撮り鉄ブログ

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きっぷを買うのも難儀な時代に・・・

2024年05月10日 | 乗り鉄
今回使用予定のきっぷ 経由地が多いので
このきっぷと経由を詳述した手書きの「業務連絡書」を合わせて使う

ちょうど去年の今頃、この記事でみどりの券売機の不便を愚痴っていたのですが、JR未乗区間完乗計画もいよいよ大詰めになって、またまた手書き発行のきっぷが必要ということになりました。
今回は、元信越本線で今は第三セクターになった「えちごトキめき鉄道」が途中に挟まった「通過連絡運輸」という乗車券になるので、何となくこんなことになるんじゃないかな・・・と思って有人のみどりの窓口のある堅田駅まで行ったのですが、案の定、駅員さんが端末機で発券しようとするとエラーになり、「紙のきっぷで発券しますので、出来上がったら連絡します。」ということになってしまいました。
※通過連絡運輸の場合、JRの運賃は第三セクター鉄道を挟んだJRの総乗車キロの運賃となり、第三セクター鉄道の前、後のそれぞれの区間の乗車キロに対応した運賃の合算より安くなる。

割とフレンドリーな駅員さんだったので聞いてみると、端末機でエラーになったのは通過連絡運輸のせいではなく、経由地がある一定数を超えているからで、私の様に「A駅からB線に乗ってC駅へ、C駅からはD線に乗り換えてE駅へ、E駅からはF線で・・・」を何回も繰り返すルートのきっぷを作ると端末機の対応限界を超えて発券出来なくなってしまうようです。 
紙で発券などということになると、いくらインターホンで係員が呼び出せる「みどりの券売機プラス」であっても対応できませんし、調べてみると他にも一部の企画きっぷなど、みどりの券売機では対応できないきっぷがあるようです。

いつも利用する比叡山坂本駅のみどりの券売機でよく見かける光景は、お年寄りなど機械操作に慣れないお客さんの発券を、集改札窓口の駅員さんが付きっきりで説明しながら、(時々「アレッ」などと言いながら)手伝っている姿ですが、そんな事するくらいなら初めから窓口でサービスすれば良いのに・・・って思いますね。人的サービスは決して「無駄」ではないし、そういったサービスをあんまり削らないで欲しい。。。

雪景色を満喫、早春の函館・津軽旅行 昔日編

2024年03月20日 | 乗り鉄
今は思い出となった青函連絡船

いつものように昭和43年(1968年)10月、ヨンサントオの時刻表で56年前を振り返ってみます。
北海道新幹線は2016年3月26日の開業、青函トンネルは1988年3月13日の開業なので当時の主役はもちろん青函連絡船。時刻表から当時の本州➡北海道連絡の一端を拾い出してみました。


下り本州➡北海道連絡(不定期列車は除く)

大きく分けると①本州夜行➡青函・北海道昼行パターン(上野発の夜行列車降りた時から・・・♫)、②本州・青函昼行➡北海道夜行パターン、③本州昼行➡青函昼行➡北海道昼行の3つがあり、特にこの改正では東北本線電化で大幅にスピードアップした583系の電車特急はつかりや寝台電車特急はくつるがそれぞれのパターンでの最速列車として、最小の接続時間で網走、稚内、釧路などへ向かう列車に接続しています。
経由線区を見た場合、北海道側は函館本線のいわゆる山線経由の優等列車が多い事、本州側は勾配の緩やかな常磐線経由の列車が多い事があげられます。特に今の函館本線の山線は、優等列車が走らないどころか北海道新幹線の開業時には長万部~小樽が廃止決まっている程の閑散線区になっており様変わりです。
関西方面からはこの時点では夜行ブルートレイン日本海もまだ運転されておらず、新幹線+東北・常磐経由以外の直通列車としては、延々15時間キハ80系の「白鳥」に乗車するか、「きたぐに」で18時間の夜行旅をするか・・・という選択肢しかなかったことになります。


ヨンサントオ時刻表私鉄ページより

次に巻末の津軽方面の私鉄を見てみます。
この時刻表から読み取れる五所川原発の列車本数は18本、現在は12本ですから現在の1.5倍です。始発列車、終列車共に今より20分ほど早いのは生活パターンの差かも知れませんが、平均すれば40分に1本程度の列車本数があったことが分かります。
また、弘前~弘南黒石の弘南鉄道は30分毎と表記されているのでこれは現在の1時間毎と比較して約2倍、「その3」に記したように1970年に弘南鉄道大鰐線となる大鰐~中央弘前の弘前電鉄も約30分毎とありますのでこちらも現在の1時間毎の約2倍の本数が運転されていたということになります。
ただ、自家用車保有台数推移によると、青森県の1968年の自動車保有台数は28,616台、2018年は729,768台と25倍、一方で青森県の人口は1968年頃は約140万人、現在は約120万人とむしろ減少しており、自動車普及率を考えれば、これらのローカル私鉄が行政から多少の補助金を受け取ってはいるにせよ、これだけの運転頻度で存続しているというのはむしろ「奇跡的」とも云えるのではないでしょうか。因みに福島以北の東北6県で第三セクター以外の私鉄はこの2私鉄しか残存していません。

その1」の本文記事にも書きましたが、北海道新幹線の札幌延伸についてはトンネルなど建設工事での諸問題に加え並行在来線の問題、貨物輸送の問題などが山積しているようで、今のところ2030年の開業予定は崩していないものの、順風満帆とは言えないようです。
津軽鉄道や弘南鉄道も赤字の中で車両の老朽化や線路保守の問題などを抱えながらの苦しい経営が続きます。
遠方なのでなかなか訪問が難しいといった面もありますが、北国の鉄路がいつまでも元気であってくれるよう願うばかりです。

雪景色を満喫、早春の函館・津軽旅行 その2

2024年03月11日 | 乗り鉄
レトロな雰囲気の漂う津軽鉄道の津軽五所川原駅 JR五所川原駅に隣接している
駅構内は共通だが出入りに関しては津軽鉄道に乗車する場合はこの駅の改札を通るのがルール

津軽鉄道

五所川原駅では一旦JRの改札から出て、北隣にある津軽鉄道の津軽五所川原駅に向かい、いよいよ今回のメインイベント、12時発のストーブ列車に乗ります。敢えてまだ寒さの残る3月に来たのもこのストーブ列車の運転が3月一杯までだからで、ちょうどこの日は時折吹雪く天気でお誂えのストーブ列車日和?になりました。
ただ、ストーブ列車はのんびりとローカル鉄道の雰囲気を楽しむというよりは、すっかりイベント列車化しているのが実情で、発車時間が近づくと一般客はストーブに近い席をめがけて行列し、さらにツアーバスの団体なども到着して写真の狭い駅舎が人であふれるといった状況でした。
この日のストーブ列車は一般の乗客がオハフ33、団体がオハ46の2両編成で、DD352機関車は不調のため2両の津軽21形(新潟鐵工所NDCシリーズ)がけん引するという4両編成でした。DD352は車齢65年程の老朽機でまさに老骨に鞭打っている訳で、まあ残念ですが仕方ありません。

最後尾が一般客用のオハフ33
発車時間が近づくといよいよ吹雪いてきてそれらしい雰囲気に・・・

津軽中里までの乗車中に2回ぐらいは石炭をくべていた なかなか手が掛かる

ストーブ列車に乗車する場合は乗車券(例えば金木迄だと560円)とは別に500円のストーブ列車券が必要で、さらに車内ではストーブの上でスルメ(800円)を焼いてもらって日本酒(400円)を飲む・・・というのが一種のお決まりになっているので、スチーム暖房が出来ないので苦肉の策として導入したストーブ列車は今や同鉄道にとっての冬場の救世主になっているようでした。
幸い半分以上の一般客と団体客は途中駅の金木で早々と降りてしまったので、金木から終点の津軽中里まではボックスを独占してのんびりと旧型客車の旅を楽しめました。

津軽中里駅では機回し線を使って気動車を編成先頭に移動
重い旧型客車を2両もけん引するため、気動車も2両必要なようだ

津軽中里で小休止、昼間から酔っぱらって火照った顔を少し歩いて冷ました後は、折り返しの列車に乗車、芦野公園駅で途中下車します。同駅では駅付近での列車撮影を行い、NHKのドキュメント72という番組で放映された旧芦野公園駅舎を再利用した「駅舎」という名の喫茶店に立ち寄り、さらに次の列車で金木に向かいます。


太宰治の小説「津軽」にも往時の金木町長の逸話が残る芦野公園旧駅
今は赤い屋根の喫茶店「駅舎」として営業中

金木の町は作家太宰治の生誕の地で彼の生家は斜陽館として沿線随一の観光スポットにもなっています。(特に冬季は津軽三味線会館が休館なのでここだけになる)
太宰治の作品で知っていたのは教科書に掲載されていて津軽鉄道の気動車の愛称にもなっている「走れメロス」ぐらいだったのですが、今回金木を訪問するに当たって付け焼刃そのものですが「津軽」を読みました。五所川原や金木はもちろん、上述の津軽中里や芦野公園もこの小説に地名が出てきますし、斜陽館を訪れるにしても多少の予備知識があるとより印象が深まります。訪問を予定されている方はご一読をお勧めします。

金木では殆どの列車が行き違い交換する
津軽五所川原ー金木間はタブレット式閉塞、金木ー津軽中里はスタフ式閉塞になっている
斜陽館 内部を見ると太宰治の生家がたいへんな資産家であったことが良く判る

五能線乗車


駅北方の歩行者専用踏切から見た津軽鉄道のラッセル車
本館掲載の腕木式信号機(機械連動ではなく電気で動くようだが)もこの踏切の近く

3日目は朝、津軽五所川原駅近くで津軽鉄道の列車を撮影した後、五所川原11:08発の五能線で深浦へ、その後深浦発14:41で東能代、東能代からは奥羽本線に乗って弘前へと五能線を一周することにします。3月からは青春18きっぷのシーズンなので多少の混雑を予想していたのですが、もちろんそれらしい乗客はそこそこ見受けたものの、結論から言えばゆったりと車窓を楽しむことが出来ました。

五所川原11:08発の深浦行き
五能線普通列車は全てこの電気式気動車GV-E401系で運用されている
車内はJR東日本普通車の標準的なスタイル 右手にあるのは機器室

この日はなんとか岩木山が見えていた(木造~中田)
車窓風景写真が変な色調になるのはUVカットガラスのせい
津軽の殿様が畳を敷いて宴会をしたという千畳敷
起点の東能代からちょうど86kmの距離標が見える

深浦では2時間程あったので、ネットで見つけておいた深浦マグロのお店で昼食をとり、その後駅から15分程の観光スポット?である大岩に行ってみます。強風に多少恐れをなしながら遊歩道を歩き岩場の階段を上ると、日本海の荒波が打ち寄せる光景が広がります。。。

大岩の階段上から見る日本海
ちゃんとした柵があるから良いようなものの 落ちたら一巻の終わり

深浦からは東能代へ、同駅で奥羽本線に乗り換えて弘前に向かいます。雪の五所川原からそれ程離れていないのに東能代に雪が殆ど無いのには少し驚きましたが、ぐるっと回って弘前に戻ると再び雪景色。やはり津軽は雪ン中なんですね。

東能代 雪が殆ど見当たらない
ここで奥羽本線に乗り換え、ロングシートの701系で弘前に向かう


雪景色を満喫、早春の函館・津軽旅行 その1

2024年03月11日 | 乗り鉄
十字街電停から見た旧丸井石井呉服店函館支店ビルと函館山

まだまだ寒い日が続きますが、昨春の東北旅行が非常に好印象だったので、乗り残した津軽鉄道や弘南鉄道の弘南線への乗車、JR北海道に残る未乗区間である北海道新幹線への乗車などの目的で早春の函館・津軽に行ってきました。今回は鉄分濃いめなので一人旅です。

函館市電と青函連絡船記念館

今回はは早期予約で安く入手できたANA745便で函館に向かいます。新幹線が早くなったといっても空路は伊丹~函館が約1時間半、やはり早さでは比較になりませんね。
到着後、先ずは本館でご紹介しているように雪のぱらつく中、十字街付近や八幡坂で函館市電を撮影し、その後港に停泊している青函連絡船記念館摩周丸を見学します。青函連絡船には元は駅構内で繋がっていた訳ですから今でも駅から徒歩5分程ですが、徒歩での訪問者そのものが少ないのか、積もった雪に足を取られながらの訪問となりました。(従って船主側からの写真は撮れずじまい)
函館には1965年に就航した摩周丸が保存されています。青函連絡船は青森にも八甲田丸がメモリアルシップとして保存されており、こちらも2015年に訪問しているのですが、函館の摩周丸では車両甲板や機関室などがビデオ映像でしか見られない一方で、青森では見られなかった2等カーペット座席(これは再現されたもの)を見ることができました。まあ両方見てよ・・・ということなのでしょう。
私自身は青函連絡船に乗船したのは学生時代に2往復、社会人になって廃止直前に1往復の計6回だけですが、やはり船室などを見ると往時の記憶がよみがえります。「津軽海峡冬景色」の旅情は遠い昔の話になってしまったのですね。

船尾と可動橋 かつてはここから駅まで線路が繋がっていた
上階に再現された2等カーペットフロア 
かつては2等客室は出入口のある下側のデッキにあった

ところで今回は函館駅に隣接するJR系のホテルに宿泊したのですが、いつもの神様のご加護で部屋から函館駅が良く見えました。かつてのように連絡船到着に合わせて道内各地へ向かう長距離列車が踵を接するという姿とは程遠かったですが、僅かに特急北斗だけがなんとか長距離列車発着駅の雰囲気を見せてくれていました。


早朝の函館駅 長いホームを持て余し気味の列車は左が札幌行北斗1号、右は森行の普通列車
左に見える留置線群にも僅かな車両が憩うのみ

北海道新幹線乗車

2日目は少し早起きして函館駅7:00発のはこだてライナーで新函館北斗に向かいます。この列車に乗ると新函館北斗7:38発のはやぶさ14号に乗り継いで東京には12:08に到着できる一番列車ということになります。ただ、トータルの所要が5時間ちょっとというのはなかなか厳しい数字ですね。
北海道新幹線は函館北斗までの開業は2016年3月、今のところ2030年には札幌延伸の予定で、それまで待って一気にクリアという考えもあったのですが、工事の遅延や費用の増大、在来線の存廃など結構いろいろ問題があって開業が先延ばしになる可能性も否定できず、まあ勢いのあるうちにということでこの機に乗車することにしました。

新函館北斗~函館をリレーする函館ライナー(電車)
新幹線接続に加えて函館近郊の輸送も担っているようだ

今回、実はついつい安さに惹かれて通常の特急料金4,530円に比較して4,000円と少し安価な特定特急券というのを購入していました。座席が空いていれば座れる・・・というきっぷなので、窓際に座れるかなあと多少心配していたのですが、これは全くの杞憂というやつで、私の乗車した6号車には10人に満たないお客さんしか乗っておらず、席はどこでもOkという状況でした。ただ、海が見えることを期待して専らA席に座っていたのですが特に北海道側では高い防音フェンスに阻まれて殆ど車窓は楽しめず、海が見えたのは木古内付近の短い時間だけでした。

今回、はこだてライナーからの新幹線への乗り換えは全て同一平面で至ってスムーズだった
ただ、予想以上に乗り換え客は少なかった
さらに北へ向かう線路には現在は車止めが並ぶ
今のところ札幌までの開業予定は2030年と言われているが・・・

函館は薄日が差していたのですが新青森で下車すると外は吹雪。雪深い津軽を実感しながら奥羽本線、五能線と乗り継いで津軽鉄道と接続する五所川原に向かうことにします。

奥羽本線の普通列車は殆どが3ドアロングシートの701系電車
旅情とは程遠い車内なのがいささか残念だ






港、宮古、釜石、気仙沼・・・ 三陸縦断列車旅 ー 昔日編

2023年06月08日 | 乗り鉄
ヨンサントオ時点での巻頭地図
三陸鉄道はもちろん、気仙沼線の本吉~前谷地もまだ未開業な一方で
山田線茂市からは小本線が浅内まで伸びる

毎度のことですが東北本線の全線電化が成ったヨンサントオ時点での時刻表を少し眺めてみます。(1968年10月号交通公社時刻表参照)

先ず八戸線ですが、今の八戸駅は当時尻内駅と呼ばれており、今の本八戸が当時は八戸でした。八戸の市庁舎などは本八戸にあるので、どちらかというと東京など他地域の人が分かり易い様に駅名を変更した(1971年実施)ということでしょう。

ヨンサントオ八戸線 下り時刻表

今は定期列車は普通ばかりの八戸線に、当時は上野から久慈までの急行があったり、鮫まで青森や深浦(五能線)からの直通列車があり、鉄道の役割の変化(凋落?)を目の当たりにする思いですが、本数的に見ると久慈までが当時は10本(急行含む)に対し今は8本、逆に鮫までは当時が9本、今は13本と、八戸近辺とその先で本数の格差が拡大しているように見受けられます。
所要時間を見ると流石に急行列車は俊足ですが、普通列車は概ね2時間程度で、現在の1時間45分程度よりは少し時間が掛かっていたようです。

ヨンサントオ 山田線下り・釜石線上り時刻表

その1、その2の記事で書いたように山田線は元は盛岡から宮古経由で釜石を結ぶ路線だったので、時刻表も上半分は盛岡から釜石ですが、下半分には釜石から花巻まで釜石線の上り時刻表が一体に記されています。面白いのは盛岡→宮古→釜石→花巻と走る急行が2本、普通が1本あることで、まさに乗り鉄向き。今回もこういう列車があったら便利だったでしょうね。。。

盛岡~宮古間の列車本数は当時は急行3本、普通5本ですから現在の快速2本、普通2本の2倍で、当時はまだこの区間の旅客輸送の中心的な役割を担っていたという事でしょう。(106急行バスは1978年から運行)所要時間については当時の急行と現在の快速の間には大きな差はなさそうです。尚、この区間では山間部のスイッチバック式の大志田、浅岸駅(上米内~区界間)と、平津戸(松草~川内間)の3駅が廃止になっていて、乗客が少ない現状ともつながります。

宮古~釜石は現在は三陸鉄道になり普通列車のみが11本の運転です。本数は当時も急行4本を含めて11本で変化はありません。所要時間は当時の急行は1時間10分程、普通は1時間30分で、今の三陸鉄道の普通は2駅(八木沢・宮古短大、払川)増えて1時間25分程度ですからまずまずといったところでしょうか。

釜石~花巻では当時は全線走破する急行が5本、普通が6本、現在は快速3本、普通8本と、列車種別は違いますが本数的には同じです。所要時間については当時の急行は2時間程度、今の快速は1時間45分程度なので、これは少し改善していると言えそうです。


ヨンサントオ 大船渡線 下り

大船渡線は東日本大震災で鉄道線が気仙沼までになってしまいましたが、一ノ関~気仙沼間の列車数でみると当時は急行3本を含んで14本、今は普通ばかり9本と多少寂しくなりました。普通列車の所要時間は当時も今も1時間40分程度で余り変化がありませんが、1986年に猊鼻渓(げいびけい)駅が新設されたので駅数はプラス1になっています。
気仙沼~盛間は当時は急行3本を加えて12本の列車でしたが、今は同区間はBRTになって、全区間走行するものだけでも15本、加えて陸前高田付近を起終点とする区間運転が20本程と大幅に増加、駅(停留所)数も倍近くに増えたにもかかわらず、全区間の所要時間は1時間20分程度で列車当時と大差なく、鉄道ファンとしてはいささか複雑ですが、地元の利用者にとっては鉄道時代より便利になったように思います。

ヨンサントオ 石巻線 下り

石巻線はヨンサントオ当時は女川行が10本、石巻行きが1本、現在は女川行10本、石巻行3本、仙石東北ラインから石巻経由女川行1本と、本数的には少しですが増加しています。特に電化方式の違いを克服する為に気動車で運転している仙石東北ライン経由の仙台~女川間の列車など「その手があったか・・・」という感じですね。所要時間の方は小牛田~女川間は1時間10分~20分で大きくは変化していないようです。

今回乗車した線区での利便性の変化を見ると山田線の本数の減少が目立ちますが、三陸鉄道含めてその他の地域は50年前と比較すると、少しの所要時間改善はあったものの大同小異のサービス水準・・・といったところでしょうか。道路環境が劇的に改善している中、鉄道のサービスは余り変わらなかった訳で、この水準であと10年経ったらどうなるか、不安が頭をよぎる結果となりました。

ところで、今回の旅行も4月と同様に東海道新幹線+東北新幹線で6時間以上掛けて関西から東北に向かったのですが、当時の時刻表だと、もちろん時間は掛かりますが夜行列車という選択肢も提供されていたことに気付きます。新幹線接続だと早起きしても昼過ぎの列車に乗るのがやっとですが、半日前倒しにはなるものの夜行列車を使えば現地で朝から行動できます。JR各社が新幹線に乗せたい気持ちも分かりますが、もう少し幅広い選択肢が提供されたら・・・と改めて思いました。


港、宮古、釜石、気仙沼・・・ 三陸縦断列車旅 ー その5

2023年06月07日 | 乗り鉄
手前にあるボール状のものは東日本大震災復興祈念の碑
この後各方面から列車が到着しあっという間に付近は高校生だらけになった

最終目:気仙沼線残存区間と気仙沼線BRT
前日は女川から石巻に戻り投宿したので、この日は石巻から出発、前谷地まで戻って気仙沼線に乗り換えます。
私が乗車する8:24発の小牛田行は、7:57に女川方面からキハ100 3両に満員の高校生を乗せて石巻に到着し、下車した高校生が石巻下車と仙石線方面への2つの流れになってホームを塞ぎます。高校生の流れが過ぎてようやく私が乗車できた時点では車内空いていたのですが、30分弱の停車時間の間に別の高校生が三々五々乗り込んできて発車前には再び立ち客が出る状態になり、石巻から2駅目の鹿又(かのまた)でこれらの高校生がどっと下車するまでこの状態が続きます。今回の旅行では空いた列車ばかりに乗っていたので、やはり鉄道の本領を発揮する通学列車は頼もしく、ローカル線にとって沿線に学校があることが重要な生き残り要素であることを改めて感じました。

石巻線と気仙沼線の乗換駅 前谷地 右奥に柳津行の列車が見えている
今回は柳津まで列車に乗車したが、気仙沼線BRTの一部はこの駅前から発車する

前谷地からは9:03発、今回の旅行の最後の新規鉄道乗車区間である気仙沼線の柳津行に乗車します。気仙沼線はBRTになってしまった気仙沼~本吉が1957年に開業したのが最初ですが、現存する柳津~前谷地が開業したのは1968年、これもBRTになってしまった本吉~柳津間に至っては1977年の開業と比較的新しい路線です。
ここもキハ110の単行ですが、接続する小牛田からの石巻行きからの乗り換えを含めて10名程度の乗客を乗せて出発します。終点までの所要時間は20分強で、列車が北上川の鉄橋を渡ると間もなく終点柳津です。


柳津駅では本来は列車右前方の通路を進むとBRTにスムーズに乗り換えできる
今回は自動運転実証実験中とかで、跨線橋を渡った駅本屋前に臨時に乗り場が変更されていた


一般道から見えるBRT専用道
拡大してみると橋桁などはどうも新設されたもののようだ

上写真の様に今回は柳津駅~志津川駅の間の自動運転区間延伸工事と試験運転の為に本来は専用道走行の上記区間は一般道の走行となりました。専用道を横から見られたのは収穫ですが、自動運転であればそれはそれで話のタネになるところだったので少し残念です。

ところで、BRTが専用道を走行する場合、もともと路盤は単線の幅しかないのですれ違いは出来ません。停留所(駅というべきか・・・)や要所要所に行き違いのスペースが設けられているのでそこで交換する訳ですが、トンネルなどの長い区間ではどうしているのか、見ているとどうも閉そくに該当する様なシステムがあることに気付きました。

車両感応式信号機 通常は赤だが近づくと青になる
おそらく青になった時点で反対側の赤信号が固定されて対向車の侵入を抑止するのだろう

ただ、この信号は全ての区間にある訳ではなさそうなので、目視で対応する、或いはGPSによって対向車の位置を知る何らかの別の方法も併用されているのかもしれませんね。

気仙沼に到着 一般道を走ったものの定時に到着した

今回乗車したのは柳津9:34発、気仙沼11:23着のBRTで、柳津発車時点で10名程度、途中の乗降もあり、まずまずの利用実態でした。また、柳津付近から気仙沼近くまで乗車した旅客も私の他にも数名おられ、「気仙沼線」のニーズが現存することも感じました。
ただ、BRTといっても車両的には一般の路線バスで座席も簡易なものなので2時間近い乗車となるとちょっと厳しいですし、途中でトイレ休憩ぐらいあっても良いのかなという印象を持ちました。
また、今回はたまたま一部の専用道の代わりに一般道を走行したのですが、特段遅延することも無く、全般的に一般道の状態も良好(むしろ一般道の方が良好?)なので、だとすると一体何のために専用道を維持するのかといった素朴な疑問も湧きました。

気仙沼からは昨日同様に一ノ関へ出て、東北新幹線、新幹線と乗り継いで帰宅したのですが、今回は三陸の鉄路JR線381.4km+三陸鉄道163.0km+BRT99.0kmに新たに乗車、もちろん非常に断片的な利用ではありますが、一部を除けば予想以上に寂しい利用実態で現状維持の難しさを思わせた5日間でした。
また、地域の皆さんの大変な努力で復興は進みつつあるもののまだまだ道半ば、一日も早く新しい賑わいが戻ってくることを祈るばかりです。

港、宮古、釜石、気仙沼・・・ 三陸縦断列車旅 ー その4

2023年06月07日 | 乗り鉄
右手に見えているのはGoogleMapによると
日本製鉄(株) 北日本製鉄所釜石地区 釜石火力発電所とある


4日目:釜石から気仙沼、大船渡線、石巻線で女川へ
この日は前日撮影した三陸鉄道の旧南リアス線区間の列車からスタートします。
この列車、上写真の釜石着7:33の列車が折り返しが7:41発の盛行となるのですが、釜石では10人程度の下車客があったものの、7:41発の列車の乗客は私と地元のお客さんの二人。またまた寂しい出発となりました。3日目の記事に書いたように三陸鉄道には並行して高規格の三陸沿岸道路と良く整備された一般国道の45号線があります。ドア to ドアで便利な車とどう共存していくのか、この地方の鉄道全般にとって非常に重い課題であると思われます。

盛駅南側の歩道橋から南側を見たところ
右端の道路が気仙沼に向かう大船渡線BRTの専用道路、その隣が釜石からの三陸鉄道線
三陸鉄道の車庫・留置線を挟んで左にカーブするのは岩手開発鉄道(赤崎方面)

石灰石を満載したホキをけん引した岩手開発鉄道の貨物列車

盛駅には8:28到着、三陸鉄道は旅客だけなのにホッパ車が並んでいる線路が隣にあるのは何だろう・・・と思っていたら何やら列車の物音が。慌ててカメラを構えたのが上の写真で、調べてみると岩手開発鉄道という第三セクター鉄道で、同社HPによると岩手岩橋駅から赤崎駅まで11.4km、赤崎にある太平洋セメントの工場に石灰石を運搬する鉄道とのことでした。僅か40分程の待ち時間の間に貨物列車を撮影できたのは神様のご加護そのものですが、探せばネット上に運転ダイヤもあったようで、少し予習不足を反省します。

さて盛駅からは大船渡線BRT(Bus Rapid Transit)に乗車します。
BRTは東日本大震災からの復旧に際し、大船渡線の気仙沼~盛間、気仙沼線の柳津(やないづ)~気仙沼間については鉄道とせず、旧線路跡を利用した専用道と一般道の走行を組み合わせたバス路線とし早期復旧を目指したもので、乗り換えの便や乗車券などの扱いは一応鉄道同等ということになっています。BRTをJR完全乗車の対象に含めるかどうか(基本はバスですから・・・)多少迷ったのですが、大船渡線や気仙沼線の追体験という意味もあり、折角なので今回乗車しておくことにしました。
先ずは9:10発の大船渡線BRTで盛から気仙沼に向かいます。

盛駅の気仙沼行きBRT乗り場 三陸鉄道と同一ホームの対面で乗り換えできる
ハイブリッド式の大型バスで、車内は一般の低床式乗合バスと変わらない

専用道との交叉箇所には一般車が進入できない様に専用道側に「踏切」が設置されている
感応式になっていてバスが接近すると自動的に開くようだ

細浦(ほそうら)付近の絶景区間の鉄道車窓の追体験もできる
列車からのんびり眺められたら最高だったが・・・

交通結節点ともなっている陸前高田駅のBRT駅 鉄道の駅があった場所とは200m程離れている

前述の様にBRTのルートには線路跡を利用した専用道と一般道とが混在しますが、陸前高田の様に被災の程度が大きく、町がすっかり作り直されて旧線路跡を辿ることに意味が無いような場所や、旧線路跡を復旧するのが著しく困難な場所、さらには病院や役所、観光スポットなど、一般道を経由した方が乗客の利便性が上がる場合には一般道を走るようなルートとなっているようです。また、時刻表には鉄道との相互接続はしない旨明記されていますが、今回の運行時刻は概ね正確で、大船渡線BRTは予定時刻通りに気仙沼に到着しました。

気仙沼駅前 港町ブルース歌碑のあった港付近とは1.5km程離れている


大船渡線列車もキハ110(画面奥が一ノ関)
左側は柳津からの気仙沼線BRTの降り場になっている

気仙沼からは再び「鉄道の」大船渡線に戻り、10:46発の一ノ関行に乗車します。
今の大船渡線は一ノ関~気仙沼の62.0kmですが、この線区は陸中門崎(りくちゅうかんざき)から千厩(せんまや)の間が猊鼻渓(げいびけい)や摺沢(すりさわ)経由の凸状に遠回りになっていて我田引鉄の典型の一つと言われています。建設当初は一ノ関から千厩さらには気仙沼まで真っすぐに東進する予定だったものが、摺沢出身の政権党である政友会出身の政治家の影響で1925年の最初の開業時点で北方に迂回した一ノ関~摺沢間となり、その後憲政会が政権を取ると再び南に下って1927年には千厩まで伸延、その後東進して今の様な線形で1929年に気仙沼まで到達しました。当初の予定通り陸中門崎から千厩まで真っ直ぐ東進していれば20kmぐらいは短く済んだかもしれませんね。

一ノ関南北で東北本線の運転系統は分かれており、同じ701系だが南側小牛田方面は仙台カラー
北側花巻方面は写真右に見えている盛岡カラー

一ノ関で東北本線に乗り換え、緑と橙の仙台カラーの701系電車で小牛田に向かい、小牛田で再び乗り換えて13:36発の石巻線で女川(おながわ)に向かいます。
石巻線は1912年に仙北軽便鉄道として一気に小牛田~石巻間を開業した古い路線で、1919年に国有化、大分遅れて1939年に石巻から東、女川までの開業しています。

沢田~浦宿(うらしゅく)間では風光明媚な万石浦に沿って走る
ポリカーボネートフィルムのせいでくっきり見えないのが残念

女川駅 前方に見えるのが温浴施設なども入る新駅舎

駅舎3階の展望デッキから見た女川の町
新しい商業施設シーパルピア女川の向こうに女川漁港が見える
鉄道の乗客ではなかったが観光客もそこそこ居て安心する

津波で基礎からなぎ倒された旧女川交番

この日は快晴で、真新しい商業施設の先の女川漁港の前には穏やかな青い海が広がっていましたが、その手前に保存されている旧女川交番や、その周囲に展示された復旧までの道のりを表したパネルを見ると、他の地域同様に震災が如何に甚大な被害をもたらしたのか、地域の人たちがどのように復興を成し遂げようとしたのかなど、ほんの一端ですが知ることが出来ました。
ただ、この旧女川交番を見て思ったのは、人の使わなくなった施設を保存することの難しさです。この交番の建物も樹木が茂りつつあり、少しずつ自然に戻りつつありました。地元の方と我々とではもちろん意識が違うでしょうが、他の震災遺構施設でも費用を掛けて維持することの是非が問われる日が来るのではないか・・・そんな気がしました。

港、宮古、釜石、気仙沼・・・ 三陸縦断列車旅 ー その3

2023年06月05日 | 乗り鉄
釜石線宮守川橋梁では列車通過直前に鹿が・・・
タイフォンの音で走って逃走してくれて事なきを得た

3日目:列車撮影と大震災伝承館他訪問
先月の東北旅行で列車+レンタカーの便利さに味を占めたので、今回も3日目はレンタカーを借り、列車では訪問しにくい場所にも行ってみることにします。

撮影場所に行く途中で見つけた日本製鉄専用橋横の線路跡

先ずは徒歩で三陸鉄道の撮影からスタート、被写体は朝通勤時間帯の盛駅に向かう列車です。「朝の通勤・通学時間帯なので2両ぐらいは繋がっているだろう」と思ったのですが残念ながら単行でした。見栄えがどうのというのはこちらの都合ですが、ちょっと心配になります。
今では釜石には高炉も無くなり、製鉄関係で働く人や施設も大幅に縮小されているようですが、駅から甲子(かっし)川の河口近い国道45号線の矢の浦橋までの途中には製鉄会社専用橋などもあって鉄の町と言われた面影が残ります。上の写真はその専用橋の横にあった線路跡ですが、今昔マップで見たところ、現在の釜石線が出来る前に鈴子(釜石鉱業)と大橋を結んでいた日鉄鉱業線の跡かも知れません。

さて、駅前に戻ってレンタカーを借り、東北横断自動車道釜石秋田線を走って宮守に向かいます。三陸地方は東西を結ぶこの道路や宮古盛岡横断道路、南北を結ぶ三陸沿岸道路など70km/h~80km/hで走行できる高規格な道路が無料で提供されており、こうして車で移動する分には便利で快適なのですが、一方で鉄道やBRTなどの交通機関にとっては大変な脅威です。
鉄道写真を道の駅から撮るのか・・・と多少うしろめたさを感じながらも道の駅みやもりに車を停め、釜石線の宮守川橋梁の5連アーチを通過する快速はまゆりを撮影します。この日の天気予報は晴れ時々雨と不安定で、ここも青空バックとはいかずいささか残念ですが、冒頭写真の鹿との衝突事故も無く傘をささずに撮影できたのも神様のご加護・・・ということにします。

ところで今回の旅行の最初の計画での宿泊地は、宮古、釜石、気仙沼でした。(最終的には気仙沼から石巻に変更)私たちの年代だと、この地名で森進一の1969年のヒット曲「港町ブルース」を思い出す方も多いと思います。という訳で、次は気仙沼に去年再建されたという、「港町ブルース」の歌碑を見に行くことにします。宮守から気仙沼までは列車だと乗換2回で4時間近くも掛かってわざわざ立ち寄るのも逡巡してしまいますが、車だと宮守からショートカット出来て現地まで約1.5時間、やはり機動力が違いますね。

青いスイッチで港町ブルースの2番の歌詞が流れる歌碑 気仙沼の部分だけ字が拡大されている
♬別れ涙で割る酒は だました男の味がする あなたの影を 引きずりながら
港 宮古 釜石 気仙沼♬

この歌碑、説明版によると気仙沼の名を広めた歌として2000年に、錨やスクリューなど
マグロ船をイメージして作られたそうですが、その後東日本大震災で破損、2022年に森進一氏の支援もあってこの場所(気仙沼市港町)に再建されたとのことです。

いわてTSUNAMIメモリアル 前方防潮堤中央に献花台がある
防潮堤に上がると眼前には穏やかな海が広がっていた

防潮堤から見た奇跡の一本松(モニュメント)と陸前高田ユースホステル
カメラ視点の高さからも防潮堤の高さが判る

今回の旅行では車窓からでも10m以上はあろうかという高い防潮堤や水門、高台に移転した新しい住宅や、逆に駅前に広がる空地など、震災からの復興の様子が散見出来たのですが、きちんとした伝承施設もぜひ見に行きたかったので、次は陸前高田の東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMIメモリアルを訪問します。この施設の隣には「奇跡の一本松」としても有名な高田松原津波復興公園もあり、津波で破壊された陸前高田ユースホステルや海に向かった追悼施設も併せて訪ずれることができます。この日は6月4日に開催された全国植樹祭の準備であちこち立ち入り禁止になっていましたが、主要施設については滞りなく見学することが出来、追悼施設で手を合わせることもできました。

今の陸前高田はすっかり新しい町に見えます。道路も新しい、家や店も新しい、後日乗車した大船渡線BRTも真新しいバスターミナルに停車します。それだけ破壊しつくされた、何も残らなかったということでしょう。人口減少の中でかつての賑わいを取り戻すのは難しいかも知れないけれど、再びこの地で暮らすことを選んだ方たちに心から敬意を表したいと思います。

さて、少し殊勝な気持ちになった陸前高田を後にし、再び鉄分にポイントを切り替えて大槌町に向かうことにします。大槌町は釜石市の北隣の町ですが、ここも甚大な被害があり、高い防潮堤や水門が出来て町の景観が一変したものの、大槌城跡に上がれば海や町が見える・・・とのことだったので、ここでは城跡に上がって海と復興した町並みを背景とした撮影をすることにしました。

城跡への道 階段はしんどいが、整備されていて歩きやすかった

事前に大槌城跡は大槌町中央公民館の建物の裏手から上がるということを調べておいたので、先ず公民館駐車場に車を停めます。城跡への上り口は上の写真の様な感じで、雨上がりでもちろん人気は無く、おまけに「クマに注意」の看板まであったので、いざという時の武器?として三脚を伸ばして杖の様に持ち、スマホのストリーミングで音楽を鳴らしながら概ね60m程の階段と坂道を登って撮影したのが本館掲載のこの写真です。ネットで見つけた震災前の写真と見比べてみると改めて失ったものの大きさが分かっていただけると思います。

住民の投票で決まったという瓢箪形の屋根の大槌駅舎
2階のデッキから町を見守る「はかせ」と駅頭で演説する「ドンガバチョ」
この他、駅内にもひょうたん島のキャラクターが居る

列車撮影後、少し時間があったので大槌駅にも行ってみました。本館のキャプションにも書いたように、蓬莱島がひょっこりひょうたん島のモデルになったという事で駅にはひょうたん島のキャラクター人形やスタンプなどがあり、子ども時代にひょうたん島の人形劇を毎日楽しみに見ていた私にはとても懐かしく、ほっこりした気持ちでこの日を終えることが出来ました。

釜石駅のSL銀河をイメージしたイルミネーション

港、宮古、釜石、気仙沼・・・ 三陸縦断列車旅 ー その2

2023年06月04日 | 乗り鉄
山田線の盛岡行き一番列車はキハ110の単行
運転手、車掌に私一人を乗せて宮古を発車

2日目:宮古から山田線で盛岡、盛岡から花巻を経由して釜石線で釜石へ 
2日目は先ず逆コの字形に山田線を西に盛岡に向かい、その先東北本線で花巻に南下、さらに釜石線を東に釜石まで乗車します。

山田線はその1で書いたように以前は盛岡から宮古経由で釜石を結ぶ路線でしたが、東日本大震災で被害の大きかった宮古~釜石の復旧に際し、JR東日本が復旧を行った上で三陸鉄道に移管するということになり、現在は盛岡~宮古間の路線となっています。歴史的には1923年に盛岡から上米内(かみよない)まで開業したのを皮切りに順次伸延し、1934年には宮古まで開業しています。
同線は宮古から東北地方で最も高い標高744mの区界(くざかい)まで66.5kmを、ほぼ閉伊川(へいがわ)の流れに沿って遡ります。沿線には宮古付近と盛岡付近を除けば農地の広がりや大きな集落は殆ど無く、列車本数も盛岡直通は2本の快速を含めて一日4本と、釜石線や大船渡線と比較しても少なくなっています。
また、宮古~盛岡間には国道106号線(または宮古盛岡横断道路)を経由する「106特急・急行」というバス便が概ね1時間毎に一日12本もあり、所要時間も特急バスだと1時間40分程度と山田線快速より早く、公共交通の利用者という限られたパイの奪い合いの世界でも、鉄道は極めて厳しい状況であると思われます。

早朝の宮古駅前
駅の後ろ側に立派な市役所と市役所と駅前を結ぶペデストリアンデッキが見える
106急行、特急バスもこの駅前のバスターミナルから出発する


セミクロスシートのキハ110車内 他に乗客もいないので遠慮なく車内を撮影する

本数が少ないので宮古6:45発、盛岡9:27着(宮古から盛岡まで行く一番列車)の普通列車はひょっとしたら混んでいるかも・・・と思ったのは全くの杞憂で、運転手と車掌が乗務しているキハ110単行の列車は私一人を乗せて宮古を出発しました。幸い、次の千徳駅で3人乗車しましたが、その内の一人は途中の川内で下車、結局宮古近くから盛岡まで乗り通した乗客は私を含めて3人でした。流石に盛岡駅2つ手前の上米内からはそれぞれ数名の乗降がありましたが、いずれにせよ数を数えられる範囲の乗客数で、快速列車の利用状況は判らないものの寂しい利用実態と言わざるを得ないと思います。

かつて岩泉線が分岐していた茂市駅では、対向列車に乗車する高校生が見られたが
人数は10数名程度で、単行で十分賄える状況だ

さて、2時間42分、表低速度37.8kmの山田線普通列車の旅の後は、花巻経由で釜石に向かいます。
釜石線は1913年に開業した岩手軽便鉄道を出自とし、その後国有化されて花巻~足ヶ瀬~仙人峠間(足ヶ瀬~仙人峠はその後廃止)を結んでいた西側と、1944年に国が開業した東側の陸中大橋~釜石間が、1950年に足ヶ瀬~陸中大橋で繋がって全線開通しています。従って、東北本線と釜石を結ぶという意味では前述の山田線より後に開業したことになりますが、一方で沿線には人口約25,000人、民話のふるさととして有名な観光地である遠野市がある他、最高標高も足ヶ瀬の473mと線形的にも山田線より緩やかで、花巻/新花巻と釜石を結ぶ列車は3本の快速列車を含めて一日11本あります。

今回乗車した盛岡11:26発の快速はまゆり53号は、東北本線各駅に止まって12:05に花巻着、ここで向きを変えて花巻から快速となり、新花巻や遠野など途中5駅に停車して13:58に釜石に到着します。
列車は3両編成で、転換クロスシートの指定席車が一両連結されており、「座れないと困るし・・・」と指定席を奢ったのですが、結果的には指定席の利用者は4名しかおらず、快適さはともかく、座れないというのはこれも全くの杞憂に終わりました。


リクライニング席が並ぶ指定席車は急行用として製造されたキハ110-1(0番台)
結局終点釜石までの指定席利用客は4名だった

花巻では向きが変わり、釜石線内では指定席車が先頭になる
気合を入れて先頭に最も近い右側(14A)を予約済み

同線で標高の最も高い駅は前述の通り足ヶ瀬ですが、その次の上有住(かみありす)と陸中大橋の間には標高差が約150mあり、Ωループでこれを克服する線形は鉄道ファン的には同線のハイライトと言えるでしょう。

勾配上から下側に線路が見える
写真がなんとなくボケて見えるのは外に貼られたポリカーボネートフィルムのせい

上の写真に写っていたあたりから、先程通った線路を上に見る

列車は予定通り13:58釜石に到着、この日の宿泊地は釜石なのでここで終了と言いたいところですが、ここまで来て三陸鉄道の釜石~宮古を乗り残すと後日後悔すること必定ですし、この季節日没までは十分時間もあるので、三陸鉄道に乗って元来た宮古まで往復しておきます。

宮古行きは36-R1 運転席タイプの座席は無かったがゆったりした車内で快適だった

三陸鉄道の釜石~宮古間はその1で書いたように東日本大震災まではJR山田線でした。震災ではこの区間55.4kmのうち20km余りが被災し、JR東日本は他の大船渡線や気仙沼線同様のBRT(Bus Rapid Transit)としての復旧も提案したようですが地元に受け入れられず、最終的に三陸鉄道への経営移管で落着したようです。

本州最東端の駅 岩手船越

流石に明るいうちに釜石に戻ろうとすると途中下車する程の時間は無く、釜石14:12発、宮古15:32着の列車で宮古に向かい、宮古16:13発、釜石17:37着の列車で戻ってくるという乗りつぶしのお手本?のような行程だったのですが、朝からガラ空きの普通列車や指定席車に乗り続けていたので、特に帰路の宮古からの列車では通勤・通学者などの乗車で立ち客もいて少し安心しました。


港、宮古、釜石、気仙沼・・・ 三陸縦断列車旅 ー その1

2023年06月03日 | 乗り鉄
今回のスタートは八戸駅
2002年から2010年までは東北新幹線北端駅として北海道連絡特急の乗換駅として賑わった

4月の末に男鹿線や竜飛岬の旅を楽しんだばかりですが、再び機会があって東北にやってきました。今回の目的は三陸鉄道を含む三陸地方全線乗車。一人旅なので遠慮なく鉄分90%程の旅程ですが、2011年の震災から12年経った今の様子も目に焼き付けておきたいと思います。

東北本線筋から三陸海岸方面に向かう路線は北から八戸線、山田線、釜石線、大船渡線、石巻線とありますが、最も乗り難いのは山田線で、全線走破の定期列車は一日4本。従ってこの線のダイヤを中心に時刻表と睨めっこをして、八戸線からジグザグに南下する旅程を組みました。

1日目:八戸線から三陸鉄道経由で宮古へ
現在の八戸線は全てキハE130系(500番台)で運行されている
JR東日本の乗降客の多い路線ではこの形式でキハ40など旧国鉄型の置き換えが進む

前回同様に東海道新幹線、東北新幹線を乗り継いで先ず八戸線始発駅の八戸へ向かいます。八戸線は64.9kmの非電化地方交通線で、日本鉄道時代の1894年、尻内(現在の八戸)と八戸(同、本八戸)を結んだのが始まりです。その後1906年に国有化されて順次延伸し、1930年に久慈迄開業しています。
今回は八戸14:25発の列車に乗車しましたが、鮫までは概ね市街地の中を走っていて結構駅ごとの乗降もあり、水郡線等と同じ3ドアセミクロスシートのキハE130系が導入されているのも頷けます。
鮫を出ると時折左手に海が広がり、いわゆる絶景路線になります。海側前向きのクロスシート席が確保できたので、この日はお天気が今一つだったものの、のんびり車窓風景が楽しめました。

曇天+スモークガラスでどんより見えるが、鮫を出ると車窓に海が広がる


八戸線のシンボル、ウミネコマークがラッピングされた車体 久慈駅にて

陸中中野で海岸から離れ、侍浜付近の急勾配の峠を越えて久慈には14:09に到着します。
八戸線には私と同様のいかにもそれっぽい人も2、3人乗車していたのですが、三陸鉄道への乗り換え跨線橋を渡ったのは私一人でした。こちらはもうひと踏ん張り、16:14発の三陸鉄道で宮古に向かいます。

三陸鉄道の久慈~宮古間は、1972年に国鉄宮古線として開業した田老(たろう)~宮古間、1975年に国鉄久慈線として開業した久慈~普代(ふだい)間に普代~田老間を新たに加え、1984年に第三セクターの三陸鉄道として開業したもので、当初はこの区間を北リアス線、後日乗車する釜石~盛間を南リアス線と呼んでいました。
その後2011年の東日本大震災で不通になっていた山田線の宮古~釜石間が復旧されると同時にJR東日本から三陸鉄道に移管され、現在は久慈~盛間163km全線が三陸鉄道リアス線となり、日本最長の第三セクター鉄道となっています。


三陸鉄道は36-R3に乗車 2両目は空車回送

36-R3には子ども用?の運転席タイプ座席が設置されている
ブレーキハンドルなど結構本格的 多少狭いがもちろん大人でもOk

宮古行きは幸運なことに広いテーブルや座席のゆったりしたイベント用の36-R3形式だったのですが、久慈出発時点で海側の座席は埋まっていたので、ちょうど見つけた運転席横の「運転席タイプ座席」にしばらく座らせてもらいます。(一応運転手さんの隣なので「良いですかね?」と断って座ります。「邪魔だったらその鞄下に下ろしてくださいね」と言われたのですが、そこまでは遠慮しておきました。)
この席、前方も良く見えてなかなか良いのですが、長時間居座られても困るのか座面や背もたれ部分が鉄製で長時間はいささか辛く(お一人3分程度との張り紙もありました)、数駅で海側座席が空いたのでそちらに移動することにしました。

三陸鉄道の有名撮影スポット、堀内駅近くの大沢橋梁通過中の車窓
三陸鉄道は海に近いイメージがあるが、実際はトンネルや内陸部走行も多い

三陸鉄道カラーの防潮堤の水門も(田野畑付近)
沿線には津波対策としてこの写真の様な巨大な防潮堤と水門が続く

駅南北を結ぶガラス張りのペデストリアンデッキから撮影した宮古駅構内
左1番線手前が乗車した宮古終着列車で、縦列でその先の釜石行に乗り継げる
右奥にはJR山田線のキハ110形気動車も見える

久慈から約1時間30分、17:45に予定通り宮古に到着します。
最初に湖西線に乗車してから概ね10時間、1200km超の長旅でしたが、八戸線の海側座席も確保でき、最後は36-R3の運転席タイプ座席にも座れてまずまずの初日となりました。