そっくりに彫ったのだ。そのわずかな「ぶれ」こそが、彫る者の魂の震えなのではないだろうか。田中は、自分が「このように見えた」鏡獅子を彫った。

 神が人間を神自身に似せて創ったように、芸術家は本物そっくりに似せて人間や動物を創り出す。それは、3Dによる複製ではなく、芸術家が見た本物そのものである。その像全体を微かな「ぶれ」が息吹いている。その息吹に、僕たちは「本物そっくり」と言って感動するのだ。

 100分の1ミリも違わずに精巧に複製された彫刻に、僕らは感動するだろうか。そこには、芸術家の「ぶれ」の微塵もない。「本物の複製」と「本物そっくり」とでは、それだけ違うものがある気がする。

 念のために言っておくと、技術としての3Dを否定するものではない。3D技術が多分野で貢献していく期待があるのは言うまでもない。しかし、この田中作「鏡獅子」を見ていると、3D技術がどれだけ進んでも、当分芸術の分野は侵されないと確信する。なぜなら、芸術の神髄は、あくまで「本物そっくり」に創るといっても、必ずそこには芸術家の「ぶれ」があるからだ。

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