FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

ゲゲゲの深大寺めぐり ― 鬼太郎茶屋の周辺で

2010-05-26 01:56:19 | 仏像・仏教、寺・神社

   深大寺山門近くの龍(左)と鬼太郎茶屋

毎朝8時からNHKで『ゲゲゲの女房』をやっています。仕事があるので土曜日の朝くらいしか見られません。舞台は調布で、主人公の水木しげる氏は若い頃よく、近くの深大寺に散策に足を運んでいたそうです。(「竜虎と饅頭と美女と ― 深大寺の山門前で」)

深大寺はよく来るお寺です。『ゲゲゲの女房』がテレビで話題になる前、今年も正月に来ました。先日も妻の診察のために、杏林大学病院に行った帰りに寄ってきました。深大寺は周りの風景に溶け込んだお寺で、何となく落ち着きます。山門周辺の通りが、いかにも‘ここだけ’のためにあって、静かで古風で足を誘う、「気」のようなものを感じます。いくつもある蕎麦屋にもよく入ります。そのうちすべての蕎麦屋を征服しようなんて考えたりしましたが、今のペースではいつまでかかることやら・・・。

テレビの影響からか「鬼太郎茶屋」ではかわいい鬼太郎グッズを売っていて、若い男女が何組か入っていました。店の脇にある茂みの塀には、ネズミ男やぬりかべ、一反もめんにぬらリひょん、とおなじみの妖怪のつくりものが立っています。屋根には鬼太郎の大下駄がのっかっていたり。おすすめに「目玉おやじの栗ぜんざい」とかがあって、さすがこれは食べる気にはなれませんでした(目玉おやじがぜんざいの中に入っている? でも人気なのかも)。路の並びのどこにも、「ゲゲゲの女房 テレビ放映中」「水木しげるの第2のふるさと」というノボリが立っていました。番組はこれからも半年くらい続くので、しばらく「ゲゲゲ」でにぎわうかもしれません。

私が小学校の頃だと思いますが、初めて「鬼太郎」を週刊漫画で見た時は、何とも不思議な感じにとらわれました。当時は『河童の三平』とか『墓場の鬼太郎』というタイトルだったと思います。少年の頃というのは、地獄や墓場、幽霊や妖怪、あの世など異形世界というものを怖いとか不気味とか思いながらも、なぜだか引きつけられたものです。「コワイもの見たさのなんとか・・・」というやつです。野球や戦争ものの多い中で、水木しげるの漫画はあんまりにも異色だったので、見たくないけどつい見てしまう。ほかの漫画をひととおり見終わったあと、最後になって、わざと読みとばしておいた「鬼太郎」を読んでしまう。絵のタッチも、初期の頃は「カサカサ」した、かわいた妖気というのでしょうか。おどろおどろした、湿っぽい感じの気味悪さではなかったのが、少年たちにも読まれた要因ではなかったでしょうか。

その後、自分の子どもが小学生になった時は、私の頃よりも少しかわいくてユーモアっぽい、絵もきれいになった『ゲゲゲの鬼太郎』がテレビや映画で見られるようになったのでした。民話や仏教、民族信仰、神話、昔話の中から独自の創作世界で妖怪たちを蘇らせ、子どもも大人も、時代を超えて心の奥に残っていく「異界」を、水木しげる氏はつくリだしたのです。



眩しかったアラン・ドロン ~ 『太陽がいっぱい』 

2010-05-15 14:18:03 | 芸能・映画・文化・スポーツ

最近公開された『ゼブラーマン2』に主演している哀川翔がテレビ番組で、今まで最も気に入った映画は? と問われて、『太陽がいっぱい』と答えていました。もう何十回も観たと言っています。私は失礼ながら、『ゼブラーマン』も哀川翔もあまり関心はないのですが、『太陽がいっぱい』という答えには、なるほどと頷きました。『太陽がいっぱい』は、前からもう一度観てみたい映画だったので、さっそくDVDを借りてきて観ました。

初めて観たのは高校生の頃、公開(1960年 仏・伊合作)されて十数年たってからテレビ放映されたものです。「ああ、太陽がいっぱいだ・・・」、と主人公のアラン・ドロンが海の浜でつぶやく。そのあと思いもかけない場面が急展開するのを予感させる最後のクライマックス。そして流れてくる、あのニーノ・ロータのちょっと気だるい、ゆったりした主題曲(映画音楽史上の名曲です)。このラストシーンのイメージと曲がずっと残っていたのです。

原題は“Plein Soleil”。「眩しい太陽」という意味になるのでしょうか。白黒の静止画がゆっくり動いていくような文学的な叙情ある光景(実際はカラー映画です)、哀しく歌うような主題曲、もちろん音も声も出ているのですが、サイレントのような場面が虚構ではなく現実の状況のように映し出されていく。ややアンニュイな時間の中、突如ヨット上で起こる殺人。そこからは急展開していきます。最近の映画のように、やたら大きな音響で心理を煽るようなことはなく、音の感じられない映像で迫真の光景が進んでいくのです。偽造パスポートの作成、偽サインの署名練習、重ねる殺人、嘘の遺言書、手に入れる財産、友から奪いとった恋人、殺人を犯したヨットの売り渡し、スクリューにからまる死体・・・。

どうしてここで終えてしまうのかと思えるようなところで終わる。観るものは心の中のフィルムを何度も巻き戻して、最後の場面までたどり着く。と同時にひとすじ流れる、あの主題曲。歌うように聞こえた曲が、今度は泣くように鳴り響いてくる―。

アラン・ドロンがいい。この映画はドロンのデビュー3作目、彼の大出世作となりました。この時25歳。男から見てもうっとりするような美貌で、ただ美しいというのではなく、はっとさせるほどの妖しさと色気がありました。最近のハリウッドでは、美貌俳優はあまり大物になれないようですが、ドロンはこの映画以来世界的スターとなり、美男の代表格で日本でも若い女性に圧倒的な人気を得るようになりました。

最近、SMAPの料理番組に出ましたが、アロン・ドロン(出演時70代半ば)の存在感に、SMAPの5人が束になってもかなわない感じでした。というか、SMAPファンには申し訳ないですが、『太陽がいっぱい』の頃のドロンにも、風格で及ばないかもしれません。

この映画では、ドロンが素足で靴を履いていました。これがいかにも自然でおしゃれなのです。フランス、イタリアの街と海が舞台で、「太陽」“Soleil”の下だからこそ素足が似合うのでしょう。どうでもいいかもしれませんが、日本のようなじめじめした気候の下で素足で靴を履いているタレントには、あんまり似合わないように思うのですが(これもファンにはすみません)。