HERE,THERE&EVERYWHERE

恩田陸さん、大河、競馬、旅行などの趣味など徒然なるままに書いています。コメントなどいただけるとMsiさん喜びます(笑)

『若者の政治意識の変遷』 vol.2

2005-07-23 00:26:06 | 自由への試論。
■前回のvol.1では「現代日本では若者たちの政治ばなれが嘆かれているけれど、若者たちと政治が強く結びついていたんだよ~」というようなコトを書いた。。で、今回はというと…
 若者の政治ばなれの実態を簡単に示した上で、
 その原因を『政治的社会化(人間が生まれてから成人に達するまでに接する、政治に関する情報の取捨選択によって形成される)』的要因から見ていこうかなぁ、と思っている。。

 ※とりあえず「政治参加=国政参加(投票)」という前提で。


■まぁ、選挙における投票率は「寝た子発言」があろうがなかろうが現実に落ち続けているワケで、それに比例するかのように若者の投票率も下がり続けちゃっているのだ。
 なんで?
 

■まずひとつ言えちゃうのは、政治不信による若者の『政治的有効性感覚』の低下が著しいというコト。
 前回も挙げたNHK放送文化研究所の調査データだが、たとえば『世論が政治を動かす度合いは強いか弱いか』という調査。
 
 ・1993年の調査では「弱い」と考える率が全年代層で19%(強い3%、やや強い13%、やや弱い59%)なのに対して、16-29歳では「弱い」が27%。
 ・1998年の調査では「弱い」と考える率が全年齢層で33%(強い2%、やや強い 9%、やや弱い53%)なのに対して、16-29歳では「弱い」が43%。

 2003年のデータは手元にないのだが(多分もう出版してると思う)、更にその前の1988年と1993年とでは大差がなかったのに対して1993年と1998年とでは大きくその数字が異なっている。。 
 この5年間に何があったかといえば…いうまでもない。

  ・55年体制崩壊時の期待と失望
  ・めまぐるしい政権交代による混迷と構造汚職
  ・各政党間のイデオロギー差、独自色の欠落
  ・出口の見えない平成不況 
 などなど。

 そらまぁ、あれだけ色々なコトが一気におきれば「政治不信」、自分たちの行動が政治には反映されにくいと思ってしまうのもムリはないよなぁ。。
 と同時に、これら諸要因に加えて根本的問題として「政治家=汚い」というイメージが無意識のうちに若者たちに「刷り込み」されていったコトも考えられます(^^;。。たとえば80年代後半あたりといえばリクルート事件などなど、いわゆる「金権政治」ってヤツです。


■…とまぁ、こういった政治そのものの抱える問題にその原因が大きいのは明らかなのだが、もうひとつ大きな原因なのが、先ほど少し述べた『政治的社会化』の欠如である。
 本当はそれだけを書きたかったのだけど、その前文としてここまでが必要だったのだ。。
 
 と言いつつ、今夜は眠くなってきたのでここまで(笑)!!
 多分、次回で終わります(^^;。。

 ちなみにその『政治的社会化』の要因として挙げられるのは以下の4つ。
 これらの要素が日本では十分に機能していないっつーコトなのである。。

  ①家庭
  ②学校
  ③仲間集団
  ④マス・メディア
 

とってもすてきな静岡県。。

2005-07-19 22:30:07 | 自由への試論。
■『とってもすてきな静岡県』。もちろん、大いなる皮肉である(笑)。今朝の各種朝刊を目にして、そう感じた人が少なくなかったコトを願いたい。…本日、静岡県にある『非常事態宣言』が発令された。


■懸念されている東海地震ではない(だったらこんなん書いてはいられないが)。水不足についてでもない。
 ………
 ………
 あまりに盛り上がりに欠けている、次の日曜が投票日となる静岡県知事選についてだ(苦笑)

 現時点における期日前投票の投票率がわずか1%にとどまっているとのコト。
 この『1%』という数字は1993年の同知事選で記録した史上最低の投票率35%をさらに下回ってしまう恐れが多分にあるだけではなく、もしかすると、夢の20%台をも期待できてしまうかもしれないという、すてきな可能性をもった数字らしいのだ。

 そんなワケで、わが静岡県では全国的にも史上初という、『選挙投票率の非常事態宣言』が発令されてしまったというワケなのだ。。


■Msi、一昨日の記事で「自分が必ず選挙に行く人間だからと言って、他の人にも『行け』と居丈高に言うつもりは更々ないけれど…」と書いた。
 前言を撤回する。
 撤回しても、居丈高に言ってもいいだろう、と思う。
 
 『静岡県の有権者は必ず選挙に行きなさいっ!!』

 これは静岡県に住む有権者としてあまりにも恥ずかしくないか?
 全国にむかって静岡県民の無能をさらしているようなモンだとは思わないか?


■そりゃ正直なところ、Msiもいまの静岡県政が魅力的なものだとは全然思えない。
 (それなりに重要な争点も多いのだけど)
 だから選挙戦にも魅力がないし、投票に行く気も失せるというのもよくわかる。
 
 でも、やっぱり有権者にもそうなった責任の一端はあるでしょう。
 新しい風を入れたいなら、そういう人を選べばいいんだから。
 (実際にそれが機能しているかどうかは別として)有権者自らが民主政治の基本を放棄しちゃぁいけないでしょ。

 7月24日夜―――。
 2人の立候補者のどちらが当選するかは勿論として、その投票率がどれだけのものになるのか…?
 Msiはむしろそちらの方が怖い。。
 
 
 
 

『若者の政治意識の変遷』 vol.1

2005-07-18 00:19:55 | 自由への試論。
■前回の記事で静岡知事選から『選挙』そのものについて書いてみたのだが、そういえばMsiたちのゼミ、数年前に大学の文化祭で『若者の政治意識の変遷』というテーマでゼミ発表をしていたのであった。うっかりしていた。

 そんなワケで、当時Msiたちが作ったレジュメを引っ張り出して、読み返してみた。
 そこから『若者の政治ばなれ』について幾つかの点をピックアップしてみた。

 
■①『政治の季節』
 レジュメ自体が数年前のものなので、そのためのデータはさらにもう少し古いものになってしまっているのだが、まぁそれはそれとして(^^;。。
 
 選挙における投票率自体が悲しくなるほどに低い昨今、それに輪をかけて『若者の政治ばなれ』が進行していると言われる。
 ホンマかいな?
 いや、残念ながらホンマなのである。


■ここに一つの数字がある。
 出どころはNHK放送文化研究所という機関が1973年より5年ごとに全国5,400名に実施している『日本人の意識構造』という各種調査の集計データなのだが(同研究所から『現代日本人の意識構造』というタイトルで出版)
 この調査によると若者(16~29歳)における『政治的有効性感覚(選挙での投票行動が政治を動かす度合い)』の割合は、1973年には「有効である」との回答が52%と一応過半数を超していたのに対して、1998年の段階ではそれが24%と半減している。

 前回「たとえば投票率が90%というのも、それはそれである種の困った状態」と述べたが、言うまでもなく1960~70年代初頭というのは学生運動真っ只中。その是非は別問題として、若者たちは「反体制」という合言葉のもと権力との闘いに身を投じ、実際に何らかの形で政治というものに関与していた。
 極端な話、「政治に対して意見をもつ」コトがカッチョいい時代だったのだ、多分。
 真面目にいえば、まだまだ若者たちも真剣に政治と向かい合わざるを得ないほど不安定な時代だったのだ。

 ちなみに以下、レジュメの1960年代についての文章の一部を抜粋してみた。
 ………
 ………
『60年代は激動の時代である。換言すれば「政治の季節」であった。
 全学連・全共闘運動が高揚し、東京オリンピック開催による国際意識の発芽、ベトナム戦争による国際的プロテスト運動の展開などが結合し、全国規模の運動が展開される。
 さらに国際的視野を広げれば、大韓民国において60年南北統一運動が、フランスでは68年に5月革命が、アメリカ合衆国では公民権運動が高揚し、ラテンアメリカでは武装ゲリラ闘争が展開される。中国では66年に文化大革命がはじまり「旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣」の打破を唱える。(文化大革命は実際には毛沢東個人崇拝によって結合された擬似大衆運動ともいえるが)。
 
 これらの方向性はさておき、60年代に若者たちが運動の中心となって体制を揺るがすような闘争を展開するといった構図は、政治体制の差異を問わず共通するものがある』
 ………
 ………

 なるほど。というコトなのだ。
 日本にしても結果的には失敗・挫折に終わったとはいえ、そういう運動も多くあった。その多くに若者たちが参加していた。
 ここではその運動の是非は問題ではない。
 とにかく、「若者と政治との係わりが密接していた、そういう時代が日本にもかつてあった」というところが大切なのだ。。


■だが、1970年代も半ばそして1980年代を迎え、世の中は一挙に「個人主義」「保守的傾向」の『大衆化の時代』へと変容していく。
 それはそれで世の中が(物質的には)安定化した結果であるし、Msiもそういう時代に生まれたひとりとして、それをアタマっから完全に否定するという気は毛頭ないんだけど、その結果ひとつの事実として「若者と政治の結びつき」はきわめて弱くなっていったのは確かなのだ。

 そして80年代の金権政治とその汚職、91年のバブル崩壊と平成不況、93年の55年体制崩壊とその後の崩壊など、国民全体はもとより、若者の政治離れを助長しうる数々の事件がてんこ盛りとなったのである。。


 …というところで、少し長くなりそうなので次回後編、あるいは中篇へと続く(笑)

 ちょっと昔の自分の思考をトレースしてみるってのも時にはいいものですね(^^;。。
 まぁその意味では、blogなんてのはその最もたるものだとも思うけど。
  

こういうテーマの日もある。。~『選挙』について。~

2005-07-17 20:51:48 | 自由への試論。
■ふむ、有権者の心根に訴えかけるいいCMだな、と思った。でも同時に、はじめっから行く気のない人には結局効果はないんだろうな、とも思った。

 なんの話か??


■はっきり言って盛り上がっていないコトはなはだしいのだが、来週7月24日、静岡県では県知事選挙がある。
 現職で4選目を目指すI川氏と、新人のY田氏の一騎打ち。
 争点としては、
  ・そもそも4選目という長期政権を許すのか。
  ・静岡空港の建設の是非(住民投票をするかしないかも含め)
  ・東海地震対策(たとえばH岡原子力発電所の安全性)
 などが挙げられるが、それにしても盛り上がっていないコトはなはだしい。。
 前回4年前はもう少し熱気があったようにも記憶しているのだが。。


■で、話は冒頭に戻るが、先日MsiがTVで偶然に目にした県知事選のCMについてである(^^;。

 高校生ぐらいの年齢の女のコが、
  ※(自分が興味ないドラマにはとんでもなく疎いので気づかなかったのですが、長澤まさみでした。)
 『わたしはまだ選挙権がないけれど、有権者の方々、ぜひその一票を大切にしてください!!』といったカンジで笑顔で訴えかけるというものだった。。

 ふむ、有権者の心根に訴えかけるいいCMだな、と思った。でも同時に、はじめっから行く気のない人には結局効果はないんだろうな、とも思った。
 残念だが、それが現実だ。
 東京だかどこかの選挙では、投票に行けばどっかの飲食店の割引クーポンがもらえるというニュースも見た。アイディアとしてはおもしろいけど、そこまでしなきゃいけないのかとも思ったし、実際にその効果はあるのかな?とも思った。


■Msiは必ず選挙には行っている。
 選挙権を得てからはまだそれほど多くの選挙はないが、それでも全てに行っている。
 自分が行っているからと言って、他の人に「行くべきだ!! 行くのが義務だ!!」と居丈高に言うつもりはさらさらない。
 たとえばの話。「選挙なんて関心ないや♪」という人が少なくないとしても、それはそれである種の平和な証拠といえるかもしれないし、これは極論だけど、投票率が90%なんていう選挙があったとしたら、それはそれだけ選挙民が選挙に関心を待たざるを得ない、行かざるを得ない、ある種異常な政治状況にあるともいえるかもしれない。。
 
 …ただ、そうは言ってみるけれど。
 やっぱり選挙の度に落ちる投票率、それも30%台なんていうのは明らかに異常事態なのもたしかだとは思う。


■Msiは選挙に行く理由、それはただ単純に投票が好きだから(笑)
 考えてみると、投票時においては選挙民が神様なのだ。
 話が知事選からはズれてしまうが、たとえば近いのか近くないのか分からないが、次の衆議院選挙があったとする。
 
 たとえば。
 『やい小泉っ、もはや日の本の仕置き、そちには任せておけぬ!!』
 たとえば。
 『うぅむ岡田っ、日の本の仕置き、そちに任すはまだちと不安じゃのう』
 
 ………
 ………
  
 面白いじゃないですか(笑)
 
 そりゃ自分の表示意思が必ずしも選挙における多数派だとは限らない。それは仕方がない。
 そりゃ実際の政治が国民とあきらかに乖離した位置にあるコトが著しく多い。それはもう、ある種の諦観すら感じてしまう。
 
 でも、まずは参加してみようよ!!と思うのだ。
 Msiとしてはやはり「(根本的には)選挙に行く気のない人には政治に対して文句を言う資格すらない!!」と思うので。。
 『どーせ自分の1票なんて大したコトないから』
 いや、塵も積もれば山となる。
 これは選挙における事実だ。
 0にはどれだけかけても0だが、1にはそうではない。
 その結果が吉か凶かは別問題として、実際いま1993年以降の混沌とした政治の枠組みもひとつの大きな流れに収斂されようとしている。
 その中でそれがどうであれ、自分の意思を示すということは悪いことではないと思う。


■とは言っても。
 やはり投票をするんだったらそれなりの政治哲学は必要だとは思うけど(^^;。
 難しいコトではないんです。
 Msiも難しいコトはわからんし。。
 ただ、「あの人知ってるから」「あの人に握手してもらったから」「あの人カッコイイから」などなど。。せめてそういう理由で入れるのだけはやめようよ、とは思う。それだったら遠慮してもらった方がいいかもしれないなと、少しだけ思う。
 何でもいいけど、投票動機に政治に関する自分の考えを何かしらいれようよ、とは強く思う。
 まぁMsi自身の考えもたいしたもんではないですけれど。。


■…とまぁ、結局のところ「選挙には行こうよ!!」と居丈高に言っただけになってしまったような気もしている。その点は反省(^^;。

 最後に。。

 冒頭、『ふむ、有権者の心根に訴えかけるいいCMだな、と思った。でも同時に、はじめっから行く気のない人には結局効果はないんだろうな、とも思った。』
 と書いた。

 でも、『ふむ、有権者の心根に訴えかけるいいCMだな、と思った。これで少しでも選挙に行く人が増えればいいな、と思った。』
 というのも偽りなき本音なのである。。
 
 

『フランス革命 ~革命をめぐるイデオロギー~』 vol.3。

2005-05-18 22:23:46 | 自由への試論。
第1章…『大衆革命①~上からの革命、
                     下からの革命』


:食糧革命~“パンを求めて”~サン・キュロット運動の隆盛


■大衆は何のために革命に身を投じたのか。いや、それ以前に、彼らのその示威行動の中には何らかの政治的思想があったのか。
 
 その答えは「No」である。
 
 たしかにサン・キュロット運動の後半、彼らは様々な社会的要求をするに至る。だが、本質的には彼らは元来、政治というものにさしたる関心を持っていたわけではなかった。
 歴史上、あるいは本考察においても便宜上、ブルジョワ層との対立軸として「大衆」=『サン・キュロット層』とまとめてはいるものの、それがパリの人口の約90%をも占める以上、実際はその範疇でさらに雑多な社会的立場が構成されていることは明らかである。そうである以上、「サン・キュロット層としての1つの確固たる社会的定義・政治的定義」的なイデオロギーを展開することは非常に困難であると言わざるをえない。それは当時のパリにおいても、現在の学問的見地からいっても同様である。

 では、イデオロギー的には必ずしも1つにまとまっていたわけではない彼らは、何をもって『サン・キュロット層』としての運動を確立するに至ったのであろうか。


■“食糧危機”―――。
 凶作や物価上昇などさまざまな要因があるが、彼らは唯一「安定した食糧(パン)供給を要求する」ことで考えが一致し、それが大きな革命エネルギーとなったといえる。
 1780年代後半、財政危機もさることながら、同時にフランスは未曾有の凶作にも見舞われていた。天候不順による作物不作は、やがて何千人単位での地方農民のパリへの流入を招くに至る。自然パリは失業者が増え続け、その数は1788年末には8万人も及んだともいわれる。全国的な凶作、パリへの人口一点集中、失業者の増加……、これは当然の結果として食糧をはじめとする物価上昇に直結する。
 
 本論文末の資料『1789年パリ労働者の収入における、パンに消費された割合(%)』によると、当時の一般的な工場労働者においては、実にその収入の9割がパンに消費されてしまうという異常な事態となっていることがわかる。では「それ以下」の人々、つまりパリに何万といた失業者やその家族はどうであろうか。数的な資料がない故に推測の域を脱しないが、おそらくそれは「想像を絶する貧困ぶり」であろう。彼らサン・キュロット層の不満は当然、国王(政府)へと向いていく。王室も財政破綻に近い状態とはいえ、未だ大衆に向かって「パンが食べられないならばケーキを食べればいい」と言ってのけるだけの生活をしていたのだから。
 
 このような理由から、食糧危機による問題をすべて国王(政府)のせいとする立場をとるサン・キュロット層たちは、パリにおいて様々な暴動を起こすようになる。当時のパリは“フォーブール”という48の区に分かれていたが、革命がはじまると、彼らはその区を基本単位として行動を起こすのであった。


■しかし、いかにサン・キュロット層の不満が高まっていたとはいえ、1789年の初期段階においてはその行動はあくまでも散発的な暴動レベルのものでしかなかった。彼らは終始「大衆」であったが故に、「明日のパンを求める」という日常的レベルでの具体的な要求はあれども、もう一段階上の政治的レベルにまでは自らを政治思想的に理論武装することができなかった。
 
 後に革命が進行するにしたがって、革命指導家やジャーナリストなどによって大衆も“教育”されてはいく。その代表的な例としてはシェイエスによる『第3身分とは何か』などが挙げられるであろう。
 だが、あくまでも「大衆」として基本的には「より安価で豊富なパン」「食糧暴動」という本能的欲求が「より高い賃金・労働条件」「民衆抗議・ストライキ」という政治的欲求にはるかに勝っていた。即物的ではある。そしてこの性質は、この後も本質的には変わることはなかった。
 その意味においても現実的な食糧の危機(凶作・物価上昇など)に直面しなければ、彼らは進んで革命(政治)に参加しようという意識をもってはいなかった。また、『サン・キュロット層』として「下からの革命」を起こすだけの巨大なエネルギーを持ちながらも、前述のような理由から、彼ら自身を導く「思想的リーダー」というものの存在が、彼ら「大衆」の中からは登場することもなかった。
 この2つのジレンマは、やがてサン・キュロット運動を崩壊に向かわせる大きな要因にもなっていく。
 

■1789年初夏、サン・キュロット層の国王(政府)に対する不満が高まり続けるのと並行し、パリの町自体も、三部会開催後の6月には国民議会の成立するなど政治的な緊迫も最高潮に達しようとしていた。
 そして1789年7月14日、ついに『バスティーユ牢獄襲撃』事件が発生―――。

 前回にも述べたことではあるが、当時ブルジョワ層は資本主義的自由を勝ち取るために特権階級との対立を深めていた。そこにはサン・キュロット層のそれとは違い、政治的にも明らかな階級闘争的な側面が存在していた。明確に「目指す社会」があるという点では「上からの革命」ともいえる。しかし、ブルジョワ層が強大な既存の特権階級の壁を打破するためには、「自らの手足となる力」が必要であった。その力こそが、潜在的には社会を変えるだけの強大なエネルギーを有しているものの、政治思想的指導者不在のために暴動レベルでの行動に止まっていたサン・キュロット層である。このことはいわば、バスティーユ牢獄襲撃やヴェルサイユ行進など、それら「明日のパンを求める」という日常生活レベルの欲求の矛先が、ブルジョワ層、あるいは一部の革命指導家の思惟、そのアジテーション的行動と一致した結果だと言い換えることもできる。
 
 だが、「対等であっては困る」―――。
 「大衆」の持つ膨大なエネルギーは重要視しながらも、ブルジョワ層は本音として「大衆」の力を恐れていてもいたのも事実である。そのことは、ブルジョワ層が一連の事件において、サン・キュロット層を統率・指導する一方で「ブルジョワ民兵(パリ市民軍)」という自らの武力組織をも創設していることからも見て取れる。ちなみにこの組織には後に一部の貴族・軍隊も合流している。
 ところで、逆にサン・キュロット側から見た場合、彼らにはブルジョワ層に「利用されている」という感覚があったのだろうか。両者は同じ第3身分ではあるものの、性質的には本来相容れないものをもっている。だが「敵の敵は味方」という言葉ではないが、この段階では特権階級という「共通の敵」を目前にして、サン・キュロット層はブルジョワ層を素直に協力者として捉えていたのではないだろうかと私は考える。
 
 また、その一方で当時のサン・キュロット層、あるいはフランス革命だけに限らず「大衆というモノ」を考察する場合、「権力に対する反発」と「権力への従順」というある種の矛盾した性質が同居しているように思われる。
 すでに前述したように、「大衆」にはそれを導くリーダーが必要ではある。リーダーといっても一個人を指すとは限らない。「自らの社会的価値観の精神的主柱」と考えてもよい。それが1789年の革命当時の大衆にとっては、国王であるルイ16世(を含む絶対王政)であったのではないだろうか。
 大衆の生活を苦しめる存在のある種の象徴が、国王その人であること明らかである(例えばマリー・アントワネット等の個人名も挙がるではあろうが、あくまでも象徴的な話として)。
 だが、国王を失うことは同時に当時の「フランス社会」という既成価値観が崩壊することをも意味する。「権力への従順」という点では大衆とは異なるが、「権力に対する反発」、資本主義的自由(ブルジョワ的秩序社会)という明確な目標があったブルジョワ層でさえ「秩序の維持のため」には王権の必要性を認めざるを得なかった。無意識での「畏れ」のようなものがあったといってもいいかもしれない。
 であるならば、明確な思想的目標がない大衆はなおのこと、ヴェルサイユ行進など心情的には国王ルイ16世を批判の対象にはするものの、現実下の行動としては、国王よりは漠然とした特権階級全体をより敵視していた感があることは否めなであろう。
 
 だが、このような「畏れ」がある一方で、リーダーが自分達を明確に裏切ったとき、その「畏れ」を凌駕する怒りを大衆がもつことも歴史が証明するとおりである。
 1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件以後、大衆はルイ16世を「国民を裏切った男」として明らかに敵視するように至る。その後、1792年8月に王権停止に至るまでの過程は、本章第1節に既述のとおりである。


 次回へ続く

『フランス革命 ~革命をめぐるイデオロギー~』 vol.2。

2005-05-12 23:20:53 | 自由への試論。
第1章…『大衆革命①~上からの革命、
                     下からの革命』


:革命のはじまり


■フランス革命の直接の勃発要因は、1789年7月14日の『バスティーユ牢獄襲撃』事件である。
 だが、いま少し掘り下げてみればそれは元々「国王vs貴族・僧族」という、「王権と特権階級」、いわゆる支配階級同士の対立に起因していることがわかる。

 この18世紀末、フランス王室は太陽王ルイ14世の治世から続く数多の浪費(対外戦争や国内における各種造営など)等により、その財政はきわめて危機的状況に陥っていた。そこで時の国王ルイ16世の財務総監・ネッケルは、それまでタブーであった特権階級に対する新課税を提言した。
 だが、これは当然のごとく彼らの猛反発を招く結果となる。結果、貴族・僧族らの特権階級は、この課税案を否決するために1789年5月5日、1615年以来175年ぶりに全国三部会を召集することを決定するのである。

■フランス革命は、首都パリをその中心的舞台として移行していった革命である。
 この1789年当時のパリの人口は約66万人。そのうち第1身分である僧族は約1万人。第2身分の貴族が約5千人。
 一方、そのほかの第3身分は、約64万人のうち、金融・商業・工業・自由職業に従事するブルジョワ(市民)層が約4万人。残りの約60万人が、小商店主・小商人・手工業者・職人・賃金労働者・浮浪人・都市貧民という、いわゆる「サン・キュロット(大衆)層」となっていた。
 
 ※この時代の「市民」とは現代社会における「市民」とはニュアンスが異なる。
  簡単にいえば「貴族たちのような特権階級ではないけれども、経済的・知識的にある一定の水準を超えた富裕階級」といったところか。
 
■ところで、この三部会が召集された時点では、現在我々がイメージしがちな(暴力的な)「革命」という概念を持ちえた者は(特に特権階級では)ほぼ皆無であったといってよいだろう。
 彼ら(特権階級)は王制を打破することが目的だった訳ではない。あくまでも、自らを縛りつけようとする王権に対抗するべき政治手段として、三部会を召集したに過ぎない。
 また同時に、彼らは第3身分層を自らと対等な存在として認めていたわけでは、当然ない。彼らにとって「第3身分」とは、自らの主張を実現するために必要かつ利用する、「王権に対抗する手段における現実的エネルギー」でしかなかったのである。

 しかし、一方の第3身分側。特にブルジョワ層たちはそうではなかった。
 彼らもまた独自の自由・平等を欲していたのである。その自由・平等とは「経済的」な自由・平等であった。比較的富裕階級とはいえるものの、依然、王権・特権階級といった「封建制」という壁の前に基本的な資本主義的自由すらが制限されている現実に対し、彼らは「労働力を雇う自由・生産の自由・売買の自由」など実現を求めて、この三部会へと参加していったといえる。
 
■このようにそれぞれの階層の思惑によって混乱する情勢の中、三部会にて特権階級の一部が第3身分の思想に共鳴。6月17日、第3身分に第1・2身分が合流する形で国民議会が設置された。私見ではあるが、この時点で、すでに政局の主導権は特権階級からブルジョワ層へと移行したと考えてよいと思われる。
 更にパリでは物価上昇・失業などに苦しむ大衆が、7月になるとバスティーユを襲撃。(このあたり、『ベルサイユのばら』でも描かれていますね)名実ともにフランスは革命期へと突入していくことになったのである。
 また、8月に入るとパリの動乱にうながされたかのように地方においても農民一揆が次々に続発。これに対し、国民議会は『封建制の廃棄宣言』を宣言する一方で、同月、「国民主権・法の支配・権力分立・私有財産の不可侵」をうたった『フランス人権宣言』を採択するにいたる。中学や高校の授業で必ず習うであろう、あの『フランス人権宣言』である。

■だが、『フランス革命の象徴』というイメージも強いこの人権宣言ではあるが、実際のところはは、後1791年9月に可決される『1791年憲法』と同様に、それまでの絶対王政から立憲君主制への移行は主張しているものの、その実態は制限選挙制など、きわめてブルジョワ的性格のものであった。また、このような情勢下において、物価の異常上昇などにより生活に苦しむ「大衆」はヴェルサイユ行進・ヴァレンヌ逃亡事件を通じてますます国王へ対する信頼感を失墜させていくこととなる。

 
 ところで、今回の総括としてこの「1789年の革命」において注意しておかなければならないことは、この間、すでに政局の主導権は特権階級(そしてブルジョワ層)に移行しはあったものの、依然として「ルイ16世」という国王は「国王として」存在していたということであろう。
 このことは後に王党派と呼ばれる特権勢力の再台頭を促し、(外国と戦争をすることで国内の混乱を鎮めようという、一種のショック療法にも似た目的のもと)1792年、オーストリアとの開戦に端を発する長期の対外戦争を呼ぶ原因となる。
 また、こちらの方がより大きな特徴ではあるが、特権階級はおろか、第3身分であるブルジョワ層・大衆ともに、「国王に対して大きな不満は抱くものの、それを国家統合に必要な存在としては依然認めていた」ということであろう。
 これら↑の点については次回以降に論じたいと思う。

 
 なお通史に話に戻すと、1791年、「1791年憲法」の採択とともに国民議会はその形を「立法議会」という新しい姿へと改編したものの、その実態は内部分裂とそれに伴う対立が表面化する、きわめて不安定なものであった。
 また、物価上昇が続く中、国民の関心を外に向けることで不満を和らげようとする目的のもと、対外戦争をも開始していく。
 この一連の戦争については、既に述べたように、国王や特権階級などの王党派、反革命勢力が、諸外国による対外的な重圧(例:対仏大同盟)をあえて受けることによって国内の革命を終結させようする、といった意味合いもあったものの、時代の流れは味方せず、1792年6月の『トゥルリー宮進入』事件の後、8月10日、ジャコバン派(山岳派)とサン・キュロット層の蜂起により、王権はついに停止されるのであった。


 次回へ続く。


『フランス革命 ~革命をめぐるイデオロギー~』 vol.1。

2005-05-12 23:19:27 | 自由への試論。
序文…『フランス革命の定義』(研究動機)

   :市民革命か大衆革命か


■フランス革命とは、一般に1789年7月14日の『バスティーユ牢獄襲撃』事件から1799年11月9日のナポレオンによる『ブリュメール18日のクーデター』までの、約10年間にわたるフランス社会の大動乱を指すことが多い。そしてまたこの大革命は、フランス社会を根底から変革しただけにとどまらず、同時に全ヨーロッパに及び近代社会成立の転換点となったともいえる。
 たしかに商工業面について論じるならば、当時イギリスでは既にフランスに先んじて産業革命を済み終え、来るべき資本主義的・ブルジョワ的社会へと着実に進行していた。
 だが、現代ヨーロッパにも通じることではあるがイギリスという国は「島国」というその地理的要因にもより、素直に「ヨーロッパ」と表現しにくい部分があることもたしかではある。
 その意味において、やはり18世紀末当時、絶対王政の名の下に国王が君臨していたフランスという大国の動静がそのまま全ヨーロッパの動静に直結していたと考えることに大きな誤りはないであろう。

 
■そんなフランス革命であるが、この歴史的大事件は、その真実を見定めることが非常に困難を伴う作業であると言わざるをえない。歴史の教科書を紐解けば、ルイ16世やマリー・アントワネット。ミラボー、マラー、ロベスピエール。そしてナポレオン。などなど、歴史上の有名人物を列挙し続けることは容易い。
 だが、問題なのは、そうであるにも関わらず10年にわたる期間常に一貫した政治思想をもって歴史の表舞台に立ち続けた人物がきわめて少ないということである。そのいずれもが失脚、あるいは文字どおり革命の露と消えていった。最終的にフランス革命を終焉させ新たに皇帝に君臨したナポレオンにしても、彼が歴史の表舞台へと登場したのは革命中期以降である。
 
■以上の点から、私は「特定の歴史上人物」の視点からこのフランス革命なるものを考察する術を選択はしない。
 そこでそれに代わる研究視点として選んだものが、「市民」「大衆」という相反する2つの社会的階層の思想・視点からみたフランス革命である。

 ※この時代の「市民」とは現代社会における「市民」とはニュアンスが異なる。
  簡単にいえば「貴族たちのような特権階級ではないけれども、経済的・知識的にある一定の水準を超えた富裕階級」といったところか。

 
■バスティーユ牢獄襲撃やヴェルサイユ行進に代表されるように、フランス革命を「イメージ」的に捉えた場合、『大衆蜂起』という印象はきわめて強い。都市下層民たちが、「自由・平等・博愛」を理念としたフランス人権宣言を実現するために支配層階級と戦い続けていた、と。
 それもまた事実のひとつではある。
 また私自身、この研究において「市民」「大衆」という2つの視点は持ちつつも、主に革命期を通じての「大衆」の動向にその主軸をおいている。
 しかし、現実にはそのような大衆の暴走とは裏腹に、フランス社会が革命以後、ナポレオン帝政・王政復古といったプロセスを経て、19世紀においては「資本主義社会」という形へと移行していったこともまた歴史が証明している。
 
■では、この結果は果たして大衆の支配層階級に対する敗北を意味しているのだろうか? と同時に、それではこの革命を思想的面からに指導していったイデオロギーは何であったのか? そもそも、そんなものが存在していたのか?

 このフランス革命なるものは市民革命であったのか? 大衆革命であったのか?
 そしてこのフランス革命なるものは次代に何を遺したのか?


 以上の点を中心に、私はこの論文を進めていきたいと思う。
 

 ※なお、この論文においては「市民=ブルジョワ層」、「大衆=サン・キュロット層(都市下層民・マニュファクチュア従事者などの総称)」と定義して書き進めることをまずはじめにお断りしておく次第である。

『フランス革命 ~革命をめぐるイデオロギー~』 vol.0。

2005-05-12 23:18:20 | 自由への試論。
■突然ですが、Msiは学生時代「政治思想史」というゼミに入っておりました。
 とはいっても、いわゆる右翼左翼とかそーいうものではありませんよ?念のため(^^;。
 まぁ、例えばルソーだったりミルだったりアレントだったりと、そういう「政治思想家」と呼ばれる人々やその思想が社会にどんな影響を与えたか、などと云うことについて個人研究をしていくといったゼミです。

■で、Msiは「フランス革命」について研究(と言うほど大げさでなモノではないのですが)をしていたのですが、最近久々に当時自分が書いたものを読んだということもあって、今回いっそのコトこのブログにも載せてしまうコトにしました(笑)
 まぁ自分自身が書いたものですからね、いーかな♪と(^o^)。

■そんなワケですので、これから週一回ぐらいのペースでUPしていきたいと思います。
 多少ブログ用に修正はしたものの、基本的には当時の文章をコピペしただけですが(笑)、興味のある方は、よかったらどうぞ見てやってくださいませ~♪
 また、感想・指摘などありましたらコメント欄や掲示板などに書いていただければ幸いです。。


 というコトで、初回である今回は少し多めのUPにしました。
 なお、全体の構成および参考文献は以下の通りです。



■タイトル 『フランス革命~革命をめぐるイデオロギー』

■目 次

 序文 …『フランス革命の定義』(研究動機) 
       :市民革命か大衆革命か
     
 第1章…『大衆革命①~上からの革命、下からの革命』 
      :革命のはじまり


      :食糧革命~“パンを求めて”
                  ~サン・キュロット運動の隆盛

      :革命の舵取り~“錯綜するイデオロギー”
                  ~政府内外の対立  


 第2章…『大衆革命②~その発展と矛盾、その限界と衰退』  
      :サン・キュロット層の思想的発展と自己矛盾  


      :恐怖政治との別離~“テルミドールの反動”
                  ~革命主体の転換  

      :幻の革命~“バブーフの陰謀”
                  ~サン・キュロット運動の終焉


 第3章…『革命における啓蒙思想家の位置づけ』
      :“変革の必要性”の捉え方


      :ディドロ~“革命という行為の否定”
                  ~ブルジョワ社会論

      :ルソー~“ルソー主義、現実との格差・理念との隔離”
                  ~恐怖政治の展開


 第4章…『革命の終焉とその遺産、19世紀の到来』
      :ナポレオンへの道


      :革命が生んだ農村の階級構造


      :革命が生んだ様々な思想



 最終章…『フランス革命の意義』(まとめ)


■参考文献(著・編者50音順)

 『フランス革命と民衆』 
   アルベール・ソブール 著   新評論
 『フランス革命についての省察』
    エドモンド・バーク 著   岩波文庫
 『西洋の歴史~近現代編』 
    大下尚一/西川政雄/服部春彦/望田幸男 編 ミネルヴァ書房
 『フランス革命二〇〇年』
    河野健二 著   朝日選書
 『フランス革命と群集』
    G.リューデ 著   ミネルヴァ書房
 『フランス革命』
    柴田三千雄 著   岩波セミナーブックス
 『バブーフの陰謀』
    柴田三千雄 著   岩波書店
 『概説西洋政治思想史』
    中谷猛/足立幸男 編著   ミネルヴァ書房
 『西欧政治思想史序説』 
    藤原孝 著   サンワコーポレーション
 『フランス大革命』  
    マチェ 著   岩波文庫
 『ロベスピエールとフランス革命』
   松浦義弘
 『新詳世界史図説』 
   浜島書店
 『世界史B用語集』 
   山川出版社