『翼よ!あれが巴里の灯だ』、観ました。
有力者から資金を募り、“セントルイス魂”号を作り上げたリンドバーグは、
1927年5月、いよいよ大西洋横断に向けてNYルーズベルト空港から飛び立った。
だが、機上のリンドバーグを待ち受けていたのは、暴風雨や寒さといった
自然の猛威、睡魔、そして絶対的な孤独感であった……。
「飛ぶこと」の意味は、広い大空への“憧れ”か…。翼を持ち、大空から
大地を見渡すのは、勿論“神”になりたいわけじゃない。人間の限界に挑戦し、
“未来の可能性”を切り開きたいだけなんだね。映画の舞台となるのは1927年、
当時の航空技術なんぞ今と比較したら、園児と東大生くらいの差があった頃‥‥
そんな時代に、ひとりの心優しい青年が、手作りのプロペラ機で“アメリカの
夢”に向かって進む姿に、思わず胸が熱くなった。技術は未熟でも、石をも
砕く“強い信念”がある。飛行機は非力でも、誰にも負けない(飛行機への)
“深い愛情”がある。それから、彼の周りのサポートも温かくて、操縦士に…、
出資家に…、技術者に…、それぞれに“立場”は違えど、それぞれの“見方”で、
同じ“ひとつの夢”を見ている姿に、心から感動した。
しかし…、よく考えてみれば、それは“航空”の話だけに止(とど)まらず、
実は遠く50年の時代(とき)を超え、監督ビリー・ワイルダーから“今の我々に
向けられたメッセージ”かもしれないと思えてくる。(特撮)技術は未熟でも、
そこで働くスタッフの力を結集すれば、観る者を感動させることが出来る。
小手先のCGに頼らずとも、アイデアと工夫を重ねれば、観る者を“夢の世界”に
誘(いざな)うことが出来る。映画は、様々な回想シーンを絡めつつ、それぞれの
エピソードが後半になるにしたがって意味を持ち、ボディブローのように
効いてくる。そして、思わず胸にグッとくる台詞の数々は、練りに練りこまれた
“脚本の素晴らしさ”ゆえ……。今、時代は「アナログ」から「デジタル」へ…、
しかし、その途中でボクたちは、知らず知らずのうちに“リスク”を避け、
この主人公のように“チャレンジすること”を忘れてやしないのか‥‥??、
不時着寸前のラストシーン、自分自身しか信じられなった主人公が、初めて
“神”に対して叫ぶ“短い言葉”の意味…。それは目標に向かって努力を重ね、
死力を尽くした者だけが、初めて言うことの出来る言葉だったに違いない。
(主人公と同じく)無神論者のボクの心にも、ズシリと深く響きました。