大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

わたし

2010-04-14 01:36:20 | 日記
いつもある、あたりまえのことは見失われやすく、たまに経験することは貴重に思えます。
でも、たまに経験することは、いつもあるあたりまえに支えられています。

わたしたちの経験している世界は相対的です。
一方での、得、勝利、善は、他方では、損、敗北、悪です。
得したと思えたことも、視点を変えれば、損にもなります。
限られた部分での視点、生き方、「わたし」を限られた部分と捕らえれば、ごく限られた部分に、得も勝利も善を感じ、多くの部分に損や敗北や悪を見ます。
これらの相対的な世界、変わり続ける世界、変化、は、「変わらない」を基盤にしています。

Aの状態がBに変わります。
Aの瞬間と次のBの瞬間。
文字通り、そこには間、瞬の間があります。
間。中間。
連続しているようでも、よく考察するとそこには間があります。
文章は文字の連続ですが、文字と文字には間があります。
話す言葉、聴く言葉も、音と音の間があります。
呼吸と呼吸の間。

間は普段は忘れられています。AやBは経験しますが、間は経験しません。
AとBの間として理解され、経験されますが、間そのものは経験されません。
ですが、すべて、この「間」が、すべてを支えています。「間」がなければ表現は成立しません。

見えるものは見えないものに支えられています。経験は経験できないものに支えられています。
それゆえにそれらが「ある」こと自体、忘れられやすいのです。

わたしたちは毎日、寝ます。寝ると、今まで経験していた世界は失われ、どこかへ向かいます。
夢をみる時もあれば、みない時もあります。夢の世界、それ以外の世界。
いったいどこへいったのか、わかりませんが、朝には戻ってきます。
寝る前と寝た後の間。
活動は休息に支えられています。

活動を続けると、やがて眠くなり、寝てしまいます。
夢をみている間は夢を経験していますが、夢も経験していない状態、
熟睡中には、何も経験していない状態も含まれています。

何も経験がない状態。それは「わたし」だけの状態です。
そこには、対象がありません。対象がなければ経験できません。
対象は「わたし」ではありません。
「わたし」は経験する側であり、経験される対象ではありません。

鏡に映る「わたし」は「わたし」ではありません。
日常、経験する世界に「わたし」はいません。
「わたし」は経験できないものです。
この肉体が「わたし」ではありません。
「わたし」が肉体を経験しているだけです。
さまざまな感覚器官、目や口や鼻、手や足といった感覚器官を通して経験しています。
これらは窓のようなものです。
これらの窓をとおして、世界を経験していますが、窓も家も「わたし」ではありません。

「わたし」は表現されていません。
それゆえ、永遠不変で不滅です。「あり続け」「経験しつづける」永遠の主体。
それが真の「わたし」です。

「わたし」は有であり、無です。
そして、そのどちらでもありません。

「わたし」は認識される者ではなく、認識するものです。
ですから、言葉など認識するものを超えています。
絶対で普遍的な意識そのものです。

また唯一の「わたし」にとって、認識対象と認識主体という区別は存在しません。

専心するということ~アルジュナの日記を読んで

2010-04-06 04:35:12 | 日記
クリシュナ演じる「私」は、アルジュナが存在している限り、アルジュナに「私」を思い出させるために登場します。
しかし、これは、「私」が自然に要請されているからです。
「私」は、必要ごとに演出します。

「私」はクリシュナでありたいか、
望まれれば、もちろんそうします。
そして、クリシュナを演じている間は、一生懸命情熱を注ぐこともできます。
「私」に不可能な事はありません。

「私」が何者を演じようとも、その過程にも結果にも巻き込まれる事はありません。
なぜなら「私」は演じているだけだという事を知っているからです。

「私」にとって、この世界の必要とする旅のシナリオに使われる題材は何でもかまいませんが、この内容は普遍であり不変です。
同じ世界に住むどのようなレベルの生命も、実に皆同じ方向を目指しています。とても美しく廻り続けています。
生命は永遠に続く輪廻の進化の中でその頂点を極めるまで廻り続けます。

「私」の欲求は自然からの要請です。しかしそれに巻き込まれる事はありません。
「私」を知らない欲求不満な人たちは、常に活動に依存します。「私」を信じることも、他を信じることもできない状態のようです。
飽くなき欲求に巻き込まれ、真実を見ようとしないかのようです。
そのような状態は、そもそも「私」からかけ離れたものです。
何をやっても落ち着かず、何をやっても不満があります。
このような生命は在るだけで罪を犯しています。

「私」の本能の「活動」さえ、「私」には含まれません。
「英知」のインスピレーションさえ、「私」を巻き込むものではありません。

飽くことを知らぬ欲求によって駆り立てられる罪悪はどこからくるのでしょう。
欲求の影響から自由を得ていないのはなぜでしょう。
まだ悟っていない人にとって、欲求は、純粋意識を覆い隠し、更に活動へと駆り立てるもののようです。
ですから、輪廻の輪から抜け出すことができません。このような状態では抜け出せるわけがありません。

天照太御神は、鏡を重視します。
鏡は「私」を映します。
実に、「私」は常に映されています。

「私」が何者かまだわからないうちは、その姿を忘れ、活動の中に巻き込まれながら愚かに生きるしか在りません。
しかし、「私」が何者かわかった後は、その姿に神聖さを感じ、活動に巻き込まれること無く至福を生きていくことができます。
この進化した状態は、誰にでも簡単に得ることができます。
人がこの状態にまで進化すれば、活動の全てが、経験の全てが、神聖な光と共に在ることを知るでしょう。

この状態を生きられない限り、人は罪を犯す可能性が“常”にあります。
なぜなら、活動が、経験が、神に捧げる神聖なものにはなっていないからです。
暗闇には光がありません。
しかし、一筋の光が差し込めば、うっすらと「私」を映す鏡を見ることができるようになります。
光が充分に満たされたとき、はっきりと「私」を映す鏡を見ることができるようになります。
“常”にという時、その罪はその人の人生の全てにあるということを意味します。
そのようなまだ悟りを開いていない人は、常に罪を犯しているということです。これは真実です。
しかし、光が充満し、神の意識で生きている人は、何を行っても罪を犯すことが無くなります。
バガヴァッド・ギーターの中でもクリシュナは、アルジュナにこの状態にまで高まってほしいと願っています。
人を愛するという気持ちと、人を殺すという気持ちのバランスは、悟りを開いた状態である、神意識にならなければ得られるものではないのです。
誤解しないでいただきたいのは、このバランスが取れた状態とは、悟りを開いた状態である、神意識にならなければ得られるものではないということです。
この状態に達しない限り、常に慎重に生きなければならないという不自由な生命を生きなければなりません。神経系全てに緊張が続きますので、なにをやっても成功する事ができないでしょう。
そこから脱したいと苦しむアルジュナは幸せです。
なぜなら、クリシュナが登場するからです。
苦しみを苦しみと認識できるのは、何が善で何が悪か、実はわかっているからです。
苦しみは悪です。
至福は善です。
苦しみを長く続けていると、善である至福がそれを許しません。
ですから苦しみから脱することができるようになります。
永遠に苦しみから脱したいという、究極の欲求は、「常に専心し」という言葉に置き換えられています。
アルジュナは、神を知るまで、常にクリシュナに専心しなければならないのです。
光が差し込み充満すれば、常にクリシュナと一つに生きられるようになれるのです。

人は、「私」絶対なる「存在」「真我」「実存」「神」を知るまで、常に信じるものに専心しなければなりません。求めるなら、これを専念し続けなければなりません。
真摯に、直向(ひたむき)に、情熱をもって生きるには、“信”じる事が必要なのです。
信じる気持ち(専念)があるからこそ、結果が出るまで忍耐をもって持続することが可能となります。

バガヴァッド・ギーターは、宗派を問わず、万人に向けられている聖書です。


アルジュナのブログ
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決意と責任感 ダルマ(義務)~4月1日のアルジュナ日記を読んで

2010-04-02 07:32:19 | 日記
決意と責任感 ダルマ(義務)~4月1日のアルジュナ日記を読んで


「私」は絶対なる至高の「存在」である と認識しても、すぐには二元性の思考回路から抜け出せないのは、当然です。
行動は進化の手段です。そして、「私」と「神」を結びつけ、その統一が永遠のものとなるとき、進化はその頂点に達します。
この状態になれば、なすべき行動は何もありません。

第3章 詩節33
他方、アートマン(真我)において喜び、真我において満足し、真我において楽しむ人、そのような人にとって、もはやなすべき行為は何もない。

行動の結果に執着することなく行為を行うためには、絶対者「私」至高なる「存在」に関する正しい知識が必要です。
第4章 詩節33
知識の祭祀(行為)は財物によりなる祭祀(行為)よりも優れている。アルジュナよ。全ての行為は例外なく、知識において完結する。


第6章 詩節33 34 35 36
アルジュナは言った。
「あなたはヨーガが平等の境地であると説いたが、クリシュナよ、私はその不動の境地を見出せない。心が動揺するから。
実に心は動揺し、かき乱れ、強固である。それは風のように制御され難いと私は考える。
聖バガヴァッド(クリシュナ)は告げた。
勇士よ、確かに心は動揺し、制御されにくい。しかし、それは常修(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)とによって捉えられる。
自分を制御しない者はヨーガに達し難いと、私は確信する。しかし、努力してアートマン(真我)を支配した人は、適切な方法によってそれを達することができる。

心の動揺は、思考や理解、つらい忍耐など、心の表面レベルで制御できるものではありません。そんなことをすれば更に混乱してしまうでしょう(笑)。
クリシュナは心を一点に集中させる不動の状態とは、常修(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)とによってとらえられると言っています。
また適切な方法によってアートマン(真我)の境地に達することができるということです。
バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは何度も繰り返していますが、「私」絶対者に絶えず自分を結びつけること、平等の境地であるヨーガは、絶対者との結合(合一)であるといっています。またそれは努力する必要があるのです。絶対者の境地、「私」の境地の達成にむけ、信じ求める求道者がヨーギン(善行者)です。

第6章 詩節46 47
ヨーギンは苦行者よりも優れ、知識ある人よりも優れていると考えられる。また、ヨーギンは祭式(カルマ・ヨーガ)を行うものよりも優れている。それ故、アルジュナよ、ヨーギンであれ。
全てのヨーギンのうちでも、「私」に心を向け、信頼崇拝し、私を信愛するものは「最高に統一した者」であると、私は考える。

この章で尊主クリシュナは、悟りを目的とする苦行、作為を否定しています。インドのヨーギンはカルマ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ等さまざまなタイプのヨーギンがいます。
それらのヨーギンのうちでも、「私」に心を向け、信頼、崇拝し、私を信愛するものは「最高に統一した者」であるといっています。信愛するヨーギンとは、バクティ・ヨーギンです。
バガヴァッド・ギーターでは、親愛(バクティ)は、全ての段階において必要とされています。そして、最後18章では、最高の親愛(バクティ)が生じたとき、真実の知識が生じると説かれています。実は、さらに最後の真の知識が実現したとき、究極の親愛が訪れます。
全ての行動を絶対者に対する捧げものとして行うことができるようになるには、まず、行動のヨーガ(カルマ・ヨーギン)であることが必要です。
その次に、知識のインスピレーションを得ながら、神への親愛を深めていくのです。
釈尊(ブッダ)も、激しい苦行を行いましたが、ある時点で自分の行っていた苦行は無益であると気付き、苦行を止め、悟りを開いたのです。
苦行や作為も、拘り偏っているかぎり、個人的な欲が残っている限り、悟りを開くことはできません。

第6章 詩節16 17 18
食べ過ぎるものにも、全く食べない者にも、睡眠をとりすぎる者にも、不眠の者にも、ヨーガは不可能である。
節度を持って食べ、散策し、行為において節度を持って行動し、節度をもって睡眠し、目覚めている者に、苦を滅するヨーガが可能である。
心が統一され、真我においてのみ安住する時、その人は全ての欲望を願うことなく、「統一した者」であるといわれる。

更に、詩節22 23において、
それを得れば、それに勝る利益はなく、そこに止まれば、大きな苦しみによっても動かされることがない。
そのような、苦との結合から「分離」することが、ヨーガとよばれるものであると知れ、このヨーガ「合一」をひるむことなく、堅く決意し修めよ。

クリシュナは、苦との結合からの「分離」が、すなわち「合一」ヨーガという、全く相対するものを同じレベルに置き素晴らしい表現で説明しています。
更に合一の最高レベルを下記に表現しています。

詩節 28 29 30 31
このように常に統一し、罪を離れたヨーギンは、容易に、ブラフマンとの合一という、究極の幸福に至る。
ヨーガを確立し、一切を平等に見る人は、万物の中に真我を認め、また真我の中に万物を見る。
「私」を一切のうちに見る人にとって、「私」は失われることなく、また、「私」が「彼」を見失うこともない。
一体感に立って、万物に「存在」する「私」を親愛する者、そのようなヨーギンは、いかなる生命で生きていようとも、「私」のうちに生きている。
真我に匹敵するものとして、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切において等しいものと見る人は、最高のヨーギンである。アルジュナよ。

ブラフマンとの合一は、究極の喜びだといわれました。またブラフマンの合一は容易であるということも説明されました。
また、ブラフマンとの合一の状態を、万物の中に真我を認め、また真我の中に万物を見る、またこの視点では、一切を平等に見るレベルであるといっています。ブラフマンとの合一により、人は、180度視点が変わります。
ブラフマンとは、30日のブログでも説明しましたが、不二一元論です。一元性という視点を得たとき、統一の視点がその生命のあらゆる見方に変わったとき、「私」の意識が、最も神秘的な「神」の「存在」に生きられるようになります。
これは、意識の進化です。
しかし、全生命のうちに繋がっている、そもそも「存在」しているこの「神」意識は、誰のうちにも内在していると何度も繰り返しお伝えしています。
本来は求めなくても在るものなのですが、見失っている間は、決意し、求め、努力しなければならないのです。「私」が見失っている間は、「神」にも見失われています。

しかし、尊主クリシュナもいっているように、この親密な一体感に立つと究極の幸福の中で、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切において等しいものと見る人となるのです。

幸福や不幸といった二元性は、一元性の充満性の中では、子供の遊園地の体験のように感じられるのです。

二元性におけるどんな苦しみも、「私」の一元性の光の中では、影を落とすことができなくなるのです。

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絶対なる「私」の存在に気付くということ~31日のアルジュナの日記を読んで

2010-03-31 15:48:45 | 日記
無知なレベルでの「私」はまるっきり勘違いされています。快適に生きて生きたいと言葉では言っているのに、本質では不幸になりたいと思っているかのように苦しんでいます。(笑)

しかし、賢者は「私」の「真我」は永遠で、「私」のものなど存在しない。この手も、この足も、この心臓も「私」には属さない。「私」は、あの大いなる絶対的な神(至福)の「存在」と合一されている。というでしょう。

「私」「存在」は、目撃するものです。
「私」は、対象を知っていますし、対象と結び付けているものも知っています。
しかし、「私」は対象に巻き込まれることはありません。

これが真実です。

恐怖、恐れ、不安、は「知らない」状態のようにみえます。
まるで経験される多様な世界は、「知らない」ことを基盤に展開しているようです。
「知らない」という状態が、世界を展開し、経験を可能にしているのです。
そのような人は「私」を知らないのです。

「私」は主体です。「存在」という言葉が用いられています。being。「ある」ということ。
be+ing あり続けています。今も昔も未来も永遠にあり続ける「存在」です。
「ある」は「ない」ではありません。
「ある」は永遠に「あり続けています」。「わたし」は「ある」。「わたし」は不滅です。「わたし」「存在」は永遠にあり続けています。

あなたは「存在」しています。
当然のことのように聞こえるかもしれません。
今日のブログを読む限り、アルジュナは、私は私を知らないといっているようです。
アルジュナは知らないということを知っています。
知っているということを忘れています。
本質的に「私」は、経験するということを超えています。これが答えです。

「私」は、「存在」していますが、経験を「私」だと勘違いしています。
経験は、手と足と心臓と同じ、二次的な世界に属しています。「私」は絶対的な、一なる「存在」です。
この、極微の「存在」に感謝が出来れば、「生かしていただいてありがとうございます」の本当の意味がわかります。
わからないうちは、疑心を消し、純粋に認め、信じることにより、次第に経験により思い出されていきます。これはカルマヨーガのレベルです。

ですから、「私」はまだわかっていない視点で居る疑心ある人にはこう言います。

あなたは全てを持っているのに、どうしてないというのでしょうか?
どうして私に教えて欲しいというのでしょうか?
何が欠けているというのでしょうか?
必要なものは全て在ります。これもそれも全て。
全てが「私」の存在です。
本質的に「私」が経験する全てのものは「私」の表現です。
そこに過程が存在しますし、表現されたものを目撃していますが、「私」はそれらに巻き込まれることはありません。

これが真実の視点です。

この視点は、今のアルジュナの視点とは180度違うのです。
180度ということは、まったく違うレベル(世界)に居るということです。

私は○です。私は円です。
「私」は全てを目撃できますから、360度見渡すことが出来ます。
視点は広さと深さを表現しています。
完全なるものを確認できます。

わからないということは、360度を知らないということです。
なんと不自由な世界を選択しているのでしょうか。(笑)

私は何かと何かの間にあるギャップに存在しています。
何物でもありません。
私は「存在」です。
あなたも「存在」そのものです。
ですから本質的に私たちに境界はありません。

第二章詩節45は、すでにあなたの内にあります。それは感じるものでも理解するものでもありません。
それは、感じるということや理解するということを超えているのです。

知るということが超越されたとき、それを生きることが出来ます!
最後に「知る」を超えるということを覚えておいてください。
クリシュナは、「全ては知識において完結する」といっています。
この、知さえ超えたとき、悟りを開くことが出来ます。
180度視点が変わるということです。

しかし、「私」は経験し表現を続けます。
そのとき「私」の経験、表現は全て神への捧げものとなっています。
ですからその時、あなたは今のあなたの視点(自分に対する視点さえ)を失っています。
全てが180度違う視点から表現されているのを目撃するのです。
その確認が出来るまで「知」と「経験」を繰り返します。
ですからクリシュナは、「遠からず」といって多少時間がかかるといっているのです。

目撃するものは、表現されたものを目撃しています。
目撃するものとされるものの間にあるそれらをつなぐ過程。
目撃するために表現されるものが存在しているのに、私を表現されたものと同一している、ここに無知があります。

180度視点を変えたいのであれば、まず、知る必要があります。
理解できないというのであれば、少なくとも疑心を払い、認めるべきです。

アルジュナのブログ
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「求めるということ~過去さえも変わるとき」30日の日記を読んで

2010-03-31 04:07:02 | 日記
「求めるということ~過去さえも変わるとき」30日の日記を読んで

人がまだ何かを求め、得たいと望むなら、まず、「私」を知ることにより、その経験を楽しみ、最小の行為で最大の果実を楽しむことができます。

真我の「私」は、求めることはありません。それは目撃する意識そのもので、「無」とも「有」ともいえる状態です。
二元性からみれば「在る」のみですが、なにか、経験を求めているようにもみえます。「私」が経験するということも矛盾しているように見えます。「私」は「私」のみで満足していますが、経験はその人の本能と責任によってなされているようにみえます。しかし、「私」はただ、在るのみの状態にとどまっています。
「私」はとどまっていると言うとき、その言葉にも矛盾を感じます。「私」は何ものにも属さないので、とどまるとか、とどまらないというものを超えています。

望むものが善であれ、悪であれ、拘りがある以上、失敗が隣り合わせに在ります。成功と失敗が隣り合わせにあります。これは自然の法則です。無知はいつまでも拘り、苦しみを引き寄せます。まるで失敗し、苦しみたいと願っているようにみえます。まるでそれを望んでいるかのようです。
人生に快適さを求めたり、生活を豊かにするために欲望を持つのですが、その思いが純粋であれば成功します。要するに、その人の行動の結果はその人の純粋性と比例します。行動には結果を楽しむための技術が必要です。より快適に生きるセンスがあれば、人生は安定の中でスムーズに流れていきます。

欲求は、「欲しい」と「得た」という二元性のよって導かれます。これが人を狭い境界の中に束縛し、狭い境界のわずかの幸せしか与えません。絶対的な「真我」である「私」は、そのようなわずかな幸せ、しかも束縛を伴った有限な幸せでは満足できません。そして、このことがより多くの幸せ、真理と本質の「私」を求めている理由です。この探求が人を問題、懸念、不快な活動のし過ぎを起こしたり失敗させたりします。本当の目的は完全に見失われています。実は、「私」はすでに完全で至福の創造において為すことは何もなく、欲求することもなく、達成することなど何もないことを知ることが出来れば、その時、初めてこの相対世界を楽しみ、また目的を成就し始めるのです。
この真理を知らない、「私」を思い出せない無知なうちは狭い境界の中で人は幸せを求めます。何かを得ることで幸せになるだろうと思って求めます。ですが、様々なものを得ても、それらが真に満たしてくれないこともだんだん理解します。健康になっても病気を治しても億万長者になっても満たされません。
真に満たされるのは、既に満たされていることを知る時だけ。自分が純粋意識であることを生きる、啓発、一元性を生きる以外に真の幸福はありません。

如何にそれを実現するか。より実現した人は浅瀬を伝え、さまざまなヴェーダ(知識)はそれを助けます。知識として、音として、波動として。
ですが、自分が純粋意識であるわけですから、そのヴェーダも実現した人も自分であり、自分の表現!真に存在しない幻であり、真に「私」を満たすものではありません。

如何にすれば、より多くの人が、それを実現・実感できるのでしょうか。その答えは、1、行為の道(自然本性に沿った行動と祭祀)、2、知識の道(自己の本質アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一だという知識を得る)、3、親愛の道(献身により我を失うほど愛の海に溺れる)。
尊主クリシュナもシャンカラ(インド哲学の主流を形成するヴェーダーンダ学派のなかの不二一元論派の創始者とされ、しばしばインド最大の哲学者であるといわれている。)も、2、の知識の道が何より望ましいとしています。

ここで、超哲学的になってしまうのですが、不二一元論( アハン ブラフマースミ)の説明をしておきます。不二一元論を簡単に表現すると、自己の本質アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一だという知識を得ることで解脱できるということです。同じ時間と場所を過ごしても、その人の感じること、経験したこと、印象に残ることは異なります。それはその人それぞれが適した必要な経験をしていますので、全部正解です。その人が経験したこと、なぜか印象に残ったことを読み解くのはその人自身の楽しみです。よく、宗教の世界では、教祖はこう言った、イヤそんなこと言ってないという論争になります。言った、言わないというそれぞれの印象、経験を戦わせます。二元性の世界は戦いの世界です。二元性の視点では、誰が、という事項は重要です。これは私がした。これは私のもので、それはあなたのもの。さまざまなことが別れています。
しかし実際には境界は存在しません。国境が実在しないのと同じで、ただ勝手に別れていると感じているに過ぎません。実体の無い幻です。
この幻、夢の中で、私たちはトラやヘビというものを生み出して恐れ戦っています。しかし全ては純粋意識である「私」の表現であり、ひとつの全体性のみが真実です。

シャンカラは、「私」について解説します。主体である「私」は対象ではありません。「私」は主体です。主体は対象にはなりません。
「私」は男である。「私」は会社員です。「私」は教師です。二元性の社会では自覚が重視されます。「教師」や「親」である自覚をしっかり持つ人は尊重されます。
ですが、これは無知の世界であり、戦いの世界、苦しみの世界です。真のなすべき自覚は唯一つ「私」は「あれ」でも「これ」でもない。ということです。
「親」「教師」「男」「女」すべて対象です。それらを経験します。経験するものは対象です。対象は主体ではありません。対象は対象であり、主体は主体です。
ですが、「私」は~であると言うとき、いつのまにか「私」が「対象」に隠されてしまいます。
実は、「私」の身体、内臓、心、精神も、「私」には含まれていません。

睡眠は、だんだん深くなると経験のない状態になります。人は眠っていたと思います。熟睡中も人はブラフム、「私」だけの状態です。
「私」だけの時には経験がありません。主体のみの状態です。つまり、経験がないといのは、それが真の「私」であることの何よりの証です。
布が「私」ではなく、染料が「私」であることが理解できます。でもずっと「布」が「私」だと思っていたので、違和感があります。
科学的理論、哲学的論理、さまざまは知識からも、正しくは「私」は純粋意識であることがわかります。
しかし、人はこの視点に慣れていません。啓発とは視点が変わることです。「私」が純粋意識であるという知識が、ああ本当にそうだと実感する。
そうなるように最適に全ての人生は設定されています。

まさに奇跡です。「私」は完全性です。

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愛(バクティ・ヨーガ=献身の道)~29日の日記を読んで

2010-03-30 01:26:26 | 日記
愛(バクティ・ヨーガ=献身の道)29日の日記を読んで

人間が人生の中で経験する愛を想像してみてください。
いろいろな愛の流れがみえてきます。
まず親子の愛、友人への愛、異性との愛、また様々なレベルの生命に対する愛、全人類に向けられる愛、神への愛。
まず、赤ちゃんは母の愛を受け、成長していきます。母は我が子に見返りを求めない愛を与えます。母がいなかったという人でも、「私」に乳を与え育ててくれた人がいるはずです。子供はその絶対なる母の愛の安心感の中で成長していくことが出来ます。子供が学生になり、友人との関係の中に愛を感じます。友情は家族の絆のように確実に人と人を結び付けていくことになるでしょう。またその愛が小さなものであったとしても個人の成長と共に進化していくことでしょう。
その人が大人になり恋愛します。異性に好意をもつ感情が発展し愛は新たな家族の絆を創ります。小さな命をはぐくみ生み育てるという責任を伴った愛を経験します。さらにその人の愛は進化します。他人に対する愛が発展し、全人類を愛するようになります。地球上に「存在」する全ての生命体に博愛が生れてきます。
愛は、慈しみ、哀れみなど、様々な表現を体験させます。
その人はさらに進化し、神の愛を感じるようになります。神の愛はその人の個性を無くすだけではなく神そのものへと進化させるほどの強烈な愛です。その愛に溺れ我を失います。
私たちは神の愛を知るために生れてきています。
子供のもつ幼稚な愛から完成された献身的な愛へと発展しながら人は進化しています。その流れは与える、与える、与えるものへと進化していきます。

本質的に、「私」は愛で溢れています。
それを忘れているのは、知りたい、思い出しもう一度確認したいということなのかもしれません。

バガヴァッド・ギーター全ての章では、読者の感情を満足させる、尊主クリシュナの愛の流れを生き生きと感じることが出来ます。
第4章 詩節10では、
「執着、恐怖、怒りを離れ「私」に専心し、「私」に帰依する多くの者は、英知の苦行(熱力)によって浄化され、「私」の状態に達した。
第4章 詩節11 人々がいかなる方法で「私」に帰依しても、「私」はそれに応じて彼らを愛する。人々は全て「私」の道に従う。
第6章 詩節47 すべてのヨーギーのうちでも、「私」に心を向け、信仰を抱き、私を信愛する者は「最も最高に統一した者」であると「私」は考える。
第7章 詩節17 彼らうち、常に「私」に心を向け、ひたむきなバクティ(親愛)を抱く、知識(英知)ある人が優れている。知識ある人にとって「私」はこの上なく愛しく、「私」にとって彼は愛しいから。
第7章 詩節18 この人々はすべて気高い。しかし、知識ある人は、まさに「私」と一心同体(合一)であると考える。というのは、彼は統一し、至高の帰趨である「私」に依拠しているから。

ここでの、知識ある人とは、最高神であるクリシュナについての真の知識を持つ人で、同時に常に自分をクリシュナに結びつけ、ひたむきな親愛(バクティ)を抱く人だということです。
この、バクティ(親愛)とは、サンスクリット語で「愛する」とか。「分ける」とか「与る」、「信仰」という意味で、動詞語源「バジュ」から派生したことばです。
また語源的には、「席などを分かち合う」、「一緒になる」「結合」「合一」というような意味もあります。
最後の18章までクリシュナの愛は止まることがありません。その愛の流れをアルジュナは受け取っていきます。
最初は友人として、そして最高神からの愛を受け取れる状態にまで高まっていく姿は、全人類に崇高なるインスピレーションを与える素晴らしいものです。
第7章 詩節25、26、27、28
「ヨーガのマーヤーに覆われた「私」は、全ての者に明瞭ではない。この迷える世界は、「私」が不生不滅であることを知らない。
 「私」は過去、現在、未来の万物を知っている。アルジュナよ。しかし、何者も私を知らない。
 好悪から生ずる相対観の迷いにより、万物は創造の時すでに迷いに陥る。
 しかし、善行の人々の罪悪が尽きる時、彼らは相対観の迷いを脱し、強固な信念を持って「私」を信愛する。
 老死から脱するため、「私」に帰依して努力する人は、あのブラフマンを知る。アートマン(真我)に関してその一切を知り、カルマ(行為)を残らず知る。
 また、被造物に関して、神格に関して知識を得る。また、祭祀に関して「私」を知る。臨終の時においても、私をこのように知る人々は、「私」に崇拝し、最も内なる「真我」が私の中に溶け込み、真の「私」を知る。

万人の最も内側深くに鎮座されている、絶対神であるクリシュナの状態が生き生きと表現されているのがわかりますでしょうか。
7章までの一部の表現をピックアップいたしましたが、この部分だけでも愛の本質を知るのに十分な知識が与えられています。
人は、この愛を知るために生れてきています。経験上、疑う余地はありません。
バガヴァッド・ギーターは、全宇宙の生命に贈られている崇高で偉大な聖書である所以です。
この、「愛」の質とは、それを愛と表現することにより、その人の意識状態で捉えるしかないのですが、その意識状態により様々な捉え方があるということを肝に銘じておかなければなりません。「神」と「私」の中の愛の流れを繋ぐことは、尊主クリシュナもいっている通り、誠実に、信頼を持って、「私」を崇拝し、献身の過程を経たとき、自然に沸き起こるインスピレーションであり、自然に沸き起こる感情です。
もし、まだわからないと思う場合は、それを知っている人にいくらかでもその状態を聞きながら、その人を師とし、知識を得ていくことが必要です。
「真我」、「本質」の「私」が「存在」している理由は、すでに万人の中に「在る」のですが、それを思い出せないだけです。
純粋なる意識になれないのであれば、アルジュナのように実直に、その状態を知っている人に聞くことです。知識ある人は、求める人に対し愛をもって教えてくれることでしょう。そのような人の慈愛は深いので、求める人は即座に安心し、信頼を持って教えを請うべきです。どのような問題も存在しないということを、愛を持って教えてくれます。自分の小さな世界に生きているだけでなく、あなたの内側にある、「真我」の「私」の「存在」に入れば無限の至福を生きられるようになるということを教えてくれます。
私たちは、「神」の内で生かされ、「神」を知り、それと一体となるために生きています。

そもそも、私たちは一心同体なのです。

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嘘と決定~28日のアルジュナの日記を読んで

2010-03-29 03:33:01 | 日記
嘘と真実は相対的です。
どちらにも拘るべきではありませんが、人は真実のみを生きることが可能です。
無知な人間の意識にとって、嘘やごまかしは「私」の全レベルにおいて「私」を縛る鎖となっていきます。
そして「私」が苦しい事さえ気付づいていませんから、これは偽善です。
実は、「私」は本質的に苦しみさえも超えています。

「私」、「存在」している「本質」で生きていくことができれば、信じられないかもしれませんが嘘やごまかしが本当に再現される現象を観ることができるようになります。
嘘をついても本当になるのですから、嘘はつけなくなるのです。
実直に正直に生きていると、嘘をついても嘘がつけなくなっていることに気付きます。
もし嘘をついたとしても、目の前に確かな経験として、嘘が真実に変化する現象が現れてきます。

この状態に達しない間は、嘘やごまかしをするべきではありません。
「私」を苦しめるということになってしまいます。
そのような状態で幸せになれるはずがありません。

人は言葉を巧みに利用し生きていますが、巧みに利用すれば利用しようとするほどその言葉に拘りが出てくるのでしょう。
私のアルジュナはまさにその状態だと思いました。本人の意識レベルでは拘っていない(嘘は軽いのりだった)というかもしれませんが少なくとも、負の連鎖をパターン化しているように、まるで拘っているかのように見えたのです。

嘘をつかないように心がけることと、拘りを無くすこと。当面のアルジュナの課題でした。
真実のインスピレーションにより、自分の愚かさに気付いたとき、そこから問題の無い生き方の選択を決意し行動していくことができます。
たとえ1年間でもこの状態を持続することができれば相当変わるでしょうが、それさえも表面的なことに過ぎません。
実は1年もかからずにまさに今、この瞬間に変わることもできます。
それは決意の大きさによります。
信念をもって、行動するとき、決意の固まった人いうことができますがこれも表面的なことです。

実直に正直に生きるということは、その人の質に含まれるべきものです。
それは表面的なことではないので、その人の全てに染み込んでいます。
そのような人にとって正直に生きることは当たり前のことなので、そうでない人の場合、正直に生きようとしてもそれは欺瞞となってしまいます。

行動の技術(生きるセンス)とは、まさに、第2章詩節45にある、
「ヴェーダは三つのグナよりなるもの(現象界)を対象とする。三つのグナを離れよ。アルジュナ。相対を離れ、常にサットヴァ(純質)に立脚し、獲得と保全に捉われず、真我を保つのだ。」これは即座にどのレベルの苦しみも取り除くことが出来る最高の英知です。
これを説明するにはまず3つのグナから説明する必要があります。グナとはプラクリティ(物質的原理の根本原質)から展開するもので、それはサットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(鈍質)の3つの要素(質)のことです。全ての行為はこのトリグナ(3つのグナ)の相互作用から成り立っています。心臓を動かす本能的な行為でさえ、この3つのグナの相互関係が必要です。
感情や思考、精神のような内的なものも含め、この相対世界にあるものはトリグナの支配下にあります。私たちはこの世に生を受けた瞬間からこの相対世界のトリグナの戯れと共に成長してきたのだし、進化の過程も、その結果もこのトリグナの戯れによるものです。
この究極の原因を越えよ。と、尊主クリシュナはアルジュナに求めています。
アルジュナは、善悪の狭間で身動きが出来ない状態になっています。善と悪に対しとても敏感になっている状態ですので、クリシュナはその相対する2つのものを超えてほしいと思っています。それにはまず、3つのグナを超えて「真我」そのものになりなさいといっています。
現象界を超越した「真我の存在」そのもののレベルは生命の究極の原因、それは英知です。それは魂です。それは真我です。それは全ての原因であり、完全なる至福の意識です。この状態に入らなければ二元性を超え、純粋なる意識で善悪を判断することなどできないということです。その純粋意識の「私」は、第2章詩節7,8でアルジュナが陥っていた状態から脱する答えも同時に与えるものです。「たとえ、地上において比べることのできない繁栄した王国を得ても、また神々さえ支配する力を得たとしても、」そのような偉大の力を伝授してもそれに巻き込まれることがなくなります。アルジュナはこの戦いが終われば、巨大な富や権力を所有する地位につくことになるでしょう。そのような相対世界の中の巨大と思われる力に対しても不動の状態を伝授するに値する崇高な意識レベルにまで引き上げていくことをクリシュナは願っています。
アルジュナの意識がそのような不動の状態にまで引き上げられなければ、所有した富や権力は逆に人を誤りの状態へと引き下げるものになってしまうのです。
「常にサットヴァ(純質)に立脚し、獲得と保全に捉われず、真我を保つのだ。」
とは、万人の心の中のトリグナを越えた真我のレベルにあると尊主クリシュナは言っています。
それは、誰にも等しく与えられている「真我」、本当の「私」のレベルです。そのレベルで生きていくことはとても自然のことなのですが、外側の現象に拘り、あたかも外側の対象に巻き込まれているようにみえるということは、まさに「真我」を生きていないということになります。
現象に拘るということは、行為の結果に切望することです。
その拘り、切望する気持ちはその大小にかかわらず、むなしい結果を引き起こしてしまいます。
統一意識の状態とは、善悪、成功失敗、相対する全てのものを超えているので、行為の結果に束縛されることはありません。ここに行動の技術(センス)があります。
「私」が行動するとき、何か目的があるようにみえます。
それは想定されていますが、それに拘ると、過程にエネルギーを注ぐことができなくなります。結果に拘ると、無知な人間の有限なエネルギーは、常に結果の想定のためだけにエネルギーを使うことになってしまい、過程に没頭することができない状態となります。これでは何を行っても成功することはありません。成功の秘訣は、結果を想定した後、行為に十分なエネルギーを注ぎ、没頭することです。

28日のブログで、「無知とは恐ろしい、何故なら自分が知らずに罪を犯す。」とアルジュナは言っています。
確かに無知は恐ろしいものです。無知である以上、「私」を惑わします。
しかし、無知であったと言う時、無知ではないとも言えます。
謙虚さはその人の質的なものです。それは真実の「私」に含まれる質です。
その質は、無知であったと気付くということにより、そのインスピレーションを感じることにより、人生で多く謙虚さを経験するということにより、善なる結果を残していくということにより、更なるパターンを作っていくというプラスな連鎖を創っていくことになるでしょう。
しかし、謙虚さに拘ってはいけません。
「私」の「真我」は、3つのグナを超えており、相対する全ての対象から超越しているのです。そもそも何にも縛られ定義付けられるものではありません。

ある人が善いことを行ったからといって、5年後または10年後、あらゆる面において善い結果が出るとは限りません。なぜなら、善い結果とはその人の行動の質にあるかもしれませんが、人間が図れるような表面なものではありません。実は露出される行動の結果は本質的には善悪を超えているからです。
これが、ブラフマンの状態、統一の意識の状態です。

この状態は「真我」ですから、嘘にも決意にも拘りませんが、真実を生きることが出来るレベルです。トリグナを超えることが出来れば、その人はこの瞬間に悟りを開くことが出来るのです。

全てを含有した大きな意識状態にならない限り、人は行為の結果に束縛されなくてはならないのです。解放された自由な状態とは、「私」「真我」の状態に他なりません。

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今のアルジュナ(26日)を読んで~献身(バクティ)の道

2010-03-28 04:54:56 | 日記
今のアルジュナ(26日)を読んで

憐れみに覆われ悲しみに満たされて憂いをたたえ涙にあふれたアルジュナの目は、まさにバガヴァッド・ギーター第2章1節のアルジュナの状態と同じものだと感じました。
第2章
詩節1:サンジャヤは言った。
このように悲哀を感じ、涙に満ちた眼を曇らせて沈みこむ彼にクリシュナは次のように言った。
詩節2:聖バガヴァッド(クリシュナ)は告げた。
危急に際し、この弱気はどこからあなたに近づいたのか。アルジュナよ、それは高貴な人の好まぬもので、天に導かず、不名誉をもたらす。
アルジュナよ、女々しさに陥ってはならぬ。あなたにふさわしくない希小なる心の弱さを捨てて立ち上がれ。敵を焼き尽くすものよ。

この後、アルジュナは尊敬するクリシュナに帰依できる状態にまで高まります。この高まっていくという依存の状態になるまで、アルジュナはクリシュナに問い続けます。
そして、詩節7では、悲哀のために本質は損なわれ、ダルマ(義務)に関して戸惑い、私はあなたに問う。善と悪とを私にはっきり教えていただきたい。私はあなたの弟子である。あなたに寄る辺を求める私を教え導いてくれ。
詩節8:というのは、感官(五感)を涸らす私の悲しみを取り除くものを知らない。たとえ、地上において比べることのできない繁栄した王国を得ても、また神々さえ支配する力を得たとしても。

真実を探求する人間が身動きできない状態に陥りそれに浸り沈みますが、それは、生命に対する根本的な解決策が見出せないからです。
これまでの自分の小さな意識、価値が、広がり深くなるとき、築き上げた古い価値が崩壊します。
この状態にならなければ英知は授けることができません。
進んで受け入れようとする人にしか英知は伝えられません。
それはその準備ができているかどうかで判断されるのです。
この準備の状態とは、師を信頼して一途に献身しているかどうかで判断されるのです。
また弟子のほうも、師の心に自分の心を合わせ努力するからこそ、師に喜ばれ愛されます。
そして英知は流れ始めます。
人を愛するという気持ちと、人を殺すという行為さえも、愛の光の中で統一されるほどの意識状態に達することが必要です。
愛するという気持ちと殺すという気持ちの間にあるギャップの意識状態に達することが必要です。
しかし、涙を浮かべた憂いのある目は最高に輝いています。その心は機敏な状態が維持され愛が溢れています。
尊主クリシュナはアルジュナに優しく励ましながら啓発へと導きます。
アルジュナは相対世界の中のギャップの中で戸惑っていますが、尊主クリシュナは、「それはたいしたことではない」と微笑みながら本質を語り始めます。
ここに愛の流れを感じます。
この愛の流れが一度始まると止まることなく流れ続けます。

人の価値観はその意識のレベルによります。外見がどのようなものでも、ブランドもので着飾っても、その意識を知ればどのような価値で外見を作っているのかがわかります。
例えば時間の観念もその意識レベルによって異なっています。
この、1分1秒の刹那をどう感じるかは人それぞれ違っていて当たり前なのですが、ほとんどの人が自分の価値基準に照らし合わせることしかできていません。
そのように自分の価値基準しか持てない視野の狭い人間にとって、真実の「私」の価値は偉大です。それは通常の時間の観念を超えています。
真実の「私」の価値とは崇高です。真実の「私」の価値とは光の道を歩くことです。真実の「私」の価値とは「神」を知り、「神」を求め、「神」にひれ伏し、「神」との一体を成し遂げることです。自分の内側に崇高な価値を認めることができます。
自分の内側に崇高な価値を認められるようになると、今の「私」が想像しえる可能性の価値が広がっていきます。知るということがあり、気付くというインスピレーションが高まります。

真剣に情熱を持って「私は知りたい!」と望むとき、その人は知る道を歩いているといえます。すでに知っている(英知在る)人の言っていることが最初はピンとこなくても、「私は知りたい!」と強く願えば知っている人が進んでいる同じ光の道を歩んでいることになります。

後は時間の問題です。その人の人生は必ず光で満たされます。

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25日のアルジュナの思いを読んで~依存と自立と真実(幸せの定義)

2010-03-26 09:34:34 | 日記
幸せの定義を語るとき、不幸せの定義も語らないといけません。
不幸せとは、心の弱さからくる不安、恐怖というものが心の中で支配的になっている状態です。
この原因と結果は心の中にあるのですが、外側に原因と結果を求める限り、同じレベルでの苦しみがやってくるというサイクルの法則があります。
生命は常に変化していますが、常に変化しない法則があるからこそ、変化するという法則は科学でも明らかにされているとおりです。
変化する一定の重力があるように、生命の様々なレベルの変化にも一定の法則があります。それは自然そのものですが、自然の法則とは、何か一定の基準の下にあるようです。

幸せの定義とは苦しみの反対なのですが、そのバランスをとっている一定の法則が存在しており、常にこの一定の法則の世界で生きることによって、幸せにも苦しみにも心が支配されないように進化することが必要です。
そうすることによって広がり深まるのが人の生命の更なる進化です。

「私」が「在る」という意識には様々な段階があるようです。
動植物の意識も多種多様に分かれ、その種の本能と意識の世界で生きているようにみえます。
人間の場合、善悪の基準(幸不幸の基準)により行動の範囲が大きく、本能を超えた自由を与えられています。そして、様々な変化(進化)を目のあたりにします。
人は自由を与えられていますから、その原因と結果の法則を知ることができます。
生命の誕生と死のサイクルは、永遠の進化の過程の現れです。
そのゴールを見失うと、人は苦しみます。
そのゴールとは、活字ではあらわしにくい世界ですが、あえて表現するならば、至福です。
そのゴールとは、「私」の「実存」そのものです。
全生命の目的は、誕生と死を通して計画されているという真実が在ります。

何度も繰り返しているように、「私」の真実は「神」です。
私は神というとき、勘違いしないでいただきたいのは、それを純粋なる意識によって認めない限り、「私」は「神」だと悟れません。
全生命の目的を、誕生と死を通して支配している「神」が在ると気付かない限り、人は苦しみを感じます。
またまた勘違いしないでいただきたいのは「神」にも様々なレベルが在り、その神々(自然法則)さえも支配する最も崇高な「私」が「実存」していると気付かない限り、どれだけスピリチュアルを極めても、どれだけ神社に参っても、どれだけ天の声を聞いても、それは外側に求めたという苦しみの果実を食べるという結果を自ら招いてしまいます。

ですから、人間の中で神の声を聞いたという人ほど疑わしいものは無いと心しておかなければなりません。このような人は最も不幸な人だと知るべきです。
人間としての自由を放棄した浅はかな生命体です。
人を不幸にする現在のスピリチュアルは、更なる不幸をよび、負の連鎖を繰り返しています。

純粋な意識は神聖です。
「私」は神聖なる「実存」なのですから、「私」の経験が全てであるはずなのに、人はそれを忘れる自由も与えられていますので間違いが起こっています。
苦しみの意味も、恐怖の意味も、不幸の意味もわかっていないようにみえます。
「私」の「存在」はとても幸せで、神聖なる光そのものなのに、それを忘れているようにみえます。
これを思い出したいからこそ苦しんでいるようにみえます。
幸せにも固執しないように気をつけなければなりません。
なぜなら、生命はバランスが必要だからです。

一定の法則は、相対する全てのものの、中間に在る、ギャップの部分です。

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24日のアルジュナの日記を読んで~被害者意識(依存)と加害者意識

2010-03-25 11:27:09 | 日記
私は確かにアルジュナに対し、被害者になってはいけない、加害者でなければならないと言ってしまいました。言ってしまいましたというとき、「あなたは被害者でなければならない」というメッセージを含んでいます。
しかし、真実の答えは被害者でもいいし加害者でもいい。
但し、加害者は被害者の心情を理解しているといえるでしょう。
被害者は加害者の状態がわかりません。
クリシュナの名を借りている「私」は、アルジュナを理解しその心を抱きしめ知識を授けたいと願っている加害者意識ですから、クリシュナはアルジュナに対し「私」が授ける知識を十分に流し込んでいけるような依存の状態へと至らせなければなりません。そうして意識の状態を少しずつ変化させ、「私」の状態へと引き上げなければなりません。依存はこの高度な知識を授かる上で必要なものなのです。

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人は知らないということに恥ずかしさを感じたり、進化したい、知りたいという欲があると思います。
もし、自分に被害者意識的な部分があったとしたら、その人の価値は依存対象に委ねられています。
極端に言えば、自分の中に価値を認められない人ということになってしまいますが、雑多な物事にもまれているうちはいつまで経っても自分の内に全ての価値を認められないままでしょう。
真実の「私」は、生かされているという観点からは大いなるものに対し依存状態にありますが、生きていると思っている以上加害者のようです。大いなる神に生かされているという観点では、「私」は完全に依存している状態です。
この崇高な依存は、真実の「私」の価値です。この依存の状態は、外側のあらゆるものをも越えた「神」の価値へと広がっていきます。

もし、バガヴァッド・ギーターのアルジュナのようにダルマの道から逸脱しそうになったり、ここでのアルジュナのように人間関係や金銭的なことで身動きができない状態になったり、また途中で人生をやめてしまいたいという自分の価値を認められない逃げの状態などをながく続けていると、いつまで経っても「私」の価値を知ることはできないでしょう。
外側の現象に自分の価値を認めようとする意識でいるならば、「私」は狭い意識どころか、「神」の光への道とは正反対の道に光を求めている愚かな行動の結果を受け取らなければならなくなるでしょう。
世の中の心の病気といわれるうつ病や逃げの究極である自殺の原因は、自分の価値を外側に求め、外側の対象に自分を認め依存してしまい、どこにも自分の居場所をみつけられず、どこにも幸福を認められない状態になってしまうからです。
幸福は外側にはありません。幸福は内側にあります。
どのようにさまよい歩いても、外側に幸福のみつけられる場所はありません。
逆に内側に幸せを見出している賢者は、外側全てに幸福を見出します。外側の全てに「私」の幸せが満ち溢れています。至福とは内側も外側も全てに「神」の光があまねく照らされている状態です。
実は忘れているだけで、至福はすでに満ち溢れています。無知の暗闇がそれを覆い隠しているようです。
バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは、それはマーヤー(幻力)であるといっています。

第3章では、
「真我(私)は、火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世はそれに覆われている。」
また、このようなことをいっています。
「それ故アルジュナよ、あなたはまず感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なもの(無知・欲望)を捨てよ。」
「諸感官は強力であるといわれる。思考器官(マナス)は諸感官より高く、思惟機能(ブッディ)は思考器官より高い。しかし、思惟機能の上にあるもの、それが彼(真我)である。」
「このように、思惟機能よりも高いものを知り、自らアートマン(私)を確固たるものにして、勇士よ、欲望という倒しがたい敵を殺せ。」
また、第4章では、
「信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の平安に達する。」
「しかし、知識なく、信頼せず、疑心ある者は滅びる。疑心ある人にはこの世界も、ほかの世界も、またいかなる幸福もない。」
ここで洞察できることは、知識の欠如は信頼の欠如の元であるといっています。信頼の欠如は疑心ある人となります。全ての失敗の根源は、知識の欠如、無知の状態にほかなりません。無知は生命における全ての弱さや苦しみの原因です。
クリシュナは第4章の最後で、
「それ故、知識の剣により、無知から生じた、あなたの心の中にある疑惑を断ち、カルマヨーガ(行動の哲学)を拠りどころとせよ。立ち上がれ、アルジュナ。」
といっています。
人は、知識により生命の本質を知らない限り、無知な状態にとどまります。そしてもがき苦しんだとき、「神」を求めます。苦しみは無知から生じるのですから、知識の光を差しこみ、信頼を持って、「私」の「真我、実存(アートマン)」を認めなければ、無知は破壊されません。幸福とはなれないのです。
いつまでも苦しんでいる人を見ると、まるでアートマン「神」と対立しているかのように見えるのですが、真実は、「真我、実存(アートマン)」は、これまで「私」の中でいつも共に生きてきましたし、切り離すことはできないものだと悟ります。「私」の内に「神」が在ります。それは疑いを持たず、認めるだけでよいのです。難しく考えず、純粋に認めれば誰でも崇高な知識のインスピレーションを得ることがきるのです。
「私」という「実存」を思い出してしまえばこの光の道を生きることは幸福の連続であり、死というゴールに向かいエキサイティングな旅をいかに楽しめるかの有限なるもっとも大切な神に捧げる崇高なる行為(カルマヨーガ)の道となります。
生きるという選択を自ら求めて生れてきたはずなのに、まるでそれを忘れているかのようです。

ですから、「私」という「神」を認めれば、そこからその人に必要なだけの時間で思い出すことができます。

この道を生きることは簡単です。

まず、信頼し(依存)、無知であったことを認め(もう少し依存)、知識の剣で断ち切って、自分の行為を神の行為とし、真我、実存、アートマンを実現しなければならないのです。ここに最高の幸福があります。

実は、バガヴァッド・ギーターは、ここから放棄の哲学の深みに入っていきます。

神との合一は放棄の哲学なのです。

あなたが光だけになるとき、自分の全てを放棄できるほど我を失う時、神と一つとなる時の快感は、生命の究極のゴールなのです。

23日のアルジュナの日記を読んで~自分の存在価値

2010-03-24 06:29:23 | 日記
23日のアルジュナの日記を読んで~自分の存在価値

人の「存在」は、またその思考回路の中に、自分の価値(自分自身)を外側からの反応で認めたいという錯覚の欲求があるようです。
実はそうではないのに、なぜか?
自信がないのでしょうが、残念ながら多くの方々がそうだと思うのです。
まるで「私」という「存在」は、環境に作られてきたと思っているようです。

この万人に与えられている「私」は、もっとも感謝すべき、奇跡的な「存在」で、
この「存在」は、「神」そのものです。
これは崇高で、私たちは「神」の存在まで高まることができます。
その可能性を秘めた奇跡的な「私」なのです。
それをほとんどの人が知らずに生きています。

バガヴァッド・ギーターの6章まで読めば明らかになるのですが、私たちは、「神」の内で生かされ、「神」を知り、それと一体となるために生きています。
それは内側に、極微に、もっとも静かに「存在」しているため、通常の意識では捉えられないかのようです。
しかし、私たちはそれと共に生きてきたし、今も生きています。
これに気付き、それを知り、それと一体になれば、あの最高の無限を知ります。

ここでクリシュナを演じさせていただいている3歳の頃の「私」は、自分の体験や思考、感情さえ客観的に観察する内側向きの心が在りました。
心の中に自然に芽生える色々な感情や様々な考えがとても不思議だったし、どう発展し、どう解消されていくのかを密かに見守ったり、また大人にダイレクトに質問したりと、今から思えば変わった子供でした。

ある時、私のこころの中に不安という得体の知れない状態が発見されました。
それは毎日毎日、朝起きると同時に確認されていました。
私は不思議に思い、憂鬱な気持ちの中、母や祖父に聞いてみました。
子供ながらに、多分これは不安という言葉で表現するのが一番伝わりやすいだろうと思い、
祖父に、「おじいちゃん、わたしの心の中の不安は何?この不安はみんなの心の中にも在るの?」
祖父は満面の笑みを浮かべながら、「大丈夫、大丈夫。お前の心の中に不安はないよ。」と言いながら私を抱きしめてくれていました。もちろん納得できず、実直な子供が屈折した人生を歩みかけたことはいうまでもありません(笑)。
それから15年以上過ぎた頃、私は自分の子供抱きしめながら、いつの間にか心の中の不安が消えていたことに気付きました。この、不安が消えたという現象は自然に進行していたのか、ある日突然なくなっていたのか考えました。

私たちの遺伝子は、古い記憶を深く刻んでいます。
そしてその太古からの記憶を抱えて今を生きています。
その記憶の中には善も悪も、幸福も不安も、たくさんの記憶を含有しています。そして私たちの神経系はその記憶と共に対応を学んできました。
だから、今の私たちの心の中に太古の記憶が蘇ってもおかしくはありません。
愛されて育ってきた1970年代の3歳児の心の中にも、言い知れぬ不安が蘇ることは決して不思議なことではないと。
そして、幸福が心の中を占領し始めるころ、また人を守り育てるという慈愛に満ちた責任感が生れる時、心の中に強さが育ち、不安というどうでもよいものが消えてなくなっているという心の現象を、「私」は確認し、人間の崇高さを少しずつ学んできました。
不安というものが、あたかもなかったかのように心を取り扱える強さは、果たしてどこからやってくるのでしょうか?そして、この強さを土台にした経験される自信、慈愛、信頼、責任感などの質はまさに「神」に含まれる質です。
バガヴァッド・ギーターにもあるように、私たちは、「神」を知り、「神」に近づき、「神」に愛され、「神」と一体するために生れてきています。
これは経験上間違いありません。
この至福の状態は、ただ、「私」の「実存」、極微のレベルへの感謝からの展開です。
実は皆それを生きています。失ったように見えるのですが、忘れてしまっているだけです。この無知が、社会現象となるうつ病や自殺という状態まで至ってしまうというなんとも愚かな現象が起きているのです。
この無知はとてつもなく言い知れない恐怖まで生み出す最悪なものです。
この至福の状態を、ただ、「私」の「実存」、極微のレベルへの感謝の状態が失われてしまっているから苦しみ恐怖し憑依され最悪を生み出すこととなるのです。
なんと愚かなことでしょうか。
愚かさという錯覚から地獄に落ちる人間は、何のために生れてきたのか真実を追究することさえできなくなってしまうようです。
まだましな人の場合でも、自分の価値を周りの人の反応でしか量れないようでは、いつまで経っても幸せを発見することはできないでしょう。
純粋な子供でさえ幸せを発見できる能力が与えられているのに、二十歳も過ぎた大人が幸福に至れないということは絶対にないはずです。
「私」が生かされている意味をシンプルにひも解いてみましょう。
答えは万人の、一人ひとりの心の中からしか出てこないのです。
進化した人の助言や聖書の言葉でさえ、きっかけを与えているだけです。
進化していない人の意識は進化した人の言葉の意味がわかりません。
まず、耳を傾け、思いを凝らし、自分の心を超えた真我に照らし合わせてみましょう。
そもそも真我が何かわからないという人のために、
神意は、アルジュナに質問をさせるでしょう。

気付きはあなたの中にあります。
あなた自身が「神」そのものなのです。

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アルジュナへ

2010-03-23 01:31:31 | 日記

どうして悩むのか?どうして苦しむのか?どうして不安なのか?どうして幸せを求めるのか?

自分で自問自答したことのない人間は、「私」がどうして悩んでいるのかということを本質的に知らない。

このブログは苦しみであれ幸せであれ、何かを求め、悩む、すべての人へ贈られています。

その人の感情、思考、行動が、善であれ、悪であれ、その間のどのレベルでにいようとも、瞬時に答えを出すものでなければなりません。

学生、

サラリーマン、

OL

専門家、

会社経営者、

主婦。

 

ここでの言葉は、求め悩める全人類に贈るメッセージとして、愛をもって公開することにしました。

悩みのどの段階にいようが、生命の進化のどの段階にいようが、

即座に悟りをもたらすものです。

 

クリシュナに信愛される4種の善行者。

すなわち、悩める人、

知識を求める人、

利益を求める人、

知識ある人へ。

 

まさに、献身者(アルジュナ)が神(クリシュナ)の光の中で愛(バクティ)による合一を、明らかにしていくように。

 

究極の答えは「私」の中にすべてがある。

あると思えない無知な心の中に問題が起きるのであって、「私」にはすべて「在る」ということを知ること、ただそれに尽きる。

 

しかし、無知は大いなる英知を覆い隠すほど巨大なのだなと痛感する。

哀れな人間。

しかし、無知はそもそも存在しないし、知識で浄化出来る、取るに足らないものだと痛感するときが来る。

 

その時、「私」は神そのもので「在る」と気付く。

その時、「私」は神聖で全宇宙にあまねく「存在」で「在る」と気付く。

 

「我はそれなり、汝はそれなり、これすべてはそれなり。」

このヴェーダ(知識)の英知が明らかにする真理は、真理を洞察してきた賢者たちが「耳を傾け、思いを凝らし、成し遂げるに値するもの」と賞賛してやまないものです。

 

この最小単位の私、存在しているという奇跡、極微の素晴らしさを知ることによって神々(自然法則)をも支配する力を得るということを明らかにしていきます。

 

私が十数年前から愛読してきたインドの聖書、バガヴァッド・ギーターは、戦場にて親しくしてきた親戚を敵として殺さなければいけないという究極の苦悩の下にある戦士アルジュナと、その御者となりアルジュナを助け、善と悪の狭間からアルジュナを救い出すとともに深遠なる英知を解き明かし悟りへと導いていく尊守クリシュナとの対話が、盲目の王、ドリタラーシュトラの御者である、千里眼と天耳通をもったサンジャヤによって公平無私に語られ展開していきます。

 

18章からなるこの深遠な英知を、現代に照らし合わせわかりやすく解説していきたいと思います。