FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

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『こころ』 と漱石 ~ 心の棲家に巣食う「罪」のミステリー 

2014-11-05 00:48:21 | 文学・絵画・芸術

■ 死に値する青春期の罪 

 漱石の『こころ』を読み返したのは何年ぶりだろう。今年、朝日新聞紙上で「100年ぶりの再連載」がなかったら読み返すことはなかったかもしれない。毎日決まった分だけじっくり読むというのも、また楽しみで贅沢な時間であった。(漱石 『こころ』 ~ 新聞小説の味わい) 

 青年期に一度読んでいるが、あの時にはわからなかったことが今回読んでわかったような気もする。どこが、と問われると困るが、「私」(語り手)の気持ちも「先生」(物語の主人公)の心情も、「K」(先生の親友)の思いも、どういうわけか先生の「奥さん」(かつての下宿先の「お嬢さん」)などの心持ちがいちいち、その人たちの中に入っていけて、分かるような気がしたのだ。 

 文体や構成については、ちょっと古いところがある(だって、100年前のことだから)が、多くない人物の中に入り込めてしまう、入り込ませてしまう漱石の筆はさすがである。これはやはり、僕の方でもそれなりに年齢を重ねてきたということもあるわけだ。誰のなかにも、先生のように暗く、まじめで、罪深くも溶けることのない熱情っぽさもあるし、Kのように思いつめた内気な情熱、歪曲してまっすぐに突き出てこられない感情の不器用さもある。 

 好んで人を悪く言ったり、恨んだりすることはないが、追い詰められるととんでもないことをする。それが裏切りに見えたり、何をするかわからない人間と思われたりする。誰しも、先生にもなり、Kにもなりうる人間なのだ。 

 親友Kの口から、お嬢さんへの恋を打ち明けられた先生のとまどい、嫉妬、お嬢さんと「夫人」(お嬢さんの母親)への不信感と疎外感、孤独感、それが思い余ってKの不在時に、「お嬢さんをください」と夫人に告げてしまった時の差し迫った心理。「あ・・・、言ってしまった」と、先生が告白した時、僕は心の中でつい叫んでしまった。これは何と言っても、裏切りだよなあ、と僕はつぶやいてしまったのだ。でも、こういう状況で先生の立場なら、僕もあんなふうに告白してしまっただろう。 

 これは、死に値するだろうか。親友Kはこのために自殺してしまう。そうすると、先生のしたこともやはり死に値すると思うのだ。先生も最後は自殺してしまうが、仮に死ななかったとしても、ある意味、死に値する行為である。魂の死である。 

 そうなると、一生、心に痛みをもって生きていくのだと思う。人間にはずるいところだとか、エゴイズムのかたまりのようなところがある。誰も自分がいちばん可愛いのだ。だから気がついてみると、「あんなことしてしまったんだから、もう自分は死んだっていい」、と思うことがいくつもある。そのたびに死んでいたら身が持たないが、ある年齢にいたると一つ一つが重くのしかかってくるものだ。 

■ 人の心に巣食うミステリー 

 僕はまた、先生の妻となったかつての「お嬢さん」の心の底にも一種、不気味なものを感じる。それは罪というほどのものではないが、先生とKのどちらを好きだったんだろうとふと思う。おそらく先生を好いていたのだろうけれど、それでいて反動としてKと親しく会話したり笑ったりする。何か本質を突かれたようなことを聞かれると、娘時代特有の笑いでごまかしてしまう。それが先生の思い込みであったりすることもあるが、彼女は先生を好いていながらもう一方でKと親しくしたりするような素振りを見せている。もしかしたら、Kが先に彼女に告白していたら、彼女はKと結婚していたかもしれない。いや、先生にそう思わせるところがお嬢さんの心の罠だったのかもしれない。 

 そこで先生の顔を見て、例の思わせぶりの笑いを返したりする。女の無邪気なずるさが垣間見える。

 ――ほんとはあなたが好きだったのだけれど、一足遅かったわね。

 Kと寄り添って、先生の方を見てにこりと笑うのである。これはまた、今どきのドラマ風な女の心を見ている気がしている。お嬢さんは、意外にもすべての真相を知っていた。そうすると、もしかしたら彼女は妻となってからもずっと、先生がこれまで苦しんできたことも、自殺するかもしれないということも承知していたのかもしれない。それを承知の上で先生をある意味いつくしんで、見守っていたのかもしれない。彼女には、そうすることしかできないから。 

 先生はかつて下宿先のお嬢さん、今は妻の心をも、一点の汚水により黒く染めてしまいたくないという気持ちから、彼女には見せたくない「遺書」を書いた。しかし、先生もまた妻の心のうちをひそかに知っていて、「私」だけに長大な遺書を書いたともいえる。ここまで考えると、いくらか穿った読み方になるが、どのようにも読めるのが『こころ』なのだ。 

 「私」という存在もまた、どこか若き日の先生を思わせる。だからこそ、人嫌いな先生も、心のどこかで「私」に唯一心を許していたのかもしれない。「私」もまた、心のどこかに闇の部分を宿しているような気がする。

 こうしてみると、この小説はもはや、中編では終わらない「心」のミステリーといえる。

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