智の庭

庭の草木に季節の移ろいを感じる、日常を描きたい。

書と絵をやって気づいたのですが

2017年08月06日 | 書道、絵を描く
六本木の国立新美術館で開催中の毎日書道展に見に行きました。

今、教わっている「かな」の先生の他、近所の先生、神田栄豊斎で教えていらっしゃる先生方の筆跡を鑑賞するためです。

また、表彰された方々の作品を見ることで、「毎日書道会」のトレンドも分かるかと。

諸先生方は、毎日書道会の役員方であり、上席で展示されていました。


漢字もかなも、「気脈」が通じることを優先しているのは分かりますが、

全体的に、直情的で激情を紙面に叩きつけるような印象を受け、

見るものに「しみじみと静かな幸福感」を与える「抑制の効いた理知的な」作品が少ないように、感じました。

美術館のように広大な空間で離れて見るに丁度良い「大画面」サイズで、

現代の居室サイズに比して大きすぎて、私室に飾ると圧迫感がするようです。


特に、「かな」は本来、平安貴族が小筆で巻物にしたためる形状と大きさが、一番自然と私は理解していますが、

人の背丈を越えるサイズの紙に、大きな筆で書くかな作品に至っては、

腹筋や背筋、腕や指の筋力を必要とし、曲線の優美さは失われ、角張り屈折した力んだ線を描いてしまう様に見受けました。


私の目指す方向ではない、と見定めました。

最初、私が書を始めた動機は、親しい人にメールではなく、お手紙を送るとき、

受け取り手の方々が、文面と書と添えた絵から、一瞬にして日常を忘れ、光と風を感じ、

幸せなひと時を過ごしていただけたら・・・、と思い立ったことに始まります。


実際に、筆と墨で書に向き合う時、高い集中力を要して、家人が居ない時にしますが、

電話の音も煩わしく、鋭敏で短気な性格になっていく自分を、発見します。

ところが、植物という自然を手本にして、絵を描くと、おおらかな気持ちで臨めて、

家人の気配も差し障らず、中断しても、すぐに元の世界に戻れます。


書は一瞬にして勝負が分かれるので、緊張感をぴーんと張りつめていなければならないのでしょう。

歳をとり手が震えてくると、書を断念する人が出てきますが、

絵の教室には、80歳、90歳の方々が、思い思いの作品を手掛け、おおらかな空気感が漂っています。

私は、両方の世界を行ったり来たりしながら、表現の世界を模索していくことになるのでしょう。