FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

映画『華麗なるギャッツビー』 ~ ‘America’の体現者、そして・・・

2013-11-24 18:14:02 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 レオナルド・ディカプリオは、不思議な俳優である。彼を一躍有名にした『タイタニック』でも、確かに何か存在感を持っていた。それは、おそらく‘America’っぽさだろう。20世紀アメリカを体現しているような、上昇志向で何ものをも怖れぬ若さと風貌、成功を信じて向かう行動力が主人公にはあった。

 それは、『華麗なるギャッツビ―』にもいえる。恋い焦がれたデイジーと再会する前の緊張する演技は必ずしもうまいとは言えない。しかし、それでもディカプリオはディカプリオである。それでもギャッツビーなのだ。 

 映画『華麗なるギャッツビー』は、ほぼ小説(‘The Great Gatsby’)を忠実になぞっている。文学作品の映画化は、とかく有名小説のタイトルだけを拝借して、監督の思い入れでつくっているものがある。原作に忠実であることが映画の成功とは思わない。が、原作に近いイメージ化、ストーリー化でありながらそれを意識させずに作品に入っていけるなら、それは原作とは別の存在として成功している作品にちがいない。

 タイトルの「華麗なる」は、やはり映画向きである。「グレート」では、なんだかマフィアっぽくなって観客が来ないだろう。もっとも、ギャッツビーが若くして巨万の富を築いたのは、証券か闇商品での「インサイダー」取引によるものと随所にほのめかしている。小説では、ギャッツビーの運や財産、ひたむきさ、華やかさ、才能、強さと脆さ、謎めいた本性、男として哀しいほどの美しさと優しさ、ビジネス上の冷酷さ、孤独、そして悲劇、こういうものすべてを‘Great’で現わしている。

 小説を読んだ時もそうだったが、この映画を観ても同じ想いがした。切ないのだ。むなしくなる。「高潔で純真な偉大なる」青年ギャッツビーに対して、彼が恋する相手は「そこまで入れ込むか」と思ってしまうていどの女だ。女優キャリー・マリガンは、個人的には好きな顔のタイプだ。身近にこんな女性がいたら、それこそぞっこん、夢中になってしまうだろう。でも、映画の中のデイジー(マリガン)は、ギャッツビーが全財産と「忘れてきた青春」を捧げるほどの女に仕立てられていない。 (小説版についてはこちら「グレート・ギャッツビー ~ 青春の華麗なる忘れ物」)

 しかし、原作者フィッツジェラルドがこの作品によって 20世紀前半の‘America’の寵児になった時、そこにはデイジーのモデルとなった妻ゼルダがいた。『華麗なるギャッツビー』の私生活の舞台が妻とともにあった。派手好き、華麗好き、パーティ好き、観劇・行楽・男好き、金あり大邸宅あり、放っておいても男が群がってくるフェロモンを放つ女。どうして男は、こういうタイプに弱いのだろう。しかし、ゼルダがいなければ、‘The Great Gatsby ’ は生まれなかった。

 ギャッツビー1世1代の恋は、いくつかの行き違いにより破滅へと向かう。単なる失恋が切ないのではない。想いが行き合わないで歯車がずれていき、そして恋する相手にも逃げ去られることを知らず、死の間際までデイジーを待つ歓びに浸っているギャッツビー、それがむなしいのだ。しかも恋人の罪をかぶったまま、莫大な青春の時間と遺産を背負ったまま・・・。まあ、よくある恋愛劇と言ってしまえばそれまでだが。 

 グレート・ギャッツビー。

 君は‘America’ を体現した。フィッツジェラルド、君も‘America’ を体現した。そして、ディカプリオ、君も‘America’っぽい体現者であるのか。 

 ジョン・F・ケネディ。

 ―― デカプリよ、折しも、どこかその風貌だけは似ている。(2013.11.22ケネディ大統領暗殺50年)


ターナー展『レグルス』 ~ 焦熱の光とエネルギー

2013-11-21 01:00:36 | 文学・絵画・芸術

 

                                         ターナー『レグルス』

 発光する眩(まばゆ)さ。それは光るという言葉では表現できない。焦熱といっていい。まさに光が破裂した感じである。光の線や破片は、海の上にとび、侵入し、建物や人々を明確に、光と影に分けている。

 ターナーは、なぜこんな絵を描いたのだろう。それほどまでに、強烈な光に魅せられていたのか。初めてこの絵を見たとき、これは海難事故か、大津波、あるいは戦(いくさ)の後の光景かと思った。大洪水の後のすさまじい光 ――。

 それは、光というには、火のような熱さである。天地が今始まったような眩しさである。このような悲劇を描く画家がいたのか。波は寄せ、建物は浸り、救命ボートの上で、人は抱擁し、泣き叫ぶ。どこへ避難するかもわからない人々の嘆き。――あの、3.11の大津波を思い出した。 

 絵の名は『レグルス』。

 災害でないと知った。将軍レグルスの話だ。衝撃だった。ターナーは、なぜこんな絵を描いたのだろう、と何度も思う。カルタゴとの戦で敵国に捕虜になった将軍レグルスは、拷問で瞼を切り取られ、地下牢の暗闇に幽閉されていた。闇から引きずり出され、いきなり光明にさらされて眼の光を失ったレグルス。その姿を探したが、この絵のどこにもない。これは、レグルスが陽光を見た瞬間の光景である。瞼のなくなった眼球が突然の光で破壊される瞬間の、その眼球の奥に残像となって残った光のエネルギーなのだ。

 瞼があれば瞼を閉じ、手があれば手をかざしただろう。しかし、瞼もなく、手も縛られ、電光よりも大火よりも数十倍強い光が大気中に発射され、全身浴びる光の放射。・・・・こうした思いで見ると、その場から一歩も動けない自分がいる。

 ターナーは、光の画家である。空をよく描く。これほどに空を描き分けられる画家はいない。一色の空などありえない。色彩がさまざまに変化するのは、光そのもののせいだろう。光により色は変わる。それは海も同じだ。黒い海もあれば、反射する光の波もある。『レグルス』のように黄金色に爆発した光が突き刺す海もある。

 ターナーの絵を見ていると、物語の挿絵のような気がする。絵が小説を物語っている。まるで映画の一場面を切り取ったようでもある。しかし、この絵はあまりに凄絶な印象で、レグルスの逸話は怖い思いとしていつまでも心にある。


北斎「富嶽一景」 ~ 心に残る富士この一枚

2013-11-04 00:06:05 | 文学・絵画・芸術

                                        葛飾北斎『江戸日本橋』

 北斎と広重を並べると、どちらを選ぶだろう(「浮世絵Floating World」第2期)。迷いあぐねた末、「いずれも」と言うしかない。 

 富嶽三十六景。

 僕は、小学校の頃から父親のマッチ箱に刷られた「五十三次」で広重に親しんできた。懐かしさもこめて改めて広重を思った(「東海道五十三次 人、景色~マッチ箱の広重」)。しかし・・・。やはり「三十六景」ひとつひとつを見てみると、僕なんかが言うのもなんだけど、「北斎、さすが!」と思う。今さらだけど。 

 あの、実際よりもとんがった、急斜面の富士の稜線は、かなり印象を与える。幼少から実物の富士を見慣れた僕には、富士山は山というより、偉容と寛容そのもので、両端にすーぅっと広がっていく裾野は、すべてを包み込んで許してしまう鷹揚さがあった。でも、北斎は、とんがった富士である。てっぺんは、白く冠雪した先端型の塔のようで、こちらは上へ上へと伸びて行こうとしている。 

 三十六景(裏富士含め四十六景もある)、順番に繰っていくと、当たり前だが、どこかに必ず富士がいる。「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」や「凱風快晴(がいふうかいせい」は有名すぎてわざわざ探す必要はないが、絵のど真ん中にいながら(端っこにいるときもある)、どこに富士がいるのか、一瞬、探させる楽しみを持たせてくれる。「江戸日本橋」「深川万年橋下」「尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)」など。 「五十三次」はそれぞれの中に民衆を見る楽しみがあった。広重も抜群にいいが、この「富士を探す楽しみ」を与えてくれる、すべて違う構図は、なかなか得がたいものだ。そして、それぞれの富士。 

 赤富士、青富士、白富士に逆さ富士、波富士、海富士、桜富士に紅葉富士、雲富士、遠富士と近富士 、なんでもござれの富士である。鏡富士、雷富士、桶富士、橋富士、材木富士、鶴富士、松富士、凧富士、手綱富士に冬富士。山並富士、煙富士、日暮富士と舟富士、風富士、見晴富士、湖畔富士や水車富士。道中富士、夕富士、鳥居富士、峠富士、雪富士、白雨富士、光富士、田畑富士に川越富士、そして朝焼富士。 

 よくもまあ、ここまで違う富士を描いたものだ。北斎は、「富嶽」だけを描いたわけではない。ほかの風景画や美人画、奇想画も描いている。しかし、北斎を見る者はどこかに必ず富士のいる印象が残る。見た者には、百景、千景にも心に映る。 

 河口湖畔から見る冬の富士山は、はっとするほど、美しい。遠くで見つめていた色白の美人をいきなり間近で見たような驚きがある。湖畔にある河口湖美術館には(訪れたのはもう何年も前になる)、富士山の写真がそれこそ百景、二百景も飾られている。しかも毎年、展示は変わる。北斎ならずとも、プロ・アマの写真家が競って自分の「富嶽一景」を求めている。 

 富士は偉大である。しかし、それを描いた北斎も偉大だ。変幻自在。富士百景の姿を、ありきたりのように描いて自分の世界をつくってしまった北斎の浮世絵。広重とは別の世界へと惹きつけられる。 

 「私の一景」。・・・じつは、これを書いてても、選びきれないでいる。 (冒頭に挿入した一枚は、富士を探す例として挙げたにすぎない。)