嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

和解の握手 【ブログ掲載に際してのあとがき】

2005-12-23 20:30:28 | 追憶
5年後の10月に再び集う会は、諸般の条件が整わず、残念ながら開催が見送られた。D・グレイ氏は、想いを抑えきれず、7年後にあたる1999年、一人でアトランタから来日し、靖国神社で阿部さんと再会を果たした。

J・ウェスタマン氏は、1992年の式典から1年ほどして、想い出深いアトランタを離れ、生まれ育ったイリノイ州の小さなまちに移り住んだ。何度となく、手紙やパソコン通信を介して連絡をやり取りさせて頂いたが、5年前、氏の訃報に接した。訃報は、アトランタでマシューズ氏から聞いた。

「まったく残念だ」

マシューズ氏は、何度かそう言って、顔を曇らせた。

阿部善次氏は、ご健在とのこと。今年で御年89歳。

伝え聞いて驚いたことに、日米開戦50周年を機に、その後毎年12月、ホノルルのUSSアリゾナ・メモリアルへ弔問に出向いておられた。ご高齢のため、昨年の訪問を最後とされたと聞いた。胸を打たれるばかりである。

*****

私は、いわゆる非武装中立論には与しない。警察と軍隊とに限って、法的に認められる暴力装置は必要なのだと考える。

その一方で、先の大戦における日本の行動を美化したり、その正当化を試みようとも思わない。それらの試みは、相手方の気持ちに想いが至らないショービニズムを助長するに終わるだろう。不健全なショービニズムこそ、国際紛争の遠因になるということを思い知るべきである。

むしろ私は、20世紀の中葉において、日本と日本人が経験した「あの戦争」を、できるだけ深く、多面的に、そして共感をもって理解しておきたい。文字通り、日ごとに喪失されていく、その時代を生きた方々の声に耳を傾けて、記憶に刻んでいきたい。

この営みなくして、アメリカ、アジア諸国のみならず、他国と日本との間で建設的な関係を築いていくことは不可能であると、私は信じる。

加えて・・・

真珠湾はもとより、バターン、シンガポール、南京、ダッハウ、アウシュビッツ、ブーヘンヴァルト、インパール、サイパン、ドレスデン、東京、硫黄島、沖縄、広島、長崎にいたるまで。

第二次世界大戦という困難な時代に生を享けたがゆえに、さまざまな境遇の中で、さまざまな想いを胸に落命した有名無名の軍人、市民、すべての人々への鎮魂として、自分が承継した前世代の経験を次世代に伝えていくことが、いまを生きる我々の務めであると信じる。

最後に、あらためてこの拙文を、故ウェスタマンさん、故木本氏仁さんの霊に捧げる。

以上、木本さんの十三年目の祥月命日に記す

和解の握手 【考察:結びにかえて】

2005-12-22 04:45:49 | 追憶
白状しなければならない。真珠湾50周年をきっかけとして噴出するであろう反日感情をなんとかする手はないものかとあせっていたのは、この私である。

ところが、各地を回って行ったインタビューを含め、調査をすすめてみると、「真珠湾を忘れるな」には実にいろいろな意味合いがあるのだと知った。「自由の国・アメリカ」を守るためにたおれた人の鎮魂、反戦の祈り、平和の希求、歴史の教訓、安全保障の警告。今後とも「真珠湾を忘れるな」はアメリカ人にとって重要なメッセージであり続けるだろうけれども、それイコール反日感情・対日不信の源泉だと言うことはできない。

強硬と思っていた在郷軍人の対日観にも開きがみられた。

もちろん、グロービッツ会長のような強硬派はいる。プロローグで述べたように、そういった声を代弁しようとポーズを打つ政治家もいる。

その一方で、真珠湾生存者協会アトランタ支部では、会員の3分の2が和解の式典を積極的に支持し、中止要請をかいくぐって式典の実現にこぎつけた。在郷軍人をひとからげにして、「反日感情に固まった人々」と思い込む愚を知った。

ここに一つの世論調査の結果がある。実施されたのは真珠湾50周年、1991年の10月。「真珠湾攻撃という歴史的事実は、あなたの対日信頼度はどう影響するか?」という問いである。

結果は、「信頼できなくなった」が16%であるのに対して、「信頼度には影響しない」は73%に上っている。

つまり、現在の大多数のアメリカ人の心の中では、F・D・ルーズベルト大統領が「屈辱の日」と呼んだ真珠湾への奇襲攻撃と、対日不信は結びついていないということだ。

注意すべきことがあるとすれば、「真珠湾を忘れるな」を政治的に利用して、「卑怯な日本」というイメージを売り出そうとする悪意の人々が出てくる恐れがあることだろう。

「真珠湾」が日米経済摩擦のレトリックとして使われることがあるが、「表では協力するふりをしながら、実は後ろからばっさり斬ろうとしている卑怯な日本」というイメージを駆使しようとする対日批判には、感情的な議論には実りがないことを明確に指摘しなければならない。対外広報は、今後の重要な政策課題である。

ただし、その「16%」は、謙虚に受け止め、深く心に刻んでおかねばなるまい。

人間の感情の中で、いつまでも、時として世代にまたがって持続する感情が二つあるという。

「嫉妬」と「怨念」が、それだ。

怨念は憎しみへと人を駆り立てる。その憎しみが積み重なって、何かのきっかけで爆発すれば、殺し合いにエスカレートする。そして、いったん戦争となれば、それがまた新たな怨念の火種をまき、ずっと長い間くすぶり続けて、新たな憎しみの火元となっていくのだろう。

残念ながら、太平洋戦争を振り返ってみると、真珠湾に関わるアメリカとの関係のみならず、アジアの近隣諸国に対して、怨みをかうようなふるまいが日本にあったことは否定しがたい。

我々が21世紀において、世界とともに平和でありたいのならば、他の国の人々の、そして我々自身の心のうちにある「怨念」こそ、恐れるべきではないだろうか。

怨念と憎しみの連鎖をどこかで断ち切る。時にはけんかをしても良いが、心の底では相手の存在をおたがいに認めあい、ともに生きていく関係を作る。

それが容易なことだとは決して思わない。時間もかかるだろうし、力が及ばないことを思い知るときもあるだろう。

そんなときには思い出そうと思う。50年たって、困難を乗り越えてハワイに集い、握手を交わした日米の心ある人たちのことを。


和解の握手 【エピローグ 1992年12月 北浦和】

2005-12-21 21:21:10 | 追憶
暮れもおしつまって慌ただしい1992年の12月28日。どんよりと曇って肌寒い、御用納めの日の浦和斎場に、私はバスから降り立った。

この物語を、こんな形でしめくくらなけれぱならないのは、あまりにも口惜しく、悲しい。

木本氏仁さんが亡くなった。享年72才。死因は心不全。12月23日の午前9時すぎのことだった。その前日には、阿部さんといっしょに10月のハワイでの写真を整理しておられたという。

「昨日の敵は今日の友」を祈り、和解の式典への物心両面からの支援を借しまなかった木本さんは、本当に突然に帰らぬ人となってしまった。

バーバーの弦楽のためのアダージョが流れる中、葬列に阿部さんの姿が見えた。お別れを終えて、控室にもどって来られる所で、私は挨拶をした。

「ああ、渡辺さん、アメリカから帰っておられた。ハワイではお世話になりましたね」

情けないことに、私は言葉につまってしまった。阿部さんが差し伸べた手を両手で固く握るのが精一杯だった。

念願だった和解の式典を見届けてまもなく、木本さんは旅立ってしまった。いまはただ、在天の霊の安らかなることを心から祈るのみである。

和解の握手 【Ⅷ 交歓 1992年10月18日 ホノルル】

2005-12-20 23:01:01 | 追憶
明けて日曜日、10月18日。晴れ。

一行を乗せたバスは、昨日と同じく、西へと向かう。

ここで、右にまがれば、USSアリゾナ・メモリアルへと道は続いていくが、今日は直進。検問ゲートをくぐれば、そこはヒッカム空軍基地である。

だだっ広い敷地をしばらく走って、バスは資料館の前に止まった。資料館の前にあるのは、ヒッカム「飛行場」での真珠湾戦死者の慰霊碑である。

牛嶋静人さんとD・グレイさんが、慰霊碑に花を捧げた。

二人は、昨日の昼食会でテーブルに居合わせ、お互いがヒッカム飛行場を空襲したほうとされた方だということを、はじめて知った。

「こんなにたくさんの人がここで犠牲になっていたとは知りませんでした。本当に残念でなりません」(牛嶋さん)

二人に加え、ヒッカム飛行場に縁のある日米の元兵士が、記念写真の一つのフレームに収まった。


二日間の日程のフィナーレは、ハワイ在住の他の真珠湾生存者の方々を招いての晩餐会。窓の外でハワイアンが流れるなか、あちらこちらのテーブルで、日米の友人たちとの間で話が弾んだ。

日本側の参加者の一人、城武夫さんがUSSウェスト・バージニアを攻撃したと聞いて、そこに乗り組んでいたクリスチャンセンさんは驚き、

「この人と握手をする日が来ようとは、夢にも思いませんでしたよ」と、感激して言った。

マシューズさん、近藤大博さん、二人のジャーナリストの司会で会は進行し、クライマックスで、参加者全員が署名した友好ステートメントを交換した。

楽しい時間は、あっという間に過ぎる。予定の三時間が経った。

アトランタからの参加者、B・カーさんが閉会を告げる。

「今日、1992年10月18日は、昨日の敵は今日の友となることができるという事実が証明された日として、永く記憶に留められることでしょう。それでは5年後、1997年の10月に、友人としてお会いしましょう。

「太平洋を越えた握手とともに、また会う日まで『アロハ!』」


和解の握手 【Ⅶ 祈り 1992年10月17日 USSアリゾナ・メモリアル】

2005-12-16 18:10:28 | 追憶
10月17日、土曜日。ホノルル国際空港。快晴。

おそろいのブレザーに身を包んだアトランタの真珠湾生存者協会のメンバーは、日本からの客を待ちうけていた。

飛行機が到着する。日本からのメンバーが、続々とゲートから姿を見せた。用意してあったハワイ名物のレイが、一人一人の首にかけられた。まずは記念撮影。そして一行はバスに乗り込んだ。

昼食会、パンチボール太平洋国立記念墓地での献花の後、バスはフリーウェイを西へと向かう。

行き先はUSSアリゾナ・メモリアル。

昼間はいつも混雑しているビジターセンターはひっそりとしている。一般観光客のためのフェリーはすでに終わっていたが、公園局では特別のフェリーを一行のために用意しておいてくれた。

白亜の建物がだんだんと近づいてくる。その真下には、日本軍の奇襲によって攻撃開始後わずか9分後に、1000名を越す乗員とともに真珠湾の底に沈んだ戦艦アリゾナが横たわっている。掲げられている星条旗は、半旗だ。

アーチ型の廟のつきあたり、亡くなった兵士の氏名が刻まれた壁面に対して、星条旗と日の丸のデザインがあしらわれたリースが捧げられた。

阿部さんが、慰霊の言葉を捧げる。

「ここアリゾナ・メモリアルに眠りたまう1177柱の御霊に申し上げます。私どもかつて機動部隊攻撃隊搭乗員として真珠湾作戦に加わった元海軍兵士14名を含む25名の一行が日本から参りました。そしてあの時あなたがたとともに戦われた生存者協会の会員と、いま肩をならべて訪問いたしております」

「私どもが今日あるのも、また貴国アメリカ合衆国が、そしてわが日本が今日あるのも、あなた方の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私は肝に銘じて忘れることはありません。一同心から哀悼の誠を捧げ、安らかにお眠りくださることを祈ります」

ウェスタマンさんが、後を引き取った。

「皆さん。今日私どもは日本の元兵士の方々と手をたずさえて、1941年12月7日に亡くなった皆さんのことを偲ぴに参りました」

「願わくぱ、皆さんの死が無為に終わらぬことを。そして、両国の元兵士の友情が世界の平和の礎とならんことを。・・・未来永劫にいたるまで」

そうして、壁に向かって阿部さんは一礼、ウェスタマンさんは敬札をした。そして日米から一人ずつで組を作り、それにならい、首にかけていたレイを海に流した。

私は、最後にマシューズさんと組になり、レイを海に投じて頭を垂れた。

いくつもの、いくつもの花の輪が、夕日の色に染まった穏やかなうねりにゆられて、ゆったりと漂っていった。


和解の握手 【Ⅵ Good news 1992年9月 ミネアポリス】

2005-12-15 20:02:26 | 追憶
1991年のパールハーバー・ディがやってきた。

日米のマスコミは、さまざまな「真珠湾50周年特集」を組んだ。全米各地では、記念行事が催された。USSアリゾナ・メモリアルでの記念式典にはブッシュ大統領(注:現G・W・ブッシュ大統領の父君の方である。為念)も出席し、目にうっすらと涙を浮かべながらスピーチを行った。

懸念されていた「反日感情の盛り上がり」は、見あたらなかった。日本のあるテレビ局は、真珠湾特集のテーマとして「アメリカでの反日感情」を取り上げようと取材を続けたが、それを裏付ける素材を入手することができず、番組のテーマを変更したほどだった。

その日が過ぎ、何事もなくいつもの日々が戻ってきた。

年が明けて1992年、留学先のミネソタの大学寮の郵便受けに、ウェスタマンさんから手紙が届いたのは、秋もすっかりふかまった9月の末のことだ。

封をあけた。そこにはうれしくも驚くべきことが書いてあった。

「良いお知らせがあります。日米の元兵士による真珠湾和解の式典を、来る10月17、18日の両日、ホノルルで挙行することになりました。ご連絡を差し上げるとお約束していた通り、ここにお知らせします」

少々混乱した。

あの式典は、全米生存者協会の横槍で中止に追い込まれたのではなかったか。いまになって許可が出たというのか。いったいどうやって許可を得たのか。

すぐにウェスタマンさんに電話をかけた。

例の低音のしわがれ声は、こう説明してくれた。今回は、真珠湾生存者協会アトランタ支部による公式行事ということには「しない」。あくまで支部会員の有志が一般人として参加することとする。場所も、アトランタから、ハワイに変更する。そこで日本真珠湾友の会の会員と会い、USSアリゾナ・メモリアルなど史跡をめぐる形で式典を執り行うというものだった。

待望の「次の機会」が、ついにやってきたのだ。

私はすぐさま、ホノルル行きの航空券を手配した。


脱線: 戦艦大和はなぜ沈んだか?

2005-12-14 03:10:04 | 追憶
忘年会シーズンである。

会社の宴会の会話の成り行きで、戦艦大和に話が及んだ。

とある新人さん、曰く:

「ところで戦艦大和って、どの国の軍隊が沈没させたんですか?」


 【・・・しばらく絶句・・・】


「俺のブログで、今掲載されている一連のテキストを読んで見なよ」

と言いそうになったのを、すんでのところでこらえた。

気をとりなおして、「和解の握手」の後半戦を続けることにしよう。

和解の握手 【Ⅴ中止: 1991年8月 アトランタ市内】

2005-12-13 03:09:48 | 追憶
8月19日付けのその手紙は、全米真珠湾生存者協会のG・グロービッツ会長からのものだった。

「貴支部全画の和解の式典に関し、今般、全米協会理事会では、これを協会の公式行事としては許可しないとの決定を下した。今後、式典のための事務一切において、協会の名称を使用してはならない」

「今回のこの式典のタイミングは、まったく不適切であると考える」

と、その手紙は結んでいた。

協会アトランタ支部は、すでにジョージア州支部から式典の挙行について承諾を得ている。また全国協会専属の牧師からも、式典への激励の手紙が届いていた。

まったく不可解な中止要請だった。

「ドイツは公式に謝罪していますが、日本政府はまだ謝罪していません。日米の兵士が会うことよりも、公式の謝罪が先決です。ナチスによるユダヤ人大虐殺回顧の催しへと、ユダヤ人がナチスを招待するなどということが、いったい考えられますか」と、グロービッツ会長。

さらに、全米1万4000人の真珠湾生存者協会の会員のうち「99.99パーセント」がこのような和解の式典には反対だと、同会長は新聞の取材に対し、コメントした。

全国協会からの中止要請である。

予定どおりの日程で式典を強行することも考えたが、支部内の混乱を恐れ、8月末、協会アトランタ支部は、和解式典の中止を決定せざるをえなかった。

ほどなくして、アトランタ支部に日本からピデオテープが届けられた。式典中止の知らせに接した日本真珠湾友の会のメンバー有志が集まって収録した、会員からのメッセージだった。

「これ以上の人数をそろえてそちらに行く準備をしておりますから、そのおつもりで」

ピデオは、まだ見ぬアトランタの友人たちに呼びかけた。

「あきらめずに次の機会を待ちます」とウェスタマンさん。

「でも私たちはもう70才を越えています。あんまりぐずぐずしていられませんけれどもね!」

アトランタで仲間とともにビデオのメッセージを見た後、そう言ってウェスタマンさんは、ちょっと寂しそうに笑った。

和解の握手 【Ⅳ 共感: 1991年7月 東京・新宿】

2005-12-12 12:32:09 | 追憶
ここで、和解の式典を強力に支援する人が現れる。木本氏仁さんである。

木本さんが社長を務める㈱きもとは、空中写真測量事業を手がける会社で、アメリカではジョージア州に工場進出している。

新宿区の本社に木本さんを訪ね、お話を伺った。

「お話を聞いて、ありがたいことだなあ、と。日米関係を良くする絶好のチャンスです。ウェスタマンさんのところがアトランタということで、我々の工場もアトランタではたいへんお世話になっている。これは何としても式典には成功してもらいたいと思いました」

1944年8月、木本さんの乗り組んでいた輸送船は、米潜水艦に撃沈された。その後、木本さんはビルマに転戦し、ここでも九死に一生を得て復員した。

1989年のビルマは健軍の慰霊祭で、ビルマで戦った元イギリス兵と出会った木本さんは、「昨日の敵は今日の友」を実感した。そして、乗っていた輸送船を沈めた米潜水艦の乗組員に逢いたいという想いがつのり始めた。

アメリカ在郷軍人会の協力を得て、調査の結果、その潜水艦がマスカランゲ号だったということをつきとめ、さらに乗組員2名を探し出すことができた。そして、1991年の5月24日、ついに木本さんはその2名と念願の対面を果たしたのだった。

対面に先立ち、その時の気持ちを、木本さんはこう記した。

「戦死された友の皆さんへ。生き残った私は皆さんに代わって、アメリカの勇士と握手してきます。二度とあの様な戦争を起こす事はありません。友好こそ平和へつながる大きな、そして大切な道として信じています」

ウェスタマンさんの呼びかけに心を動かされた木本さんは、事務局役として、式典を全面的にバックアップすることを申し出たのだった。

それから、日米で準備が順調に進められた。式典の日時は1991年の10月21日、場所もアトランタのジョージア州議会議事堂ということに決まった。

ところが、式典まであと2カ月あまりとなった8月のある日、ウェスタマンさんのもとに一通の手紙が届いた。

すべてをぶちこわしにする手紙だった。

和解の握手 【Ⅲ 呼応: 1991年7月 東京・小金井】

2005-12-11 04:16:18 | 追憶
アトランタからよせられ、読売新聞に掲載された和解のメッセージは、すぐに日本で反響を呼んだ。

「まだ、こんなことを考えているやつがおるのか」

メッセージを見て、阿部善次さんはそういう第一印象を持った。

阿部さんは、第二次攻撃隊のパイロットとして、真珠湾攻撃に参加した。当時25歳だった。

終戦の翌月から15ヶ月間をグアム島の収容所で捕虜として過ごした後に帰国。1953年から、米軍と折衝する仕事に就き、全米各地を巡っていたとき、米軍関係者は阿部さんが真珠湾攻撃に参加した日本の元パイロットだと知り、敬意を払って接した。敵意をあらわにする人には、ついぞ出会わなかった。

「記事を読んでみると、和解とかいうことを言ってきている。ということは、その人はこれまで敵意をずっと持ってきたということなのか。それなら自分一人ででも行って、話をしてみたい。そんな気持ちに駆られたんですよ」

これがきっかけとなって、アトランタの生存者と連絡を取るうちに、阿部さんらはアトランタ側の真意を理解し、日本側の代表者となることを引き受けた。

これまで戦友会や海軍兵学校の同期会など旧軍人の会は存在したが、真珠湾攻撃参加のパイロットによる会はなかった。その上、真珠湾攻撃に参加した日本の優秀なパイロットは、大半がその後の作戦で命を落としており、存命の方の数は限られている。

阿部さんら、関係の方々の奔走で、和解の式典の日本側の受け皿として、真珠湾攻撃に参加した元日本兵の会、「日本真珠湾友の会」が結成された。

和解の握手 【Ⅱ 熱意: 1991年7月 アトランタ郊外】

2005-12-10 14:57:23 | 追憶
アトランタの夏は、強烈に蒸し暑い。7月22日、私は汗だくになりながら、ピーチツリーセンター駅から地下鉄に乗り込んだ。終点、シャンブリー駅の改札を出たところで待っていると、白のビュイックが車寄せに止まった。偉丈夫というべき体躯で、グレーのジャケットを着込んだ老紳士が、どっこいしょと言わんばかりの仕草で運転席から降りてきて、こちらに向かって手を振った。

強く印象に残る、しわがれた低く響く声で、「ワタナベさんですか?」 それがウェスタマンさんとの初対面だった。

パールハーバー生存者協会アトランタ支部の例会の会場であるホリデーインに移動し、そこでインタビューすることになった。

「50年といえば本当に長い歳月です」とウェスタマンさんは切り出した。

1941年12月7日(現地時間)、当時21歳のウェスタマンさんは、米海軍の少尉として戦艦メリーランドに配属されていた。そこで日本軍の奇襲攻撃を受け、負傷した。

「その後、10年、20年、30年たっても日本人に憎しみを感じていました。しかし50年たってみて、今では心も和らいできました。もう敵意は感じなくなっています。」

パールハーバー生存者協会の目的を訊いてみた。

「一つには、そこで亡くなった兵士を偲ぶためです。もう一つですが、この会が訴えているのは『アメリカよ、真珠湾を忘れるな。警戒を怠るな』ということです。これは日本を追及するということではなくて、また他のどの国に対してでもなく、自分たちアメリカ、とりわけ政府に対して、安全保障の重要性を訴えていこうということです」

敵同士だった人々が、後に集い、今度は友人として再会を握手を交わすというアイデアは、どうやって思いついたのか。

「独立戦争で戦ったイギリス軍とアメリカ軍の子孫、それに南北戦争の南軍と北軍の子孫が会を作り、回顧する会合を今でも毎年開いています。実は、私もその2つの会の会員なんです。それに硫黄島で日米の元兵士が式典を挙げたということを聞きました。

「南北両軍が50年後に和解の集会を開いたように、この50周年をきっかけとして、真珠湾でも同様のことを始めたらどうかと考えたんです。そうして、今後とも定期的に会合を開いて、ずっと受け継いでいって欲しいと思ったんです」

しかし、他の会員が賛同するだろうか?

「そう思いましてね。アンケートをとってみました。すると64%の会員が私の考えに積極的に賛成してくれました。残りの会員の反応はというと、式典を挙行するのはかまわないけれども、どうしても参加する気になれないというものや、強硬な人からの反対の声が一部にありました」

他の会員を何人か紹介してくれるようお願いすると、ウェスタマンさんは快諾してくれた。会員10名の連絡先のメモを渡してくれながら、「このうち5人は、式典に賛成してくれなかった人ですけど、もしも親切でない対応がきても、気を悪くしないでくださいね」と付け加えた。

紹介してもらった会員の人に、直接あるいは電話でインタビューを試みた。

式典に賛成の人は、

「とても良い考えで、大賛成だ」
「早く日本の元兵士の皆さんにお会いしたい」

と話してくれた。一方、賛成しなかった人からは、

「会の趣旨にはそぐわないと思う」
「個人的に日本人に敵意は持っていないが、参加する気にはなれない」

ということだった。

和解の握手 【Ⅰ 発端: 1991年4月 読売新聞】

2005-12-09 19:07:42 | 追憶
1991年の春先、テレビのニュース番組は、日米関係のニュースを報道するときに、こんな枕詞をつけていた。

「真珠湾50周年の今年、アメリカで反日感情が高まることが懸念されていますが・・・」

真珠湾攻撃や太平洋戦争関連の本が次々と出版されはじめ、新聞・雑誌も相次いで特集を組んだ。

●爆発寸前の「ニッポン憎し」大研究(SAPIO 1991年5月9日号)
●蘇る「鬼畜米英」と「排日」の心象(AERA 1991年6月4日号)

センセーショナルな見出しが目につく中、4月30日付けの読売新聞のコラム「論壇」に、興味深い記事が掲載されていた。

 パールハーバー生存者協会アトランタ支部会長、J・ウェスタマンさんによるもので、題名は「『真珠湾』記念行事で日米元兵士の融和を」とある。

つまり、奇襲攻撃された側からの「仲直り」の呼びかけである。

「あの日、真珠湾にいただれもが、起きたことのほとんどすべてを詳細に覚えている。真珠湾攻撃はまた、大日本帝国とその国民全体に対する憎悪と悪意をかきたてた。

「しかし、時の流れは心の傷を少しずついやし、人々に以前とは異なった考えを芽生えさせている。

「真珠湾攻撃から50年の今年、この作戦にかかわった日本のかつての兵士とアメリカの真珠湾生存者との間で(略)融和の機会をもつことはできないものだろうか
「私は、(パールハーバー生存者協会アトランタ支部の)会長として、あの日本軍空母による特別作戦に参加した方々に今年9月か10月に、アトランタで米側の生存者と会い、特別の式典を挙げて頂きたいと考えている」


話は、その前年にさかのぼる。

真珠湾50周年を翌年に控えた1990年の秋、アトランタ・ジャーナル紙の論説委員、R・マシューズさんは、「真珠湾50年へのささやかな提案」(中央公論1991年4月号)という一文を執筆していた。

その取材で、マシューズさんは、ウェスタマンさんに出会った。そのウェスタマンさんは、予期せぬ提案を持ちかけてきた。

「真珠湾50周年の都市に元兵士の日本人にアトランタに来てもらって、握手を交換できたらすばらしいと思うのだが」

マシューズさんは、その考えに共鳴した。そして実現に向けて協力を惜しまないことを約束した。マシューズさんと、年来の知己であるジャーナリストの近藤大博さんの尽力で、アトランタから「和解」を呼びかけるメッセージが、こうして日本に届けられたのだった。

和解の握手 【プロローグ: 1998年4月 ワシントンDC】

2005-12-08 12:58:13 | 追憶
米国議会上院本会議では、ある法案の審議が大詰めを迎えていた。

「日系アメリカ人補償法案」である。

日米開戦の後、アメリカ政府は日系人による敵性行為を恐れ、アメリカ西海岸在住の日系人を強制収容する方針を決めた。

1942年2月、F・ルーズベルト大統領は、悪名高い行政命令9066号に署名。これに基づいて、12万313人の日系人が、移動の自由を奪われ、有刺鉄線で囲まれた収容所に隔離・収容された。

1970年代になって、日系アメリカ人団体は政府に対して、強制収容の不当性を認め、補償金を支払うよう運動を開始した。本格的な補償を求める法案が、はじめて議会に提出されてからすでに10年の時が経とうとしている。法案成立は、日系人の悲願だった。

日系人補償法案、HR442号は、1987年9月に下院を通過している。日系議員の粘り強い説得工作が実を結び、上院本会議でも「米国政府による差別行為に苦しんだ米国市民を救済するのは国の義務だ」との意見が大勢を占めた。

ところが、反対派の抵抗は執拗だった。

補償に消極的な議員は、連邦政府の財政赤字をたてにとって譲らない。

特に、以前からその極端に右よりの姿勢で知られるJ・ヘルムズ上院議員は、反対論を強硬に主張し続け、法案を実質的に無効にする修正案で対抗してきた。

「連邦政府の財政赤字が黒字に転換するまで補償を開始しない」

この修正案は、61対35で否決。

あきらめないヘルムズ議員は、さらに修正案を持ち出してきた。

「1941年の日本軍による真珠湾攻撃の補償を、真珠湾生存者および遺族に対して日本が行わないかぎり、日系人への補償を実施しない」

この修正案は、91対4の大差で退けられた。

まる一日半の攻防の末、1988年4月20日、上院本会議において、法案は、賛成69、反対27、棄権4で可決されたのである。

P.H.Dayによせて

2005-12-07 18:35:38 | 追憶
今年も、日米開戦の日、パールハーバー・ディがやってくる。

日本時間では、12月8日の未明
現地時間では、12月7日の日曜日

この際、11年前に書いたルポ「和解の握手」を、補筆の上で、連載させて頂くことにする。

1992年10月、日米開戦の真珠湾攻撃に参加した日本の元パイロットと、アメリカの真珠湾生存者(Pearl Harbor Survivors)とがホノルルに集い、和解の式典を行った。

このルポは、その式典が、紆余曲折を経た末に、関係者の熱意で挙行されるに至るまでの記録である。

*****

次回予告 【プロローグ: 1988年4月 ワシントンDC】


判定理由を書いてみよう

2005-12-07 18:32:25 | ディベート
しばらく前の話になるが、全国教室ディベート連盟北海道支部の主催による「第3回北海道地区秋季ディベート大会」と並行して、

【審判講習会】

が、開催されたそうだ。

関東甲信越支部の審判講習会も、久保氏の大活躍により、好評を得たと聞いている。

が、北海道支部が凝らした工夫が良い。大いに賛成する。

>バロット・シート(判定理由書)を書いていただき、希望者には添削したものを後日返却いたします。

ジャッジ育成のための訓練手法として非常に有効だと考えるのは、「判定理由を書いてみる」という作業である。

今回、採用された書式については承知していないが、できれば判定理由の記載方法は、例の丸の大きさで示す方式ではなく、文字で表現する方法の方が望ましい。

書くことは、コミットメントである。自分の考えを「旅に出す」と言っても良い。

そして、いったん手を離れれば、書いた人の意図はどうあれ、「書かれたものが、別の眼で見て分かるかどうかが勝負」になる。

選手に納得してもらえる判定理由になっているかどうか、頭の中で考えているだけでなく【文章】に起こしてみれば、推敲する際にセルフチェックがかけられる。これが、書くことの第一の効用。

さらに憎いのは、赤ペン添削までやってくれるという点。これで問題点や改善の指針を気づかせてもらえる。これが第二の効用。

この講座を受講することが出来た人は、実にラッキーだったといえよう。

実際に添削を担当された方のご苦労は並々ならぬものがあったと思う。記して敬意を表したい。


・・・北海道のみなさんと、ディベート交流したいなぁ。